プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

高山忠克

2018-01-10 23:32:43 | 日記
1964年

「いや、夢中で振ったのが当たったのでしょう。アドバイス? いや」ベンチの小鶴コーチは笑いがとまらない。ベンチのすみでは高山がエヘヘと笑いながら報道陣に取り囲まれていた。「シュートでした。つまったからダメだと思いました。コース?インコース。城之内さんが内角で勝負するような予感がしたので、ボックスのうしろに立っていたんです」2三振と遊ゴロのあとの三塁打。意外に細かいところまでおぼえていた。「神宮での巨人戦から当たりがもどったね」という質問に「七番というオーダーがいいんです。五番を打つときよりバットが軽く出ますよ」といい、そしてすぐ真顔でつづけた。「もし五番を打っていて、あの場面がきたらきっと三振ですね。堅くなって三振です」三振という言葉にむやみに力がこもっていた。一試合たいてい2三振を記録、林監督に「三振のタイトルがとれるぞ」といつもひやかされているので、三振にはだいぶこだわっているようだ。「日本一の巨人との試合でこんなに打っていいんですかね。申しわけない」先日の五回戦ではやはり七番を打って1ホーマーを含む四打数三安打。ロッカーへ向かう通路で「これでいいんですかね」ともう一度首をひねった。遠征先でも、合宿でも、朝晩一時間ずつのバット・スイングを忘れない。両の手のひらにはちょうど十個のマメができている。林監督はゴツゴツした高山の手を引き寄せていった。「マメがふえれば、ヒットもふえる」第二試合は一番あがって六番を打ったが、四打数で一安打。「やっぱりぼくは七番打者」と笑った。
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ディサ

2018-01-10 22:24:05 | 日記
1964年

練習をさぼった、素行が悪いなどを理由にウエーバーに出された。そのことについてこう弁解する。「さぼったなんてとんでもない。ぼくはファームの田中監督に座間の米軍キャンプで身体検査を受けてくるっていってある」しかし望まれて近鉄へ移ることに決まったいま、ウエーバーに出された理由をせんさくする必要はなさそうだ。ディサも「練習を休むことは、ぼくが直接事務所へ電話すればよかったんだ。全体に考えがあまかった」とけんきょに反省している。東京・渋谷区原宿三の三一四のごくありふれたアパートの一室。六畳、四畳半の二部屋に整理ダンスがひとつポツン。背広は無造作に、かもいに掛けられ、フロシキがかぶせてある。その住まいの近くで、ディサは毎日せっせと走ってきた。そして「早く近鉄のチームメートになれたい。そして「早く近鉄のチームメートになれたい。ブルームさんを通じて積極的にみんなと友だちになりますよ」という。右ヒジの故障はすっかりよくなり、からだの調子もいいというが、いつ得意の速球をとりもどせるかという点については、はっきりした見通しを立てられないようだった。「それについてこんなこともいった。ことしはシーズンはじめ寒くてからだの調整がおそくなった。本堂監督はぼくがスロー・ペースでいくことを認めてくれていたんですがね・・・。近鉄へいったらそのことをはっきりいって、来年を目標にがんばりたい」だが近鉄にディサのスロー・ペースを認めるゆとりがあるかどうか。一日のディサは朝から荷づくりにいそがしく、午後は東京・南千住七丁目の東京・球団事務所へ別れのあいさつにいった。もう大阪の住所も、大阪市天王寺区夕陽ヶ丘四一に決まっている。
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小嶋正宣

2018-01-10 21:43:46 | 日記
1981年

ひたすらミットを目がけて投げた153球。代打・永尾の右飛が簑田のグラブに吸い込まれた瞬間、小島のプロ入り初完投勝利が決まった。女房役の中沢が右手を握り、加藤英はおしりをたたいて祝福だ。ヒーローはナインの輪の中で会心の笑顔をふりまいた。「最高っす」とまずは大きく息をついた。あとは白い歯を見せて舌も滑らかにインタビューだ。「最初からガンガン飛ばした。それまでは変化球主体のピッチングだったが、きょうはストレートを中心にした組み立てだった。スピードも今季最高に走っていた。この日で十三試合目の登板。最長イニングといえば五月二十日の対西武戦(西武)の6回2/3だった。6回の壁。乗り切れそうで乗り切れないジレンマが小島を襲っていた。スタミナ不足が原因か、この日もやはり六回に崩れかけた。先頭の平野に左前安打。ハリスに四球を与え一死一、二塁。栗橋の一ゴロを加藤英がトンネル。そして代打・佐々木に死球、有田に左前にタイムリーされ2点を失った。いつもならお決まりのKOパターンだが「おれのいうとおり投げれば抑えられる」という中沢の激励に奮起一番。意地がよみがえった。「あの場面は必死でした。でもあそこを乗り越えたときは最後までいけると感じた」被安打4、7三振、失点3のピッチングに上田監督も大喜びだ。「これで完投ペースをつかんだと思う」高齢投手陣をかかえた中でキラリと光る小島の力投だった。
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渋谷誠司

