唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

元和四年 西暦 809 和暦 大同4年 3

2020-02-04 10:02:52 | Weblog
当時の成德以外の方鎭の状態は以下のようである。

[自立藩鎭]
幽州 劉濟 唐朝を利用して南下し勢力拡大を図る
魏博 田季安 承宗を支援する、牙軍は強力だが本人に軍才はない
義武 張茂昭 唐朝方だが勢力は弱い
横海 程執恭 唐朝方、弱小で地理的に不利な状態。
淄青 李師道 承宗を支援するが、継承後でまだ不安定
宣武 韓弘 唐朝方、淮西や淄青を牽制はするが積極性はない
淮西 吳少誠 承宗を支援するが当時は病気で動きにくい。

[唐朝方鎭]
河東 范希朝 軍人.過大評価されている面がある。
河中 王鍔 軍人というより政將的色彩が強い
武寧 王紹 文官
昭義 盧従史 半文官.承宗に通じている
淮南 李吉甫 文官
西川 武元衡 文官
山東 裴均 文官.財政官僚

保義劉澭は二年十二月、邠寧高崇文は四年九月に卒している。

十月癸未,宦官である左神策軍護軍中尉吐突承璀が神策軍等の兵を率いて王承宗を征討へ。
 ろくな将軍がいない唐朝であるが、監軍ならともかく主将が宦官というのは、玄宗時代に反乱
 した諸蠻族を討った楊思勗以来である。当然官僚は騒然となり反対論が噴出した。
 しかし憲宗は押し切り、周辺の藩鎮に成德征討を下命した。

 魏博田季安は当然成德を支援し、幽州劉濟は討伐に協力する姿勢を見せた。

十一月己巳,淮西節度使呉少誠が卒し、麾下の將の吳少陽[少誠の親族ではない]が自立した。
 成德王承宗問題が解決しない間に、新たに淮西継承問題が勃発した。しかし少陽は少誠の親任
 が厚かったとはいえ、反唐的な少誠の子元慶を殺して自立したため、唐朝は微妙な立場となっ
 た。少陽も当然唐朝にすり寄る立場を示した。

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