「週プレNews」に掲載された上杉昇(ex.WANDS、al.ni.co.)のインタビューを読みました。
ネイティブ・アメリカンになっていた元WANDSの上杉昇!「WANDSは“やらされてる感”がすごくありました」(前編)
絶頂時にWANDSを脱退した上杉昇が全告白 「いまだに中山美穂とコラボして売れたやつだろって。結構ショックかな」(後編)
おそらくビーイングという会社は、
暴威が会社を離れてBOφWYとして大人気になったあたりか
その以前から、いかにして
「スタジオミュージシャンの寄り合いである音楽工房」を脱し、
ヒットメーカーになるか、という方向に舵をとりはじめ、
その第一矢がサザンオールスターズから猥雑さを無くし、さわやかに夏を歌い上げるTUBE、
そして第二矢がTM Networkを研究した上で六本木的なチャラさを加えたB'zだったように思います。
おりしもCDの普及とバブル景気、タイアップ路線の成功が重なり
B'zが紆余曲折の末にひとつのビジネスモデルを完成させた90年から、
ビーイングの快進撃はスタートしていきます。
その最中、91年に「寂しさは秋の色」でデビューしたのがWANDSでした。
ファンクを愛するキーボーディスト、大島こうすけと
TOTOのスティーブ・ルカサーのようなギタリストになり、
なんでも弾けるスタジオミュージシャンになりたかった、柴崎浩。
そしてまだ10代の若さでデビューした上杉昇。
最初の2枚のシングルと1枚のミニアルバムはそこまでぱっとしたセールスではなく、
3rdシングル「もっと強く抱きしめたなら」で大島は脱退、
自身のプロジェクトであるSO-FIの活動に移行することになるわけですが
この3rdシングルがCMタイアップからスマッシュヒット、
木村真也が新キーボーディストとして加入しての
中山美穂とのコラボシングル「世界中の誰よりきっと」、
4thシングル「時の扉」と
1stフルアルバム「時の扉」で大ブレイクすることになります。
しかしこの「中山美穂とのコラボ」が
後のビーイングバッシングの引き金になったという噂
(バーニング側がWANDSを取り込もうとして失敗した、等・・・)もあったり
上杉の嗜好とビーイングとファンがWANDSに求めるものの食い違いは広がる一方でした。
しかし上杉の嗜好は作詞(特にアルバム曲の)と言う形で
WANDS作品の中に静かに根を張っていくことになります。
シングル「世界が終わるまでは・・・」までをひとまとめにした
ベストアルバム「SINGLE COLLECTION+6」。
このアルバムには仮題として(流通に告知される段階まで、でした)
こんなタイトルがつけられていました。
そのタイトルは「BURN THE BRIDGE」。
橋を焼き、もう過去には戻らない。
そんな決意をこめたタイトルだったのでしょう。
栗林誠一郎のソロアルバム楽曲「It's My Treat」を大幅にアレンジした
「Secret Night-It's My Treat-」、
そして2ndフルアルバム「PIECE OF MY SOUL」から彼らの真の第2期が始まります。
上杉が傾倒していたNirvanaやPearl Jamなどの
グランジロックの色彩が強い楽曲がメインとなった
その作風は「アーティストに個性がない」という
バッシングでよく聞かれた文句への回答であり
先立ってB'zが94年に「The 7th Blues」で
ヘヴィなハードロック路線を前面に押し出して
2枚組・シングル1曲のみ・5500円という強気な設定でも
ミリオンセラーを出したことによる
ビーイングからの「こういう路線でもいける」という
ゴーサインだったのかもしれません。
しかし、それを許さない状況・・・セールス枚数の低下が襲います。
それは彼らの人気が衰えた、というよりも市場全体が徐々に冷え込み、
さらにメインの音楽市場の流れが大きく変わったことによるものでもあったのですが
名曲「Same Side」と「WORST CRIME」2曲で、続くアルバムの準備も進みながらも
(当時のビーイング関連会社が発行していた雑誌「J-ROCK magazine」のインタビューでも
アルバム製作中という発言が出ていました)、
今回の上杉インタビューでも出ている経緯により、上杉は柴崎を連れてWANDSを脱退。
会社も移籍し、よりパンキッシュなサウンドを推し進めるal.ni.co.での活動を開始します。
(なお、この時期にWANDSはベストアルバム
「WANDS BEST 〜HISTORICAL BEST ALBUM〜」をリリース、
木村に新ボーカル&ギターの二人を加える形で3期の活動を開始しますが
