毛唐もすなるブログといふものを

日本男児もしてみむとてするなり

人権擁護法案・冬の陣

2005-09-30 17:58:59 | 人権擁護法案
小泉首相が来年の通常国会に人権擁護法案を提出することに意欲を示したという。公明党がことのほかこだわる法案であり予想されたことで驚きはない。しかし、「小選挙区は自民に、比例は公明党に」という、自ら主張する「政党本位の選挙」を否定するかの如きズブズブの選挙協力により、かつてないほど公明党と一体化した自民党、しかも、小泉首相に逆らう者がほぼ一掃された自民党にあって、圧倒的な権力を手にした小泉首相自身が明確に「人権擁護法成立を目指す」と表明したのだからただ事ではない。さらに、先の国会への提案を巡り自民党内で提案に反対した中核部隊の議員が先の選挙で、ある者は落選し(城内、衛藤、森岡)、またある者は党外に追いやられ(平沼、古屋、古川)た現在、先の国会の時と比較にならないくらい法案を巡る状況は厳しい。先の国会におけるマスコミの姿勢からしても産経を除く新聞・テレビ媒体は全く当てにならない。先の国会の会期中のほとんどの期間、産経以外の新聞・テレビ媒体は人権擁護法案提出を巡る動きを黙殺し、その成立に間接的に手を貸した(アサヒは積極賛成派)。もっとも、国会の会期末あたりからアサヒを除きこの法案の問題点を少しは書き始めているから、来年の提出へ向けてアサヒを除く新聞・テレビ媒体は人権擁護法の問題点を全く書かないわけにはいかないだろう。しかし、今回の郵政民営化に関する報道にも見られるように、それらの問題点の報道に「圧倒的なデマ」をかぶせることで、結局国民世論を人権擁護法賛成の方向へ誘導するのではないか。国民も一見耳障りの良い「人権擁護」という言葉に騙されて深く考えず賛成するのではないか。先の国会における人権擁護法案の提出騒動でも、また郵政民営化をめぐる選挙にせよ、そこで明らかになったのは、「ネットの波及力の限界」というより既存のメディアと比較した場合の「波及力のあまりの小ささ」だった。その小さな波及力でもって、大手マスメディアを従える小泉自民党の提案、策略に抗することができるのか。今の自民党議員に人権擁護法案の問題点を訴えて議員個人の理解を得たとしても、小泉首相が賛成し、党が賛成を指示する法案に反対できる議員がどれほどいるだろうか。返す返すも公明党と一体化した小泉自民党に3分の2を超える議席を与え、郵政以外の事項については白紙委任を与えるかの如き選択をしたわが同胞を恨む他ない。しかしその原因は、自由民主主義の基盤である情報の流通を担うマスメディアを、戦後我々が育てることができなかったことに帰着する。ネットというマスメディアを今度こそきちんと育てることが日本の自由民主主義の基礎を築くことにつながるに違いない。今回の人権擁護法をそのための切っ掛けとしなければならない。圧力団体の悪巧みを自由民主主義が返り討ちにしなければならない。そのためには、ネットでの情報を共有する人たちのネットワークを構築しなければならない。このネットワークはネット上のバーチャルなものが、顔の見える個人間のネットワークとリンクしなければ効果はない。ネット上で人権擁護法案の問題点にアクセスした個人個人の自覚が問われるのである。自分限りで問題点を認識しただけでは自由民主主義者の望む結果は得られないであろう。ネット内で活動しても限界著しい。先の国会において、先の総選挙において明白となったネットの限界から学ぶなら、なすべきことは明白だ。各人が得た情報を自分の個人的ネットワークに顔の見える形で流すことだ。ネットにアクセスできない人に出来る限り情報を流すことだ。問題点を的確に伝えられる短いフレーズをネット上で収集すべきだ。わたしも鋭意努力しようとおもう。人権擁護法案・夏の陣は我ら反対派の勝利に終わった。冬の陣は更に厳しい戦いが待っている。既に外堀は埋められた。各自更なる奮闘が求められるゆえんである。以上。(少しえらそげでスマン。でもこういうえらさおげな文章書くのって何やら快感ですわ。アブナイアブナイ。)

