毛唐もすなるブログといふものを

日本男児もしてみむとてするなり

法律からの人権保障

2005-05-31 00:00:00 | 人権擁護法案
人権擁護法案の最大の問題点は、言うまでもなく、その法律による人権侵害の危険です。この法案を推進している連中の言い分は、要するに「法律による人権保障」ということです。しかし、それより上位の概念として「法律からの人権保障」というものがあります。すなわち、「法の支配」です。人権擁護法案にはこの「法律からの人権保障」という観念がすっぽり抜け落ちています。

「法の支配」の観念は英米法の中で発展したものです。しかし、それ以外の諸国でも、「形式的法治主義(*1)」のもとで起こった「法律による人権侵害(*2)」に対する反省から、第二次大戦後は多くの国で「法の支配」とほぼ同様の内容を持つ「実質的法治主義(*3)」に移行しました。我が国も戦前の「形式的法治主義」から「実質的法治主義」ないし「法の支配」へ移行しました。このことは日本国憲法の「違憲審査権(81条)」や「憲法の最高法規性(96条)」等に現れています。
 (*1)形式的法治主義=議会の制定した法律の内容を問わない法治主義
 (*2)その例として、改正・治安維持法とその運用など
 (*3)実質的法治主義=議会の制定した法律の内容の合理性を要求する法治主義

人権擁護法案騒動で明確になったことは、我が国における「法の支配」の観念の未熟です。その未熟に乗じてパリ原則を曲解した「人権擁護法案」なるものが提出されそうになるのです。もちろん我が国における「法の支配」の観念は外国から戦後移植したものですから、それを日本民族が自分のものとして位置づけるのには時間がかかります。日本の文化とのすり合わせが必要なのです。ですから、根付くまでの間は特に不埒な輩への監視が必要となります。

人権擁護法案推進派は、日本に「法の支配」の観念が根付いていないことをいいことに、昔懐かし「形式的法治主義」の法案を提出している不埒な輩です。こういうときに普段から知識人を気取っているマスコミは、その問題点をしっかり報道して日本に「法の支配」が根付くように庶民を啓蒙しなければいけないはずなのに、あろうことかアサヒは一緒になって推進しているという始末ですし、毎日も(多分讀賣も)マスメディア条項が削除されればOKのようです。つまり、マスメディアに規制がかからなければ個人の発言者がどうなろうと知ったことではないということでしょう。

欧米でどのような制度が出来ているかというと、緩やかながらマスメディア規制は存在するのに対して、個人の情報発信者をその言論ゆえに人権委員会が規制しているところはほとんどありません。つまり、欧米では「表現の自由」に対する公権力による規制を原則許しませんが、社会権力であるマスメディアについては例外的に規制を設ける場合があるということです。しかし、その場合も政府組織による規制ではなく自主規制的なものにとどめるのが一般です。つまり日本のマスメディアは自分に都合のいい外国の例のみを報道し、欧米で個人の情報発信者はマスメディアより保護されていることをほとんど報道していないということです。

日本のマスメディアは産経を除き軒並みサヨクで、サヨクはご都合主義者ということがこういうところにもよく現れています。

政界再編の機熟したり2

2005-05-30 00:00:00 | 國神社・政界再編
人権擁護法案の対案を月末を目途に反対派がまとめるという話がありました。その内容の一部がようやく報道されました。わたしは、政権内部に巨大売国カルトを抱えているうえ、最大野党が旧社民党化している最中に、こういう法案を審議すること自体が不適切だと考えるので、政界再編が達成されない限り「人権擁護法案」の審議自体に反対です。わたしの考える政界再編の軸は靖国神社に対する態度です。更に、選挙区を中選挙区制度に戻さねばなりません。西村眞悟議員の「今の日本は二大政党制ではなく、公明党の付く与党と付かない野党があるだけだ」という言はことの本質を突いています。創価学会の票はフレンド票含めて800万票で、これを小選挙区の300で割ると、選挙区当たり2万7千票程度になります。多くの選挙区で当選のために8万票くらいしか必要としないことを考えれば、創価学会票が勝敗を左右するケースが相当出ることは疑いありません。少数派の創価学会が、組織力にものをいわせて多数派を黙らせることは民主政治の否定といえるものです。二大政党制を現在の日本で運用することは、少数派が多数派を支配することに道を通じており、本来の民主主義による自由の確保を困難にする危険が大きく、その害悪は計り知れません。しかも、先日公明党の参議院議員が、あろうことか靖国神社をヒトラーの墓と同列にとらえる発言をしたとか。創価学会の考え方の一端が知れます。こういう非常識なカルトが組織票と金にものをいわせて国政を壟断することを阻止せねばなりません。そのためにも、靖国神社を軸とした政界再編、そして中選挙区制への復帰が必要と考えます。(続く)

≪関連エントリー≫
※4/24 「政界再編の機熟したり1」

強制連行訴訟におけるサヨクの戦略3

2005-05-29 00:00:00 | 支那、韓国・朝鮮
現在でも第二次世界大戦処理の枠組みは基本的に維持されていますから、そこでの政治的事実は日本国政府を拘束しています。日本国政府が東京裁判に反する事実を公式に主張しない(できない)のはそのためです(対外問題)。また、80年代後半以降の政府談話(村山、宮沢、河野談話など)も中には明白な事実誤認と判明したものを含めて未だ撤回されていません(国内問題)。したがって、そういう事実は証拠という形で裁判所の判断を左右します。

しかし、そういう対外・対内問題を含めて、徐々にではあれど状況の変化の兆しが見えてきています。具体的には、日本の国連常任理事国入りや、国内における常識的な方向への教科書是正運動などです。こういう状況の変化を妨害するための一つの手段として、裁判所を利用しての「司法的事実」を積み上げるのがサヨクの戦略に違いありません。実証的な検証では負けてしまうので、国家権力である裁判所に頼って自分達の主張を認めさせようというのです。みっともない。

ここで問題となるのは、日本人の法廷に対する一般的意識と裁判官の思想的偏向です。日本人はお上意識のなせる業なのかどうなのかは判然としませんが、ともかく「法廷で真実が明らかになる」と安易に感じてしまうところがあります。また、最近下級審の裁判官の中に、傍論で靖国を違憲と書いたりする姑息な裁判官が散見され、裁判官の判断自体が左旋回している疑いが拭えません。時あたかも全共闘世代が裁判長をすることが多い時期ですから、そういうわたしの疑念は増幅されるわけです。多分サヨクは、左旋回している裁判官に当たるまで、提訴と取り下げを繰り返しているんでしょう。

