水無瀬神宮にはもっぱら後鳥羽院のことばかりだった。
石川五右衛門の手形があった。
髙樹 のぶ子の「業平」には、業平と親しい惟高親王がこの地に所領があり、しばしば一緒に遊んだとあったのだが。
業平の東国下り、宇津峠で出会った修行僧に託した歌の宛先も惟高親王であった。
「駿河なるうつの山辺のうつつにも 夢にも人に逢はぬなりけり」
惟高親王の母は紀名虎の娘であり、平家物語第8巻「名虎」では惟高親王と惟仁親王が帝位を争い、競馬や相撲、はては高僧同士の祈祷合戦が行われ、藤原良房が押した惟仁親王が勝利した話がある。
水無瀬というのはたぶん水瀬だろうと思うのだ。水無瀬川という川もあるが、水無では川として矛盾するのではないか。
だいたい桂川(鴨川)・宇治川・木津川が合流し淀川となるあたりなのだ。そこを水無と呼ぶのは何故なのだろう。
この辺りは京と大阪を結ぶ街道でもあるはずだが、これも川を利用した交通の方が盛んだったのではないかと思う。
現代では大山崎に高速のJCTがある。
本能寺の変の後、中国から大返しをしてきた秀吉と明智光秀とが戦ったのもこの辺りとなる。天王山と古来言われたが、最近は山崎の戦ということが多いようだ。
山城と摂津の国境でもある
木津川が大きく北へ円弧を書いて流れる中心には男山がある。石清水八幡だ。
水無瀬と石清水は河を挟み東西に対称的な位置となる。
水無瀬宮址からわずか1キロほど南に旧桜井駅になるらしい。楠木正成・正行親子の桜井の子別れはてっきり奈良の桜井だと思い込んでいたのだが、実はこっちだったらしい。正行戦死の四条畷も近い。
もっと昔を突っつくと、石清水八幡の南に交野(かたの)天神が見えるが、これは継体天皇の葛葉の宮の址だという。6世紀の前半の話である。継体は越前の出身というが、父は彦大人王とされ近江の人で墓は高島市安曇川にある。
継体の場合は少し意味が違うが、平安京以来、京都の防衛線は、瀬田・宇治・そして西国への押えとしてここだったのではないか。
ともあれ西国街道を少し舐めてみる。
西国街道、別名山崎街道、忠臣蔵のおかるさんの故郷で、勘平さんが猟師になっていたのもこの辺の設定なんだろうか。
元八幡
これは石清水の前身で初めに宇佐八幡から勧請した場所だそうだ。どうして男山へ行ったのやら。河陽宮(かやのみや)は嵯峨天皇の離宮だったそうだ。嵯峨を諡号とされるほど京都の西を愛で、離宮を造営したにもかかわらずこんなところにも離宮を作ったのか。
塔もあったのか
荏胡麻が一大産業だったようだ
西國街道を北上してきたつもりが、途中からよくわからなくなり物集女街道というのが現れた。
9号線に交差し左折し、五条に入り京都市街地に戻る。