物忘れ防止のためのメモ

物忘れの激しい猫のための備忘録

備前片上宿・虫明・牛窓

2021-03-21 | 行った所

閑谷から南下し、備前市に入る。焼き物の街だ。備前市歴史民俗博物館には登り窯の模型があった。

  備前片上宿

三石まで12kmくらい。宿の間の距離3里だ。

片上の宿の道標は宇佐八幡神社の前にある

 

大きな備前焼の狛犬は沖縄のシーサーを思わせる。

備前市から岡山ブルーラインに入る。片上大橋を渡る。さすがの風光、うつくしい。

これを平忠盛は「虫明の迫門のあけぼの見るをりぞ都のことも忘られにける」と詠んだ。

 


島々に囲まれ、入江のようになった海に日が昇る。そんな時間ではなかったが充分に美しかった。
忠盛にせよ源頼政にせよ、歌を出世の手段として大いに活用した。しかし、それも歌才あってのこと、忠盛はやはりひとかどの歌人であったのだ。

 虫明IC近くの道の駅

虫明から牛窓へ


牛窓は万葉集にも見える地名だという。古くからの港町だが、高倉天皇が譲位の後に行った厳島神社行幸の寄港地の中には見えない。


牛窓天神には、菅原道真が大宰府に行く折に寄ったとある。

牛窓天神からの眺め

江戸時代には朝鮮通信使の一行の寄港地として知られる。鞆の浦から牛窓に寄るのだ。

 牛窓街並み

唐琴通りというそうだ。道真の歌からか、地名を詠んだ歌か



 

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和気神社・閑谷学校

2021-03-21 | 行った所

神護景雲3年(769年)、宇佐八幡宮より称徳天皇(孝謙天皇)に対して「道鏡が皇位に就くべし」との託宣があったとされる。和気清麻呂は勅使として宇佐八幡へ赴き、この宣託が偽物であると確かめる。「天つ日嗣は、必ず皇緒を立てよ。無道の人はよろしく早く掃除すべし」皇統に属さない者の即位は許されないということだろうか。道鏡を寵愛する称徳は、清麻呂の報告を喜ばず、和気清麻呂に別部穢麻呂と改名させ流罪にした。しかし、道鏡への譲位はなく、称徳の死後の道鏡の処遇は下野国の薬師寺への配流のみで、大罪人とする割に軽い処罰であり、つじつまの合わぬところがあるようだ。
清麻呂は政界に復帰し、桓武の平安遷都などにも活躍する。能吏であったらしい。

 和気神社

赤い橋の下の流れに鷺がいた

清麻呂像。朝倉文夫の作でこれはなかなかいい物であった。

 本殿

 


そう言えば京都の御所の西側のにある護王神社にも猪がいた。

小さな資料館があり、何故か閑谷学校の特集をしていた。清麻呂と神護寺との関係は初めて知った。機会があればまた神護寺にも行こう。

 

閑谷学校、

 梅が咲いていた

閑谷学校は日本初の庶民のための学校というけれど、和気神社脇の資料館の説明パネルには庶民と武士が身分にとらわれず一緒に学ぶ学校だとあったけれど、この学校に寄宿し学ぶ者は一般庶民というべきかどうか、少なくとも寺小屋とはだいぶ趣が違うものらしい。

 

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船坂峠・三石・倉光三郎碑

2021-03-21 | 行った所

平家物語第8巻「妹尾の最期」
前段で、義仲の手勢は水島の合戦で平家の手痛い反撃を食らう。義仲は「やすからぬことなり」と山陽道を馳せ下る。
倶利伽羅峠で生け捕った妹尾太郎兼康は厚遇されていたが、巧言を弄し申し出る。「兼康の知行地備中妹尾は馬を飼うにはいいところ、ご案内します。」妹尾を預かっていた倉光三郎成氏は30騎を連れ妹尾と先発する。妹尾の息子は50騎ばかりで迎えに出る。備前三石の宿で落ち合う。妹尾が親しき者が酒をもって出てくる。喜びの酒盛りとなるのだが、倉光以下30人は酒に酔い潰されて寝てしまったところを殺される。「一々に皆さし殺してンげり。」そして妹尾たちは行家が知行していた備前の国府を襲う。