道路公団民営化~すべての改革は株主様の利益に通ず

2005-09-29 17:51:48 | 改革狂騒曲
いよいよ道路4公団が民営化されます。この民営化については散々論じられてきましたが、わたしはどうも腑に落ちないことが多い。いや多過ぎる。何か裏があるように思えてなりません。そもそも道路4公団についてマスコミ等で流布されてきたイメージにはおかしなものが多過ぎる。「40兆円もの借金があって云々」というのがその代表例です。わたしも当初は「これは大変だ!」とおもっていました。しかしある日ふと目にした番組に出ていた人が「道路公団とは儲けるための組織ではなく、つまるところ借金を返すための組織であって借金があるのが当たり前」と言ったのを聞き目から鱗でした。なるほど、借金の額のみを殊更強調するのは公平ではないと感じたわけです。わたしはそれ以来、マスコミ等で流布される情報には眉につばを付けて接するようにして来ました。

思い起こせば、日本道路公団等の道路関係の特殊法人は税収の乏しかった時期に、戦後復興、経済発展のための道路建設促進を主たる目的として設立されたものだったように記憶します。道路は無料が原則であり、料金を徴収するのは例外だったはずです。しかし元々日本の社会インフラの整備は欧米先進国に比して相当遅れており、限られた国家財政の中でこの原則を維持すると道路建設は遅々として進まず、日本がこれら欧米先進諸国に対抗して高度成長を遂げる足枷となることは明白でした。高度成長期を支えるためには物流の大動脈となりつつあった道路の建設を積極的に推進することが欠かせなかったのです。そこで、道路公団等による大々的な道路建設が始まったわけです。したがって、道路公団等が有料で道路建設を行い料金を徴収することは、「復興、経済発展を維持する」という目的において許されるのが原則のはずです。

しかし、現在の道路建設は「過疎地にも道路を」といった具合に、「国土の均衡ある発展」という目的でなされています。「国土の均衡ある発展」のための道路であれば、原則に戻って税金で作り無料で通行できるようにするべきです。仮に通行料金を徴収するにせよそれは維持管理費相当額に限られるべきです。「復興、経済発展の維持」という道路公団等の有料道路建設の本来の目的からすれば、そうすべきです。そう考えれば、少なくとも日本道路公団は既にその目的を達した公団であり、新規路線の着工は中止して借金を返済し次第清算し解散するのが筋ということになります。仮に道路公団が借金を返せないというのなら、それこそ国債を40兆円発行して完全国有化して無料解放すればいいのではないか。それが国民の利益にかなうのではないか。道路という公共財の性質上そうすることが筋ではないか。それを何故に民営化して半永久的に組織を存続させようとするのか、半永久的に通行料金を徴収し続ける枠組みに移行しようとするのか。どういう裏があるのでしょうか。疑いたくもなります。

民営化推進派はこう言うのでしょう。「民営化しない限り道路新規着工は止まらないし、道路公団は債務超過であってこのままでは国民負担は増えるばかりだ」とか何とかと。しかし当たり前ですが民営化はすべてを解決する「魔法の杖」ではありません。民営化するということは「特殊法人」から「営利社団法人」になるということです。「(建前にせよ)公益を追求する組織」から「私益(≒株主の利益)を追求する組織」に変わるということです。道路というのは本来誰もが利用できる公共財であり、無料で通行できるのが原則ということに異論は少ないでしょう。そういう公共財、しかも国民の負担の上に建設された国民の共有財産を民営化の名の下に株式会社化し、将来借金を返し終わった暁にも無料解放せず、株主の利益を追求する組織のものとすることは、短期的な国民負担は減るように見えてその実半永久的に国民負担を強いるものではないでしょうか。民営化しないと借金は返せないかの如き印象を政府やマスコミは振りまいていますが本当にそうなのか。民営化しないと新規路線着工は止められないという印象を振りまいているが本当にそうなのか。先ずそこが徹底的に問われねばならないし、仮に返せないとしても次ぎに株式会社化の是非が別途問題にならねばならないはずです。しかし、そういう検討はほとんど行われませんでした。

民営化推進派は道路族の抵抗で民営化は中途半端に終わり、新規着工を阻止できない枠組みになってしまったと言います。それは事実です。無駄を垂れ流す道路族(首魁=古賀誠=人権擁護法案推進派の首魁でもある)は成敗せねばなりません。しかし、自由民主主義を採用するからには社会の様々な利害の調整は原則として議員の立法行為によりなされねばなりません。そうであれば道路族そのものを全滅させるのは官僚主義に道を通じており健全ではありません。道路公団民営化が上下分離になったことを民営化推進派は非難します。確かに、財務省・国土交通省連合軍という「官の抵抗」でそういう結果になったのでしょうが、結果から見れば、日本国民の利益はギリギリのところで守られたようにわたしにはおもえます。なぜなら、国民の共有財産であり日本の公共財である道路資産は国有のまま残るからです。かなうことなら道路特定財源を道路公団等の借金返済につぎ込み返済し、株式売却前に無料解放してもらいたい。

