プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

新美敏

2018-01-16 23:48:11 | 日記
1972年

プロ入り拒否宣言で注目を集めていた新美敏投手(日本楽器)に対する本格的な説得交渉に乗り出した東映は十五日、田宮監督、瓜生スカウトが空路熊本入り、浜松市から宇土市古保里町の実家に帰ったばかりの新美投手を訪れ父文雄さん(44)母操さん(44)を交えて午後三時半から入団交渉に当たった。同投手は「東映は一番きらいな球団」と拒絶反応を示していたが、この日の約二時間にわたる話し合いはなごやかなふん囲気で進み、田宮監督が「東映は投手力が弱いのでぜひ手を貸して欲しい」と説得、これに対し新美投手も「監督さんがボクの力を認めてくれたのはうれしい。プロで一度やりたいと思っていた。これから両親や会社の監督とよく相談して決めます」と意外にも初顔合わせで色よい返事をみせ、ほぼ東映入りに傾いた。田宮監督は飛行機でトンボ返りというあわただしさだったが「球団の誠意を見せたつもりだ。本人も分かってもらえたようだ」と思わぬ手ごたえにすっかり自信をつけたようだった。
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宇佐美敏晴

2018-01-16 23:03:33 | 日記
1969年

四国の西条高出身で藤田コーチの後輩。芦屋の神戸銀行グラウンドへテストを受けにきたとき、夜行にゆられてフラフラになりながら速いタマを投げ、立ち会いの藤田コーチを驚かせた。1昨年春、ファームへ随一の速球にみがきをかけるため、北川コーチ、堀内とともに渡米、ベロビーチのドジャース、キャンプに留学した。入団したころからみると上背が伸び、ひとまわりたくましくなったが、まだコントロールをつけることが課題。愛称はディズニーのマンガ、ウッド・ペッカー(きつつき)そっくりというのでペッカー。
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種部儀康

2018-01-16 21:42:30 | 日記
1962年

種部儀康(たねべ・のりやす)投手の母校、倉吉農業高校は野球が弱い。俗にいうイチコロ・チームほどではないが、毎年、パッとしない。現に、彼が卒業してしまってからは、倉吉農高の野球部は解散してしまった。こんなわけで、彼は無名な選手であった。アンダースローの速球投手としていい素質をもっていたが、認めてくれるものはいなかった。卒業が近づくと、彼は米子鉄道局の試験をうけることにした。鉄道に入ればパスがもらえるという話しだし、やがて両親をつれて、日本中を見物して歩くのも悪くはないと思った。学科試験が受かると、次は面接試験であったが、彼は野球部から呼び出された。「高校時代は野球をやっていたというじゃないか、どうかね、ひとつ、野球のテストを受けてみないか」もちろん、異存はなかった。ひょっとすると、清水秀雄さん(明治ー南海ー中日)にコーチをしてもらったことがあるかも知れないから、清水さんの口ぞえかも知れないぞと、彼は思った。誘いに来た野球部員がいった。「米子鉄道もな、よそのノンプロと違っていい選手がいなくてな。せめて下田投手ぐらいのがいるとな・・・。もし受かると、面接試験が有利になるぞ・・・」彼の耳に妙に下田投手という名前がひかかった。入りたい・・・。彼は思った。野球部のテストの当日がやって来た。ピッチングの順番を待っていると、反対側のブルペンで、アンダースロー投手がビュンビュンほうり出した。ダイナミックなピッチングである。「あの人は誰ですか。いいピッチャーですネ」となりの受験生にきいてみた。「米子鉄道の主戦下田さんですよ」「どうりで・・」といいかけて、彼はあるヒントを考えついた。そうだ。ぼくもアンダースローだ。米子鉄道の神さま下田投手もアンダースロー。同じ投げかたをしたのでは合格しっこない。違う型のピッチャーが欲しいに違いないぞ・・・オーバースローで投げよう」名案だ・・・と叫びたかったが、そのとき、名前を呼ばれた。「倉吉のタネベ!ほうってみろ!」「ハイ」返事をすると、彼は即席正統派上手投げ投手となって、ピッチングをやった。-うむ、いい球をもっているぞ・・・合格ー彼は米子鉄道に入った。以来彼の投法は、下手投げに即席上手投げ投手となった。そして産別大会や都市対抗に出場、川上監督の目に止まって、巨人軍に入った。彼はまったく機転のきくピッチャーである。現に、三十六年秋の巨人ー国鉄、巨人ー東映のオープン戦に登板して、その片リンをのぞかせている。巨人軍に入団した新人のなかではかくれたホープである。彼はいま、別所コーチについて、本来の上手投げからほうる変化球を勉強している。
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柳川福三

