物忘れ防止のためのメモ

物忘れの激しい猫のための備忘録

郡上市大和 東氏館跡

2021-08-06 | 行った所

東氏は千葉常胤の六男が千葉の東庄(とうのしょう)に居を構えたことから東を名乗ったという。東庄と云えば、時代はさかのぼるが、平忠常が乱を起こした時の拠点の一つではなかったか。
この東氏、承久の乱の恩賞で郡上に入る。以後戦国末期近くまで郡上で代を重ねる。東常縁(とうのつねより)が歌道で有名だが、古今伝授と云う奴、勿体ぶった権威主義といおうか好きな感じはしない。
東氏の居所としたのは郡上市大和。八幡から北北西に向かう。ほぼ並行して長良川、東海北陸道が走る。ICは岐阜大和。さらに北上すると白鳥だ。

古今伝授の里フィールドミュージアムに入る手前に、千人塚という標識があった。

この辺に越前朝倉から攻めてきて討ち破られた兵1000人を葬った塚があるというのである。結構な規模の合戦が行われたということか。

東氏記念館に入る。どちらかというと歌道や能がメインの資料館か。

これに似たようなものは千葉市の資料館で見たような。

 

この地図の1549年篠脇城の戦いが分からない。朝倉孝景とあるが、有名なのは英林孝景、敏景と呼ばれていたこともある英傑だが、応仁の乱で活躍するので時代が合わない。とすると宗淳孝景なのだが、天文17年(1548)に死んでいるのだ。となると孝景の子の義景が該当することになるが・・・
このパネルの脇の年表のパネルでは1540年朝倉来襲、1541年赤谷山城へ移るとある。千人塚の説明板も天文9年とあったので、1549は単純な書き間違いか? 結構お金をかけている施設で学芸員もいそうなのにな。

宗淳孝景のころ朝倉はしばしば美濃へ介入しているようだ。また天文9年ごろは大野郡司だった孝景弟景高が兄に反抗、一向一揆と結ぼうとしたり、若狭へ行ったりごたごたしている。朝倉の敵はほぼ一貫して一向一揆で、大野郡は一向宗が盛んだったようで、一向宗との戦いの一環で油坂峠を越え美濃へ攻め込んだのは大いにありうる。篠脇城では敗れたが、天文13年(1544)には宗滴教影が美濃の稲場山城を攻め、城下を焼き払っている。同じようなルートで攻め込んだのではないだろうか。

東氏館跡庭園。


池跡の前に館があったと思われるが、礎石等もわからない。

 東常縁留守中、斎藤妙椿に城を攻められ落城した。常縁は妙椿にに和歌を送り、感心した妙椿が城を返したというのだが、応仁のころの武士が戦い取った城を返すことがあるかな。別の目的というか違う流れがありそうな気がする。

 篠脇城登り口

 

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郡上八幡 街歩き

2021-08-06 | 行った所

少し街を歩いてみる。
道幅は広げているのだろうが、袖ウダツの建物が軒を並べている。高山ほど観光地化されてもいないように見えるが、郡上踊の時はごった返すのかもしれない。

 肉桂飴を買った店

 宗祇水入口

 宗祇水

 宗祇水説明板

 小駄良川 清水橋から。すぐ吉田川と合流する。

 吉田川 地質的にも面白いのかもしれない

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郡上八幡 博覧館

2021-08-06 | 行った所

城を降りて郡上八幡博覧館という博物館に入る。郡上踊を中心とした物産館だろうと認識していたが、歴史関係も充実。城の展示と重なる部分も多いが、どうせいっぺんでは頭に残らない。

凌霜隊の江戸から関東を転戦し会津、また江戸にもどるまでを地図付きで紹介している。

宝暦騒動で気が付いた。これは白鳥で見ている。長滝神社内に碑があり、近くの白山資料館で小冊子を買ったのだ。あの時見たのと同じ事件だ。騒動の中心はむしろ白鳥らしい。

城の登り口に安養寺という寺があったが、これは一向宗の寺で佐々木高綱の子が親鸞の弟子になったことを起源とするらしい。元は越前大野郡穴馬にあったが、白鳥、八幡と移転したようだ。パネルはなんだかよくわからない文なのではあるが。


穴馬はダムの九頭竜湖に沈んでいる旧和泉村だ。ダム湖近くを通る158号線脇に穴馬総社が建っている。これは水没した各集落の神社を集めたものらしい。

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郡上八幡 郡上八幡山城

2021-08-06 | 行った所

岐阜県は南の岐阜市辺りは尾張平野とほぼ一体だが、少し北へ行くと見事に山ばかりだ。郡上市は奥美濃と呼ばれる地域になる。


郡上と云えば郡上八幡、他には踊が有名という以外何も知るところがなかったが、白鳥まで広く郡上市であるようだ。川沿いに平地がなくはないが、平野と呼べるほどのものはないように見える。郡上市が中心なのだろうが、むしろ白鳥の方が平地は広いように見える。

長良川沿いに走る東海北陸道郡上八幡ICを降り、郡上八幡の街に入る。

山の上に見えていた城へ行ってみる。小高い山の上に立つ山城だ。天守はあるが、いわゆる模擬天守。ただ、昭和初期の建築のため木造だ。



なかなかの絶景。

東方面、右の銀色のドームはスポーツセンター。

西方面、川は吉田川、高速道路の下に長良川が流れているはずである。

城主は5家に渡る。遠藤氏、稲場氏、井上氏、金森氏、青山氏。
遠藤は、以前郡上を治めていた東氏の親戚筋だが、東氏を滅ぼし、乗っ取った恰好らしい。山内一豊の妻千代はこの遠藤氏の縁者らしい。犬山市の興禅寺で出生の地だという碑を見たことがある。

稲場氏は美濃の土豪から信長の旗下になったようだ。関ヶ原の後、大分へ移封。

井上氏は常陸から郡上に入るが5年で丹波へ移封

金森氏 金森長近が有名だ。子孫は代々高山を治めていたが、出羽へ移封になり、更に郡上へ来たようだ。
宝暦8年(1758)の宝暦騒動により断絶。


金森氏の高山からの移封については、幕府が直轄地として、山林資源豊かな飛騨を欲しがったためというのが定説らしい。
宝暦騒動で金森氏は断絶の憂き目にあったのだが、天領高山では大原騒動という一揆が起こっている。1771年(明和8年)からというから、宝暦騒動の記憶は薄れてはいなかっただろう。幕府は一揆の恨みを買っていた代官の大原父子を放置、実に18年後の1788年(天明8年)まで騒動は続くのである。郡上と高山の扱いの違いは何だろう。

青山氏 金森氏の後に丹波から移封。幕末までの殿様だった。維新の時、藩士が郡上から会津へ行って凌霜隊として戦った。かなり悲惨なものだったらしい。初めて知った。

越前にも飛び地がある。

 

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