そして、そういう裁判により出された判決=「司法的事実」をサヨク、例えばアサヒ新聞は盛んに宣伝するのです。「国家権力(裁判所)も強制連行を認めたぞ。だから真実だ」とでも言いたいのでしょうか。ともかく、一般の日本人は「裁判所の判決」に弱いし「新聞の書くこと」にも弱い。そういう点をサヨクは突いてきていることをよくよく知っておく必要があります。それにしてもサヨクはケチなのによく訴訟費用が続くものです。きっと支那や韓国の政府・企業からお金が流れてきているんでしょうね。(サヨクがケチな点については関連エントリー『人権救済申立』~人権擁護法案の目指すもの参照)

≪関連エントリー≫
※5/10『人権救済申立』~人権擁護法案の目指すもの
※5/12「日本の刑事裁判」
※5/7 「EU憲法その3~フランスでの結果が正念場」

強制連行訴訟におけるサヨクの戦略2

2005-05-28 00:00:00 | 支那、韓国・朝鮮
我が国は第二次世界大戦の敗北により、その処理のための国際的枠組みを政治的に受け容れました。つまり、東京裁判において認定された事実を政治的に受け容れたわけです。こういう「政治的事実」は、その当時の当事者間の力関係を反映するものですから、「歴史的事実」と食い違う部分があるのは当然です。したがって、政治状況が変化すれば政治的事実は変動しうるということになります。

学問の分野においては、政治とは無関係に「歴史的事実」の探求が行われます。その過程で「政治的事実」と異なる「歴史的事実」が明らかになることが往々にしてあります。しかし、それはすぐに「政治的事実」の変更に結びつきません。「政治的事実」はそれを生じさせた政治的状況、すなわち力関係と利害状況が変化しない限り、変更されないからです。

現在の国際社会においては、国連の安全保障理事会の構成に象徴されるように、第二次世界大戦処理の国際的枠組みが維持されていますから、その一環である東京裁判で認定された事実に反する事実を主張することは簡単なことではありません。しかし、不変の政治的状況というものはありません。政治的状況が変化する時に備えて、「歴史的事実」の検証を進めなければならないのです。(EUにおけるドイツの例につき関連エントリー「EU憲法その3~フランスでの結果が正念場」参照)

その点で、産経の正論路線をはじめとする地道な活動は非常に意義深いものがあるわけです。現在、戦後60年を経て国際社会の枠組みは確実に動きつつあります。つまり東京裁判を元にした「政治的事実」のくびきから脱却する機会がやって来つつあるのです。もし、正論路線等の地道な活動がなかったならば、未来永劫とまでは言わないけれど、少なくともまた数十年の間、我が国は東京裁判で認定された「政治的事実」に拘束され続けなければならなくなるところだったに違いありません。

こういう流れに敏感に反応している勢力があります。いうまでもなく東京裁判の枠組みから多大な恩恵を受けている支那、韓国・朝鮮と、そういう連中に親和性をもつ国内サヨクです。しかし、連中に国際政治の枠組みを動かす力はなく、「歴史的事実」の隠蔽にも限界があります。そこで、「歴史的事実」に対して「司法的事実」をぶつけることで、日本国民を東京裁判史観の枠組みに閉じ込め続けようと画策しているのです。(続く)

≪関連エントリー≫
※5/12「日本の刑事裁判」
※5/7 「EU憲法その3~フランスでの結果が正念場」

強制連行訴訟におけるサヨクの戦略1

2005-05-27 00:00:00 | 支那、韓国・朝鮮
ここのところ、サヨクは強制連行等の裁判に熱心です。歴史的事実の実証的検証が進んだ現在、サヨクの糾弾してきた「日本軍による暴行・虐殺」や「日本による朝鮮の搾取」は否定される部分が多くなったため、司法権という国家権力に頼って自分達の主張を正当化する手段に打って出ているのだとわたしはおもいます。一方で国家権力を蛇蝎の如き忌み嫌いながら、他方で国家権力を利用し自己正当化を図る。目的のためなら手段を選ばない無節操。まさにサヨクの面目躍如たるものです。

いうまでもなく、裁判所の認定する事実は法廷に現れた事実です。民事訴訟の場合、原則として当事者の持ち出した証拠からしか、裁判所は事実を認定できません。したがって、裁判により歴史的な事実が明らかになるとは必ずしも言えないことは自明なことです。しかし、日本人は「法廷で真実を明らかにする」という感覚があるため、往々にして、裁判所の判決を、あたかも歴史的な事実と錯覚する危険があります(関連エントリー「日本の刑事裁判」参照)。その錯覚をサヨクは突いて来ている面があるのです。

ここで「事実」を大雑把に三つに分けて考えることが有用です。すなわち、「歴史的事実」と「政治的事実」と「司法的事実」です。「歴史的事実」とは客観的事実のことで、我々が日常用語で「事実」という場合の事実におよそ対応します。「政治的事実」とは、当事者の合意により認定される事実で、東京裁判により認定された事実などがこれにあたります。したがって、「政治的事実」は当事者の力関係により決定される面が強く、状況の変化に応じて変化するものということになります。「司法的事実」は前述の通り、裁判所が当事者により法廷に持ち込まれた事実から認定する事実です。したがって、「司法的事実」も「歴史的事実」と必ずしも合致するものではなく、むしろ「政治的事実」と合致する場合が多くなります。なぜなら、「政治的事実」は「証拠」という形で裁判所の判断を大きく左右するからです。(続く)

≪関連エントリー≫
※5/12「日本の刑事裁判」

海洋国家

2005-05-26 00:00:00 | 日本男児
【正論】評論家 屋山太郎 日本外交を「海洋国家連合」に転換せよ《産経》

5/23付「西村眞悟の時事通信」

5月23日付産経正論の屋山太郎氏の小論は秀逸でした。西村眞悟議員の時事通信と合わせて読まれることをお勧めします。

戦前の我が国は、大陸と関わり、失敗しました。そもそも不得手な大陸との関わりを促した原因は、一つにロシア・ソ連の脅威、二つに、アメリカの脅威でした。すなわち、ロシア・ソ連の脅威から日本本土を防衛する為に、朝鮮・満州を勢力化に置かねばならず、また、海洋に進出しようにもアメリカが立ちはだかるといった具合だったからです。それでも我が先人は何とか日本の生存空間を確保してやっていきました。それが破綻したのは、アメリカが支那大陸に関与するようになったからです。

