明石昌夫氏の訃報が届きました。
B'zデビューから94年まで制作チーム「B・U・M」の中心メンバーとして
アレンジャー/マニピュレーターとして活躍、
ライブにおいては初期はマニピュレーターとしてキーボードの前にいたものの
だんだんとベースを持って前に出るようになり
制作チーム解体後も97年の初のドームツアー「Pleasure'97 FIREBALL」まで
サポートベーシストとして参加していた「3人目のB'z」。
他のビーイングアーティストでもアレンジャーとして活躍していましたが
後のGIZA StudioになるBLUE-Zレーベルにてブルーズロックバンド
「Akashi Masao Group」を結成(後に本人曰く「上に組まされた」)し
EP3枚、アルバム1枚、ベストアルバム1枚をリリースしたのち
ビーイングを離れて他社アーティストのプロデュースを開始。
SIAM SHADEの「1/3の純情な感情」を大ヒットさせるわけですが
音楽業界の流行の流れの中でその名前はだんだんと埋もれていき、
最近は大学講師を行いつつ、音楽制作会社において
「オーディション料やレッスン料を取るタイプのオーディション」の
広告塔を行なったりもしていたようです。
作曲家は「ゼロを1にする」仕事ですが、
編曲家は「1を100にする」仕事であると思っています。
例えばギターのコード弾きやハミングを録音したものが「作曲」の最初であるのなら
それを我々の元に届く楽曲にしていくのが「編曲」の仕事だと。
メロディにリズムや音色を足し引きしていき、ドレスアップして
立派な「商品」に変えるのがアレンジャーという存在。
特に初期のB'zの色を決めていたのが、松本とともにアレンジを担当していた明石であり
95年以降のB'zとはうまく言語化できないのだけれど
やはり大きく違うものがあったように思います。
そしてベーシストとしての明石は、
その長身とド派手な金色の髪とそれ以上に派手な衣装(主にゴルチェ)で
B'zの二人に負けないほどのオーラをステージ上で放っており、
98年のツアーではその喪失が本当に寂しかったものでした。
68歳。平均年齢から考えれば少し若いかも、と思いますが
ロックミュージシャンというやくざな稼業、と思えば
それなりに生き切った、といえるのかもなぁと
夭折したロッカーたちのことをどうしても浮かべてしまいますね…。