わたしは、小泉改革の正体は、国民の負担の上に築かれた共有財産を、「特殊法人改革」や「小さな政府」というスローガンのもと、株式化して市場に放り込むことだとおもいます。早い話が明治末期の官有財産の払い下げのようなものです。当時も首尾よく官有財産の払い下げを受けた者は大儲けをしました。三菱などその典型でしょう。その当時は一から近代産業を育成する必要があったので、官有企業の払い下げはそれなりの合理性もあったようにおもいますが、現在行われようとしている払い下げに合理性はあるのでしょうか。国民の共有財産を株式市場に放り込み、株主の利益を追求する企業に変えてしまうには、そうすることの合理性が厳しく問われねばなりません。しかし、現在は「民営化=善」という、わたしに言わせれば幻想のもと、民営化の合理性をほとんど問われず、国民の共有財産がどんどん株式市場に放り込まれようとしています。本当にこれでいいのでしょうか。グローバル化が席巻する現在の市場における株式会社の行動原理は「株主利益の追求」です。そして現在の日米の株価の差を考えれば、米資は相当の安値で株式会社化された日本国民の共有財産を取得できるのです。もちろん村上ファンドや堀江のような連中も取得に走るでしょう。そうして株主になれた者が本来国民全体が受けるべき利益を山分けする結果となるのではないでしょうか。

すべての改革は株主様の利益に通ず。

小泉構造改革の目的と手段との関係

2005-09-28 17:34:32 | 改革狂騒曲
※高速道会社 「つくらない」覚悟を《アサヒ》

40兆円超の有利子負債を抱え、業者との談合による高額な工事費を払い、用地買収には不動産鑑定士協会が協力するなという通達を出すほどの高額の値段を呈示し、職員にはその仕事と比して相当高額な給料を払って来た日本道路公団をはじめとする道路関連の公社・公団は、郵政とは比較にならない、まさに「改革の本丸」でした。しかしこれについて小泉首相は郵政民営化のときのような「こだわり」(よく言えば「指導力」だけど実体は「独裁的手法」)をほとんど見せませんでした。その結果アサヒの言うように中途半端な改革に終わったことは記憶に新しいところです。

道路公団などに対して郵政事業は黒字で職員の給与水準は極めて低く政府に利益の半分を納め財政に貢献しています。少なくとも道路に比べれば比較にならないほど改革の必要性に乏しい。そもそも「構造改革」が特殊法人の無駄が作り出す不良債権、つまり「官の作り出す不良債権問題改革」だったことを考えれば、郵政と道路のいずれが「改革の本丸」かと問えば明らかに道路です。しかし現実は逆転しています。もちろん特殊法人の資金源を断つという「入口論」には説得力がありました。しかし特殊法人の財源が財投債に切り替わった今、「入口論」の説得力は大幅に後退しました。それなのに「入口論」をいつの間にか「小さな政府論」に変えて何が何でも郵政を民営化するというのです。

そもそも小泉首相の目的は、「構造改革」ではなく「郵政民営化」なのではないか、そういう疑念が湧いてきます。小泉首相にとっての「構造改革」は「郵政民営化」という目的を達成するための手段に過ぎないのではないかということです。「構造改革のために郵政民営化がある」のではなく「郵政民営化のために構造改革がある」のではないかということです。「郵政民営化」が実現できるならその手段は何だって構わないのです。そこに付け込んだのが財務省です。財務省は財投債への移行により財投問題は区切りが付いたと主張した上で、「郵政民営化」の理由を「小さな政府」という財務省に都合のいいものに切り替えっせたのです。小泉首相にしてみれば「郵政民営化」が実現できるならその手段は何でもいいのだから、この財務省の提案に飛びつかないはずはありません。最強の財務省と戦わずして「郵政民営化」が実現できるという小泉首相にとっては夢のような話だったからです。多くの国民はこの点を誤解し騙されているようにわたしはおもいます。では小泉首相の郵政に対しするひとかたならぬこだわりその淵源は何なのでしょうか。