ユーラシアの両端における20世紀の戦争は、欧州にせよ、東アジアにせよ、アメリカの付いた方が勝ってきました。アメリカはユーラシアにおける勢力争いを、アメリカ大陸からコントロールしてきたわけです。そういう意味で、アメリカは巨大な海洋国家ということになります。大陸国家間の争いの帰趨は、多くの場合、海洋国家が握ることを歴史は証明しています。朝鮮を勢力下において大陸国家間の争いに否応なく関与することになった日本の命運は、当時海洋を支配する最大勢力のアメリカとの関係にかかっていることは自明のはずでした。

アメリカは支那大陸における利権を貪欲に求め、我が国は最後までアメリカとの協調の可能性を探りましたが、結局それは達成されませんでした。アメリカとの協調が難しくなった時期、我が国は仕方なく、ドイツやソ連と組む道を模索しましたが、これは日本に破滅をもたらしました。戦前の日英同盟、戦後の日米同盟が機能していた時期は我が国が国際的に安定していた時期と大きく重なります。逆に、大陸国家と深く関与した時期は、不安定な時期と重なる部分が多いのです。現在の日本は、暗黒の大陸国家との関与を深めるのか、海洋国家に属し続けるのかの境目の時期にあります。歴史に学ぶなら選択の余地はありません。

こういうと、必ず、我が国とアメリカとの国益が100%一致するわけではないなどと、阿呆なことを言うサヨクが出て来ます(例=姜・東大教授)。繰り返しますが阿呆です。アメリカに限らず、他国の利益と我が国の利益とが必ず一致するなどということはあり得ないからです。もっとも、大東亜戦争の時、我が国はアメリカとの協調が不可能という事態に立ち至りました。しかし、経済的な相互依存関係が進んだ現在において、そのような事態に立ち至る可能性は相当低いものになっているはずです。更に、我が国に、単独で国際社会を渡っていく力量が欠けている(例えば軍事力)以上、どこかと組むしかありません。支那と組むのか、アメリカと組むのか。答えは自明です。

確かに、アメリカは原爆や東京大空襲、沖縄戦などなど、我が国に対して残虐非道の限りを尽くした過去を持つ国です。しかし、残念ながら現在の日本にアメリカと組む以外の選択肢はないうえ、アメリカに己の非道を認めさせる力もありません。それどころか、戦後のウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム等の効果が浸透し、国家解体の危機にすら瀕しているといった惨状です。トヨタ会長の奥田の媚支発言もそういうことの表れなのでしょう。情けない。そして、全共闘世代は国家・社会の枢要な地位から草の根までに根を張り、各々の場所で「革命ごっこ(©江藤淳)」の続きをはじめいるようです。こういう獅子身中の虫を下さずして、何事も為せない、そういうことから西尾幹二先生は、小林よしのり氏を追い出したのです。致し方ない決断だったとおもいます。海洋国家として日本の存立基盤を守り、アメリカに己の非を認めさせる日を期する。それしかないとわたしはおもいます。

戦没者との約束

2005-05-25 00:00:00 | 國神社・政界再編
多くの戦没者は「靖国で会おう」といって出征していったそうです。そのこと自体に争いはないでしょう。サヨクはそれは心からの言葉ではないとか何とか批判しますが、それが戦没者の心からの言葉かどうかは今更確かめようのないことです。確かめようがない以上その言葉を前提に考えるしかありません。

そして、戦没者を靖国に祀り国家として礼を尽くすということは、戦没者と国家との約束です。そう言うとすぐサヨクはそんな約束をしたという公式の記録はないなどと言い出します。確かに公式の約束はなかったかもしれません。しかし、それが明白な前提とされていたことですから約束と言っていいはずです。それが常識というものでしょう。まあ、こういうとすぐサヨクが常識云々と難癖を付けてくるのではありますが。

さて、こうして、わたしは日本国の枢要な地位にある者が靖国神社に参拝することが、戦没者と国家との約束だとおもうわけです。この点までは認めるサヨクはいるにはいます。しかし、そういうサヨクはそこで政教分離だとか何とかと言って必ず憲法を持ち出すのです。うんざりです。死者との約束を、戦後事情が変わったからと言って簡単に反故にするなど、わたしのなけなしの美意識が到底許さないからです。

政府の枢要な地位にある人間が靖国神社を参拝したからといって、日本の政教分離が揺らぐとはわたしには到底おもえません。世界の主要国を見回しても日本ほど宗教に寛容な(無節操な)国はないといっていいでしょう。政府が靖国神社に参拝するに留まらず、これを積極的に利用して国民の信教の自由を侵害するような行動に出たときのみ、政教分離の問題にすれば足りるはずです(談)。

≪関連エントリー≫
※5/3「中立という名の欺瞞」
※4/7「政教分離」
「靖国神社・政界再編」関連エントリー一覧

国内人権機構:人権の促進と擁護のための国内機構の設立と強化に関するハンドブック 5(まとめ)

2005-05-24 00:00:00 | 人権擁護法案
※「国内人権機構:人権の促進と擁護のための国内機構の設立と強化に関するハンドブック」について《外務省HP》

※「諸外国の国内人権機構等一覧」《外務省HP》

※「各国の国内人権機関の設置状況一覧」《人権フォーラム21HP》

※人権擁護法案《法務省HP》

※「ハンドブック」を読み、「一覧」を見ながら、各国の「国内人権機構」につき気付いたことを箇条書きにしてみます。

1.「国内人権機構」が私人間の個別的な人権侵害事案を扱うかどうか
個別的な人権侵害事案に対して「国内人権機構」が関与することにつき、英米法の諸国は比較的積極的だが、欧州大陸諸国は消極的です。例えば、フランスの「国家人権諮問委員会」は個別の人権侵害事案をそもそも扱いません。また、ドイツには「国内人権機構」自体が未設置のようです。