2018-01-16 21:17:32 | 日記
1965年

中日は二十四日、中日球場で柳川、小木曽、塩津、田中の四選手を自由契約にしたと発表した。なお、田中選手は球団に残り、江崎スコアラーの下でサブ・スコアラーをつとめる。

吉江代表「来シーズンから支配下選手が五十人にへるので、当然シーズンすえには十人以上整理しなければならない。これ以上やっていても芽の出そうもない人には早くいいわたした方が本人のためになると思う」
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村上宏通

2018-01-16 21:16:49 | 日記
1962年

阪急では東北高・村上宏通投手(18)=1㍍90、76㌔、右投右打=の入団を決め来週はじめ契約する。同選手は夏の地方予選ではバッティングを買われ、一塁手として活躍していたが、東北地方でも指折りの本格派速球投手として知られ、大毎、近鉄、大洋、西鉄からもさそわれていた。

岡野代表「まだ正式契約はすませていないが、多分ウチにくることはまちがいないだろう。丸尾スカウトの話によると上手からの本格派投手で先が楽しめる選手らしい。からだも大きいし、打力も相当なものと聞いている」
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石黒和弘

2018-01-16 21:14:39 | 日記
1964年

十九日の西鉄戦で右手人さし指を骨折した東京・石黒選手は、二十四日名古屋市熱田区新尾頭町51にある実家に帰った。「二十二日慶応病院で指専門の医者に精密検査してもらった。三週間ボールを投げてはいけないといわれた。意外に長くかかるので残念だ。でもあせってもしかたがないし、ちょうど疲れを休めるいいチャンスだから家に帰ってのんびりしようと思うんです。もちろん下半身をなまらせないようにランニングだけはやります」とアルミのギプスで固定された人さし指をうらめしそうに見つめていた。
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安藤治久

2018-01-16 21:12:50 | 日記
1958年

産業対抗野球で十八イニング無失点という記録を作った吉原大昭和製紙の主戦投手安藤治久君(21)=沼津市新宿町大昭和社宅=は五日阪急入団が内定したとプロ入りを明らかにした。同投手は昭和三十年沼津市立高校を卒業と同時に契約金六十万円で投影入団がきまったが、近親者や学校側のすすめでプロ入りを断念、ノンプロ球界の雄大昭和製紙に入った。その後都市対抗野球などでは投手陣の弱い大昭和にあって活躍、その間中日、東映、阪急などから再三さそわれていたもので今度の阪急入団は契約七百万円月給七万円といわれている。なお同投手は現在両親とは死別、姉の朝子さん(24)と二人だけ。
安藤投手の話「まだはっきりしたわけではない。内定しただけだどこに行っても一生懸命野球をやります」といっていた。
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竹内洋

2018-01-16 21:11:55 | 日記
1964年

中日は十七日、金沢高・竹内洋捕手(17)=1㍍78、70㌔、右投右打=の獲得に成功、近く発表する。中日は辻佳久投手と同捕手のバッテリーに早くから交渉を進めていたが、同校が十四日甲子園大会権予選で敗れたため、十七日柴田スカウトが金沢市小橋町九の一の竹内選手宅で父親喜久治氏と話し合い、まず同捕手の獲得に成功した。
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浜崎正人

