唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

元和四年 西暦 809 和暦 大同4年 2

2020-02-03 10:05:47 | Weblog
四月、成德王承宗の継承問題の論議が本格化した。
 一般には宦官は唐朝を弱体化させたと言われているが、個々の利権はともかく集団としては寄生する
 王朝権力が強化されることを望み対藩鎭強硬派である。
 大荘園を所有する文官貴族は、戦乱を望まず融和派となる。宰相裴垍達は財政の悪化を怖れて継承を
 認めようとしたが、宦官の代表である吐突承璀は憲宗の意向もあって、討伐に積極的であった。そこ
 へ両端に通じた昭義軍節度使盧従史が、みずからの留任のためにと征討を唆した。

六月、朔方靈鹽節度使范希朝を河東節度使に移した。
 成徳征討の準備である。

八月、成德王承宗は徳棣二州を唐朝下にすることを願い継承を求めた。
 戦乱を嫌う宰相達、迷いのある憲宗、弱気になった承宗による妥協である。

九月、王承宗を成德軍節度恆冀深趙州觀察使、德州刺史薛昌朝[河北の旧相衛節度使薛嵩子、王士真の
 娘婿]を保信軍節度德棣二州觀察使とした。
 大鎮を分割する実利と、功績がある王氏一族を遇する妥協案であり、憲宗は不本意であるがこれで解
 決すると思っていた。

承宗德州に派兵、昌朝を捕らえ、朝命を奉ぜず。
 王氏一族はともかく、領州を失う牙軍は同ぜず、同様の処置を懼れる魏博節度使田季安の協力を得て
 拒命し反旗を翻した。

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