分子科学研究所が開発中の冷却原子方式・量子コンピューターと大森賢治教授
量子コンピューターの開発レースで初の「主役交代」が起こりつつある。
先頭を走っていた「超電導方式」を新興の「冷却原子方式」が追い上げ、ここ数カ月の間に逆転したとの見方が専門家の間に広がっている。
冷却原子方式では米ハーバード大学が主導するグループと日本の分子科学研究所のグループが高い技術力を持ち、それぞれスタートアップを通じた実用化競争が始まろうとしている。
量子コンピューターはスーパーコンピューターでも解くことが困難な問題を高速処理できる次世代の計算機。ミクロな世界に現れる量子の「重ね合わせ」や「もつれ」の状態を活用して高度な計算を実現する。計算を担う基本素子を「量子ビット」と呼ぶ。
量子コンピューターは複数の方式で研究開発が進み、常にリードしてきたのが超電導方式だ。極低温で電気抵抗がゼロになる超電導物質で量子ビットを作る。
米グーグルや米IBM、米リゲッティ・コンピューティングなどが手がけ、商用サービスも始まっている。日本では理化学研究所や富士通、大阪大学が同方式の国産マシンを運用している。
これを追う2番手が「イオントラップ方式」。荷電粒子を空中に浮かせて量子ビットに使う。米イオンQや米クオンティニュアムなどが手がける。
状況を一変させた「第三の量子コンピューター」
冷却原子方式はこれらに続く「第三の量子コンピューター」といわれてきた。
だが産業技術総合研究所量子・AI融合技術ビジネス開発グローバル研究センターの川畑史郎・副センター長は「この数カ月で状況が一変した。冷却原子方式が超電導、イオントラップの両方式を抜いてトップに立った」という。
「逆転」を象徴するのが、2023年12月に米ハーバード大学やスタートアップの米クエラ・コンピューティングが英科学誌ネイチャーで発表した研究成果だ。
冷却原子方式を使い量子計算のエラー訂正につながる新手法で、48個の量子ビットでエラーを検出しながら、各種の量子アルゴリズムを実行した。
米クエラ・コンピューティングの量子コンピューター
今の量子コンピューターは計算を長く続けるとエラーが起きるため小規模な計算しかできない。方式を問わずエラー訂正技術の確立が課題だ。
超電導方式では「表面符号」と呼ばれる有力なエラー訂正技術が提案されているが、この方法は膨大な量の量子ビットを用意する必要があり実用化のメドが立っていない。
冷却原子方式は「中性原子方式」ともいい、ルビジウムなどの原子気体にレーザーを当てて真空中に静止させ、その一個一個を量子ビットとして用いる。
レーザーで物体をとらえる「光ピンセット」技術で量子ビットの原子を動かして近づけ、レーザー光で操作することで量子計算を実行する。
冷凍装置不要の優位性も
冷却原子方式は、他の方式と比べて量子ビットの数を増やすことが原理的に容易とされる。
米アトムコンピューティングは23年10月に1180量子ビットの冷却原子方式のマシンを発表。超電導方式に先駆けて1000量子ビットの大台を超えた。量子状態が維持される「コヒーレンス時間」が極めて長く、超電導方式には必須の冷凍装置が不要といった同方式の優位性に改めて光が当たっている。
こうした中、満を持して動き出したのが自然科学研究機構・分子科学研究所(愛知県岡崎市)の大森賢治教授のグループだ。
2月末、富士通や日立製作所、NECなど10社が参加する冷却原子方式の商用化に向けた協議体の設立を発表。24年度にスタートアップを立ち上げ、26年度に試作機、30年度までに商用機を開発する。
分子研は22年に6.5ナノ(ナノは10億分の1)秒で動作する世界最速の2量子ビットゲートを実現して注目された。量子ビットゲートは量子計算を実行する基本演算要素のこと。
ハーバード大など他の研究グループがゲート操作に連続発振レーザーを使っているのに対して、分子研は10ピコ(ピコは1兆分の1)秒だけ光るパルスレーザーを使うことで高速動作を実現している。
日本のスタートアップに米研究者も参画へ
この分子研の独自技術を巡っては、19年にグーグルがスーパーコンピューターで1万年かかる問題を約3分で解く「量子超越」と呼ぶ成果を発表したときの研究リーダーであるジョン・マルティニス米カリフォルニア大学教授が強い関心を示し、分子研発スタートアップへの参画の意思を表明している。
分子研の大森教授は開発課題として、量子ビットの数を1万個程度まで増やすことと、2量子ビットゲートの忠実度(精度)向上の2つを挙げる。
2量子ビットゲートの忠実度はハーバード大学のグループが23年に99.5%を達成した。
大森氏は「実用レベルでエラー訂正ができる量子コンピューターの実現にはさらに高い99.9〜99.99%の忠実度が必要。我々の技術がこれに貢献できる可能性がある」と語る。
量子コンピューターの開発競争のトップグループに躍り出た冷却原子方式。分子研グループとハーバード大グループの日米2強が軸となって同方式の実用化の道を切り開く構図が見えてきた。