多面体F

集会報告、読書記録、観劇記録などの「ときどき日記」

月末恒例3月の都庁第2庁舎前ビラ撒き

2009年04月03日 | 日記
3月31日(火)咲きかけた桜の開花がストップする花冷えのなか、解雇(分限免職)から3周年のこの日定例ビラ撒きを行った。ビラは、増田元教諭の個人情報漏洩問題に関し、都議会で都教委が追及されたことがメインテーマだった。

この個人情報漏洩問題は、2008年6月最高裁で増田さんの勝訴が確定している。12月に増田元教諭は、鎌田慧さんを筆頭請願人に「都教委の謝罪」「都の個人情報保護決議」「三都議(土屋たかゆき・古賀俊昭・田代ひろし都議)の謝罪」を求める3本の請願を提出し、2月末に文教委員会、3月末に本会議で審議された。
議会答弁で都教委は「三都議の教唆扇動はなく、あくまでも『自らの裁量権』において三都議に個人情報を違法に提供した」と説明した。しかし都教委が東京地裁に提出した文書によれば、当時の管理課長は「平成11年(1999年)11月20日前後に、田代都議からの電話で、増田教諭の研修の実施状況を、土屋都議事務所へファクシミリ送付するよう求められました。また指導企画課長は、平成12年3月に、土屋都議からの電話で、増田教諭の研修の実施状況を、土屋都議事務所へファクシミリ送付するよう求められました」と書いている。また三都議自身が裁判所に提出した文書に「いずれも被告ら(三都議)が資料請求により、教育庁から提供を受けたものである」と書いているので、この議会答弁がウソであることは明らかである。  
審議結果は、自公などの数の力による多数決で、残念ながら不採択だった。さて議決のとき面白い風景がみられたそうだ。「三都議の謝罪」を求める請願は、三都議自身にかかわる議題なので議決の際、三都議が議長から退場を命じられたそうだ。現実には、議決に参加しないということだったようだが、7月の都議選では言葉通りぜひ退場してほしいものだ。

ところで、この日わたくしがビラを撒いたのは新宿NSビルへの連絡通路入り口だった。ここは、1年半ほど前まで「都教委による増田さん不当解雇を撤回させる会」代表の大野昭之さんがビラ撒きをされていた場所だ。大野さんは1927年生まれ、昨年11月9日81歳で亡くなり、3月28日(土)午後、豊島勤労福祉会館で「偲ぶ集い」が開催された。40人あまりの小さな会だったが中学・高校の教員やOB、労働運動、市民運動をなさっている方が集まった。
それぞれの方から、東京だけでなく浦和や千葉の地裁の裁判の傍聴や、さまざまな被処分者を支援する会に、サンダルばきで気軽に出歩かれていた大野さんの人柄をしのばせるエピソードが口々に語られた。また古代史やモーツァルト、万葉集、国分一太郎への関心も深かったようだ。
遺稿集が販売されていた。50年代と60年代の日本共産党の内部対立をテーマにした、わずか52pの小冊子だ。しかし、東大時代にG・P(秘密党)農学部責任者として活躍したこと、都教組執行委員として58年4月勤評反対の1日ストを実行したこと、59年11月安保反対で都教組を中心に国会正門から突入(先頭は宮之原委員長など日教組本部)したが、アカハタは「トロツキストの挑発と全学連のハネ上がり」という評価しかしなかったことなど、数々の歴史的な場面に立ち会われたことを知り驚いた。
大野さんが毎年の賀状に書かれた短歌をいくつか紹介する。
  断碑小倉日記・独学の悲しみ描きし作家みまかる 1993年
  琉球を売りわたしたる裕仁の無き今沖縄の怒りどこに向くらん  1996年
  自衛隊を国軍と云ひしその人を再び選ぶ国民哀れ  2004年
  花冷えの請願終えて家に着く われを待ちしは同志(とも)の免職 2007年増田都子先生分限免職に
  生徒にはビラを渡すな警察を呼ぶぞとすごむ校長 2008年町田高校卒業式ビラまき
  
●増田さんの免職取消訴訟の判決は6月11日(木)16時10分に705号法廷で言い渡される。
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