2.「国内人権機構」が私人間の個別的な人権侵害事案を扱う場合、その対象は何か
「国内人権機構」が個別の人権侵害事案を扱う権限を与えられている場合、一定の強制権限や司法手続きへ参加する権限が付与されるのが一般です。ただし、それらの権限が付与されている事案は、雇用や住宅、商取引等の「経済的自由権」に関する事案などに限られ、表現の自由を中核とする「精神的自由権」に直接関わらないように配慮されています。また、アメリカの「司法省コミュニティー・リレーションズ・サービス」のように「人種差別等に基づく社会的紛争」といったある程度広い事項を扱う権限が与えられている場合は、強制調査権限や司法参加権限自体を付与しないようです。

3.強制権限は認められる場合、その行使方法
「国内人権機構」が強制権限を行使する場合、裁判所の令状を必要とすることが原則となります。それは「法の支配」=「法律からの人権保障」の観点からは当然のことです。ただし、私人間の力関係が非対等の場合は、「国内人権機構」自身に一定の強制権限が与えられる場合はあります。これは「社会権」=「実質的平等」を迅速に実現するため「国内人権機構」に認められる権能ですから、私人間の力関係が非対等であることが強制権限の根拠になります。したがって、私人間の力関係が対等の場合は、法治国家の原則に戻って、裁判所を通じて強制することになります。

※要するに、私人間の人権侵害に対する「国内人権機構」による強制権限についての国際標準をまとめると以下のようになります。鍵になるのは、「表現の自由にかかわるか」、及び、「私人間の力関係が対等か非対等か」です。

ア.表現の自由を中核とする精神的自由権→調査対象にすること自体が原則不可。強制は裁判所を通じても不可。

イ.経済的自由権や教育を受ける権利等の社会権→調査対象になるし、強制権限行使もできる。ただし、強制権限の行使には原則として裁判所の令状を必要とする。例外的に、私人間の力関係が非対等の場合は、令状なしでも強制可。

※以上のことから、「人権擁護法案」の問題点を、簡単に列挙します。

(a)「人権擁護法案」は私人間の個別的な人権侵害事案を扱う権限を「人権委員会」に与えています。これは主に英米法系の諸国に見られることで、問題はありません。しかし、その対象が「表現の自由」に関する事項に及んでおり、これは外務省の一覧を見る限り、他国にほとんど例を見ないものです。

(b)しかも、「人権擁護法案」によれば、「人権委員会」は「表現の自由」に関する事項についてまで、強制調査権限や司法手続きへの参加権限などが与えられており、これまた他国にはほとんど例を見ないものです。

(c)さらに、強制権限を行使する場合、「経済的自由権」についてすら裁判所の令状を必要とすることが多くの国で原則とされているにも関わらず、「人権擁護法案」によれば、「表現の自由」についてすら裁判所の令状を不要としており、当然他国にはほとんど例を見ません。

国内人権機構:人権の促進と擁護のための国内機構の設立と強化に関するハンドブック 4

2005-05-23 00:00:00 | 人権擁護法案
※「国内人権機構:人権の促進と擁護のための国内機構の設立と強化に関するハンドブック」について《外務省HP》