そういえば昨日のアサヒ社説に『三十年来の念願だった郵政民営化の実現についに手をかけた首相』というくだりがありました。小泉首相の郵政民営化へのこだわりは当選当初に遡るということです。やはり最初の選挙で郵政票を得られず落選したことが郵政民営化のもともとの出発点だったと考えたほうが合点がいきます。小泉首相の脳内で「特殊法人改革」とは自分のキャリアに落選という傷をつけた郵政に復讐するための手段という位置づけだったに違いありません。道路と郵政を比較してみればそのように推論することが妥当です。

小泉首相は「官の作り出す不良債権問題」に関心があるのではなく「郵政民営化」にのみ関心があるのです。「郵政民営化」という目的を達成する手段として「構造改革」があるのです。小泉首相の考えがそのようなものであるから、郵政民営化後の展望はほとんどなく、いずれ後継者に丸投げするに違いありません。政府系金融機関の整理はこれまで「改革」を叫んできた行きがかり上政治日程に上げはしましたが、郵政民営化という目的が達成された以上それに最早それらはどうでもいいこと、小泉首相の言葉を引用すれば「大したことない」ということになるに違いありません。

小泉首相は無意識にせよ「公」である政治を「私」する不埒な輩と考えた方がよさそうです。

※道路公団民営化は中途半端な形になりましたが、わたしは上下一体による民営化という最悪の事態は回避できたと考えています。それについては後日。

所信表明演説

2005-09-27 17:54:38 | 改革狂騒曲
※小泉首相所信表明演説全文《岩手日報》

昨日国会で小泉首相の所信表明演説がおこなわれ、各紙ともそれを社説で取り上げています。主要5紙の評価は、小泉首相への評価が甘い順に、産経・讀賣・日経・アサヒ・毎日の順で(産経社説からは各紙へのリンクが貼ってあるので便利です)、この中でわたしが一読を勧めるのは毎日の社説(社説:小泉演説 「あと1年」は消化試合なのか)です。

この社説はこう書きます。

『郵政民営化がすべての改革の出発点というなら、残る諸課題を具体的にどうしたいのか、せめて方向性くらいは示すべきだった。』

「それを選挙の前に書いてくれよ!」とおもうのはわたしだけではないでしょう。

讀賣も、

『しかし、課題を示すだけで、具体的な内容には言及しなかった。今国会の会期が短く、実質的には「郵政国会」となるからだろう。』

『郵政民営化関連法案を成立させた後、何を優先し、どんな手順で実現をはかっていくのか。首相は国会審議の中で、具体的な道筋を説明すべきだ。』

と書き、郵政以外極めて抽象的な総論に終始したとの評価です。
これに対してポチ・サンケイは、

『首相が力点を置いたのは、公務員人件費などへの切り込みによる小さな政府の実現だ。「政府の規模を大胆に縮減する」とうたい、具体的には、国家公務員の給与体系を「民間の給与実態に合わせる」とし、定員の純減目標を設定すると明言した。』

と、積極的に評価しています。どちらの印象が正しいかは、冒頭に所信表明演説の全文へのリンクを貼っておいたので、自分で読み判断されることをお勧めします。十分もあれば十分読めます(シャレではありませんので念のため)。

わたしの読んでみての印象は、「郵政民営化」については具体的、「地方への税源委譲」と「公務員の定員と給与改革」については具体例を少々挙げた、「政府系金融機関改革」と「社会保障制度改革」については総論のみ、といったところでしょうか。

小泉首相はこの演説の中でこう述べています。

『改革を進めていく際、基本的な方針は支持されるのに、個別の具体論に入ると、既得権益の壁にぶつかり根強い反対に直面します。』(「郵政民営化と構造改革の加速」の冒頭部分)

もとよりわたしも「改革の基本方針」についてはほぼ賛成です。改革の機は熟しているとおもいます。しかし改革とは小泉首相が考えるものが常に正しいとは限りません。もちろんわたしの考えるものが正しいとも限らない。人間の力には常に限界があり容易に正解を知り得ないから議論するのです。小泉首相は自分に反対する勢力を『既得権の壁』と表現し切り捨てます。確かに『既得権の壁』は打破しなければなりません。しかし既得権からではない反対論も現実に多数あるわけです。ほとんど報道されないため大多数の国民にはそういう反対論は届いていませんが確かに存在し特別委員会でも散々問題になりました。小泉内閣はそういった問題点の指摘に真摯に答えていません。答える気がそもそもなかったのでしょう。その点は残念ながらこの演説でも一貫しています。一体誰のための改革なのでしょうか。