2018-01-16 20:58:47 | 日記
1962年

高校球界で林(中京商)とならぶサウスポー、鹿児島商・浜崎正人投手(18)=1㍍74、70㌔、左投左打=の阪急入りが二十四日きまった。発表は国体の終わる二十七日以後になる。

浜崎投手は岡山で行われている国体高校野球に出場していたが、この日西条高に敗れたため同夜ナインとともに岡山発の列車で帰郷した。同投手は夏の甲子園大会で天理高、広陵高を完封。速球と鋭いカーブで勝負する本格派投手として注目を集め、巨人、大洋、広島、大毎、阪急、南海、西鉄などがねらっていた。なかでも南海は熱心で鶴岡監督が鹿児島までのりこんで説得したこともある。だが阪急はそれ以上の熱意をみせ、丸尾スカウトが再三鹿児島の実家を訪問、他チームにまさる条件を出して獲得に成功した。

阪急・岡野代表「浜崎はうちにぜひ必要な投手だが私の口からはまだなにもいえない」
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種部儀康

2018-01-16 20:57:12 | 日記
965年

五回から伊藤をリレーした種部は大量リードに気をよくして投げた。プレートの両端を十分に使い分け、スライダーとシュートで産経打者をゆさぶった。外角をかすめるカーブもおもしろいようにきまった。七階はじめて出した四球の豊田も、平岩の三ゴロ併殺で三人ずつ。早いうちにストライクをとって攻めのピッチングをしたのがよかった。種部ががっちりおさえている間に、巨人はめちゃくちゃに打った。七回は柳田の二塁打で、二盗と内野ゴロで三塁にいた王を迎える。八回には長島の6号3ランが右翼席ではねかえって、今季最高の11点をあげた。種部は九回須崎に二塁を与えただけで、五イニングをノーヒットにおさえ、初勝利をかざった。

ショート・リリーフ専門の巨人・種部投手が対産経戦で伊藤をリリーフ、三十七年プロ入り以来2勝目をあげた。初白星は昨年七月二十九日の対中日二十回戦(中日)。今季はじめて五イニング投げ、ノーヒットにおさえた種部は「1点差でも、大量のリードでもピッチングは同じです。絶対に点をやるまいと真剣に投げました。調子は悪かったんですけど、球がうまく散ったので助かりました」とうれしそうだった。
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佐々木孝次

2018-01-16 20:45:36 | 日記
1965年

公式戦の舞台はまだ踏んだことがない。「いつの日にか、一軍で・・・」と、心に決めているが、まだ二軍生活を送っている。後楽園でプレーをしたのもこの日がはじめてだった。「りっぱな球場だと思っているうちに、もう試合がはじまっていた」ジュニア・オールスターに出たのは、昨年についで二度目。賞品をもらって帰ろうという欲もちょっぴりあったそうだ。決勝ホーマーを含む四打数三安打。殊勲選手賞をはじめ敢闘賞を除く打者の全部の賞を一人じめにした。「どうしてこんなに打てたのか、自分でも不思議なんです」高校時代は中国地方で指折りのスラッガーだった。三十八年夏には、広陵高の五番打者として甲子園の土を踏んだ。このときは予選を通じて打率は三割八分で、ホームランは八本。四番の山本(現巨人)にかくれて、目立たなかったが、広陵高の世良監督は山本より佐々木を買っていた。「リストが強いうえに、足がある。二、三年みっちりたたけば、おもしろい選手になるだろう」実家の広島県安芸郡海越町は目の前が海。半農半漁で生計を立てていた両親の手伝いで、海へ出る機会が多かった。「ろ(艪)をこぐうちにいつの間にか手首とか足腰が悪くなったんでしょう」中日の柴田スカウトが目をつけたのもここだった。「ホームランは内角高めのストレート。外角は手が出ないが、ぼくの一番好きなコースにきたので・・・。打ったとたんにはいったと思いましたね」ねえさん二人で、男の兄弟はいないせいか、あまりファイトをおもてに出さない。「ものをいわん方なので、すみません」ぐるりと取りまいた報道陣に低く頭を下げた。「江藤さんみたいにハッスルするプレーがぼくの目標なんです」広島からかけつけた両親に会ったのは本番のオールスターがそろそろはじまるころ。賞品を両親の前にニッコリとl出した。1㍍70、70㌔、右投右打、プロ二年目。
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妻島芳郎

