物忘れ防止のためのメモ

物忘れの激しい猫のための備忘録

20200718 京都街歩き

2020-07-22 | 行った所

京都街歩き

烏丸を挟み三条近辺、高級な館街だ。ただの高級住宅というわけではない。平安時代から王家・摂関家の館だ。贅美を尽くした、というだけではないだろう、警備や財政官、下働きの者もいて、やはりそれ一つで官庁のようなものでもあったのではないか。
三条姉小路を少し入ったところ、新風館という建物の北西の隅近くに三条東殿の碑がある。平治元年(1159)後白河の院御所になっていたここに、源義朝らが襲撃、後白河を連れ去って幽閉する。平治の乱である。

 新風館

烏丸を挟んで西側には三条西殿 

そしてその南、現みずほ銀行の建物に、三条南殿の銘板がある。


平治の乱当時は上西門院の館だった。13歳の少年頼朝が勤めていたのだ。遠藤盛遠、若き日の文覚もまたここにいた。

姉小路新町西入ルで北側に高松神明社があり、ここに高松殿の案内板があった。上の地図の屋敷の場所は通り名で特定できるものはそれに従っている。

ここで後白河が即位し、保元の乱のとき後白河方の本拠になったという。

御池通りを渡り、烏丸と室町の間の通りは両替町通りという。その名の通り銀座址の碑があったりするのだが、江戸時代の事だ。

漫画ミュージアムの裏に二条殿址の碑もある。二条良基が広大な池のある邸を構えていたというが、これも平安時代からはだいぶ時代が下がる

押小路を西へ行き、押小路釜座に東三条院の案内板がある。「とうさんじょういん」と読むらしい。道長のころの摂関家の華やかな邸だったらしいが安元3年の大火で焼亡とある。

ここは摂関家の儀式殿で、氏の長者示す祭器の類も保管されていたらしい。保元乱の前に、藤原忠実は一度譲った氏の長者を長男忠通から取り戻そうと働きかけるが、忠通は応ぜず、忠実は源為義に東三条院を占拠させる。氏の長者は頼長に渡したものの忠実・頼長と忠通の間は決定的に決裂する。

押小路を更に西へ行くと閑院の碑があった。高倉天皇が里内裏に使ったらしい。

 

その隣が堀川天皇里内裏のはずだが、ホテル改修中のためか碑を探せず。
ホテルの西側、堀川に面して、橋本佐内の住居跡、福井藩邸址があった。

 

堀川

 

20201718  左女牛井

さめがいと読むようだ、岐阜の醒ヶ井と何か関係があるのだろうか。

堀川五条を少し下がり、西本願寺の附属建物の駐車場北辺付近の歩道脇の草むらの中にある。

碑の脇には読みにくいが、「源義経堀川御所用水と伝えられ、足利時代に既に名あり云々、第二次世界大戦に際し昭和20年疎開のため撤去云々」とある。

木の案内板は最初のパラグラフは読めない。次は村田寿光がこの辺りに住み、義政や織田有楽斎も来たことがある云々で、最後は昭和44年、碑を建てた経緯のようだ。

堀川六条には源氏累代の館と呼ばれる場所があったらしい。義家から始まり、保元の乱当時は為義がいただろう。不仲の義朝の京都での根拠地はどこだったのだろう。平治の乱時には義朝はここから出撃したのか。義経は京と滞在中は六条堀川にいたというからここだったのだろう。

七条堀川を少し東南に入ったところで見かけた住所表示、あの文覚と何か関係があるのだろうか。

 

コメント

20200717 京都

2020-07-22 | 行った所

竜王辺りから雨になった。栗東IC手前で事故渋滞があった。京都南ICで降り、北上する。西大路を走り丸太町で右折、京都アスニーという生涯学習センターの一角が平安京創生館という資料館になっている。雨の時は入ろうと決めていた。
歴年の発掘成果などを踏まえた平安京の大パノラマ模型が売り、白川の法勝寺の九重の塔の復元模型もある。鳥羽離宮のパノラマもある。退職した教師と思しい男性が、解説もしてくれる。想像以上に面白くよかった。資料をいくつか買う。
これでこの辺の内裏址を巡るのだ。