そのこととも多少関連しますが、小泉首相は「自分の言う郵政民営化」がすべて改革につながる本丸だと散々繰り返してきました。その割りに郵政民営化がほぼ確実視される今国会の演説に郵政民営化がどのようにすべての改革につながるのか説明すべきでした。しかし、それらについては総じて抽象的表現に終始しました。なぜか。

それは、小泉政権が郵政民営化以外の改革については、具体的なビジョンを全く持ち合わせていないからに相違ありません。少なくとも現政権下では手を付ける気がない、そういうことでしょう。選挙で「郵政民営化はすべての構造改革につながる改革の本丸だ!」と絶叫しましたが、それは全くのスローガンに過ぎず、すべての改革にどうつながるかは、良くて「これから考えます」と言ったところで、実際は「退陣するので考えるのは次の人」とおもっているのではないでしょうか。『演説自体、新年度予算編成を受けた来年1月の施政方針演説までのつなぎという位置づけなのだろう』《毎日》との見方もできますが、それは買いかぶりだとおもいます。郵政後が見ものです。

小泉主義者は「小泉首相はやってくれるはずだ」と漠然と信じている傾向が顕著です。それはB層と呼ばれた人たちだけではなく、それなりに教養をもった社会人でも同様です。そういった人たちに小泉改革を信頼する根拠を尋ねると、「以前の橋本派時代よりましだ」という風な反応が返ってくることが頗る多いわけです。確かに就任1年目や2年目ならともかく、4年もやっていれば小泉首相自身の中身がもっと冷静に客観的に問われるべきではないかとわたしはおもいます。そういえばわたしも昔は小泉首相に期待した時期もありました。とっくに覚めましたけど。

ところで、毎日は、

『首相は「任期満了まで4年間は衆院選はない」と語っているという。自分が退陣した後もしばらく自民・公明政権が続くということだろう。ならば来秋以降、後継者にどうつなげるか、その道筋をつけることも、選挙で圧倒的支持を受けた首相の責務のはずだ。』

と書いています。常識的に考えて、これだけ大勝すれば4年間選挙はないでしょう。でもそれはこの度の選挙のとき散々自民公明民主党が流布したことに反するはずです。だって総選挙は国民が『首相を選ぶ選挙』だったはずですよね。ならば、小泉退陣後に選挙も経ずに後継首相を決めるのは良くないはずです。特に、今回のような単一争点でなおかつ首相指名選挙だということを強調した選挙では。郵政民営化法案が成立し小泉首相が退陣する時にはもう一度解散すべきとおもいます。

そうそう、先の毎日社説はこう締めくくります。

『「来秋まで」と首相が手じまい日程を示していることが、かえって改革を実現していくうえで足かせになっているのではないか。このままでは、残る1年は消化試合になってしまわないか--。そんな懸念を抱かせた演説である。』

奥歯に物の挟まったような言い方です。分かってるけど書かないということが行間から滲み出ています。要するに小泉首相は郵政以外に興味がない。そういうことです。初出馬の時の落選の原因は郵便局が支援しなかったからであり、輝かしい自分のキャリアに傷をつけた郵便局の連中は許さない。小泉首相の三十年来の一念はかなうのでしょう。おめでとう。さっさと退陣してくれ・・・とおもったが撤回。ボロを国民の前に晒して影響力がなくなってから退陣するのがいい。小池百合子などを首相にして院政を敷くなどされたらたまらないからね。

【素朴な疑念】で逃げるポチ・サンケイ

2005-09-26 15:18:30 | 社説に一言
■【主張】イラン核疑惑 「第二の北朝鮮」の回避を《産経》

社説はこう書きます。

『 イランに関しては、石油、天然ガスの確認埋蔵量がいずれも世界第二位のエネルギー大国がなぜ多額の資金を投入してまで原子力発電にこだわるのか、との【素朴な疑念】が消えない。であるのに、国際社会の総意が容易に形成できない背景にはイランをめぐる各国の複雑な利害得失がある。』

読者の【素朴な疑念】に手短にこたえるのが優れたジャーナリズムだとおもいますが、この社説はそれを放棄しています。分かってて書かない。そしてそれを誤魔化すかのように『国際社会の合意云々・・・』と続ける。ジャーナリズムがこのようなことをやるのは犯罪的です。

