新元号が決まりました。出典は中国ではなく日本の万葉集です。新元号から連想されるものは数多いと思いますが、神秘的な面から新元号について考察してみたいと思います。
まず、安倍氏は先週、皇太子様と二度にわたりご面会されています。新元号についての情報の交換であったと思われますが、二度というのは異例だそうです。三度面会されたという情報もあって、よくわかりませんが、一度で済まなかったことは確かです。
だからと言って何かもめ事でもあったのか、、、というわけではありませんが、基本、政府サイドと皇室サイドでは、考え方に違いがあった可能性はあるかもしれません。
まず、出典を中国でなく日本に求める、、、というのは、現政権の以前からにおわせてきたことですので、なるほど、、、との気持ちがありました。ただ現政権の個性を思うと、万葉集というのは意外でした。
万葉集は大友家持が編纂した最古の本格的歌集ですが、天皇の御製から農民の歌まで取り上げた、どちらかというと日本の民意を象徴した歌集と言っても良いものです。王様の歌と農民の歌が同じ一冊の中に歌われることは、世界でも珍しいものだったはずで、そこに日本独自の姿勢を見ること自体は素晴らしいと感じます。
しかし、実際の問題として、大伴家持は当時の藤原勢力から疎まれ、あらぬ事件の責任を押し付けられたりしながら、大友家の力は衰退していきました。そのことを肌で感じていた家持は、万葉集の編纂の最後の歌に下記を詠み、以後断筆します。
もう自分が出る時代でもなく、それが許されることもなかろう、、、との孤独な思いの中で、天皇より仰せつかった万葉集の編纂を最後に自分の政界における居場所がなくなることを分かっていたのでしょう。しかし、家持の天皇と日本国を思う気持ちは強く、彼は万感の思いの中でこの歌を詠み、以降断筆したのです。
「あらたしきとしのはじめのはつはるのけふふるゆきのいやしけよごと」
めでたくないものはどこにもないという完璧なおめでたの文章構成の歌です。日本がよくなるようにとの思いを、この一首に家持は託したのです。
そして、平成が終わろうとした今年、よみがえるようにして家持の思いは戻ってきました。万葉集の中の、梅の和歌32首と言われます。その冒頭のメッセージから「令和」はとられました。
梅といえば、家持と共通する思いの中で非業の死を遂げた人がいます。そう、菅原道真公です。道真公は天皇から愛された人でしたが、政治屋である藤原氏からはうとんじられ、偽りの出来事の責任を取らされて九州で非業の死を遂げます。
天皇から褒美の召し物をいただいた栄誉からわずか一年足らずの不幸でした。以降、道真公は雷神と恐れられ、道真公の讒言に加担した藤原勢はすべてがその後非業の死を遂げ、宮中には落雷、さらに都には疫病が蔓延するなどしたため、道真公の怨霊に違いないと恐れた政府は道真公の罪を許し、最終的には正一位の最高栄誉を与えて道真公の怨霊鎮めを行いました。
その道真公のトレードマークはまさに梅。家持の梅三十二首、両者に共通する政府からのいじめと政界の圧力の中で、日本人としてのまことの心を通されたことが、二人に共通してあります。
そんな故事歴代を感じさせる背景は、現政権にとってはもっとも使いたくないはずなのに、なぜ、新元号は令和になったのでしょう。
また令和の令には、大宝律令や養生律令など、命令の意味があります。令和を命令から読み解くと、和を命ずる、、、ことになります。現政権にはどちらかというと、戦を命じてきた印象があります。その政権がなぜことに及んで和を命じることになったのか、、。
そこに、天皇の何等かのお力を感じざるを得ません。まあ、あくまで個人の戯れの話しではありますが、神秘的な側面から見た今回の改元には、多くの意味を感じざるを得ないのです。
何であれ、真相などわかることではありませんが、令和がもたらす言葉の力、すなわち言霊からは、民意の時代の到来と、和を命じるという絶対使命が与えられたものと読むべきで、私はありがたい、良い元号であると思うわけです。
発表時間が10分どほ遅れたり、皇室と首相の対面が数度も行われるという異例の流れにも、ギリギリの霊的攻防が感じられます。勝手な個人的感想ですが、現政権の新元号への期待は真逆に出て、現政権の思いとは別に新たな時代が始まる気がします。
日本にはきっと新しい民意の時代が訪れるようになるでしょう。家持の思い、道真公の思いの達成ともみるべき新元号が、私たちに新たな時代を運んでくれると思います。
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