水戸歴史に学ぶ会

水戸を中心に茨城県内外の史跡及び歴史事象を訪ね、調べた結果を講演会や文章にしています。ときには史跡の整備もしています。

武蔵武士の鑑― 畠山重忠 ―

2022-03-23 06:44:03 | 日記

 春季講座のテーマは「『大日本史』にみる鎌倉殿の御家人」です。その第1回目は「武蔵武士の鑑― 畠山重忠 ―で3月13日(日)に開催されました。NHKの大河ドラマを理解するための一助でもありますが、鎌倉御家人の生き方を通して、日本の武士道の成り立ちを学んでみようと思います。その場合に、文献としては、水戸藩が編纂した『大日本史』の列伝を参考にしていきます。『大日本史』では、御家人たちをどのようにとらえているでしょうか?  

 生誕地である埼玉県深谷市には、畠山重忠公史跡公園があり、一の谷の合戦に関連した「愛馬を背負う重忠公」の銅像が立っています。「武勇誉れ高く、清廉潔白、『武蔵武士の鑑』と称された畠山重忠」のパンフレットも刊行されています。深谷市教育委員会の篤い意気込みが感じられました。

1 鎌倉殿の13人(源頼家以後の合議制)を示しておきます。 (下線部は文官)

大江広元(政所別当)中原親能(京都守護)、二階堂行政(政所執事)、三善康信(問注所執事)、梶原景時(侍所別当、大庭影親の従者)、足立遠元(公文所寄人)、安達盛長(三河守護)、和田義盛(侍所別当)、三浦義澄(相模守護)、比企能員(信濃・上野守護)、北条時政(伊豆・駿河守護)、北条義時(寝所警護衆)、八田知家(常陸守護)

その他の主な御家人には、畠山重忠・土肥実平・千葉常胤・上総広常・佐竹秀義らがいます。 

2 畠山重忠略年表 畠山氏は平良文から出ている平氏方です。以下は、重忠の生涯の概略を年表形式で見ていきます。                 

長寛 2年(1164)武蔵国男衾郡畠山館(深谷市)に誕生する。

治承 4年(1180)平氏方から頼朝の軍門に下ること決定頼朝、重忠の堂々たる姿勢に感嘆す。「常に先陣を務めよ」との厳命。頼朝、平氏討伐のために鎌倉へ出発、重忠先陣を務める。翌年、平清盛歿。

元暦元年(1184)重忠、一の谷の合戦に参加、「鵯(ひよどり)越(ごえ)の逆落とし」で愛馬「三日月」を背負って崖を降りて剛力を示した(『源平盛衰記』)。「勇気とやさしさ」を表している。

文治 3年(1187)梶原景時、重忠に謀反の意ありと頼朝に讒言する。重忠、(その事実は絶対にないとの)起請文(きしょうもん)を書くように言われるも「もとより謀反の心なし」と拒否する。『大日本史』の結城朝光の重忠弁護、「(重忠は)天資忠直にして神を敬い、義を慕い、決して異図を懐く者にあらず」と。武士仲間からの絶大な信頼を見る。

文治 5年(1189)義経、奥州衣川館で自害する。頼朝、これを機に奥州攻めに。重忠、先陣を務める。 

文治 5年(1189)重忠、梶原景時に代わりに、藤原泰衡の重臣由利維平の尋問を懇切丁寧に行い、その身を預かる。由利、重忠の謙虚な姿勢に感歎、自分の捕縛者を自白す(傲慢無礼な梶原には返答を拒絶したのです)

建久元年(1190)重忠、永福寺(頼朝建立の臨済宗寺院、義経捕縛など奥州合戦の戦死者を弔う)建立のため木材を運び、庭池の大石を一人で運び据える(怪力を示す)。

建久 6年(1195)頼朝、東大寺供養のため上洛。重忠、先陣を務める。

正治元年(1199)頼朝死去(53) 重忠、嫡子頼家のことを託される。頼朝の信頼がいかに暑かったかを示しています。将軍の親政を排し、13人による合議制とする。 

建仁 2年(1202)源頼家、征夷大将軍となるも、2年後には伊豆修善寺で謀殺される(23)
        重忠の子重保、京都守護の平賀朝雅(北条時政の後妻牧の方の娘婿)と口論す

元久2年(1205)北条時政の後妻牧の方、重忠に謀反心ありと夫に讒言。「鎌倉に異変あり」との虚報に接した重忠は、郷里武蔵国菅谷館(嵐山町)を134余名で出発し鎌倉へ向かう。重忠の長男重保、三浦義村に由比ガ浜で討たれる。(菅谷館へ帰り、防戦をとの重臣榛沢成清の意見に対し)重忠曰く、「難に臨みて家を忘るるは大将の本意なり、いわんや(長男の)重忠既に死せり。我、何の顧恋すること有りてか郷里に帰らん」(大日本史)と覚悟を決め、道路に屍を曝して世人の笑いを取ることはしないと、二俣川(横浜市旭区)で北条義時・時房が率いる大軍と戦い討ち死にしたのでした(42)。

その後、北条義時らは鎌倉に帰り、重忠の無実を知り、その死を悲しみ惜しんだのでした。

重忠を評して『大日本史』は云う。
「重忠、兵多くして世よ武蔵に雄たり。勇武絶倫、頼朝の顧託を受けて頼家を輔く。」
「重忠、天資敦厚にして、沖退(へりくだり)を以て自ら守る。然れども、威厳有りて、等輩(家来たち)は重忠の傍に在るに値えば、夏月に暑を避くと雖も、粛然として容を改む。」 

御家人(有力な家臣)畠山重忠の勢力攻防を通して、源氏三代から北条執権政治確立までの人間模様のあらましを見ました。これからは、その場面々々の登場人物を細かに学んでまいりましょう。畠山重忠公銅像は深谷市教育委員会です。

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