備前国府(岡山市内)から逃げ出した下人は、播磨・備前境の船坂で、山陽道下向中の義仲に行き会う。
事の次第を知った義仲はさすがに「斬って捨てべかりつるのものを」と後悔したのだった。今井兼平も、だから私も何度も斬れといったものをと嘆いたのだった。

国道2号線の船坂山隧道。このトンネルの上が船坂峠になる。

 トンネル上 

船坂峠にあったのは平家物語関連の碑にあらず、太平記であった。
児島高徳という人物のことは南朝の忠臣として、戦前では誰知らぬものではない、という存在だったらしいのだが、今ではその存在も怪しまれている。太平記以外の史料には見えない人物のようで、太平記の作家小島某にも擬せられる。
児島高徳は隠岐へ流される後醍醐天皇を奪還すべく、船坂峠で待ち受けるが、後醍醐護送の一行はここを通らなかった。後に後醍醐の美作の宿舎に忍び込んだ高徳は「天勾践を空うするなかれ 時に范レイ無きにしも非ず」と立木を削って書き残して去ったということである。

 国境碑

 ここより西備前

この奥に鹿がいた。カメラを探る間に跳ねて行ってしまった。

備前側から東へ向かうとこの標識がある。

 
三石は宿場町のはずだがその面影を探すのは難しい。

三石駅

一里塚は新しいものだがあった。



和気神社へ行こうと県道46号を走っていたところ、和気清麻呂公碑・政庁跡への看板を見つけ、曲がってみた。

たまたま見つけたのは倉光三郎成澄の塚だった。

裏に書かれているのはよく読めない所もあるが、「倉光三郎は源義仲の臣で、妹尾太郎兼康と戦い藤野寺で死んだ」とある。藤野というのはこの辺りの地名である。

しかしここで言う倉光三郎成澄とは誰のことだろう?倉光二郎・三郎という義仲の手勢がいる。加賀の国の住人で、「倶利伽羅落」で二郎が妹尾兼康を捕らえる。この二郎の名は成澄だ。三郎の名は成氏という。
その場で斬って捨てるべき平家の猛将妹尾兼康を義仲は斬らない。妹尾の武勇を惜しみ三郎成氏に預ける。三郎は妹尾を懇ろにもてなす。妹尾も殊勝げに振舞い、半年を過ごす。そして備中へ案内すると甘言を弄すのである。甘言に乗った義仲・倉光が甘かったと言えばそれまでだが、妹尾の方が一枚上だったのだろう。
妹尾の備前へ入った途端、三石での酒宴で妹尾は倉光三郎ら30騎を酒で盛潰し、刺し殺す。つまり三郎成氏は三石で死んだのだ。この碑の場所から東へ直線距離でも10km近くある。
妹尾は備中吉備津に兵を集め義仲勢に対抗するが、今井兼平の猛攻を受け逃げ出す。追う義仲勢の中に倉光二郎成澄がいる。一度は妹尾を生け捕った二郎は弟の敵と追いすがる。板倉川で追いつき、組打ちになる。二人とも大力の剛の者、上に下にと組み合うが、共に淵に落ちる。倉光は泳げず、妹尾は水練が達者、これが命運を分け、倉光二郎は返り討ちにあってしまう。これは吉備津辺りでここから西へ30km以上離れている。
何らかの伝承があって作られた碑だとは思うが、よくわからないのだった。

倉光三郎碑付近

 

(この話は、源平盛衰記にあると、かなり後で知った)

 

