多面体F

集会報告、読書記録、観劇記録などの「ときどき日記」

孫文が日本を訪れた時代

2011年09月12日 | 日記
今年は辛亥革命から100周年なので、孫文(1866~1925)が注目されている。
神戸の舞子に移情閣(孫文記念館)という八角形三階建て緑色の洋館がある。明石海峡大橋の脇の場所だ。この建物は華僑の呉錦堂が明治20年代に別荘として建てたもので、1913(大正2)年3月14日孫文らが神戸を訪れ昼食をとった(ただし八角の洋館そのものはその2年後に建築)。孫文は生涯に16回のべ6年間日本に滞在したが、うち8回神戸を訪れた。初めて訪日したのは1895年、29歳のときで広州での蜂起に失敗したため日本に亡命した。最後は1924年11月、広州から北京へ向かう途中日本に立ち寄った。死の4か月前で、このときは元町にあった県立神戸女学校の会場で、覇道と王道を対比する「大アジア主義」の講演を行った。

  移情閣(孫文記念館)
1913年は、辛亥革命が成功し2月から3月にかけて全国鉄路総弁(鉄道大臣)としての訪日だった。しかし7月に袁世凱に対する第2革命を起こし失敗し、8月に再び日本に亡命した。1914年東京で中華革命党を組織、日本の援助を得ようとしたがうまくいかなかった。
1915年ごろ孫文は原宿に住み、集会後に陳其美ら29人の仲間と3列に並び撮影した記念写真が残っている。バックに木造2階建ての屋敷が見える。
さてこの屋敷があった住所は東京市外豊多摩郡原宿町一〇九番地だそうだ。古い地図でこの番地を照合すると、現在の神宮前3-33-2付近だ。行ってみると、なんと空地で「好評分譲中」ののぼり旗がたっていた。原宿とは思えない光景だったが、南向きに日当たりがよさそうで、なるほどこんなところに孫文が暮らしていたのかと思った。ただこのサイトによれば「善光寺のすぐ裏手」とある。善光寺は地下鉄表参道の近くで600mほど離れている。善光寺ではなく妙圓寺の間違いかもしれない。

  いまは分譲中ののぼり旗が立つ
あるいは109番地でなく179番地ならたしかに善光寺の裏手である。表参道の交差点に近い場所に行ってみると、目と鼻の先に「徳富蘆花旧居」という木の標柱が立っていた。話は逸れるが、蘆花は1900年10月に逗子から転居し05年12月再び逗子に戻ったと柱に書かれていた。翌06年蘆花は世界旅行に旅立ちロシアのトルストイを訪問し、農村での生活を勧められ07年現在の芦花公園に移り住んだ。つまり都会暮らしの最後が原宿だったわけだ。

ところで孫文はなぜ、これほど何度も日本に来たのか。長崎、神戸、横浜などに華僑が多く生活していたことがひとつの理由だ。孫文が訪れたのも東京以外ではこれらの都市である。また日清戦争で勝利した日本に注目が集まり訪日する中国人が急増したこともある。孫文より15歳年下だが、魯迅が仙台医学専門学校に留学したようなものだろう。
韓国人も増え、もう少し後の時代だが、1919年3月の三一運動に先立ち2月に東京・駿河台のYMCAで在日本東京朝鮮青年独立団が「独立宣言書」を採択した。
ただし日本だけと交流が深かったわけではない。孫文は12歳のとき、ハワイで牧場、商店、工場を経営する兄を頼り渡米した。ハワイのミッションスクールに通ったので、アメリカにはなじみが深い。1894年に革命組織興中会を組織したのもハワイだった。それだけでなくロンドン、パリ、ベルリンでも活動を行った。96年にはロンドンで清国大使館に監禁され危ういところを救出された。まるで九段のグランドパレスホテルで誘拐された韓国の金大中のような話だ。そして97年に大英博物館で南方熊楠と親しくなり、のちに1901年、わざわざ和歌山の南方の自宅を訪問した。

魯迅は上海の内山書店の内山完造・美喜夫妻に大変世話になり、31年の中国左翼作家連盟作家虐殺事件のときには店の2階に匿われた。その顛末が井上ひさしの「シャンハイ・ムーン」で紹介されている。
孫文にとってこれと同じような存在だったのが香港の写真館の梅屋庄吉・トク夫妻である。9月4日まで東京国立博物館で「孫文と梅屋庄吉展」が開催されていた。庄吉は長崎出身、トクは壱岐出身で、香港で貿易や写真の仕事をしていた。
写真館というと記念写真を撮る普通のカメラマンのように聞こえるが、梅屋は日活の創業者の一人である。1912年の白瀬矗の南極探検にカメラマンを派遣し、ニュース映画「日本南極探検」をプロデュースした。ごく短い残存部分だけだが会場で上映されていた。
孫文は、1915年に26歳下の宋家三姉妹の次女、宋慶齢(1893―81)と結婚したが、その仲をとりもったのが梅屋夫妻で、式は大久保の梅屋邸(香港から引き揚げ東京に住んだ)で挙行した。その他、孫文と親しかった日本人には、犬養毅、頭山満、宮崎滔天らがいた。前にも書いたように、日本人だけでなく、きっとアメリカ人、イギリス人、ロシア人などで同じくらい孫文と親しかった人はいたと思う。
わたくしは、頭山満と親しい革命家にはあまり関心がわかないが、20世紀初頭にグローバルな動き方をしていた点に興味がある。

☆移情閣の近くに旧武藤山治邸旧木下家住宅がある。木下家は1941年建築の数寄屋造りで広い芝生の庭があり、中井の林芙美子記念館と同じく落ち着く家だった。冷たいお茶まで出していただいた。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 飯館村の酪農家の怒りと願い | トップ | こまつ座の「キネマの天地」 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

日記」カテゴリの最新記事