物忘れ防止のためのメモ

物忘れの激しい猫のための備忘録

20200719 京都

2020-07-28 | 行った所

大徳寺へ行ったら、平康頼の墓があった。

平家物語の康頼のイメージはあまり芳しいものではない。何しろ後白河の腰ぎんちゃく。鹿ケ谷のどんちゃん騒ぎの「謀議」では平瓶が倒れた、首をもげのと云う騒ぎに一枚かんでいる。
鬼界が島に俊寛・成経と共に配流される。島では熊野権現への信仰から祝言(のりと)を上げる。長々しくちんぷんかんぷんの物である。歌舞伎「俊寛」では康頼は島の娘と結婚することになっている。創作というより、だれか祝言を「しゅうげん」と読んだものがいての話ではなかろうかと、私は疑っている。康頼・成経は許され京へ戻るのだが、これは熊野権現の利生譚となっている。不信心者の俊寛は取り残される・・・。
康頼は卒塔婆を作り、せっせと海に流す。その一本が厳島に流れ着き、後白河の手へ、更に清盛に達し、康頼と成経は許される。この話はあざとすぎていただけないものがあると思う。
康頼は元々美声で美男、今様の上手で後白河に取り立てられた。しかし最初は頼盛の子保盛の家人、保盛の国司補任に伴い、越前・尾張に同行する。平の姓を許されたというから見所のある若者だったのだろう。尾張では荒れていた源義朝の墓の整備をし、供養した。この事が京都に聞こえ、後白河が興味を持ち召し出したら気に入り、近習にしたということらしい。
出家の志もなまじな方便でもなかったようで、仏教説話集「宝物集」を書いている。

瑞峰院で一息入れる

大徳寺は昨日登った船岡山に近い。たいして眺望はきかなかったがそれでも京都タワーが見え、

左大文字が近く見えた。

23歳でつぼめる花が散れるがごとしと平家物語に書かれた二条帝が没し、船岡山で葬送が行われたが、若き王の死も延暦寺・興福寺の衆人達は悼むどころか自らの勢力を誇示し、額打ちの狼藉を働く。
船岡山を含めたこの洛北の地は、蓮台野と呼ばれ、東の鳥辺野、西の化野と並ぶ葬送の地だ。


粟田神社へ行く。

粟田口で結構登る。

初めてこの辺り、平安神宮との位置関係が分かったような。

近辺で蕎麦を食べ、蹴上から山科にでる。
山科でちりめん山椒の店を探すうちに、山科駅の北側の道を随分と北に上がった。文字通りの坂道を登ったのである。こんなところで商売になるのか?という立地であった。もう少し登ると毘沙門堂があるというので行ってみる。

あきれたことにここも門跡寺院だった。

四ノ宮駅の辺りにちょっと寄って高速に乗る。

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