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姫路城 歴博 播磨国分寺趾 経正神社

2021-03-19 | 行った所

姫路城 

 余りにも広い城域、よくこれだけ残ったものだ。そして美しい城だ。確かに世界遺産、他の城とは格が違うようだ。


白鷺城とも呼ばれる白い城だが、屋根の瓦の目地に白い漆喰が盛り上げられている。それで屋根全体が白っぽく見えるのだが、妙にすすけて黒くなっているところもある。

中にいたガイドさんに聞いたら黴で黒くなるそうである。そういうものらしい。

天守の六層の最上階まで登る。姫路はけっこうな街で、それなりの高層ビルもあるのだが、元々小高い所に石垣を築きさらに城があり、城域が広いこともあり、全く目立たない。

石垣の上の土台と櫓


「天守物語」は姫路城を舞台に想定しているけれど、以前ビデオで見た歌舞伎はあまり面白いものではなかった。

白鷺城の白猫さん

姫路城の北の方に隣接して兵庫県立歴史博物館がある。常設展は姫路城関係に特化しているようで、歴博としてはあまり面白いところではないのだが、今回は特別展をやっていた。「絵空事の楽しみ」江戸時代の絵画展だが、源平合戦図屏風が出ている。一の谷合戦図が大作、三浦畠山合戦図、他にエピソードごとの場面を6つ屏風に仕立てたもの。酒呑童子の屏風も面白かった。


姫路は、播磨の国府でもあり、大国播磨の中心地だった。


近くに総社がある。射盾兵主神社という。

国府跡の調査もされたようだが、郵便局の建物の下らしい。

 

播磨国分寺 

姫路城から2号線を東へ、地名も国分寺、現役の寺もあるがその東に国分寺跡がある。

 

 中門と回廊
一番東に南大門、右手に塔、正面に中門、中門から回廊が巡る。

その奥に金堂、講堂が続くはずだか、現在の寺の下になる。

 南大門

塔跡

 

経正神社 

国分寺から2号線を更に東へ。高砂市に入って北へ折れる。広く山が視界に入るが、ハゲ山に見える。2011年1月大きな山火事があったそうだ。10年たっても、元には戻らないものなのだな。


経正神社に向かう道はだんだん心ぼそくなる。たまたまいた人に車では行けないと聞き、車を置かせてもらい歩く。

集落から山道を少し入った所の小さな社だったが、きれいにしてあった。


播磨は、忠盛が守になり、清盛も保元乱の後で播磨守になった。以来この都に近い大国は平家の知行国だったようだ。但馬の守だった経正にも何か縁があっだのだろうか。経正は一ノ谷で死んだとされる。須磨からここまで逃げ延びられたとは思われない事だけれども。

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20210227 若狭 三方五湖

2021-03-07 | 行った所

三方五湖の周辺は桃源郷みたいなところだ。特に早春。春の光の中に梅林を通してみる湖水はかがやき、風が渡る。
以前来た時には、犬・猿・雉を相次いで見かけた。

三方五湖は五つの湖が寄り添うように存在するのだが、それぞれに性格が違うようだ。
菅湖は小さく水月湖とつながり、水月湖は三方湖と繋がる。久々子湖と水月湖は江戸時代に掘られた浦見川という運河によってつながり、水月湖と日向湖とは嵯峨隧道というトンネルの水路によってつながってはいるが、水門は滅多に開けられないらしい。久々子湖と日向湖は海につながっている。


久々子湖は南北に細長く、北は早瀬川という川で海につながるため、南側に比べ海の雰囲気も少し持つ。海岸部に早瀬という漁港がある。

 早瀬

 早瀬の水無月神社

若狭の地酒に早瀬浦というのがあるが、造っている酒屋はこの近辺らしい。

 久々子湖

日向湖は他の湖との関連が薄く、もっとも海に近く、荒々しさを秘めている。

 これは海だが。

水月湖はもっとも大きく、いくつかの特徴から有名だ。
水月湖には直接流れ込む大きな川がない。湖底をかき回す水流がなく、底の方に酸素がなく生物活動がない。だから堆積物がそのまま沈殿していく。
沈殿物の量は毎年0.7mm、堆積物がの断面は縞模様であり、これを年縞という。水月湖の年縞は世界標準と認定されている。

 水月湖

 嵯峨隧道

 三方湖
三方湖湖畔に若狭三方縄文博物館に隣接し年縞博物館がある。縄文博物館は鳥浜遺跡を中心とする博物館だ。鳥浜は縄文時代のタイムカプセルと云われた。今では三内丸山遺跡・桜町遺跡など木質遺物が多く出土したところが全国的に多くは調査されるようになったが、鳥浜は早い例である。