いや素朴な疑問に一応答えているのかもしれません。社説はこう続けます。

『今、何より重要なのは、イランがIAEAの枠から飛び出し「第二の北朝鮮」となる事態を回避することだ。孤立を逆手にとる北朝鮮とは違い、イランは冷静な利害計算ができる国である。それゆえIAEAには「平和利用の証明」を求め続ける責務があり、国際社会には中東和平プロセスの進展など、【イランの核兵器保有への動機】を除去する努力が求められる。』

ここの【イランの核兵器保有への動機】は先の【素朴な疑念】とほぼ同義でしょうから、産経はイランが核兵器保有に走る動機(のひとつ)を中東和平プロセスが進展しないことに求めているということでしょう。なぜこのようなデマを書くのか。アメリカの忠犬と化したポチ・サンケイには本当のことは書けないのか。嘆かわしい。

もともとイランの核開発は、イラン・イスラム革命(1979年2月)と、それに続くテヘランのアメリカ大使館人質事件(1979年11月~)、それによるアメリカとの断交・対立、そしてアメリカの支援を受けたサダム・フセイン率いるイラクとの戦争=イラン・イラク戦争(1980~1988)を機に始まったものです。以前の親米路線のパーレビ政権下ではそのような動きは具体化することはありませんでした。したがってイランの核開発はアメリカへの対抗、すなわちアメリカによるイスラム革命体制転覆への抑止効果を狙いに始まったわけです。もちろん隣国のイラクがこの時期にフランスの技術援助のもと原子力発電所を建設していたこともイランを核開発へと向かわせる動機のひとつにはなったはずですが、元々の動機が対米独立ですから、イラクの原発を(多分アメリカの同意のもと)1981年にイスラエル空軍が空爆で破壊)しても、イランの核開発への動機が消えることはなかったのです。それどころか、アメリカによるフセイン政権転覆を間近で見たイランは、今まで以上に核開発に本腰を入れているはずです。

そもそも、同じイスラムといえどもイランは大多数がシーア派で大多数がスンナ派のアラブ人とは異なります。また、民族的にもパレスティナはアラブ人、イランはペルシャ人です。言葉もまったく異なります。パレスティナの問題などイランにとっては取るに足らないことに違いありません。サンケイはアメリカに気兼ねしてアメリカによるイランの体制転覆への圧力こそがイラン核開発の動機だとういうことを書かないのでしょう。【素朴な疑問】などとよくもまあいけしゃぁしゃぁと書けたものです。

米国から見た日本

2005-09-25 00:43:11 | 改革狂騒曲
他人の目に自分がどのように映るかを想像する力は人間関係構築の基本的要素です。わたしも日々その力を磨こうと切磋琢磨する夢を見るのですがなかなか現実のものとはなりません。

突然、なにゆえこのようなことを言い出したかというと先ごろの選挙が切っ掛けです。比較的身近な中年女性(既婚・子供も既婚)が「わたしも候補者にホリエモンがいれば入れるのに」と言ったのにおどろいたからです。彼女のダンナさんは中企業に勤める普通のサラリーマンで特別豊かな生活をしているわけではありません。日々慎ましやかに暮らしているごく普通の人です。わたしは彼女に聞きました。「あなたのような普通の人はホリエモンの目にどのように映ってるのか考えたことありますか?」と。彼女はきょとんとした顔をして「さあ」と言うばかりでした。

わたしが想像するに彼女のような人はホリエの目には「いくらでも代えのきく働き手」「頭の悪いバカで現代の奴隷階級のような連中」。そんなところではないでしょうか。端的に言えば収奪の対象であり物同様の存在に過ぎないはずです。「女のこころは金で買える」と言ったのは受け狙いというよりこの人物の本心ではないかとわたしは想像します。わたしはそのようなことをこの女性に申し上げました。それでも反応は鈍くわたしが何を言わんとするのかを分かりかねる様子でした。つくづく変な世の中だとおもいます。

