Eos5D EF24-105mm F4L にて撮影。
飯香岡八幡宮の前身は、六所御影神社と称せられている。六所とは、六柱を祭神とする場合か、あるいは六つの神社を合祀した場合に名づけられるのが一般的である。西暦675年に一国一社の八幡宮に勧請する。すなわち、総本社である大分県の宇佐八幡宮より神霊を分けて、その分霊を飯香八幡宮に移して鎮祭したのである。675年というのは天武天皇の時代。大宝律令が制定される間近である。天皇号が始めて文献に現れた頃の時代である。中世以降、源氏・千葉氏・足利氏・徳川氏の崇敬を集めた。
飯香岡八幡宮に関わった歴史的有名人は以下のとおり。(飯香岡八幡宮由緒本紀より 注:本記は1697年に成立した史料である)
景行天皇40年頃 - 日本武尊東征の時、六所御影神社で休息したという。その際、社人が尊に食事を捧げたところ、飯の香りを賞した故事により、御影山を「飯香岡(いいがおか)」と呼ぶことになったという (かなりウソ臭い伝説である)
天平宝字3年(759年) - 勅命により一国一社の八幡宮となり、国府総社と称せられる。
治承4年(1180年) - 源頼朝、太刀一振りを奉納する。
文治5年(1189年) - 源頼朝、奥州藤原泰衡征伐のため、武運長久を祈願し足立藤太郎盛長を奉幣使として太刀一振・甲冑一領を寄進する。
建久4年(1193年)8月15日 - 源頼朝、天下掌握の祈願のため宮殿を新造する。この時の名代藤原親能・中原仲業・奉行和田義盛・神主市川氏誉田斎宮藤原義重・大工棟梁修理介正広。
正平24年・応安2年(1369年) - 足利義満、祈願のため宮殿を造営する。そのため奉行上杉中務少輔が八幡宮に来宮する。
正中元・至徳元年(1384年) - 足利義満、祈願成就により御輿4社を造立し奉納する。
天正9年(1581年)7月 - 飯香岡八幡宮造営のため「新市」を建てることが免許される。また八幡は守護不入の地となる。
天正18年(1590年)5月 - 徳川家より上総国市原荘八幡郷へ禁制(軍勢甲乙人等乱妨狼藉事以下二カ条)が下される。
天正19年(1591年)11月 - 徳川家康、神領150石を寄進する。飯香岡八幡宮の祭礼格式なる。
★元禄10年(1697年)8月 - 『飯香岡八幡宮由緒本紀』成立する。
とにかく1697年に成立した史料に依拠した内容なので、信憑性のほどははなはだ疑問ではある。(笑)
飯香岡八幡宮の前身は、六所御影神社と称せられている。六所とは、六柱を祭神とする場合か、あるいは六つの神社を合祀した場合に名づけられるのが一般的である。西暦675年に一国一社の八幡宮に勧請する。すなわち、総本社である大分県の宇佐八幡宮より神霊を分けて、その分霊を飯香八幡宮に移して鎮祭したのである。675年というのは天武天皇の時代。大宝律令が制定される間近である。天皇号が始めて文献に現れた頃の時代である。中世以降、源氏・千葉氏・足利氏・徳川氏の崇敬を集めた。
飯香岡八幡宮に関わった歴史的有名人は以下のとおり。(飯香岡八幡宮由緒本紀より 注:本記は1697年に成立した史料である)
景行天皇40年頃 - 日本武尊東征の時、六所御影神社で休息したという。その際、社人が尊に食事を捧げたところ、飯の香りを賞した故事により、御影山を「飯香岡(いいがおか)」と呼ぶことになったという (かなりウソ臭い伝説である)
天平宝字3年(759年) - 勅命により一国一社の八幡宮となり、国府総社と称せられる。
治承4年(1180年) - 源頼朝、太刀一振りを奉納する。
文治5年(1189年) - 源頼朝、奥州藤原泰衡征伐のため、武運長久を祈願し足立藤太郎盛長を奉幣使として太刀一振・甲冑一領を寄進する。
建久4年(1193年)8月15日 - 源頼朝、天下掌握の祈願のため宮殿を新造する。この時の名代藤原親能・中原仲業・奉行和田義盛・神主市川氏誉田斎宮藤原義重・大工棟梁修理介正広。
正平24年・応安2年(1369年) - 足利義満、祈願のため宮殿を造営する。そのため奉行上杉中務少輔が八幡宮に来宮する。
正中元・至徳元年(1384年) - 足利義満、祈願成就により御輿4社を造立し奉納する。
天正9年(1581年)7月 - 飯香岡八幡宮造営のため「新市」を建てることが免許される。また八幡は守護不入の地となる。
天正18年(1590年)5月 - 徳川家より上総国市原荘八幡郷へ禁制(軍勢甲乙人等乱妨狼藉事以下二カ条)が下される。
天正19年(1591年)11月 - 徳川家康、神領150石を寄進する。飯香岡八幡宮の祭礼格式なる。
★元禄10年(1697年)8月 - 『飯香岡八幡宮由緒本紀』成立する。
とにかく1697年に成立した史料に依拠した内容なので、信憑性のほどははなはだ疑問ではある。(笑)