 菅湖付近

梅まつりの梅会館の梅

 

久々子湖と水月湖を結ぶ浦見川の東1km足らずの所に宇波西神社がある。

浦見川を開削した碑

 

 

境内に王の舞の像がある

王の舞は若狭のお祭りだ。小浜にある若狭歴史民俗博物館に詳しい。

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20210227 若狭 倉見荘

2021-03-07 | 行った所

三方湖に南から注ぐ、鰣(はす)川に沿って登ると倉見という集落がある。若狭町になる。若狭の倉見荘という新日吉神社の荘園はこの辺りに比定されている。この荘園は常神半島先端部にも飛び地を持つ。

 福井県史より図

倉見の集落へ入る手前に、闇見神社というものを見つけた。

くらみ神社というらしい、闇見=倉見なのだ。

その脇から古道が伸びる。


近江坂古道だそうだ。

山の尾根伝いの大変な道に見える。

石仏が集めてある

倉見神社は天満宮だ。工事のシートみたいに見えるが梅鉢紋一つでそれらしい。

境内に「闇見神社例祭式諸人座席碑」というのがあった。

お祭りに集落の代表が据わる席次かと思われるものが字が逆さになったり、横を縦にしたり、彫ってある。よくわからないが、このようなものの碑は初めて見た。

集落へ向かっていくと三十三間山登山口の駐車場がある。


かなりの山だ。頂上から琵琶湖が見えるそうだ。
三十三間山の名は蓮華王院の棟木を切り出した山だからだという伝承があると、近江坂古道の案内板にあった。

 

***************************** 以下福井県史 ************************

第四節 越前・若狭の荘園の諸相
      三 倉見荘
       鎌倉期の倉見荘


 三方郡倉見荘は、三方湖に注ぐ川の中・上流部周辺に広がった荘園である。鎌倉期の文書には、岩屋・井崎・白屋・黒田など現在まで残る字名がみられ、倉見の地名とともにかつての倉見荘の故地が推定される。文永二年(一二六五)の若狭国惣田数帳案(大田文)には一四町七段八八歩の荘園としてみえるが(ユ函一二)、永仁三年(一二九五)の実検田目録によれば、加野新田三七町余をも加えた田数総計一〇〇町を越える規模の大きな荘園として記されている(資8 大音正和家文書二一号)。また川沿いの本荘とは別に、若狭湾に突き出た常神半島の先端に近い三方郡御賀尾浦(三方町神子)も倉見荘の一部とされており、飛地のような形で扱われていた。 
 