で、今日のお題です。米国からわが日本国はどのように映るのでしょうか。この場合指導者層の目にどのように映るかが問題です。多分「沢山の貯蓄をもち、国民は欧米に比較すれば羊のようにおとなしく、物作りの技術力をもつ企業が多く、ユーラシア大陸を東に位置する戦力上重要拠点」。そんな感じではないでしょうか。米国は当然自らの国益のために行動しますからうかうかしていると米国は日本から自分の欲しいものをどんどん奪い去ってしまうでしょう。冷戦終了後10年を経てその流れは急であるようにわたしにはおもわれます。郵政民営化で貯蓄を、三角合併を可能にする商法の大改正で金と技術力を持ち去ろうとしているのではないかと懸念します。経済力と技術力を収奪された後に米国から見て残る日本の価値は安定的奴隷労働力の供給基地とその戦略的位置くらいかもしれません。そうならないように米国の目に映るであろう日本の姿にもう少し想像力を働かせるべきではなかろうかとおもう次第です。


小泉首相の未来

2005-09-24 11:14:54 | 改革狂騒曲
社説:政策金融改革 官僚にだまされず筋通せ《9/24毎日》

わたしなどは政策金融機関がどのような仕事を行っているかすらよく知らない身です。したがってその中身について云々することはできません。しかしこの社説はなかなか面白かった。この社説は最後にこう締めくくります。

『 詰まるところ、政治が官僚の省益を抑え込み、決断するしかない。小泉首相は長らく、大蔵族と言われてきた。首相就任後の政策運営でも、財務省を後ろ盾にしているように見える。
 それに対して、政府系金融機関の廃止・統合問題では財務省と戦わなければならない。その覚悟はできているのか。』

覚悟なんかしていないからボロが出て国民の支持を失いひいては権力を失う前にる前さっさと引退して院政でも敷く気ではないんでしょうか。少なくとも財務省と戦う気などはなっからないに違いありません。この社説の書き手は暗にそのことを匂わせておりなかなか良心的です。

国民は小泉首相の『族議員と戦う』とか『官と戦う』というイメージに熱狂していますが族議員を潰すことは国民の代表でもない官僚が世の中の利害調整の主役の座につくことに道を通じており極めて社会主義的であって自由民主主義国家にそぐわないとわたしはおもいます。自由民主主義国において社会の様々な利害の調整は原則として議員が法律の制定を通じて行うべきで官僚はそれを補助する存在です。

また『官と戦う』といいますがその本丸・大本営である財務省を後ろ盾にしていては官と本気で戦うことなど出来るわけがありません。小泉首相の目的は郵政民営化という積年の恨み?を晴らすことでありその限りで『官と戦う』に過ぎず財務省とことを構える気はさらさらないに違いありません。財務省を後ろ盾にしていることそして財務省が小泉改革に全くといっていいほど抵抗いていないことが何よりの証拠です。抵抗したのは霞ヶ関の二流官庁といわれた旧郵政省だけです。結果小泉首相が局長級二名を更迭しましたがその実体は財務省が郵政省というトカゲの尻尾を切ったということです。

これからも改革の掛け声の下表面上改革は進むに違いありません。官僚も国民の圧力をひしひしと感じているからです。しかしそれは財務省を中心とする霞ヶ関が主導して策定し小泉首相がお墨付きを与えたものになるはずです。官僚はこれまでの失策を糊塗し自らの権限の温存を目指すのはほとんど自明ですからこれから行われる改革は国民の真に望むものとは程遠いものになるに違いありません。

国民は小泉首相がいずれ財務省と戦う日が来ると信じているのかもしれませんがそれは儚い夢に終わることでしょう。小泉首相は来年あたりにさっさと首相の座から降りて国民の望む改革が進まない責任を後任の内閣に押し付けるはずです。そして国民の小泉再登板待望論を背景にして院政を継続するのです。小泉首相に現時点で院政を敷く気はないかもしれません。しかし権力の魅力から果たして逃れられるのかと言えば多分無理でしょう。

参議院不要論考

2005-09-23 20:45:17 | 人権・憲法・法律
参院問題・きちんとした総括が必要だ(9/22讀賣社説)

アサヒ以外の大新聞がこのように程度の低い社説を掲載したことに驚きました。これを書いた編集委員は政治部に長く居過ぎて政局バカになり果てた御仁のようです。いい肴が手に入ったので一席ぶちたいとおもいます。

この社説はこんなことを書いています。

『法案に関する衆院優位を定める憲法の理念上、衆院で可決された重要法案を参院が否決するのは妥当なのか。「良識の府」とされ、党派的政治から距離を置くのが理想とされる参院が、政局激震の直接の原因となっていいのか……。』

『今回の場合、2か月近い政治空白を作り、重要課題への取り組みを先送りするという事態を招いた。政治の安定性を損ない、政策遂行のプロセスに混乱を生じた点を見過ごすことはできない。』