※「諸外国の国内人権機構等一覧」《外務省HP》

※「各国の国内人権機関の設置状況一覧」《人権フォーラム21HP》

※人権擁護法案《法務省HP》

3  職権による調査
  (1)  職権調査のための問題の選択
  (2)  職権調査の実施
  (3)  職権調査の事後処理
4  司法手続への参加

※3の「職権調査」は、当事者の申立に基づかず、「人権委員会」が独自に調査を開始することをいいます。「職権調査」権限は、「人権委員会」が「議会・政府等への勧告等を行う」という目的を遂行する上で必要な権限なので、これ自体に問題はありません。ただ、私人間の個別的救済に「職権調査」を発動されると、「人権委員会」という公権力が、恣意的に個人間の争いに介入することにより、自由な社会の基盤である私的自治を大幅に害することつながりかねないので、原則許されないと考えるべきです。諸外国の国内人権機関にはそのような権限がほとんど認められていないようですが、それは当然でしょう(外務省HP「一覧」)。
※然るに、「人権擁護法案」では、職権で(申立なしに)救済手続きの開始が認められており(同法案39条)、調査手続きとして強制権限を発動(同法案41条以下)できることになっています。前出の外務省HPの「一覧」によれば、職権調査が認められている国は、韓国(「一覧」では法案審議中とある)、フィリピン、インドくらいです。もっとも、職権調査を認めなくても誰かが申立てをすれば調査できるのは当然なので、この点は余り重要ではないかもしれません。
※4の「司法手続きへの参加」は、私人間における個別的救済の形態の一つとして、個別救済を扱う諸国の「国内人権機構」にほぼ認められる権限のようです(前出外務省HP「一覧」)。「司法手続きへの参加」には、当事者の提起した訴訟ににつき、「国内人権機構」が助言をするにとどまるものから、「国内人権機構」自身が訴訟を提起するものまで様々です。この点、「人権擁護法案」は、被害者の起こした訴訟に「人権委員会」が参加(民事訴訟法の補助参加)すること(同法案63条)、及び「人権委員会」による差別差止請求訴訟を認めています(同法案65条)。そういう権限自体に問題はありません。しかし、対象の絞り方に問題があります。
※諸外国の例をよく見れば分かりますが(外務省HPの「一覧」参照)、「国内人権機構」が司法手続きに参加するのは、基本的に「経済的自由権」が問題となる事案においてであり、表現の自由を中核とする「精神的自由権」が問題となる事案に関しては、そもそも司法手続きへの参加は許されていないようです。これは表現の自由の価値からすれば当然です。そして、この場合の表現はマスメディアだけの問題ではないことに注意が必要です。否、むしろ、マスメディアには、緩やかにではあれ規制がかけられている例はあります(ただし、国家機関ではなく民間の自主規制組織方式)。それに対して、個人の表現に対する規制は、少なくとも外務省の「一覧」からは確認できませんでした(外務省は「一覧」を「網羅的なものではない」と断っていますが、主要国については押えられていますから、十分参考になります)(南アフリカについては後の方で書きます)。
※「一覧」から例を挙げます。アメリカの「公民権法」の取り扱う対象は「人種,皮膚の色,出身国,性別,宗教,年齢,障害等に基づく,雇用,教育,住宅,公共施設,信用,投票における差別等」となっており、このうち「雇用、住宅、信用」は明らかに「経済的自由権」に関するものです。そして、他の「教育、公共施設、投票」も、基本的に「表現の自由」とは直接的に関係ないといっていいでしょう。「一覧」の中で、「国内人権訴機構」が訟援助等を行う権限が与えられている他の例を見ても、雇用、住宅、信用などが主眼に置かれていることは明らかで、表現の自由に影響がないよう配慮していることが窺えます(アメリカ、英国、カナダ、オランダ等々) 。然るに、「人権擁護法案」は、訴訟援助等の対象を「経済的自由権」や教育、施設利用等に限定しておらず、「表現の自由」に対する配慮が著しく欠落した、欠陥法案です。以下説明します。
※「人権擁護法案」における「人権委員会」は45条の定義する「特別人権侵害」について、訴訟参加ができるようになっています。では、「特別人権侵害」とは何かというと、42条1項に規定すると書いてあります。それで、42条1項を見ると1号から5号まで掲げられており、そのうち第1号ないし第2号は3条1項を見ろと書いてあります。そうして、ようやく「特別人権侵害」の中身が分かるという仕組みです。難解です。まあ、こういう条文の構成は商法などではよくあることですが、国民にとって極めて関係の深い法案の書き方としてはいかがなものかと考えます。普通の人はそこまで読みませんから。本題に戻って、「特別人権侵害」には、「特定の者に対し、その者の有する人種等の属性を理由としてする侮辱、嫌がらせその他の不当な差別的言動」(同法案3条1項2号イ)のうち「 相手方を畏怖させ、困惑させ、又は著しく不快にさせるもの」(同法案42条1項2号イ)が含まれることになります。つまり「人権委員会」が「不快にさせる差別的言動」と認定すれば、訴訟に参加することができてしまうのです。このような表現行為を理由とする私人間の争いに「国内人権機構」が一方の側に立って訴訟に関与することは、他国ではほとんど例をみないのではないでしょうか。少なくとも外務省作成の「一覧」からは確認できません
※更に、「人権擁護法案」によれば、「人権委員会」は「差別助長行為等の差止め等」(同法案64条以下)ができることになっており、具体的には差止請求訴訟を独自に提起できることになっています(同法案65条)。しかも、その対象は「特定の者に対し、その者の有する人種等の属性を理由としてする侮辱、嫌がらせその他の不当な差別的言動」(同法案3条2項1号)であって、「これを放置すれば当該不当な差別的取扱いをすることを助長し、又は誘発するおそれがあることが明らかであるもの」(同法案43条1号)に及びます。つまり、「人権委員会」が「差別を助長・誘発するおそれが【明らかに】あると判断した言動」については、差止請求訴訟を独断で起こせるということです。もちろん、このような対象についてまで、「国内人権機構」に訴訟提起の権能を認める国はほとんどありません。強いて挙げれば、アパルトヘイト克服に取り組む南アフリカではもしかしたらそういう権限が与えられているかもしれない、というくらいのものです(前出外務省HP「一覧」参照)。こういう点からも、「人権擁護法案」に「表現の自由」に対する配慮が著しく欠けていることは明白です
※サヨク推進派は【明らかに】という限定があるからというのでしょうが、そうは問屋が卸しません。サヨクの大好きな論法でいけば、第一に「他国にほとんど類を見ない言論統制」ということで、それだけでダメ出しでしょうし、第二に「表現の自由」を軽視する点で論外ということになるはずです。しかし、多くのサヨクはご都合主義者ですから、そういう矛盾には無頓着です。自分の言動を客観視する能力に欠ける嫌いがある、頭でっかちの主観主義者と言ってもいいかもしれません。もっと言えば、サヨクは「多様な価値観」という言葉が大好きな割には、その背後にある「自由主義」というものが全然分かっていないようにわたしはおもいます。
※更に「強制力のある調停」(同法案45条以下)についてもほぼ同様の問題があることを指摘しておきます。(続く)

国内人権機構:人権の促進と擁護のための国内機構の設立と強化に関するハンドブック3

2005-05-22 00:00:00 | 人権擁護法案
※「国内人権機構:人権の促進と擁護のための国内機構の設立と強化に関するハンドブック」について《外務省HP》