この発売日にぶつける形でal.ni.co.活動開始を発表、
さらに活動開始を知らせるペーパーで
上杉による「あのベスト盤に自分は一切関わっていない」発言を掲載。
ペーパーの配布をCD店に圧力をかけ止めさせる、という現場を
当時の池袋のCDショップで見ています)
シングル「TOY$!」で活動をスタートしたal.ni.co.でしたが
シングル3枚とアルバム「サイレン」、そしてツアーを行ったところで
(ビートルズの「Lucy in the Sky with Diamond」の歌詞を
WANDSの「Love&Hate」に変えてカバーする、ということもやっていましたね)
ファンコミュニティ内での旧WANDSからのファンと新しいファンとの軋轢、
そして作品が出ないままに自然消滅、という形となってしまいます。
その後の柴崎は反町隆史への楽曲提供、T.M.Revolutionのツアーメンバーへの参加、
西川の新バンドabingdon boys schoolへの参加を経て、
現在はビーイングに戻っている模様。
また、西川主催の震災チャリティオークションで、TMRツアーメンバーであった
大島のWANDS時代のキーボードに大島とともにWANDS名義でサインを入れて出品、という
そんなトピックスもありました。
一方の上杉に関しては今回のインタビューのとおり、
バンド・猫騙での活動とソロの活動を平行してインディーズで行いながらも
アルバム「SPOILS」ではWANDS時代の曲をセルフカバーしてみたり、といった
そんな活動をしており、「あくまでインディーで好きなことをやる」という
WANDS時代の反動を感じさせる活動形態、といえるかもしれません。
たとえば、上杉がもっと器用で
「今回は売れ筋を飲むけど、その代わりアルバムはこうさせろ」とか
そういうことが出来るアーティストだったなら、もっとWANDSの歴史は長く
それこそ今でも活動が続いていたかもしれません。
しかし、それをやらないこその上杉、という気もするなぁ、というのが
今回のインタビューを読んでの感想、でございました。
あ、3期WANDSはシングル4枚とオリジナルアルバム1枚をリリースしたものの
それほどのセールス結果を挙げられないままに2000年にひっそりと解散。
解散ベスト「BEST OF WANDS HISTORY」も
オリコン最高17位、という結果であったことを
付け加えておこうかと思います。
ネイティブ・アメリカンになっていた元WANDSの上杉昇!「WANDSは“やらされてる感”がすごくありました」(前編)
絶頂時にWANDSを脱退した上杉昇が全告白 「いまだに中山美穂とコラボして売れたやつだろって。結構ショックかな」(後編)
おそらくビーイングという会社は、
暴威が会社を離れてBOφWYとして大人気になったあたりか
その以前から、いかにして
「スタジオミュージシャンの寄り合いである音楽工房」を脱し、
ヒットメーカーになるか、という方向に舵をとりはじめ、
その第一矢がサザンオールスターズから猥雑さを無くし、さわやかに夏を歌い上げるTUBE、
そして第二矢がTM Networkを研究した上で六本木的なチャラさを加えたB'zだったように思います。
おりしもCDの普及とバブル景気、タイアップ路線の成功が重なり
B'zが紆余曲折の末にひとつのビジネスモデルを完成させた90年から、
ビーイングの快進撃はスタートしていきます。
その最中、91年に「寂しさは秋の色」でデビューしたのがWANDSでした。
ファンクを愛するキーボーディスト、大島こうすけと
TOTOのスティーブ・ルカサーのようなギタリストになり、
なんでも弾けるスタジオミュージシャンになりたかった、柴崎浩。
そしてまだ10代の若さでデビューした上杉昇。
最初の2枚のシングルと1枚のミニアルバムはそこまでぱっとしたセールスではなく、
3rdシングル「もっと強く抱きしめたなら」で大島は脱退、
自身のプロジェクトであるSO-FIの活動に移行することになるわけですが
この3rdシングルがCMタイアップからスマッシュヒット、
木村真也が新キーボーディストとして加入しての
中山美穂とのコラボシングル「世界中の誰よりきっと」、
4thシングル「時の扉」と
1stフルアルバム「時の扉」で大ブレイクすることになります。
しかしこの「中山美穂とのコラボ」が
後のビーイングバッシングの引き金になったという噂
(バーニング側がWANDSを取り込もうとして失敗した、等・・・)もあったり
上杉の嗜好とビーイングとファンがWANDSに求めるものの食い違いは広がる一方でした。
しかし上杉の嗜好は作詞(特にアルバム曲の)と言う形で
WANDS作品の中に静かに根を張っていくことになります。