 荘園としての成立は嘉応二年(一一七〇)ごろと考えられ、領家は京都にある新日吉社であった。一方で倉見荘は、若狭の有力在庁官人稲庭時定の没収所領を受け継いだ若狭忠季が地頭職を有していたことが知られる(ユ函一二)。当荘の地頭に関しては、忠季のあと誰に替わったか定かではないが、鎌倉末期には守護得宗領となっていたらしく、またそれ以前遅くとも十三世紀の後半までには、東国出身の御家人が実質的に在地の管理にあたるようになっていたと考えられる。御賀尾浦では永仁ころから年貢などの貢納に関して何度か訴えが出されているが、その裁許を下した地頭のなかに、鎌倉幕府の有力御家人である二階堂氏とおぼしき人物が見出されている。なお荘内には恒枝という他と較べてかなり規模の大きな名があったが(資8 大音正和家文書二一号)、これは倉見荘を本拠にしていたと思われる御家人倉見氏が名主であった可能性が高い。
 ところで、前述のように倉見荘は御賀尾浦をその領域に含み込んでいた。このように内陸の荘園と海辺の浦とが一組にされる例が、若狭ではほかにも国富荘と犬熊野浦、宮河荘と矢代浦、西津荘と多烏浦などの間にみられる。若狭国は周知のように、漁猟・製塩が発達し、また日本海交易の舞台として廻船人の拠点も点在していた。そうした事情を背景に、荘園領主は海産物に対する欲求を満たし、あるいは日本海への窓口としての役割を期待して、浦々を領域化していったものと理解できる(一章六節六参照)。実際、若狭に荘園をもつ領主の間に海産物を入手しようという欲求が強かったことは、小浜から南川をさかのぼった山間に位置する名田荘からですら、領主が公事として塩・昆布・蚫(鮑)などを納めさせようとしていることからもわかる(資2 真珠庵文書二九号)。新日吉社も倉見荘を若狭における最大の拠点とし、平安末期以来少なくとも伯耆にまでいたる日本海を広く交易の舞台としていた海人の根拠地御賀尾浦をも組み込むことで、海産物の収取と日本海への窓口を確保しようとしていたと思われる。また近江にある日吉社の動きも活発で、嘉禎元年(一二三五)には日吉神人拒捍使代官の大和房と称する人物が三川浦(御賀尾浦)へ乱入するという事件もおきている。御賀尾浦は新日吉社領であり、住人は新日吉社の神人として油役を勤めて きた。ところが大和房は彼らを無理やり日吉社の神人にしようと企て、住人らが反対するのも無視して日吉社神人への任符(任命状)を住宅に「捨置」いていったというのである。日吉社は少しでも神人を獲得しようと、このような多少強引な手段も使っていたのである(資8 大音正和家文書六号)。このほか贄としての海産物も注目されており、御賀尾浦には延慶三年(一三一〇)に東国出身とおぼしい藤原盛世なる人物によって信濃諏訪社の末社が勧請され、諏訪本社にも干鯛・員魚などを納めることになっていた(同二七号)。

 

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20210227 若狭国吉城趾

2021-03-07 | 行った所

若狭国と越前国を合わせて福井県となっている。福井県を地方で分けると嶺南と嶺北地方ということになるのだが、これは若狭と越前と同じではない。敦賀は越前だが、嶺南となっている。若狭の最東端は美浜ということになる。

戦国時代、若狭は武田氏、越前は朝倉氏が支配した。武田と朝倉は或いは協力し、或いは対立して来た。

武田氏は、名高い甲斐源氏武田信玄と同族である。八幡太郎義家の弟新羅三郎義光を祖先に持つ。甲斐から安芸へ分流するが、更に室町時代安芸武田氏4代武田信繁の嫡男である武田信栄が若狭守護に任じられた。朝倉氏は越前守護の斯波氏の家臣から戦国大名へなっていった下克上の大名である。武田の方が由緒正しきといえようが、戦国大名としての実力は朝倉が上だっただろう。

国吉城は若狭の越前に対する押えの城だ。居館は山のふもとにあり、

本丸は山上にある。資料館脇が上り口

築城は武田の家臣であった粟屋勝久。武田信豊の二人の息子が家督を争い、長男義統が継いだが、勝久は弟に与し、反乱を企てた。
武田義統は朝倉の力を借り、勝久を討とうとする。押し寄せる朝倉勢に、勝久は籠城戦で対抗する。国吉城は守に安く、攻めるは難しい堅城であった。


後の織田信長の朝倉攻めに、勝久は協力し、信長を国吉城に迎えている。

朝倉・武田が滅んだ後、若狭を支配したのは丹羽長秀で勝久はその下で国吉城を任されたが、後に城主は秀吉家臣木村定光、堀尾吉晴と変わっていく。堀尾は松江城を築いたことで知られる。

資料館がある。

小浜藩佐柿奉行所跡で、木村定光が城下の整備を行い、丹後街道を城下に通した。江戸時代の小浜藩主酒井忠勝が、相木陣屋と呼ばれたこの奉行所跡に休息所として御茶屋屋敷を設けたとのことである。

丹後街道 国吉付近拡大↓

 