2018-01-16 20:12:28 | 日記
1962年

現有戦力で、と補強面では大した新人も獲得していない大毎で、このほど入団が決定、早くも、トレーニングに参加している(日大二高ー日通)を、国立競技場に訪れていろいろきいてみた。「抱負といっても別にまだありません。とにかく試合に早く出ることです。このチャンスをつかむのが第一の目的です。それからですよ、目標とかいうのは・・・」と、はっきりしている。そして、「いつも堀本さんと比較されてしまうんですが、あの人とぼくでは力がまったく違うんですから比較対象されては困ります。とにかく、自分の力がどこまでプロに通用するか早く試してみたいですね」と自信なさそうなことを口にしていたが、そのあとで、得意とするボールは?と聞くと、「まあシュートですね。コントロールのいいときは外角低目の直球をウイニング・ショットにしています」といかにもきっぱり自信ありげな様子であった。一見、野球をやるように見えぬスマートな感じの妻島投手だが、それでいて性格はなかなか土性骨のある頼もしい青年である。次期大毎を背負う一人として大いに期待していいだろう。趣味は音楽、映画。音楽は明るい調子のポピュラーもの。現住所は、東京都中野区朝日ヶ丘二二。
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種部儀康

2018-01-16 19:59:00 | 日記
1966年

宮田の家にいつも遊びにいってるうち、実姉の鈴子さんとのロマンスが実って、39年12月にめでたくゴールイン。現在のようなサイドスローに転向したのはその年の六月。「上から投げていたんじゃ、どうもボールの切れがないし、人とちがったもち味を出さなきゃつまらないし」というのがその理由だった。しかし、転向一週間で広島戦にリリーフとして登板、五回を押えきってから自信をつけた。鳥取県上灘小から倉吉東中、倉吉農とすすみ、そのころはいつも米田(阪急)のいた境高に負けていた。米子鉄道管理局には六年間在籍、36年には倉レ岡山の補強選手として、都市対抗にも出場した。38年はイースタン・リーグで9勝3敗、防御率1.5で最優秀投手。クセのあるシュートを使ってのショート・リリーフに活路を見い出している。趣味はおちついた表情にふさはしく、盆栽いじり。

1967年

「内気なくせに、一本気なところがあります」というのが鈴子夫人(宮田の実姉)の種部評。同僚と宮田の家へ遊びに行っているうちに、とうとう口説き落として結婚したのが39年の12月。一本気なところを最高に発揮したわけだ。上手投げから横手投げに転向してたのが、その年の6月。転向一週間目に広島戦でリリーフして好投、以来いまの変則投法にみがきをかけ、中つぎのリリーフとして欠かせない一人になった。鳥取県倉吉農ではエースとして活躍したが、そのころ米田(阪急)のいた境高にだけはどうしても勝てなかったそうだ。米子鉄道管理局に6年間いたため、いまでも鉄道関係の略号などにくわしい。趣味は盆栽。

1969年

レールの上を走る汽車や貨車なら、いまでもピタリと車種を当てる。ノンプロ米子鉄道管理局にいたころは、改札のキップ切りまでやった。そのころのサラリーマン生活をいまでも忘れず「こうして好きな巨人のユニホームを着ているだけでも幸せ」といっている純情派。サイドからのクセ球、とくにコーナーぎりぎりをつくシュートに威力があり、例年大リーガーをキリキリ舞いさせるので有名だ。4年前のオフ、宮田の実姉とのロマンスが実ってゴールイン。義弟の宮田以上の子ぼんのうで、長女の美比古ちゃんが生まれる3ヶ月も前から大騒ぎしていた。
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宇佐美敏晴

