物忘れ防止のためのメモ

物忘れの激しい猫のための備忘録

長谷部信連と平時忠 2 時忠

2020-07-15 | まとめ書き

一口に平家と云っても色々ある。桓武天皇を祖にする、とはいっても幾つか代へて高棟王(伊勢平家などの祖となった高望王とは別)という人が賜姓を平家と名乗る。この流れは公家として京都に残り、堂上平家と言われる。この家に時忠は生まれた。公家の家だから日記(にき)の家と云われる。平家物語の時代の史料である「兵範記」は叔父平信範の日記である。

時忠の父時信は鳥羽の近臣の一人だし、家格は悪いものではなかったが、母は令子内親王の半物と一人前扱いされない存在だ。令子内親王は白河の娘の一人だが加茂の斎院にもなっている。時忠の父が出入りをしていて知り合ったものか。少なくとも姉の時子は同母だから、ある程度安定した関係ではあったのだろう。時忠の父は比較的早く死ぬ。兄弟は10数歳下の見られる親宗だけのようだから時忠が家督を継いだのに不自然はない。しかし父を亡くし、母系の援助も期待できない若き時忠の前途はあまり明るくなかっただろう。
だが、思わぬ幸運が姉妹たちによってもたらされる。姉の時子は平清盛の室に納まった。正妻である。更に上西門院の女房だった妹滋子が後白河の寵を得る。滋子の母は藤原顕頼の娘祐子、れっきとした公卿の娘だ。同じ娘でも時子とは格が違うらしい。更に美しかっただけでなく、「建礼門院右京大夫集」や定家の姉の「たまきはる」に絶賛される女性から見ても賢く人柄がよい人だったようだ。女はおろか男にまで節操のない後白河も滋子を本気で愛したらしい。

平家物語で時忠の「この一門にあらずんば人にあらず」という科白が出てくるのは第1巻「禿髪」とかなり早い段階である。禿髪の異形の少年たちが何を象徴しているのかは置いておくが、この章は仁安3年(1168)清盛が病を得て出家したが全快し、その後「吾身栄花」の章合わせて一族の栄華が語られる。仁安3年は後白河と滋子との子、高倉が即位した年でもあるので平家の栄華が極まったと書かれるのもそう不自然ではないが、そこに描かれている栄光はかなり後年のものも含むようだ。この章の次は「祇王」で、清盛の横暴が描かれるが、その次は「二代の后」で二条天皇の時代であり、次の「額打ち論」は二条の死である。
二代の后、多子が二条に入内したのは永暦元年(1160年)であるから、物語はここで8年ばかり時をさかのぼったということになる。
二条と後白河は実の親子と云いながら仲は良くない。二条は正当帝王として親政を志向し、後白河は一度手に入れた権力を離そうとはしない。この二人の間で清盛はアナタコナタしていたのであるが、二条寄りである。時忠は違う。せっかく妹が権力者の懐にいるのだ、最大限に利用したいのだ。応保元年(1161)滋子が高倉を産むとその思いは強まる。しかしここで時忠は少し焦りすぎたようだ。罪を得て出雲に配流された。生まれたばかりの高倉の立太子を狙ったという。時忠は生涯に2度出雲へ配流になるがその最初だ。2度目は延暦寺の強訴のごたごたで後白河の機嫌を損ねたのである。
二条の死で時忠は京へ呼び戻される。高倉が東宮に立ったことはもちろんである。二条側についていた清盛も後白河と提携するほか選択肢がなくなる。ここに平家と後白河の蜜月が始まる。
しかし滋子は安元2年(1176)まだ若くして死ぬ。平家と後白河の間を取り持っていた滋子の死を期に一気に問題が起こり始める。
安元3年(1177)白山事件を発端とする強訴、この時、時忠はどう立ち回ったのか、先の嘉応元年(1169年)の強訴で配流になったのとは大違い、いきり立つ大衆を前に「衆徒の乱悪をいたすは魔閻の所業なり。明王の制止に加わるは善政の加護なり」と書いてこれを鎮めたという。さっぱりわからない。この時は大衆の要求を入れ、師高の配流・神輿を射た重盛家人の投獄という事でおさまったはずだが、この時忠の行為はどう解すべきか。
更に事態は鹿谷事件へと動く。
一端は矛を収めた清盛も、高倉中宮となっていた娘徳子が安徳を産み、重盛・盛子の死を受けた後白河の挑戦的行為に治承3年のクーデターを断行する。
後白河の幽閉、安徳の即位、福原遷都と矢継ぎ早の手を討つ。平家物語によれば、安徳の幼すぎる即位に、時忠は 周成王3歳 晋穆帝2歳 近衛3歳 六条2歳などの例を引くが、よい例ではないとされる。
治承4年(1180)以仁王の乱に始まった反平家の烽火が上がり、やむなく京都へ都を戻すものの、高倉が、そして清盛が死ぬ。
打ち続く飢饉と戦火、木曽義仲は北陸路を大勝した勢いで京都に迫り、平家は都落ち、西国での再起を期す。清盛・重盛既に亡く、平家の領袖となるのは宗盛だが、時忠は、齢50を越え、清盛の後家二位の尼の弟して、堂上平家とはいえ3度検非違使で活躍した実力からも宗盛と並ぶような中心人物だったことだろう。事実、平家へ下される院宣の宛先は時忠になっていた。しかし、都落ちという大きな決断に時忠がどうかかわっていたかわからない。平家物語ではわずかに内侍所の神璽などを取り出したこと、石清水八幡宮の男山を伏し拝んだことがあるくらいだ。
さて義仲入京後の除目で(第7巻「名虎」)平家一門160余人の官職が罷免されるが、時忠と息子の時実、従兄弟の信基は罷免されていない。三種の神器を返すようにという院宣を時忠に下すためであるとされる。
西国に向かい、大宰府で落ち着こうとした平家だが、逆に追い出される。この時、時忠は使いに来た者に豊後国司頼資の事を「鼻備後」と罵る。更に一の谷の後、屋島に院宣を持ってきた使いの花方という者の顔に波型の焼き印を押すという乱暴さを見せる。この使いが戻った時後白河は笑ったというからこの法王も救いがたい。時忠は検非違使の時には盗人の腕を切り落としていたというが、殿上人とも思えぬ粗暴な面がある。ただ実際の戦闘には参加していないようだ。
壇ノ浦の合戦の後、生け捕られた者の筆頭は宗盛、ついで時忠、宗盛息子、時忠従兄弟、息子と名前が上がっていく。僧侶・侍合わせて38人、女房43人が捕虜である。清盛の一族の中で生き残った者たちである。
第11巻「文之沙汰」は興味深い。神器奪還に功があったという時忠であるが京で引き回しの後、義経宿舎の近くに時実と共に押し込められている。時忠は言う、義経に文箱を取られた、中身を頼朝に見られたら拙い。時実は義経に娘をやって取り返そう。18歳の娘は惜しいからと23歳の娘を義経に差し出す。義経はあっさり箱を返し、時忠は燃やしたという。娘の話はともかくも文箱の話はどうだろうか、いくら何でも義経もそこまで馬鹿ではないだろう。でもここには何か暗示があるような気がする。時忠は「日記の家」の生まれだと冒頭に書いた。時忠自身も日記を書いていたのではないだろうか。子々孫々へ渡すべき記録としての日記。断片ではあっても時忠はこの時までは何か持っていたのではないか。頼朝に見られたら拙い何かが書いてあったとしても交渉には使えない何か。
時忠は抵抗空しく能登へ流罪となる。第12巻「平大納言流され」なのだが、ちょっとおかしなことがある。長男時実が上総に配流はいい。次男時家16歳が母親の兄の元に居て、母帥の輔と共に時忠の袖にすがって泣いたというのだが、次男時家というのは治承3年(1179)の段階で上総に流され上総広常の婿になり、頼朝の近臣となっていたのだ。流罪の理由もはっきりしないようだが、この件で父や兄に何か含むところがあって頼朝に仕えたのかもしれないし、親に連座してというのでもないのに、流罪になったことを考えるとこの時点で16歳とも思えない。