2018-01-10 21:17:47 | 日記
1964年

プロ野球選手の留守宅などをたずね、約三十件、十六万円の詐欺を働いた福島県生まれ住所不定無職前科三犯、水山信輔(51)が七日神奈川署から送検された。調べだと七月四日午後一時ごろ、東京都港区麻布笄町七二八、国鉄投手渋谷誠司さん宅を訪れ、広島へ遠征中の留守番をしていた実姉広子さん(27)に「渋谷君の卒業した青森県弘前実業の先生をしていた。関西旅行の帰りで在京の知人に中元をしたいが、手持ちがないのでカネを貸してくれ」と現金五万円をだましとったのをはじめ、五月ごろから八月末までに巨人伊藤芳明投手や東京の小野正一投手ら十五人の留守宅で詐欺をした。逮捕のきっかけは水山が八月二十二日午後四時半ごろ、横浜市港区篠原町八三九の三九、大洋投手森田斌さん(29)をたずね、妻和子さん(29)を同じ方法でだまそうとしたところへ、森田さんが練習から帰宅、神奈川署へ突き出した。
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田中章

2018-01-10 21:02:38 | 日記
1972年

勝利投手が一瞬のうちにフイになってしまっても、田中の顔には満足な仕事を達成した男の充実感があふれていた。ことし初めて先発のマウンドに立つ前に、ひとつだけ堅い決意を固めていた。「どんなことがあっても、五回だけは投げ切ろう。そうすればトップに立てる」新聞の投手成績の欄を見つめながら、あと四回三分の一投げれば夢にまでみていた防御率一位に浮かびあがることを知っていた。「だからコーナーにていねいに球を散らし、なんとしても規定に達するまで投げたかったんです」阪急・米田を抜き、惑星のように顔を出してきた。六回まで二安打に押えられた大沢監督は「ボールがほとんど低めに決まっている。低めにコントロールできるのは、投手の基本ができあがっている証拠だ」と田中の好投にびっくりしていたが、その実力はけっしてフロックではないようだ。田中と河村コーチの二人は、十分トップに立てる計算を立てていた。「リリーフで何度も使い、徐々に投球イニングを長くしていっている。もう先発で大丈夫のメドが立っていたので投げさせた。一か月前とはピッチング内容がまるで違っている」(河村コーチ)つい一か月前、投球フォームを上手からスリークォーターにかえた。腰の回転がスリークォーターのため「スムーズに腰の振りがついていけるフォームにした」わけだが、それからは好投の連続。「球がコーナーいっぱいに決まるようになった」といいながら田中は、ただいま0勝で防御率トップという珍現象に苦笑いしていたが、河村コーチはこれからどんどん勝てるという。「これで先発でも十分使えることを証明したし、ローテーションにもはいれる。それになによりも心臓がいいからね」二年前、高橋明、梅田とともに巨人から西鉄に移籍した。このとき田中は「試合に出られないチームにいてもしかたない。思い切り腕がふるえるチームの方がいい」と名より実をとり、喜んで西鉄にいった。進んでトレードに出た結果が、いまみごとに結実した。防御率一位になり「これから新聞を見るのが楽しみです」という。勝ち星の欄に1がはいる日も間近い。
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ストーン

2018-01-10 00:00:44 | 日記
1964年

金田よりまだ10㌢ほど大きな上背(1㍍93)に、額からはげあがった顔。アクセントの強い英語でどなるような口調でまくしたてる。じみなクレス、アグリーらの外人とは正反対にハデな感じ。二十八日の対巨人戦からベンチ入りしたが、あいさつはおぼえたての日本語。「オス」ナインがみんな目を白黒させた。生まれはアメリカ中部のイリノイ州シルビス。人口三千という小さないなか町だ。農業を営む家庭は決して裕福ではなかった。1949年、十九歳でプロ入り(セネタースのファーム)した理由が「金をもうけるため」でもわかる。「だがそれだけに一生懸命やった」という。1953年には晴れの大リーグ入り(セネタース)、翌年の12勝12敗を最高に、八年間に六球団のユニホームを着ている。「こんごは日本の大洋のためにがんばるんだ」これが来日してからの口ぐせ。巨人戦が中止になった一日も、川崎球場からそのまま多摩川にかけつけた。三十四歳だが、だれもいないグラウンドへ出て、ひとりでかけまわってくるくらいの意欲も体力もあるわけだ。入団前に「対巨人戦用の左」などと首脳陣にいわれていたこともよく知っていた。「巨人には大リーガーに比べてもそう見劣りしない打者がいる。王、長島だ。それだけにおさえてやりたい。友だちのバンサイドが一度完封したのだからオレにもそれくらいの自信はある」武器は速球とスクリューボール。いまはホテル(東京・永田町のグランドホテル)住まいで食べものに変化がないので弱っているが、コンディションは最高だ。「外人投手で10勝したのはスタンカだけだと聞いた。まだ日本の野球を知らないからわからないが、なんとか納得のいくまでベストをつくしたい」という。家族はペギー夫人とメアリーちゃん(13)、デビットちゃん(9つ)の子供二人。酒もバクチもやらずいい成績をあげながら、好きなコイン集め(現在七千種類ほど集めている)に精を出したいそうだ。
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