Eos5D写真三昧 格安の海外旅行記と国内旅行のすすめ

海外旅行の情報を旅行記として綴った記録。EOS5Dとiphoneで撮った写真をあげております。

19:吐魯番 トルファンの歴史

2010年10月29日 23時29分09秒 | 中国旅行記2010年8月

トルファンの歴史ほど複雑なものはない。とにかくこの中央アジアに近い地域は、様々な民族、国家が勃興し、そして衰退を繰り返してきた地域である。
簡単におさらいしてみよう。

1:古くは前漢の時代に車師国があった。
2:そこに匈奴が攻め込んできて車師国は匈奴の属国になった。
3:その後、漢の武帝が河西回廊を匈奴から奪い、そして車師国にも攻め込み、車師国は漢の属国となった。
4:漢が王莽によって一時的に崩壊。新建国の混乱で、車師は匈奴の元で独立し、ふたたび匈奴の属国となる。
5:光武帝の後漢の元に再び匈奴に侵攻し、またもや車師は漢の属国に。
6:匈奴と漢が、あいついでこの地に侵入し、そのつど車師はどちらかの属国になることを繰り替えす。匈奴が弱体化し、北匈奴・南匈奴に分裂してもこれが繰り返される。これが五胡十六国の乱までつづく。
7:五胡十六国の乱の最中も、華北の西側の勢力(前秦・後秦・北魏)などの属国になることを繰り返す。
8:匈奴系・もしくは月氏系ともいわれる北涼によって車師は滅ぼされ、高昌国となる。
9:高昌国は、かつて鮮卑の属国でありその後草原の覇者と成り代わったツングース系ともモンゴル系とも言われているが実態はよくわからない柔然という国に滅ぼされ、突厥のなどの影響下の元で王が立てられることが続いたが、最終的には唐に滅ぼされる。
10;唐の支配が弱まる9世紀から、天山ウイグル王国によってこの地は支配される。
11:モンゴル帝国に飲み込まれる
12:ティムール帝国に支配される
13:清、ジュンガル帝国で奪い合いになり、最終的には清が勝利し、清の支配下におかれる。

とまぁ、駆け足で大雑把に説明するとこういう歴史である。
いかにこの地の歴史が複雑なのかがお分かりいただけると思う。

さて、今回の写真はまず「高昌故城」から始めよう。一日タクシーチャーターの最初の観光場所は、ここ高昌故城である。
この城(実際には町)は、4世紀~唐の滅亡の9世紀辺りまで栄えたもので、玄奘三蔵も訪れたとか。





この遺跡についての詳しいことはあまり分かっていない。
玄奘三蔵の為に仏堂を立てたということくらしか知らない。現存する建築はたぶん唐の時代のものなのだろうが、詳しいことは申し訳ないが私の不勉強でよく分からない。





これが仏堂らしいが、よくわからん。





しかし、この写真の建築様式だけを見ると、ペルシャやギリシア、ローマの様式によく似ている。
穴が空いているのは、なんだろう?よく分からない。





この窪みには、仏さんの絵が描かれている。




この穴は、おそらく2階の境目なんだろう。西洋の建物(城)などの城跡にも同じような穴が等間隔に空いている。ここに木の柱を嵌めこんで、床板を載せたのだろうと思う。




写真右側に卵形にくぼんだ所には仏像があったのだろう。





むこうにアーチの門が見える。




建築様式を見る限りでは、中国風というよりかは西洋・ペルシア風というべきか。



そうは思いませんか?



ロバに乗るのは20元(往復)

油断すると40元取られるので注意。



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6 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
トルファン? (コルリ)
2010-10-30 23:47:51
トルファンという言葉をはじめて知りました^^
ここまでくるとほんとに中国ではないですね~
異世界といった感じですね。
それにしても大納言さんの頭の中には立派な
歴史図書館がドーンと建っていそうですね^^
わたしの頭の中は
花が咲いていて蝶がヒラヒラ舞ってますw
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コルリさん、ありがとうございます (大納言)
2010-10-31 01:59:17
トルファンは確かに有名ではないです。バックパッカーによっては有名ですが、一般の人にとってはシルクロードの一都市です。

歴史については、ここに書いたものは、旅行後にWIKIなどで調べながら書いているものですから、実際はそれほど知らないんですよ私。旅行記で調べながらブログに書きますと、頭の中が整理されてくるんですね。いわば楽しみながら勉強しているワケです。クロアチア旅行でもそうでした。旅行後にユーゴスラビアの歴史を調べながら書きました。そうするとスーっと頭の中に入ってくるんですよ。
ですからトルファンの歴史、中国の五胡十六国の乱の歴史も、この旅行記を書くことによって知見を深められたわけです。
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西域 (くろ)
2010-10-31 13:02:09
いやはや、見渡す限りレンガ色と青空だけですねえ。人間はもちろん、植物も動物も生きていけないんじゃないかと思えるほどの風景です。
だからこそ遺跡として保存ができるのかな。
歴史といっても私の場合、千年以上も前となると日本史との対比ができないから頭の中を右から左へスーと抜けていきます(笑)
正倉院の御物や初期の仏教の諸道具類にも西域的というか非中国的なるものがたくさんありますが、このあたりが我々にロマンを感じさせる所以なんでしょうね。素敵な旅行でうらやましいです。
旅行自体の楽しみは、現地の人との接触がいつまでも記憶に残りますから、損したり得したりもまた良し、なんじゃないでしょうか(笑)
中国のホテルはツイン料金が基本的に設定されていたような気がしますから、一人旅にしては充分、奮闘されたように思います。

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Unknown (katsu)
2010-10-31 22:56:30
ここは中国なんですよね?ローマかあるいはエジプトと言われても気が付かないような雰囲気を持っています。
写真で見る限り、この建築様式にはなんとなくそちらの技術が入り込んでるかもしれませんね。しかし、陸続きの大陸は常に侵略の危険と隣り合わせの歴史なんですね。
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くろさん、ありがとうございます (大納言)
2010-11-03 19:04:29
荒野・荒野。まるでアメリカの内陸の荒野にきた感じでしたね。西部劇のような荒野ばかりでした。今回は意識的に出会いを大切にしましたからね。やはり何事にもワザとでもいいからオーバーアクションというのは必要かもしれません。相手の受けがいい。

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katsuさん、ありがとうございます (大納言)
2010-11-03 19:09:25
持論になりますが、やはり10世紀くらいまでは、世界の中心(文化の中心)は中東ですね。どう考えてもペルシャ、いまのイラン・イラクあたの地点が文化の中心地といわざるを得ない。西洋が先進性を感じさせたのは、産業革命以降においてであり、メソポタミア~ペルシア、そしてアラブ、オスマン帝国まで、文化や科学の中心は西洋ではなく中東でありました。とにかく、この地域はまだまだ研究が必要なところで、私もここの歴史を語るには、まだまだ研究が足りませんわ。
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