多面体F

集会報告、読書記録、観劇記録などの「ときどき日記」

反天皇制は「改憲」状況にどう向き合うのか

2007年12月29日 | 集会報告
天皇誕生日の12月23日(月)午後、恒例の反天皇制運動連絡会の集会が原宿の千駄ヶ谷区民会館で開催された。いつものように右翼の宣伝カーが駅から会場まで大集結、公安の数も山のようだった。
テーマは「反天皇制は『改憲』状況にどう向き合うのか」

●鵜飼哲さん(フランス文学)
戦後統治システムには3つの類型があった。第一のタイプは高度成長期の利益誘導で、自民党の長期安定を支えた。しかし90年代のバブル崩壊で影が薄くなった。これに代わり出てきたのがポピュリズムである。かつては国民統合の象徴である天皇が代表的だったが、小泉、石原に引き継がれた。ポピュリズムはだれにでも備わるものではなく、一定の資質を備えた保守政治家に可能なものだ。もうひとつは北朝鮮バッシング、嫌韓・嫌中などの排外主義である。
しかしどれも有効とはいえず、新たな統治システムが模索されており、保守政治における天皇制の位置づけも模索中の段階といえる。
安倍政権の「戦後レジームからの脱却」とはなんだったのか。この言葉はいうまでもなくフランス革命のアナロジーで復古的革新の主張である。9条2項の改憲のみではすまなくなり、「8.15」から始まったと彼らが考えるものを終わらせる「革命としての改憲」、総体としての現憲法の解体、総体としての戦後民主主義の解体を図るものであった。
改憲は必然的に天皇制の強化につながる。しかし護憲派が国民投票で勝った場合も、憲法1~8条の天皇制に合法性を与える結果となる。「今のままがよい」という憲法保守主義的な大衆意識をどう考えればよいのだろう。
「地方」で内面化された天皇制の問題もある。わたしの体験を紹介する。先日八戸の博物館を訪れた。館内に入ると左に縄文土器、右にエミシ、真ん中には出産する女性の埴輪があった。なぜ真ん中なのかと館長に問うと「数年前に皇太子が見学し、この埴輪を5分ほど見ていた。その結果、愛子が誕生した。それで真ん中に陳列している」と解説した。一方学芸員は「南部は鉄と馬の産地で、そのため私たちは侵略された」ことを強調した。地方に内面化された天皇制とどう闘うか、今後の課題である。

●伊藤晃さん(日本近現代史)
今日の大衆は天皇制は悪くないと思っている。しかし本来、天皇制は民衆を根源から侮辱するものである。なぜ侮辱を侮辱と感じないのか、どうすれば侮辱と感じるようになるのか、そこまで戻って考える必要がある。
日本には、国家は、天皇と国民とが「悠久の昔から」「相持ち」し、協力してつくってきた、精神的文化的共同体を天皇に抱きとられることで作ってきたという考え方がある。和辻哲郎がいう「国民は天皇に媒介されてはじめて国民になる」のである。この考えは日本国憲法1条と重なる。もともと支配集団により「相持ち」されていたのが、新憲法で国民による「相持ち」に変わったのにすぎない(民衆による「相持ち」ではない)。
ただし敗戦直後は「一体感」が崩れる可能性があった。天皇と国民の一体感が、人間としてないがしろにさてれいるという感覚や天皇への反感はあったはずだ。
そこで天皇は、命がけの飛躍をした。全国巡遊は大きな賭けだった。(天皇の)権力性や非合理性を自ら投げ捨て自分の姿を民衆にさらした。背広と中折れ帽で「みっともない不器用さ」をさらし、民衆に「天皇も自分と同じくみすばらしく生きている」と思わせた。また国民の生活を心配する情に訴える手法は民衆感情を呼び起こし「あっそう」という流行語を生んだ。人々への語りかけは、「呼びかけてくれる」「聞いてもらえる」という感動を呼び起こした。
こうして天皇は賭けに勝利した。戦争責任はぼやけ、民衆は侮辱を感じなくなった。
次に憲法の問題を考える。支配集団は大日本帝国憲法時代の統治方式を「密輸入」し憲法条項の実現を図った。たとえば戦前の憲法10条「天皇による文武官の任免」は戦後も公務員試験を通して、支配集団は特権的閉鎖集団を形成し生き延びた。支配集団にとっては天皇主権(具体的には天皇の最終裁可権)が、戦後は国民主権を最終保障とする憲法実現形態に変化したに過ぎない。彼らは、国民主権を国家のfor the peopleの活動として働かせたが、極力by the peopleを排除しようとした。戦前のパターナリズム(父権主義)は、戦後は国民の国家への依存性として受け継がれた。
しかし1980年代以降国家と国民の間の気安い関係は崩れた。そこで目の前に改憲状況が現れたわけである。
かつて労働組合結成時期には、結成した労働者自身が自ら立つ運動があった。憲法に依存するのではなく自ら創設しようという運動である。この主権者意識を育て、護憲運動を育てることは結果的に反天皇意識を育てることにつながる。逆にいえば「偉いもの」への依存性が変革されてはじめて、天皇制はいかにひどいものかという感情が生まれる。

●天野恵一さん(反天連)
大日本帝国憲法と日本国憲法は原理原則が違うので本来改正による成立はできなかったはずである。ところが憲法の前に付いている上諭(「・・・帝国憲法の改正を裁可し、ここにこれを公布せしめる。御名御璽」)の「裁可」でその問題をクリアーした。したがってこの憲法はいまも天皇制憲法なのである。
日本国憲法第1章1-8条は天皇に当てており、人民主権型憲法ではない。一般に憲法は、国民主権、基本的人権の尊重、平和主義の3原則といわれるが、じつは象徴天皇制も含めた4原則なのである。立憲主義は恣意的支配を許さないものだが、天皇制なので矛盾がある。また天皇制と平和主義にも矛盾があり、いつでも戦争に転化できる「平和主義」にすぎない。現人神としての天皇制は、宮中儀式として生きている。かつては「オモテは神、ウラは人間」だったが「オモテは人間、ウラは神」とオモテ裏が引っくり返っただけである。
宮沢俊義ら主流の憲法学説では、「上諭はないもの」と考え天皇制は「屁のようなもの」と解釈した。しかし政治的実態は異なり、現実に機能している。
4原則目の天皇制が、前の3原則を破壊している。宮中儀式は政教分離をぶっこわしている。
向こう側は、慰安婦・沖縄戦の削除など「皇軍の神聖化」を図り、かつての大日本帝国のイデオロギーを復活させようとしている。しかしこれはアジア・ヨーロッパ・アメリカなどかつての敵国とぶつかる構造的矛盾を抱えている。靖国のアメリカ関連の展示を少し手直しするくらいで修正できるものではない。
最後に死者のイデオロギーについて述べる。国家と天皇が戦死者に感謝するというかたちで政府式典が続いている。「平和のために死んでくれた」「平和のための礎」と表現している。死者のイデオロギーの欺瞞性を暴き、このロジックを壊す必要がある。
わたしは個人的には「護憲」という言葉を使いたくない。しかしだれも自分が取り組む課題がいちばん大切だ。したがって互いに討論する場を多くし、課題を共有するには相互にどういう関係にあるかということを明らかにすることが重要だ。

☆このあとの討論では、中野重治五勺の酒」、平成天皇在位20年、職場のなかの「プチ天皇制」など、会場からの意見も含め多岐にわたる論点から活発な意見が交わされた。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 立たないとクビッ!?12.22全... | トップ | 紙上討論とはどんな授業か 3 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

集会報告」カテゴリの最新記事