※「諸外国の国内人権機構等一覧」《外務省HP》

※「各国の国内人権機関の設置状況一覧」《人権フォーラム21HP》

ハンドブックの続きです。
(5)  侵害に対する救済
    (a)  勧告権限
      ・  勧告は,政府機関や公務員,私人や私的団体に対してなされる
      ・  国内機構は,人権侵害を防止し,減少させる措置を講ずべきこと,慣行・手続を変更すること,謝罪,損害賠償あるいはその他の救済手続を提案できる。
    (b)  付託権限
    (c)  決定権限
       侵害前の状態に回復不可能の場合は,公けの謝罪又は損害賠償や補償の支払を命じることも救済手法とすることができる。
    (d)  強制命令権限
    (e)  決定の公表
※「人権委員会」が、個別の事案に介入することを認める場合、一定の拘束力のある決定をなしうる権能が必要となります。上記はそれを定めています。
※拘束力ある決定は、法律で明記された分野に限ってなしうることは言うまでもありません。ちなみに、「人権フォーラム21」は、人権擁護法案が救済の対象から労働問題などを除外するのがおかしいと言っています。しかし、「国内人権機構:人権の促進と擁護のための国内機構の設立と強化に関するハンドブック」(以下「ハンドブック」と略す)が他の国家機関との権限の重複を避けろと明記していることから分かるように(「ハンドブック」第2部3)、対象を絞らない方が国際的に見ればおかしいのです。このことからも端的に窺えるように、「人権フォーラム21」はすべての人権侵害問題に関する権限を「人権委員会」に集めることを目指しているようです。しかし、言うまでもなく、これは危険です。自由な国家の基本は、権力の抑制均衡にあるからです。一箇所、特に行政権に権限を集めるのが危険なことは、人類の歴史が教えるところです。それは人権保障にあっても同様のはずで、「人権委員会」は行政機関であることは疑いようがありません。サヨクは歴史に学ばないということが、こういうところにも現れています。
※「ハンドブック」の検討に入ります。(a)を読めば、私人間の人権侵害事案にも「人権委員会」が介入できることを再度確認できます。ただし、通説的な憲法論からすれば、ここでいう「私人」は社会的影響力が一定程度以上のものを指すということになるはずです。「国家権力類似の社会権力からの人権保障」が、現在この分野における人権保障の主要テーマであり、私人間に憲法の人権条項を直接適用する(に等しい)ことについては、消極的な考え方が一般だからです(極左を除く)。つまり、私人間に人権規定の効力を直接的に及ぼす場合のポイントは「力関係が対等か非対等か」ということになります。
※アメリカなどの他国で、「人権委員会」を通じて私人間の個別的人権侵害事案に国家が介入するのは、例えば「雇用機会均等」に関する事案など、「力関係が非対等な私人間」における人権侵害に限られるのが一般なのも、そういう事情からです。一足飛びに私人間における人権侵害一般について、憲法の人権規定を適用することには慎重なのです。なぜか。それは、私的自治が自由な社会の基礎にあるという観念が強固にあるからです。そういう観念の薄い日本で、サヨクが人権擁護法案を通そうと蠢くのは、ある意味当然かもしれません。
※更に、アメリカの例を追加します。アメリカの「公民権法」を執行する米国司法省公民権局は、犯罪捜査の場合は通常の司法手続きを経て強制権限を行使しますが、民事(行政)手続きで強制権限の行使は認められていません。他の人権機関も同様です(前出外務省HPの「一覧」の一番上)。これは、「表現の自由」の保障と関係があります。司法抑制を経ない行政権による強制手続きは、「表現の自由」に対する萎縮効果を生じるおそれが強いからです。表現の自由を中核とする精神的自由権の強力に保護するという「二重の基準論」が採用される米国連邦最高裁で、行政権による司法抑制(令状)なしの強制権限は違憲とされる可能性が高いからです。
※(b)の付託権限とは、他の国家機関に移送することです。
※(c)については、アメリカの「雇用機会均等委員会」(前出の外務省HPの「一覧」の上から三番目)の例にあるように、一般的に行われている救済手段のようです。ただし、あくまで「力関係が非対等な私人間の事案」に主眼が置かれていることに注目しておく必要があります。一方、人種問題などでは、必ずしも力関係が非対等でなくとも委員会が介入するようです。しかし、この場合、強制権限の行使には裁判所の令状が必要とされています。結局アメリカの制度は、力関係が非対等な場合は委員会に一定の強制権限が付与されるが、必ずしも非対等でない場合は、法治国家の原則に返って裁判所を通じて強制するということのようです。
※また、英国やカナダでは、私人間における力関係が対等・非対等を問わず、強制権限を行使する場合は、法治国家の原則通り裁判所を通じなければならないようです。やはり、裁判所を通じない強制権限の行使は「表現の自由」との関係で問題だと認識されているからだとわたしは推測します。
※以上、個別救済にどちらかと言えば積極的な英米法系の国々の強制権限に関する状況を概観しました。欧州大陸法系の諸国は概して個別救済には消極的ですから(フランスは個別救済を認めないし、ドイツにはパリ原則に基づく機関がないらしい)、いわずもがなです。これを日本の「人権擁護法案」と比べると、いかに日本の状況が異常かが分かるかと思います。まさに「人権後進国」です。
※なお念のため、わたしは、日本の監獄をはじめとする刑事司法のあり方は改善する必要があると考えていることを付言しておきます。
※(d)(e)に関しては重複となるので省略します。(続く)

国内人権機構:人権の促進と擁護のための国内機構の設立と強化に関するハンドブック2

2005-05-21 00:00:00 | 人権擁護法案
※「国内人権機構:人権の促進と擁護のための国内機構の設立と強化に関するハンドブック」について《外務省HP》

※「諸外国の国内人権機構等一覧」《外務省HP》

※「各国の国内人権機関の設置状況一覧」《人権フォーラム21HP》

(4)  調査の実施
  (a)  調査権限
      ・  効果的な調査を行うためには,国内機構は,訓練されたスタッフや十分な財政的補償を含んだ,自由に使える一定の人的・物的資源を有しなくてはならない。
    ・  いかなる状況においても,国内機構は,当該申立てが事実か否か,そうだとすれば誰に責任があるのかについて明らかにする法的能力が与えられなくてはならない。
※問題はこの「法的能力」です。どこまでの権限を与えるのか。外務省HPの「諸外国の国内人権機構等一覧」によれば、英米法系の諸国では、強制権限を付与する場合、提出命令及びその違反に罰則を科すにとどめ、立ち入り権限を与えず、しかも、強制権限を行使する場合は裁判所の令状を必要とするというかたちで定めることが多いようです。一方、欧州大陸法系の諸国では、例えばフランスは個別の人権救済事案には扱わないようですし、ドイツには未だこの種の機関が設置されていないようで、概して「人権委員会」による個別救済には消極的のようです
※その辺りは人権フォーラム21のHPでも確認できます。この表の「反差別法・根拠法など」という項目を見ればわかりますが、「個別救済」を認める英米法諸国にあっても、「人権委員会」の扱うものは人種差別関係の法律などに限られ制限的です。
※これに対して、日本の「人権擁護法案」では、「人権侵害一般」につき「人権委員会」に令状なしの立ち入り権限を認め、2万人の人権擁護委員を置き、地域社会での個別の人権侵害に対して積極的に介入することとしています。外務省作成の一覧を見る限り、パリ原則に基づき「人権委員会」を設置して諸国では、パリ原則の原則通り「議会・政府への勧告」が「人権委員会」の中心的責務となっているようです。日本の「人権擁護法案」がパリ原則本来の姿から相当距離のあるものになっていることが、このことからもわかります。
※人権フォーラム21のHPはなかなか有用です。なぜなら、彼らは自分達に有利な情報は網羅して掲載しているはずだからです。彼らのHPを見ていて、ドイツではいまだ「人権委員会」のようなものは設置されていないのだろうとわかりますし、スペインはじめ他の欧州諸国でもまだ設置されていない国が多いらしいこともわかります。また、「人権擁護法案」のような立ち入り権限まで認める「人権委員会」がインド等を除いて他に類を見ないこともわかります。もし、そういう強力な「人権委員会」の例が他国にあるなら積極的に彼らのHPに載せているはずだからです。彼らのHPに載っていないところから、そのような国はほとんどないことがわかるのです。(続く)