元暦2年9月(1185)時忠は能登へ向かう。堅田で歌を詠んでいるから、琵琶湖西岸を北上し敦賀へ出たことは間違いない。妻子とは京で分かれた。郎党は何人か付いていたのか。敦賀以降のルートはどうだろう。敦賀から輪島か曽々木へ船で行ければ楽だろうが、どうだったろうか。陸路なら越前・加賀を通り七尾、七尾から穴水、その先はどうだっただろう。


時忠の墓のあるのは、半島の先端部近く北側である
大谷というの集落の手前で海岸線から山地に入る。大きくループする立派な道がついている。意外に奥へ入る。もっと海岸に近いところかと思っていた。直線距離でも1.5km以上あるだろう。道路上に駐車スペースとお金をかけたらしい案内板がある。墓はここから谷へ下ったところで工事現場用の仮設階段で降りるのである。
時忠と一族の墓は揚羽蝶の紋をあしらった柵の中にあった。一族の墓として、五輪塔が十数個並んでいる。

時忠の歌が書かれた標識がいくつかあったのだが、その一つが「能登の国、聞くも嫌なり珠洲の海、再び戻せ伊勢の神垣」というものであった。聞くも嫌な珠洲の海鳴りはここまで響いて来たろうか。さすがに同情したくなる。ただ、時忠はそもそも伊勢平氏ではないし、余りにあけすけな書きようは時忠の実作ではなく後世の狂歌だろう。平家物語第12巻「平大納言流され」で時忠が読んだとされる歌は「かへりこむことはかただにひきあみの めにもたまらぬわがなみだかな」だし、道路脇の碑には「白波の打ち驚かす岩の上に 寝らえて松の幾世経ぬらん」があった。
近くを流れる川は烏川と云い平家の守りである烏に導かれ、時忠たちはこの谷に住んだという。
伊豆の流人頼朝の元へは比企の尼がせっせと仕送りをしていたという。鬼界が島に流された成経の元には舅の教経が仕送りをしてくれていたという。時忠の元に仕送りはあったろうか。

奇怪な形状の岩々が続く海岸線を12~13km西へ行くと曽々木で、近くにたいそう豪壮は大庄屋屋敷のようなものがある。

上時国家で下時国家合わせて時忠の子孫を名乗っている。時忠が能登でもうけた子供の一人時国を初代とする家だという。但し戦国時代を遡る記録はないようだ。(網野義彦「海から見た日本史像」)ここの村の石高は300石、ほとんど平地がなく米の穫れない能登にしては採れる方だが、主に海運で栄えたようだ。

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