シングル「世界が終わるまでは・・・」までをひとまとめにした
ベストアルバム「SINGLE COLLECTION+6」。
このアルバムには仮題として(流通に告知される段階まで、でした)
こんなタイトルがつけられていました。
そのタイトルは「BURN THE BRIDGE」。
橋を焼き、もう過去には戻らない。
そんな決意をこめたタイトルだったのでしょう。
栗林誠一郎のソロアルバム楽曲「It's My Treat」を大幅にアレンジした
「Secret Night-It's My Treat-」、
そして2ndフルアルバム「PIECE OF MY SOUL」から彼らの真の第2期が始まります。
上杉が傾倒していたNirvanaやPearl Jamなどの
グランジロックの色彩が強い楽曲がメインとなった
その作風は「アーティストに個性がない」という
バッシングでよく聞かれた文句への回答であり
先立ってB'zが94年に「The 7th Blues」で
ヘヴィなハードロック路線を前面に押し出して
2枚組・シングル1曲のみ・5500円という強気な設定でも
ミリオンセラーを出したことによる
ビーイングからの「こういう路線でもいける」という
ゴーサインだったのかもしれません。
しかし、それを許さない状況・・・セールス枚数の低下が襲います。
それは彼らの人気が衰えた、というよりも市場全体が徐々に冷え込み、
さらにメインの音楽市場の流れが大きく変わったことによるものでもあったのですが
名曲「Same Side」と「WORST CRIME」2曲で、続くアルバムの準備も進みながらも
(当時のビーイング関連会社が発行していた雑誌「J-ROCK magazine」のインタビューでも
アルバム製作中という発言が出ていました)、
今回の上杉インタビューでも出ている経緯により、上杉は柴崎を連れてWANDSを脱退。
会社も移籍し、よりパンキッシュなサウンドを推し進めるal.ni.co.での活動を開始します。
(なお、この時期にWANDSはベストアルバム
「WANDS BEST 〜HISTORICAL BEST ALBUM〜」をリリース、
木村に新ボーカル&ギターの二人を加える形で3期の活動を開始しますが
この発売日にぶつける形でal.ni.co.活動開始を発表、
さらに活動開始を知らせるペーパーで
上杉による「あのベスト盤に自分は一切関わっていない」発言を掲載。
ペーパーの配布をCD店に圧力をかけ止めさせる、という現場を
当時の池袋のCDショップで見ています)
シングル「TOY$!」で活動をスタートしたal.ni.co.でしたが
シングル3枚とアルバム「サイレン」、そしてツアーを行ったところで
(ビートルズの「Lucy in the Sky with Diamond」の歌詞を
WANDSの「Love&Hate」に変えてカバーする、ということもやっていましたね)
ファンコミュニティ内での旧WANDSからのファンと新しいファンとの軋轢、
そして作品が出ないままに自然消滅、という形となってしまいます。
その後の柴崎は反町隆史への楽曲提供、T.M.Revolutionのツアーメンバーへの参加、
西川の新バンドabingdon boys schoolへの参加を経て、
現在はビーイングに戻っている模様。
また、西川主催の震災チャリティオークションで、TMRツアーメンバーであった
大島のWANDS時代のキーボードに大島とともにWANDS名義でサインを入れて出品、という
そんなトピックスもありました。
一方の上杉に関しては今回のインタビューのとおり、
バンド・猫騙での活動とソロの活動を平行してインディーズで行いながらも
アルバム「SPOILS」ではWANDS時代の曲をセルフカバーしてみたり、といった
そんな活動をしており、「あくまでインディーで好きなことをやる」という
WANDS時代の反動を感じさせる活動形態、といえるかもしれません。
たとえば、上杉がもっと器用で
「今回は売れ筋を飲むけど、その代わりアルバムはこうさせろ」とか
そういうことが出来るアーティストだったなら、もっとWANDSの歴史は長く
それこそ今でも活動が続いていたかもしれません。
しかし、それをやらないこその上杉、という気もするなぁ、というのが
今回のインタビューを読んでの感想、でございました。
あ、3期WANDSはシングル4枚とオリジナルアルバム1枚をリリースしたものの
それほどのセールス結果を挙げられないままに2000年にひっそりと解散。
解散ベスト「BEST OF WANDS HISTORY」も
オリコン最高17位、という結果であったことを
付け加えておこうかと思います。