物忘れ防止のためのメモ

物忘れの激しい猫のための備忘録

槙山城址 福井市東郷

2022-05-23 | 行った所

JR越美北線、福井から大野へ向かうと一乗谷駅の一つ手前が東郷駅だ。地形から言えば山一つ後ろが一乗谷の朝倉氏の本拠というわけだ。
朝倉氏は南北朝期、足利方の有力大名斯波氏の家臣団として越前に入った。もともとは但馬にいたらしい。織田氏は元は越前の織田の出だという。斯波氏の家臣化し尾張へ移った。
朝倉は同じ斯波氏の家臣であった甲斐氏と争い、斯波氏の守護代となり、一向一揆とも争い、事実上越前を支配するようになる。
応仁の乱で際立った働きを見せる朝倉孝景(英林)は一乗谷を本拠とし、家臣団を一乗谷に住まいを移させ、分国法(朝倉孝景条々)を定め戦国大名としての地歩を築く。ただあまりに早い例であり、分国法は孝景末子宗滴教景とする人もいる。宗滴は家督こそ継がなかったが、戦の先頭に立ち、外交を主導した。宗滴が家中に重きをなした時代こそが朝倉氏の全盛期であった。宗滴は天文24年(1555)に死ぬ。宗滴は織田信長に注目していたらしい。死に際し、信長の行く末を見届けたかったと語ったらしい。口にこそ出さね、朝倉最後の当主となった義景の器量は見定めていただろう。

一乗谷は狭い谷間で、谷の東側の一乗城山があり、谷に館を構え、いざとなれば山城に籠るはずであったろうが、朝倉最後の合戦にこの山城は機能しなかった。谷は灰燼に帰し、義景は大野へ逃げ、そこで自害すことになる。

一乗谷の西側が東郷、槙山城で朝倉の支城だった。

東郷駅前に案内板がある。

 

東郷駅から南へ1キロほど行くと槙山城址への登り口がある。

山頂付近に駐車場があり、そこから天守跡と千畳敷へ行ける。尾根伝いに朝倉まで行けるようだ。

 天守跡付近

 長谷川秀一碑

 栃泉側登り口にあった案内板

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