陳叔達。字は子聰。南朝陳宣帝の第十六子。
容姿が良く才學にも優れていた。
陳では義陽王に封ぜられ、侍中・丹陽尹・都官尚書を歴任。
隋に降ったが起用されず、大業になりやっと內史舎人・絳郡通守となる。
高祖自立に際しては絳郡をもって帰服し丞相府主簿・漢東郡公となる。
詔勅軍令起案を専らにする。
武徳元年黃門侍郎となり、二年納言を兼ねて宰相となり、
四年侍中[改称]となる。
弁舌にすぐれている。
多く江南の名士を起用していった。
五年江國公に進む。
建成・元吉と太宗との闘争には太宗側に立つ
貞観初,光祿大夫を授けられるが。
太宗の前で蕭瑀と争い免官。
まもなく母の喪に服し、明けると遂州都督を受けず。
やがて禮部尚書となる。
のち弾劾されるが、なんとか致仕を許される。
九年に卒する。贈戶部尚書。
贈官が意外に低いのは弾劾の影響か?
[宰相履歴]
武徳元年6月.判納言~2年正月.兼納言~9年10月.免
容姿が良く才學にも優れていた。
陳では義陽王に封ぜられ、侍中・丹陽尹・都官尚書を歴任。
隋に降ったが起用されず、大業になりやっと內史舎人・絳郡通守となる。
高祖自立に際しては絳郡をもって帰服し丞相府主簿・漢東郡公となる。
詔勅軍令起案を専らにする。
武徳元年黃門侍郎となり、二年納言を兼ねて宰相となり、
四年侍中[改称]となる。
弁舌にすぐれている。
多く江南の名士を起用していった。
五年江國公に進む。
建成・元吉と太宗との闘争には太宗側に立つ
貞観初,光祿大夫を授けられるが。
太宗の前で蕭瑀と争い免官。
まもなく母の喪に服し、明けると遂州都督を受けず。
やがて禮部尚書となる。
のち弾劾されるが、なんとか致仕を許される。
九年に卒する。贈戶部尚書。
贈官が意外に低いのは弾劾の影響か?
[宰相履歴]
武徳元年6月.判納言~2年正月.兼納言~9年10月.免
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