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倶利伽羅合戦の事

2020-09-02 | まとめ書き

平家物語第7巻「火打合戦」

「平泉寺長吏斉明威儀師、平家について忠をいたす。稲津新介・斉藤太・林六郎光明・富樫入道仏誓、ここをば落ちて、猶平家にそむき、加賀の国へ引き退き、白山河内に引っこもる。平家やがて加賀を討ち越えて、林・富樫が城郭二か所焼きはらふ。」

斉明の裏切りにより火打城は落ちた。火打に籠っていた者たちは加賀に落ち、平家は難なく越前を突破し、加賀に侵攻する。「なに面をむかふべしとも見えざりけり」とあり、京都へ残った平家の面々は大いに喜ぶ。兵糧不足にあえいだ畿内から北陸に入り、息を吹き返した平家軍なのだった。
平家は加賀の篠原でうち揃い、軍を二手に分ける。大手は砺波山へ向かう。搦め手は志保山へ。

一方義仲は
「木曽は越後の国府にありけるが、是を聞いて、五万余騎で馳せ向かう」

越後の国府は上越市の南かとあるのだが、どこを通ったのか、越後から越中というと糸魚川、即ち親知らずを通るルートしか思い浮かばない。倶利伽羅どころではない難所に思える。騎馬で軍勢が通れる道があったのか?

「わがいくさの吉例なればとて七手に作る。まづ叔父の十郎蔵人行家、一万騎で志保の手へぞ向ける。仁科・高梨・山田次郎、七千余騎で北黒坂へ搦め手へ差し遣わす。樋口次郎兼光・落合五郎兼行、七千余騎で南黒坂へ遣わしけり。一万余騎をば砺波山の口、黒坂のすそ、松長の柳子原、ぐみの木林にひきかくす。今井四郎兼平、六千余騎で鷲の瀬を打ちわたし、日宮林に陣をとる。木曽、我身は一万余騎で小矢部のわたりをして、砺波山の北のはずれ、羽丹生に陣をぞとったりける。」

なんだかよくわからない。先ず七手に分けたとあるのに①行家、②仁科隊、③樋口隊、④指揮官不明一万騎、⑤今井隊、⑥木曽本隊、六手にしかならないではないか。
行家隊の問題は置くとして、仁科・高梨・山田隊は北黒坂で搦め手とあるが、埴生から埴生大池を通るルートが義仲進軍路になっており、その途中に黒坂という標識を見た。これが北黒坂になるのだろうから、木曽本隊とルートが重なってしまうのではないか。先遣隊として送ったのか、更に北のルートを取らせたのか。樋口隊は更にわからない。南黒坂はどこだろう?岩波ワイド文庫本の注記には松尾から津幡町上藤又へ越えるのを南黒坂といったという、とある。松尾から山に向かうと膿川沿いに地獄谷に向かうとしか思えない。そこから上がるルートもあったのだろうか。ぐみの木林(きんばやし)に引き隠したという一万騎は矢立山の南、とあるのでここはわかる。今井隊のルートは鷲の瀬を打ち渡しとある。小矢部川を渡ったとしか思えないが、鷲瀬碑のある鷲尾公民館付近は小矢部川から東へ500メートル程離れている。流路が変わっているのか。更に西進し、蓮沼の日宮林で陣を取る。義仲とは別陣だ。義仲は埴生八幡に願書を捧げていることからはっきりしている。

倶利伽羅周辺、津幡側も小矢部側も倶利伽羅合戦を観光資源にしたいらしく、だいぶ頑張って入るのだが、「火牛の計」というバカげた空想がよほど気に入っているらしく、「源平盛衰記」を参考にしているらしい。現地の説明板、パンフの類もみな「盛衰記」らしく岩波本とはだいぶ違うようだ。余田、根井、巴が出てくるし、樋口はもっと大きく北の方から周り、平家の背後を付いたことになっている。盛衰記の方がくわしいし、地元の武者の名もあるようだ。実際地元の幹道に詳しい案内者が居なかったら、義仲と云えどもこんな戦いはできようもない。
ただ、平家物語のみで考えると下の図のようになる。

↓倶利伽羅合戦案内板(倶利伽羅駅に在ったもの)

↓埴生大池

↓鷲が瀬碑

↓日宮林

↓日宮碑

↓松永碑

↓膿川

↓巴塚(巴塚・葵塚ともに実は古墳)

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