唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

元和四年 西暦 809 和暦 大同4年 1

2020-02-02 10:04:27 | Weblog
二月丁卯,凡庸な宰相鄭絪が解任されて閑職の太子賓客となり、強硬派の李籓に代わった。
 
元和四年三月
乙酉,河東節度使嚴綬を左僕射とし、鳳翔節度使李鄘と交代させた。
 長期間在任して宦官に頤使されていた綬を、文官強硬派の李鄘に交代させた。河東は昭義節度使
 と並び河北収復への策源地である。

三月乙酉,成德軍節度使王士真が卒し、子の承宗が自立した。
 士真は父武俊(朱滔を破る大功があり、中書令になった)が卒したとき、既に徳棣觀察使として
 任用されていて、その継承は当然であった。しかも士真は堅実に統治し唐朝にも融和的であった
 ので在職中はゆるぎなかった。しかし強硬派が主流となり、西川・浙西問題も解決した唐朝は承
 宗への継承をなかなか承認しようとはしなかった。

閏三月丁卯,憲宗長子の鄧王寧を皇太子とした。
 寧は即位できず元和六年十二月に卒した。賢愚は不明。

閏三月辛未,帰服してきた勇猛な沙陀族を河東軍に配属した。
 沙陀は突厥の一族でその崩壊後、吐蕃に帰属していたが、勇猛なため常に先陣に酷使されることに
 不満を持ち、途次多くの犠牲を払いながらも唐朝に亡命してきた。この配属により河東騎兵軍は飛
 躍的に強化された。唐末 李國昌・克用などが活躍し五代の「後唐」の基になった。


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