2018-01-16 19:19:56 | 日記
1966年

セ・リーグ巨人は二十五日午後四時、東京・銀座西の球団事務所で西条高投手、宇佐美敏晴選手(18)の入団を発表した。宇佐美選手は投手、三塁手、外野手と広いポジションをこなし、また打っては三番打者として強打を発揮した。三年生、182㌢、72㌔、右投げ右打ち。本県からプロ野球入りしたのは昨年、作道烝選手(22)=新田高ー丸善石油ー日立製作所=の東映入りにつぐもので、また西条高からは青野修三選手(26)が東映入団以来四年ぶりである。

宇佐美選手の話 すきな道だから、野球をやる以上、プロでやりたいと夢をもっていた。しかも一番好きなジャイアンツに入団することができたのだから、こんなうれしいことはない。自分のもつ力をいっぱいだしきって一生懸命勉強し、りっぱな選手になりたい。藤田コーチもいることだから投手としてやっていきたい。それがわたしを育ててくれた人たちへのご恩返しと思っています。まだ背番号はわかりませんが、二月五日から宮崎のキャンプに参加しろということなので、その時に新しいユニホームを着ます。

父親伊佐雄さんの話 西条市出身の伊藤スカウトのすすめもあり、本人も希望するのでプロ入りさせることにした。さいわい大先輩の藤田コーチもいることだから、びしびしきたえてほしいといっておいた。プロで通用するかとどうか不安だが、人生にはいろいろの生き方がある。プロ入りする以上は最後までやりとげてほしい。
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羽里功

2018-01-16 19:05:23 | 日記
1964年

また新しい大洋キラーが出現した。八回伏兵林に一塁を浴びて竜に助けを求めたものの、それまでの六イニングは完ぺきだった。ブンブン振りまわす大洋打線を下手からの浮きあがるカーブでキリキリ舞いさせ、桑田、松原、伊藤らからは文句のない三振までとった。ベンチの冷たい水でゴシゴシ何度も顔を洗ってからロッカーへもどった羽里はオデコから湯気をたてていた。「公式戦ではめったに出るチャンスがないので一生懸命投げました。大洋の打者はみんなこわかったけど、なんかちょっと!」おかしな調子だったといおうとしてもあわてて言葉をにごし、そして恥ずかしそうに笑った。プロ入り三年目でやっとつかんだ初勝利。去年はファームでさえ勝ち星なしの2敗。それがことしはウエスタン・リーグで一躍5勝(2敗)をマーク、こんどのジュニア・オールスターに出場が決まった。これが大きな自信をもたせたようだ。「ウエスタン・リーグでは手もとから浮きあがるカーブを武器にして成功したので、きょうもそのカーブをきめ球に使いました。ただこっちはごまかしのきかない一軍プレーヤーばかりなので、そのカーブの前に落ちるシュートなどを投げて、なるべく変化をもたせるようにしただけです。コントロールがよかったのでなんとかもったのではないですか」公式戦には昨年二試合、ことしもまだ二度目の登板だ。しかし林に打たれたホームランを「カーブが真ん中にはいった。失投でした」とズバリといいきるあたり、気も強そうだ。徳島海南高ではことし西鉄入りした尾崎投手の二年先輩。一年までは上手から投げていたが、二年のとき「投げやすいから」という理由だけでかってに下手投げにきりかえた。もしそのとき野球部の市川監督が「やめろ」といっていればこの日の大洋キラーは出現していなかっただろう。ついこのあいだまで「変則型なのでつなぎに使える投手になればめっけもの」といっていた白石監督も、この1勝で羽里を見直したようだ。球場を出ながらうれしそうにいった。「ちょっとようすをみるつもりでだした羽里がねえ・・・。こんどは・・・」二十歳、1㍍79、75㌔、右投右打。
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