時、うつろいやすく

日常のたわいもない話…
だったのが、最近は写真一色になりつつある。

100年後

2011-09-18 21:58:12 | 日常
もし、今ここが100年後になってしまったら。
そんなことを車を運転中によく想像する。
当然ながら100年後は今生きている人間はほとんどが死に絶えている。
この町並みも跡形もなく変わってしまっている。
道をすれ違う車も人の身なりも劇的に変わってしまっている。
と、思いつつも、逆に30年前を振り返るとあまり変わっていない町並みや
建物もあることに気づく。
100年といえばその約三倍のスパン。
はたしてその時間で世の中のすべてが変わり果ててしまうのだろうか。
100年といったって、100回正月がくればそれで100年なんだ。
正月なんて毎年毎年瞬く間にきてしまうではないか。
なんてくだらないことを自問自答しながら運転している。
そこでもっと現実的なことに視点を移す。
ここで100年後の我が家をたずねて行ったらどうだろう。
100年後といえば、子供も死んでいるし、まだ生まれていない孫だって
存命しているかどうかも怪しい。
そこへ乗り込もうというわけだ。
たどり着くと、建物は何もなく、荒漠とした原野になっていたというのも
怖いが、ボロボロに朽ち果てた我が家が残っていたというのも怖い。
ちゃんと建物が建っていて人が住んでいるパターンだって怖いものがある。
そこには子孫とはまったくの無関係の人が住んでいた、というのも怖いし、
運良く子孫が住んでいたというのも別の意味で怖い。
自分や家族の死は当たり前に受け入れられるが、それらがいつ死んだのか、
どうやって死んだのか、までつまびやかに分かってしまったらどうする。
生きた心地がしなくなるできないか。
よそう、100年後はまだ浅い。
時間旅行者にとって、そこはまだまだ他人事では受け流せない世界である。
時間旅行をするなら1000年後の未来にしよう。
そこならば自己の痕跡はどこにも残されていない。
万が一、子孫を探り当てたとしてもそこから自己の痕跡を垣間見ることはない。
自己の唯一の痕跡といえば、その子孫のDNAの中にのみ残されている。
それで十分である。
コメント (2)
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フロイド・メイウェザーVSビクター・オルティス

2011-09-18 17:52:20 | 格闘技
WBCウエルター級タイトルマッチが今日行われた。
結果はメイウェザーの4回TKO勝ち。
4回オルティスの反則ヘディングの後まだブレークが続いていると思っていた
オルティスにメイウェザーの不意のKOパンチが飛んだ。
なんとも後味の悪い試合だった。
会場の雰囲気はメイウェザーの行為に批判的だったように感じた。
しかしどうだろう。
ホクシングは野球やサッカーとは違う。
格闘技の原点はやるかやられるかの命を懸けた戦いである。
その決闘の場であの油断はないと思う。
リング上では選手はいかなるときでも敵の襲撃に備えてなくてはならない。
そう思う。
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