アオクジラ-Bluepain-

日々徒然に思ったことを書き記します。ワッショイ!

花畑に水を差す

2008年07月30日 03時22分52秒 | 日記
君好みの仲間たちに囲まれて
君好みの世界

ご機嫌だろう
幸せだろう

君は犬が好きに違いない

せっせと大好きなものを回りに並べて
些細な摩擦さえ近づけない

そしてどこかの教科書に書いてあるみたいな
素敵な台詞を口にしてうっとり


その上から如雨露で土砂降りの雨を降らせてやりたい
そういう衝動に駆られるよ

なぜならオレは猫が好き
身を寄せ合ってワンワン言う群れは見るに耐えないんだ

ダンサーインザダーク

2008年07月24日 02時29分36秒 | 日記
遠くへ行きたいんだろ?
自由になりたいんだろ?

囚われのヒロインを気取って
不自由を嘆いて

さぞ幸せなことでしょう

おめでとう悲劇

不満や不安がいつまでも解消されないのではない
それに溢れていることを前提とした世界に
初めっから立っていただけだとどうして気づかない?

時計の針はいづれ止まる為に動いている

ありがとう悲劇

いつか暗転しておとずれるカーテンコールの為に
せいぜいお道化て踊れ

アヒルと鴨のコインロッカー

2008年07月17日 01時52分02秒 | 映画
「アヒルと鴨のコインロッカー」

伏線を張ってラストにビックリを提供する性質の作品は
どうしても原作を知っているとその作品の印象は半減してしまう
そんな事はわかった上で淡い期待をしながら見たのですが…

むしろ原作を知っていることのアドバンテージなのか
二度三度と揺らされてしまいました。
なんといっても河崎に瑛太を据えた時点で成功は決まったという感じがしました。
瑛太を抜いたとしてもそれぞれのキャストはすごく丁寧に選ばれたという気がする。
この監督はちゃんと作品を理解した上で映画という尺の中に
それを落とし込んだのだなという気がしました。

伊坂幸太郎という作家が支持される理由には
誰もが心の奥底で望み願っているであろう
悪い事をしたものには相応の罰が当たってほしいという事を
清々しいまでに読者に代わってやってのけるところにあると思う。

故に、今作の中で行われている事もまるで陰鬱さを感じさせない。

個人的にとても印象的なのは「外人」という言葉。

これは日本人でない人を揶揄するニュアンスを含んでいながら
使う我々はそれに気づくことなく当たり前のように使っていたりする。
それをアヒルと鴨に例えるセンスもすごく好きで
だからこそ、なんのことはないようなドルジがそれを明かすシーンが
何より胸を揺さぶってなりませんでした。

ツレとヅレ

2008年07月16日 01時53分22秒 | 日記
取り立てて声を荒げて言うこともない
口を開けば出てくるのは大概の人にとって
プラスには働かないであろう罵詈雑言やらマイナスな言葉だらけ

だからといって無意味に前向きな事を言うのは
それはそれで皮肉で良いけれども芸がないでしょう

芸がないヤツはダメですよ
ひねりがないヤツはダメですよ

信じるという言葉はマヤカシです
概ねそういう奴は思考停止している自分を肯定したいだけ

ホラ、やっぱりこういう風合いに言葉が流れていくわけで
つまりオレはそういうもので出来ているのです

沈没する前提で海へ出るのだし
泳ぐなら溺れる覚悟が必要だ

それが嫌なら陸で水遊びをしていればいいんだ

ピンホール

2008年07月14日 00時09分27秒 | 日記
何処かの誰かでまかなえるような
最大公約数ならその人に任せておこうって思う
偉大なメッセンジャーを尊敬するぜ
オレには必要ないけれど

誰もが共感できる表層の感情には
別にこの先触れたって何も思わない

オレは他の誰も目もくれないような
最小公約数をそっと拾い集めておこうと思う

たまに真面目な事を言うのは
アルコールの入った人格の仕業に他ならない

どれが真面目でどれが不真面目なのかは
実際、まともな価値観を持ってないから確信はもてないけど

タイタニックで感動するのがまともな感覚なんだろ?ぺっ

遺伝子を呼ぶ音

2008年07月06日 19時58分12秒 | テキスト
鈍色の大空に歪で不穏な鐘の音が鳴り響いて…

世界中の人々は一斉に空を見上げた。
世界中で誰一人として空を見上げていない者はいなかった。

それはただの反射ではない
遠い昔から彼らに受け継がれた遺伝子たちが
彼らを呼ぶ声に一斉に目を覚ました瞬間だった。

閉じ込められた記憶は一斉に世界共有され

次の瞬間、或る者は隣人を、或る者は同胞を敵とし
剣を取り盾を構えた。

鈴なりの都は静かに上空から姿を現して
グラペヴィーネを鳴り響かせる。
それは終わりの鐘、そして始まりの鐘。



という、何かのプロローグ風なんでもない尻切れトンボ。

ギアチェンジ

2008年07月05日 17時05分14秒 | 日記
いつもの悪い癖が出てる

派手にぶっ壊すために
派手にぶっ建てる

デジャヴに次ぐデジャヴ
痒いところには手は届かないまま
時間に比例して堆積していく幻滅は
いつか収まる日が来るのだろうか

口先や上辺や見え透いたものには
随分昔に愛想が尽きた

次は何処へ行こうか

日々上々

2008年07月03日 01時39分33秒 | 日記
馴れ合いとコミュニケーションを
混同している俗世間の皆さんコンニチワ

フォックオフ!