国内人権機構:人権の促進と擁護のための国内機構の設立と強化に関するハンドブック1

2005-05-20 00:00:00 | 人権擁護法案
※「国内人権機構:人権の促進と擁護のための国内機構の設立と強化に関するハンドブック」について《外務省HP》

※「諸外国の国内人権機構等一覧」《外務省HP》

外務省のHPに概略が掲載されていたので、これを使って考えて見ます。
パリ原則は条約なので、批准した国を法的に拘束します。それに対して、ハンドブックには法的拘束力はありません。ただし、同種の国連文書の解釈指針となるものです。したがって、このハンドブックはパリ原則に対する国連の考える解釈の指針となるものということになります。
なぜこのようなハンドブックが必要となるか。条約はそれに批准し法的拘束を受ける国それぞれの事情から、概括的なことを定めるにとどめざるを得ません。そうでなければ、せっかく条約を作っても批准する国が少なくなり、条約の目的達成にとって却って障害となるからです。したがって、法的拘束力を生じる条約では概括的な内容を定めるにとどめ、拘束力のないハンドブックで詳細な内容を呈示し、条約に加盟した国々は条約に定められた内容を基本として、各国の事情に応じてハンドブックの内容を付け加えていくというということとなっています。

このハンドブックは、第5部で「人権侵害の申立てに対する調査の任務」と題して、「人権委員会」の行う調査権限に関して言及しています。抜粋しつつ考えます。
2  申立てに対する調査
  (1)  申立制度の重要性
  ・  市民の権利が十分に擁護されるための補充的なメカニズム
  ・  「補充性」とは,国内機構の申立事件処理機能が,司法手続や他の制度化された手続では提供できないものを提供できるべきだという意味を含む
※ここにおける「補充的」意味の定義から、個別的人権侵害事案につき、他の手段による適切な救済が得られない場合に、「人権委員会」が介入するよう国内法を定めることができることになります。

 (2)  申立制度の確立
  (a)  どのような申立てが調査の対象とされるべきか
  ・  申立ての許容要件(申立ての相手方と申立事項の範囲)は,できる限り明確に定められるべき。
  ・  例えば,「人権侵害」を調査する権限という場合には,他の機構によって適切に扱うべき問題をも包含すると解されかねず,有用なことではない。
※当然、「人権委員会」の所掌事項は明確に定められなければなりません。これには二つの意味合いがあります。ひとつは、他の国家機関による干渉を排除するためには専権(もしくは優位)事項を明確化する必要があること。もうひとつは、「人権委員会」の暴走による人権侵害を防ぐ必要があることです。この点は、各国の事情に応じて、そのいずれに重きを置くかが決まってきます。インドなどの途上国の場合は前者に、欧米などでは後者に重きが置かれる場合も多いものと考えます。そのあたりは「諸外国の国内人権機構等一覧」からもうかがうことが出来ます。「人権委員会」に立ち入り権限を与えているのは、この一覧の中ではインドやスリランカだけののようですから。一方、フランスの「国家人権諮問委員会」は個別の人権救済事案自体を取り扱っていないようです。(続く)

パリ原則とやらを読んでみた5(まとめ)

2005-05-19 00:00:00 | 人権擁護法案
国内機構の地位に関する原則(パリ原則) 《外務省HP》

パリ原則英文版《国連人権高等弁務官事務所HP》

「国内人権機構:人権の促進と擁護のための国内機構の設立と強化に関するハンドブック」について《外務省HP》

パリ原則を読んでみてわかったことを箇条書きにしてみます。
1.「国内機構」=「人権委員会」の任務は、原則として、「議会・政府等に対して勧告を行うこと」である(【権限及び責務】3(a))。つまり、「人権委員会」は法令等制度の改善を勧告することで多数派の支配する民主政のプロセスに働きかけ、それによって一般的な形で人権の救済を行うことが予定されているということです。
2.「人権委員会」に、個別の人権侵害事案を扱う権限を与えることもできる。しかし、その場合でも、議会・政府への働きかけにより法令の改善を通じて人権救済を行うことが「人権委員会」の原則的任務であることに鑑みれば、公平性に配慮しなければならない(【準司法的権限を有する委員会の地位に関する補充的な原則】本文)。つまり、「人権委員会」が個別の事案に介入するとしても、特定の事案に集中的に深入りするようなことがあってはならないということです。そういうことは、法令等の改善を通じてなされることが原則だからです。
3.「人権委員会」は「議会・政府等に対して勧告を行う」ために必要な範囲で「いかなる者からも聴取し,いかなる情報や文書をも入手する」ことができる(【活動の方法】(b))。パリ原則のどこを読んでも「人権委員会」が個別の事案に介入する場合に情報の入手等につき強制権限を持つとは書いてありません。「人権委員会」の情報入手等に関する強制権限は、あくまで「その活動の枠組みの中で」(【活動の方法】本文)与えられるものです。 そして、「その活動の枠組み」が個別的な事案を指すものではないことは明らかです。「人権」だから「拡大解釈してもいい」ということにはならないのは当然です
もっとも、個別の事案に強制権限を付与するべきという国連文書がないではありません。それは「国内人権機構:人権の促進と擁護のための国内機構の設立と強化に関するハンドブック」です。これについては、つぎに書きます。

「パリ原則」はそれ自体が直接国内通用力を持つ条約ではなく、国内法への変成手続きを必要とする条約です。そして、その手続きによって提案されたのがこの度の「人権擁護法案」ということになります。以上のような内容を持った「パリ原則」から、今回の「人権擁護法案」が生まれたことに奇異な感を受けざるを得ません。

パリ原則とやらを読んでみた4

2005-05-18 00:00:00 | 人権擁護法案
国内機構の地位に関する原則(パリ原則) 《外務省HP》

パリ原則英文版《国連人権高等弁務官事務所HP》

本原則中、最も問題を孕む章です。それは人権フォーラム21のHPが「人権擁護法案」中一番の問題点である「一般救済」「特別救済」をこの章との関連で位置づけていることからもわかります。