幕末の水戸天狗党が捕まり小浜藩に預けられたが、ここでは准藩士として扱った。

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20210228 氷見 義仲道

2021-03-02 | 行った所

氷見港 道の駅付近から

 かすんでいるが立山が見える

平家物語第7巻「倶利伽羅落」
何度読んでも納得できない志保山合戦に関わる義仲の動き。
厄介叔父行家がどうせ苦戦しているだろうと救援に向かうのはいい。しかし何故、氷見の湊をざぶざぶ馬で渡るのだ?ざぶざぶについては十二町潟がとても大きく、氷見港付近まで広がっていたと考えれば、まあ何とかなりはするのだけれど・・・
倶利伽羅合戦で勝利し、小矢部辺りにいたはずだ。神馬を白山に納したりする。
結局志保山の戦いの場所がわからないのでどうにもならない。加賀越中国境の志保山は宝達山から北に望む一帯の山々とされているのだが、どのあたりか比定されていない。


そもそも氷見へ行くこと自体おかしいのだ。宝達山から北に望む一帯を横切る道路として、現代の道だが県道29号がある。この中ほどが志保山というなら一番納得がいく。どうしても氷見を回るなら、氷見から羽咋へ抜ける国道415号線がある。この道は一度走ったが、それほど勾配もない通行の便のよさそうな道である。
ところが、氷見から中能登町に向けて義仲道と云われる道があるという。

「街道古道廃道道」
http://www7b.biglobe.ne.jp/~kiku-uj/na2/tym/tym3.htm
「義仲道あるいは蓮如道と呼ばれる道は氷見の穂積から芝峠を経由し中能登町の久江に抜ける古道を言う。一刎越えとも言われ、氷見市稲積-芝峠-久江原山峠-久江の道順 となっている。寿永二年(1183年)木曽義仲が能登への進撃につかった道と言われている。この事から義仲道の名がある。」とあり

「木曽殿は志保の山打ち越えて、能登の親王の塚の前に陣を取る。」という記述に合わせて考えられたのかと思うような道なのだが、どうだろうか。親王塚に陣を敷いたのは志保山の戦いの後である、義仲道の途中のどこを志保とするのだろうか。
氷見から北に向かう山中に一刎(ひとはね)という集落がある。一刎越えといい、林道稲積谷林(村?)線がそれらしい。
一刎から更に北へ向かうと久江原峠があり、そこから久江川に沿って下ると中能登の小田中親王塚の1kmほど東北に出る。

富山の峠」
http://www1.tcnet.ne.jp/tu-box/touge/touge_2.html
「 氷見市一刎から石川県鹿島郡久江を抜ける道で、県境に峠がある。
 歴史のある峠みたいです。一刎越えとも言われ、氷見市稲積-芝峠-久江原山峠-久江の道順で、1183年、同様な道順で木曽義仲が能登へ進撃、1449年、蓮如上人が布教のためそれに近い道順で巡回、などという伝説が残されており、「義仲道」「蓮如道」と呼ばれている。ん~ん!全然知らんかったぞい・・・」
自転車で行かれたようだ。車の道はないような・・・


氷見あいやまガーデンというバーベキュー場のような公園の脇を通る道を登っていく。細い山道ではあるが、待避所もあり車の通る道だ。

SayFarmという牧場に出て急に開けた。なんと氷見の街が見える。富山湾と霞ながらも立山連峰も見える。


牧場を過ぎると道はだいぶ心細い。落ち葉で道が埋まっていたり、倒木があったり、でも残雪に前に行った車のわだちが見える。このわだちを追えば、と思ったのだが、道路全面が雪に覆われた場所で、先行車は引き返している。我々も引き返すことにして、だいぶ下がってUターン。

 

あいやまガーデン入口からつまま園の前を通る道路に戻る。県道18号線だ。これを北上してみることにする。県道18号線である。
磯辺神社に寄ってみる

磯部から左折し県道70号線に入る。

 70号線からの眺め


一刎の集落に入る手前に林道の出口があった。

車が走った址はない。


一刎は小学校もある立派な集落だ。


一刎から引き返し18号を北に向かう。

荒山峠、

ここが県境だ。

石川県側、かつては邑知潟の水辺が広がっていただろう羽咋川沿いの平野部の向こうに能登半島の山、風車と送電線がが見えたが写真では無理だ。その向こうに日本海。

久江川より3キロほど東北に降りてきた。

久江川

近くの弥生遺跡 この辺りの遺跡は山麓と旧邑知潟の間に発達した小扇状地に立地する。

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