多面体F

集会報告、読書記録、観劇記録などの「ときどき日記」

1921年の賀川豊彦

2010年05月10日 | 博物館など
神戸の賀川記念館の4階にあるミュージアムを見学した。この記念館は賀川豊彦(1888年7月10日―1960年4月23日)が、1909年神戸で路端伝道や社会活動を始めて100年になることを記念し、63年建築の旧館を解体し、新築したものだ。記念館の2-3階は保育園、1階は医療施設が入居している。ミュージアムは4月17日にオープンしたばかりである。

常設展はグランドデザイン、初期事業と地域福祉、生活協同組合運動、労働運動と普選運動、農民運動と共済運動、 関東大震災とYMCA、魂の彫刻と命の営繕、平和・人権・共生 、「教会を強めてください」の9つのブースで構成されている。
わたしは昨年春、賀川豊彦「献身100年」というパネル展をみたので、賀川の生涯や築いた事業については少し知っていた。足跡そのものはもちろん同じ内容だが、このミュージアムは写真、劇画、DVDなどビジュアルな展示にも重点を置いている。各ブースは、賀川の著書、当時の写真をデジタル化したもの、藤生ゴオ氏の「劇画 死線を越えて(家の光協会 2009.11)から成る。

たとえば最初のブース「初期事業と地域福祉」では、賀川の著書「死線を越えて」の5種類の版、当時賀川がスラムの子どもたちを連れて行った「海水浴」「林間学校」、「古着市」、1933年ごろの改良住宅などの写真、イエス団友愛診療所など神戸市内の施設の位置を示す地図、そして劇画の「第1章 スラムに生きる」の画像が展示されている。
労働運動と「教会を強めてください」のブースでは2本のDVDが上映されている。1本は「灯をともした人々―大正十年・川崎・三菱争議の記録」(22分)で、1921年に会社側が撮影したと推測されるデモ行進の映像(大原社研所蔵)を中心に1958年に京都映画が再編集したドキュメンタリーである。この争議は、労働者が21年6月、8時間労働、団体交渉権などを経営に求めたところ、交渉委員が解雇されたことから始まった。労働者はスト(罷業)に突入、経営は対抗しロックアウト(休業)した。7月10日の大示威行進は、他府県からの応援もあり3万7000人のデモとなり、その長さは延々2里(8キロ)に及んだという。
その後14日には県知事の要請により姫路第十師団の一個大隊が三菱、川崎の警備に出動し、川崎造船で艤装中の軍艦大井の海軍水兵は陸戦隊を組織し、剣付銃で武装し建物を警備した。警察は労働者示威行列禁止命令を出した。そこで労働者はデモの代わりに神社参拝を始めたが、29日に警官隊と衝突したとき警官は抜刀し負傷者が出た。この日賀川をはじめ幹部175人が騒擾罪で検挙された。すさまじい話である。翌30日にも同様の事件が起こった。
「多数の警官が職工を追っ払わんとし此処に小競合が始まり遂に二名の巡査が抜剣し追撃する中三菱電気職工三木某同近藤宇吉の二名が其刀に斬られ三木は眉間と左手を刺され鮮血溢るる身体を二名の警官に護送され・・・」大阪毎日新聞 1921.7.31
結局8月9日に川崎三菱争議団は敗北宣言を出す。
さてデモ行進のフィルムは社会風俗の面でも興味深い。夏の9時から15時という時間なのでたいていの人は白のカンカン帽をかぶっている。意外なことに白のスーツを着た正装の人が多い。職工が主だったはずなので驚いた。うちわや扇子で煽いでいる人、中には日傘を差している人もみられる。暑い時期なので無理もない。大太鼓や小太鼓をたたいている人もいる。いまでいうサウンドデモだったのかもしれない。
神戸駅まで大阪の久保田鉄工所等の応援部隊を出迎えに行くシーンでは、到着したのは蒸気機関車、駅を降りると路面電車が走っている。道路は舗装されておらず、ところどころ水たまりが見られる。デモ隊の周囲には自転車で走る市民もいる。1921年当時すでに自転車は都市部ではかなり普及していたようだ。
なぜか海軍旗で出迎えている家もあった。市民は暖かい目でみているようだ。祭りのようなものだったのだろうか。「日本ノ労働争議」というタイトルの絵葉書も8枚組20銭で発売された。
さて、大争議敗北後、賀川はどうしたのだろうか。林啓介「時代を超えた思想家 賀川豊彦(賀川豊彦記念・鳴門友愛会 2002)には次のように書かれている。労働組合の人のなかには「力」で対抗するしかないと賀川の「非暴力の無抵抗主義」を批判する声が高くなっていった。賀川は「暴力は人間解放の道ではない。レーニンでさえ、あのレーニンでさえ、こういったのである“そろそろとゆっくりと、労働組合”」という言葉を残し、農民運動や協同組合運動へと向かった。
もう1本のDVDは「A DAY WITH KAGAWA」(英語版 1938年 無声 49分)という映画で、賀川の日常をアメリカ・メソジスト教会海外伝道局の宣教師・シャックロックが撮影したものだ。賀川が教会で講話したり幼稚園の園児とお遊戯をしているシーンがあった。1938年というと、賀川が財団法人「雲柱社」を設立し、12月にはインドでガンジーに会った年である。

ブースを出たところに、大きな机がありパソコンが3台置いてあった。賀川に関する資料検索ができるデータベースだった。
また壁面の本棚に、「雲の柱」(大正11-昭和15年 全20巻)、「火の柱」(大正15-昭和35年 4巻)など賀川自身の著書や賀川に関する書籍が並んでいた。
机の片隅にはきれいに彩色された花弁のようなものが置かれていた。記念館の人に聞くと、賀川が、子どもたちに植物の仕組みを教えるためにつくった模型の実物だそうだ。たしかにおしべ、子房、萼(がく)などがある。かなり大きな理科の教材のようなものだったが、自作したとのことだ。  

住所:神戸市中央区吾妻通5-2-20
電話:078-221-3627
開館日:火曜~日曜
開館時間:10:00-17:00(入館は16:30まで)
入館料:一般300円、小学生から大学生100円


☆館を出て生田川沿いに南に歩くと「賀川豊彦生誕100年記念碑」というモニュメントがあった。89年4月に建てられたもので人びとが憩う家を表し、中に「死線を越えて我は行く」という文言が刻まれた本の形の碑がある。屋根はクロスして十字架を表現し、鳥が大空に向かって飛翔する姿を表している、という説明が書かれていた。
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