【準司法的権限を有する委員会の地位に関する補充的な原則】
 国内機構に対しては,個別の情況に関する申立てないし申請を審理し,検討する権限を与えることができる。国内機構の扱う事件は,個人,個人の代理人,第三者,NGO,労働組合の連合会及びその他の代表制組織が持ち込むことができる。この場合,機構に委ねられた機能は,委員会の他の権限に関する上記の原則を変更することなく,以下の原則に基づくことができる。
(a)  調停により,又は法に規定された制約の範囲内で,拘束力のある決定によって,また必要な場合には非公開で,友好的な解決を追求すること。
(b)  申請を行った当事者に対し,その者の権利,特に利用可能な救済を教示し,その利用を促進すること。
(c)  法に規程された制約の範囲内で,申立てないし申請を審理し,又はそれらを他の権限ある機関に付託すること。
(d)  特に,法律,規則,行政実務が,権利を主張するために申請を提出する人々が直面する困難を生じさせてきた場合には,特にそれらの修正や全面改正を提案することによって,権限ある機関に勧告を行うこと。

※パリ原則における「人権委員会」の第一次的任務は「議会・政府に対して勧告すること」です。したがって、個別の事案の解決に「人権委員会」が直接乗り出すことは原則できないことになっています。個別の事案に対して「人権委員会」がなしうるのは、原則として「議会・政府に対する勧告」のための情報収集することまでです。本章はその原則に対する例外をなします。すなわち、個別の事案につき「人権委員会」が乗り出すということです。
※本章は「補充的原則」であり、本章の権能を「人権委員会」に付与することを条約が求めているわけではありません(現にフランスでは認められていない)。本章の権能を「人権委員会」に与えると決定した場合、その準拠すべき原則を示したというわけです。
※(b)ないし(d)に関しては、問題はないと思います。問題は(a)です。これが公権力による人権侵害について適用される限りは全く問題ありません。しかし、条文上何の留保もないということは、私人間における人権侵害を禁ずる法律がある限り、「人権委員会」がその法律の執行として、拘束力のある決定等を行うことが出来るということです。この条項に基づき「人権擁護法案」では人権侵害一般を禁じておいて、その執行として、「一般救済」「特別救済」を規定しているのです。
※ただ、これらの権限は「人権委員会の職権行使の原則」、すなわち「議会・政府の対する勧告をおこなう」という目的を「変更することなく」おこなわれなければなりません。すなわち、特定の事案につき不公平に介入することはあってはならないということです。あくまで「人権委員会」の権限行使は議会・政府に対する勧告を通じて、法令等の改善によりなされる、すなわち、「一般性」のある形で実現されることが予定されているからです。
※この部分に関して人権フォーラム21のHPは意図的?な誤訳を掲げているようにわたしにはおもえます。彼らのHPによると本章の本文は以下のように翻訳されています
 国内人権機関は、個人の状況に関する苦情や申立を聴聞および検討する権限をもつことができる。個人、その代理人、第三者、NGO、労働組合連合またはその他の代表組織は事案を国内人権機関に提起できる。かかる場合には、委員会の他の権限に関する上記の原則にかかわらず、国内人権機関の機能は以下の原則に基づくものとすることができる。
外務省訳との一番の違いは「上記の原則にかかわらず」という部分です。これでは、「人権委員会」の第一の職責である「議会・政府に対して勧告する」と無関係に、個別的な事案に乗り出すことが出来るように読めてしまいます。では原文はどうなっているかといえば、",and without prejudice to the principles stated above concerning the other powers of the commissions"となっており、",and without prejudice"の部分を「~にかかわらず」と訳したことがわかります。しかし、これは不正確です。文章の前後との関係で普通に訳せば「公平さを損なうことなく」くらいの意味となるはずですから。わざわざ"without prejudice"という表現を使ったのは、「人権委員会」の第一の任務が「議会・政府に対して勧告すること」を通じて法令等を改善し一般的な形で人権救済を図ることである以上、個別的な案件に首を突っ込むとしても、不公平があってはならないという点を強調するためだと考えるべきです。あくまで、法令等の改善勧告が「人権委員会」の第一次的な任務なのです。(続く)

パリ原則とやらを読んでみた3

2005-05-17 00:00:00 | 人権擁護法案
国内機構の地位に関する原則(パリ原則) 《外務省HP》

パリ原則英文版《国連人権高等弁務官事務所HP》

【活動の方法】
国内機構は,その活動の枠組みの中で,
(a)  政府からの付託か,上位機関に対する照会なしに自ら取り上げたかにかかわらず,構成メンバー又は申立人の申出により,その権限内の問題を自由に検討する。
(b)  権限の範囲内の情況を評価するのに必要であれば,いかなる者からも聴取し,いかなる情報や文書をも入手する。
(c)  特に,機構の意見及び勧告を公表するため,直接又は報道機関を通じて,世論に働きかける。
(d)  定期的に,また必要な場合はいつでも,正式な招集手続を経た上,すべてのメンバーの出席の下に会合を開く。
(e)  必要に応じてメンバーによるワーキンググループを設置し,機構の機能の履行を補助するために,地方又は地域事務所を設ける
(f)  管轄を有するか否かにかかわらず,人権の促進及び擁護の責務を有する組織(特にオンブズマン,調停人及び同種の機構)との協議を継続する。
(g)  国内機構の活動の拡充において非政府組織が果たす基本的な役割を考慮して,人権の促進及び擁護,経済的,社会的な発展,人種差別主義との闘い,被害を受けやすい集団(特に子ども,移住労働者,難民,身体的・精神的障害者)の擁護並びに専門分野に取り組んでいるNGOとの関係を発展させる。

※この章は冒頭に「その活動の枠組みの中で」という留保がついており、そこが重要です。「国内機構の活動の枠組み」とは、すなわち「議会・政府等に対して勧告する」ということだからです。それを忘れてここの条項を読むとえらいことになります。
※本章で問題となる条項は(b)と(g)です。(b)は「人権委員会」に強制権限を付与する根拠となります。また(g)は前述した亀井郁夫議員の危惧そのままの条文です。
※(b)の意味するところは、「人権委員会」が情報等を入手する場合、その対象を制限せず、またその際、他の国家機関(特に政府)の干渉を受けないということです。そして、その対象はまず国家機関の保有する文書ということになるはずです。なぜなら、あくまで「議会・政府に勧告する」という人権委員会の職責のため認められる権能だからです。
※(d)は「関係を発展させる」とありますが、これはいかにもまずい。額面通りに受け止めれば至極もっともなのですが、亀井郁夫議員の報告にあるような我が国固有の状況が、現在はそれを許しません。(続く)