毎日がそんな感じだが気分はどうですか?
そんな日々も悪くないだろう?

生きているだけで面白いと謳え。
人生を誤魔化すためにせっせと旅でもしろ。

そうそう
つまりコミュニケーションなんてほとんど存在してないって
否、存在はしているがそれを理解しているヤツが
ほとんど存在してないんじゃないかって絶望的な発見をした。

コミュニケーションというのはあくまでも生産性のあるものであって
前者は言うなれば真逆の非生産的なもんですよ。

で、オマエラは途方もなくそっちが大好物。
似たような傷を見せ合って価値観がどうだの相性がどうだの。
知るかっ。そんなもん。


フォックオフ!

毎日がそんな感じで気分はどうしてくれよう。

井上雄彦-最後のマンガ展-

2008年07月01日 08時24分38秒 | 日記
9:30am
上野の森美術館の前にはすでに長蛇の列が続いていた。
平日であるにも拘らず入場までに2時間以上を費やす。
井上雄彦という1人のマンガ家の影響力が
そこには在り在りと示されていた。

「スラムダンク」という一大社会現象とも呼べる作品を生み出して尚
それを超えていく「バカボンド」「リアル」という2作品を
同時に連載するという事自体が偉業であるにも拘らず
その合間を縫っての美術展

そこで彼が示したいものは何であるのか-

それを想うと、否応なしに期待と緊張が膨らんだ。
列に並んでいる間に特集記事の載った雑誌など読んだから
それは一層膨らんでいく…そして、まんをじしての

-入場-

まず、真っ先に武蔵との対峙。
そして空を見上げて、山を見下ろす。
三枚の絵によって瞬く間にバガボンドの世界に踏み入る。
マンガという静止したはずの世界の中で
自らがカメラとなりそれらを映像として繋いでいく。
或いは、井上雄彦の意志によってそう動かされていく。
心どころか身体ごと。

美術館へ一歩入ったところから一対一の勝負つもりで
気持ちをピンと張る。
それぞれのペースで好きな順序で見てくださいと言われたけれど
その性質上、順を追うと決めて
更には、作品をなるべく正面で捉えられるまで
一度視線を切ることまでしてみたりした。
半ば自己満足であるけれども
少なくともそれくらい真摯に向き合いたい思いがあったし
そうするだけの感動をそれらは十分に与えてくれた。

幸い、最悪の事態も避けられた。
それは、終始涙で作品が見えなくなるという事。
それくらいの予感があったのだけれど
泣いたのは少しだけでした(笑)

一枚一枚見ている間中ずっと胸には熱いものが込み上げていて
それは、作品による感動と、作品に見る作者への感動の二つで。
途中、前を歩く女の子二人が「絵が上手い人って良いなぁ」と言った。
きっとその距離からそう感じられることはすごく幸せなことだと思う。
けれどもその距離を踏み込んだ人たちはきっと
とてもそんな一言では言い表せない複雑な思いに囚われるのだろう。
「絵が上手い」ということはどういうことなんだろう。
そこに立ちつづけている事はどういうことなんだろう。
それはたぶん想像を絶することのように思えて畏敬の念すら覚える。

そんな事とか思いながら見た一連の作品の中でも
泣けて仕方のないほど感動的だった作品(場面)が3つある。

一つ目は割りと冒頭の胤舜の件。
なんでもない台詞が二言。
言葉はそのプロセスによって質量や姿を変える。
それを具現化したような一枚だった。
「まだ生きていたか、良かった」
その言葉が内包しているものに胸がぐらっと揺さぶられる思いがした。

二つ目は、じいさま二人が現れる場面。
「武蔵、お前に会えて良かったよ」
彼らが放った言葉は、恐らく作者本人の
武蔵に対する想いではなかったか。
ここには更に胸を鷲づかみにされて仕方がなかった。

三つ目は最後の一枚。
これは素晴らしくさわやかな一枚で
砂浜を歩く二人が描かれていた。
作品の足元には実際に砂が敷いてあり
それを踏みしめながら歩くと
ちょうどその場面に存在する第三人目として
作品に入り込んだような感覚を味わえる。

そして、その絵の最後。
砂浜から出ると同時に、すっかり入り込んでいた世界から解放される。

一通りを見たら、改めて作品を見返しに戻ろうという想いは
その感動体験をふいしてしまう気がしてそのまま出口へ向かった。

今回の美術展ほど作品を観るということだけでなく
味わうという感覚を実感したのは過去にはない。
それはとても貴重で豊饒で衝撃的な体験だった。

そこには細部まで拘って表現の場を構築して
入場者数を制限までするという井上雄彦の
作品と読者への愛情と誠実さが溢れていた。

個人的な意見として惜しむらくは
中にはそれを読み取れない人達がいたこと。

それぞれがそれぞれの楽しみ方をすれば良いとも思う。
けれども、作品の意図を、作者の意図をもう少し汲み取って欲しかった。

一定の距離を保って成立する作品が中にはあった。
明らかにその距離を保つように白と黒で分かたれたフロアもあった。
その距離感を無視するということは
その人にとっては作品を見失うことであるし
ましてそれによって作品自体が成立しない状態にしてしまう。
そうやって一時的に台無しになった作品があって
すごくやるせない気分にもなった。

それだけが残念なことだった。

もう一つだけ悔しいことがある。
それは、この会場を訪れるのが遅れたことで
誰かに対してこの美術展の存在を伝えることが遅れたこと。
可能な限りの知人友人に見に行ってもらいたい。
そんなことを切実に思うそんな素晴らしい美術展だった。