嵐山へ出て昼食、鰻。

祇王寺へ行く。祇王寺へ入る手前に駐車場があったのだが、駐車料金は1000円だった。
云わずと知れた平家物語第1巻「祇王」清盛に可愛がられ、捨てられた白拍子祇王と妹妓女、母刀自、祇王の後釜となった白拍子仏の物語。ここで物語は実在化する。寺のパンフに「平家物語にも書かれた」云々とあったが、平家物語以外の史料は何だろう、長講堂の過去帳に祇王以下4人の名があるというけれど、それとても物語が先ではないかしら。一説では祇王は滋賀県野洲付近の出身で、用水の整備を清盛に頼んだという。福井にも祇王の住んだという伝承を持つ場所がある。大野には仏御前の滝という物もある。全国どれくらいこういうものがあるのだろう、それだけ祇王の物語は広まったのだろう。


祇王寺は苔深々と緑美しかったが、雨もよいの所為か、いささか湿気が多すぎ、陰気臭かった。

近くの滝口寺に新田義貞の首塚があるらしい。脇の碑は勾当内侍**とかろうじて読めるものがあった。

太平記によれば義貞は越前の灯明寺畷にて戦死している。福井市足羽山の藤島神社には義貞の兜と称するものがある。福井藩4代目藩主松平光通の時に灯明寺の百姓が田地から掘り出し献じたものだというが、300年も埋もれていたとは思えぬきれいな鉄兜だ。甲冑の研究家によって義貞の時代には合わないと鑑定されているはずだが、神社は認めていないようだ。坂井市長崎称念寺には義貞の墓がある。立派なものだが、あれは胴塚だったのか。
滝口寺と云うのは滝口入道と横笛の話に関係はあるのだろう。

化野方面へ歩く。念仏寺へ至る道。

車へ戻り、大覚寺へ行く。
嵯峨天皇の離宮、平安京の北辺一条通を西にたどると嵯峨野に至ると平安京創生館で教わった。

如何にも門跡寺、輿もある。

 

仁和寺へ向かう。ここも馬鹿に広い敷地の寺だ。境内に敷き詰められているのは細かな砂利だ。


桜の名所だという。御室桜と云うのは背の低い桜木だそうだ。桜越しに五重塔を眺められたらいいだろうな。
平家物語第7巻「経正都落ち」「青山の沙汰」に仁和寺が出てくる。
清盛の異母弟の一人教盛の息子、笛の名手敦盛の兄経正は琵琶の名手である。何しろ北陸遠征時に琵琶湖の竹生島に寄って琵琶を弾こうかというミュージシャンである。幼い頃、御室に住み、覚性法親王に可愛がられ、琵琶を習った。覚性は崇徳・後白河の同母の弟である。経正は都落ちを前に仁和寺を訪れ、預かっていた青山という琵琶の名器を返すのである。覚性は嘉応1年(1169)に死んでいるので出てきた門跡は 守覚法親王である。これは後白河の息子の一人だ。この場所はおそらく勅使門のなか、御所と呼ばれる部分だっただろう。

徒然草の石清水に詣で損ねた先達無き「仁和寺にある法師」がどこにいたのかはわからないけれど。
経正は一の谷で戦死する。討たれたむねとの人々10人の中に経正の名がある。

ホテルが四条烏丸から北西に入ったところだったのでいったんホテルに入り、町をぶらつく。
三条高倉の京都文化博物館に入る。祇園祭展をやっていた。本来なら祇園祭直前の時期だった。鉾とか山とか言われるものには立派な南蛮渡りのタペストリーが使われている。結構驚く。
烏丸姉小路には三条東殿の碑があった。烏丸を下がって、みずほ銀行の建物には三条南殿の銘板がついていた。室町通を下がると鯉山が。

ついさっき博物館で見たものがダイレクトにつながる。

コメント