法律案の議決につき衆議院の優越を認める【憲法の理念】からすれば、内閣の速やかな政策遂行のため、衆議院で可決された内閣の重要法案について参議院はフリーハンドで賛成しろということのようです。それが【憲法の理念】であり【理想とされる参院】の姿なんだそうです。政局のみから【憲法の理念】を考察するとこういう結論になるのでしょうか。

現実の政治は憲法、特に統治制度を読み解く場合に重要であることは論を俟ちません。現実と遊離した理念を語っても条文が死文化するするのみならず、憲法そのものが骨抜きになり、ひいては国民の権利・自由にとって有害となりうるからです。しかし、現実の政治の不都合性を強調し理念をどうこう言うのは論理が逆です。自分の悪い頭で認識できた現実のみを基準に制度をいじくりまわそうとするのは合理主義者の悪い癖です。

現代の議院内閣制では議会と内閣との協働が特に重要視されます。それは、福祉国家を目指すことが大きな理由となっています。つまり、社会的弱者の権利救済・実質的平等の実現のためには、行政府と立法府はいたずらに対立するべきではなく、むしろ協働すべきであるということです。然るに、現政権の目指す方向は何か。小さな政府、自由競争社会ではないのでしょうか。その場合、国民の権利・自由を守るため、権力分立が重視されなければならないはずであり、議会と内閣との関係は【協働】よりも【抑制と均衡】を中心に考えねばならないはずです。自由国家を目指す場合、議会と内閣との協働は必ずしも重要でないばかりか、国民の自由の観点からは有害なはずです。

この憲法の制定当初から、民主的二院制には疑義が呈されてきました。『参議院は、衆議院と一致するときは不要であり、反するときは有害である』と言われていたようです。確かに、『参議院がどうしても必要だ』という根拠は昔はあまりなかったようにおもいます。わたしもそう考えていました。しかし、この度の郵政政局により考えを改めました。理由は小選挙区制にあります。党内民主主義の未熟な日本の政治風土で政党本位の選挙を行う場合に付きまとう党執行部の暴走を抑止する手段として参議院の有用性は再認識されるべきです。

参議院を維持するのには多額の費用がかかります。財政危機の日本ではその規模の縮小は議論されるべきでしょう。しかし、廃止するのは以上二つの理由により反対です。

解散権考(やや長文です)

2005-09-22 21:06:19 | 人権・憲法・法律
この度の選挙の切っ掛けとなった小泉内閣による衆議院の解散につき、憲法上の疑義が提起されています。これは極めて基本的かつ重要な問題ですから、この場で少し考えてみようと思います。

憲法上、内閣の衆議院解散権を正面から定めた規定はありません。手がかりとなる条文は二つあります。

【第7条 天皇は、内閣の助言と承認により、国民のために、左の国事に関する行為を行ふ。
3.衆議院を解散すること。】

【第69条 内閣は、衆議院で不信任の決議案を可決し、又は信任の決議案を否決したときは、10日以内に衆議院が解散されない限り、総辞職をしなければならない。】

69条から、衆議院で内閣不信任決議(信任案の否決)があった場合、衆議院が解散される場合があることがわかります。そして7条3号から、衆議院を解散するのは天皇であることは明確です。しかし天皇は国政に関する権能を有しない(4条1項)のだから、誰が衆議院の解散を【実質的に】決定するのかを解釈で決する必要があります。そして、先例・通説は内閣が天皇に対する助言と承認を通じて実質的決定を行うとしています。戦後衆議院不信任決議による最初の解散のとき、解散詔書には「憲法7条3号と69条により解散する」とされていましたが、それ以降は単に「7条3号により解散する」とされていることがそれを示しているといってよいでしょう。内閣が解散権を行使できるのは69条の場合に限定されるのかどうかについては議論の分かれるところですが、戦後一貫して69条の場合に限定されないとの政府解釈が行われ、裁判所もいわゆる【統治行為論】を用いて判断を下さないという立場である以上(苫米地事件=最高裁大法廷判決昭和35年6月8日=民集14・7・1206.)、実際上問題となるのは、【内閣の解散権行使の限界】です。つまり、内閣は自由に衆議院を解散できるのか否かの問題です。

この点について、政府は内閣には自由な解散権があると解釈していますが、政府以外の人たちは一般に内閣は自由に解散権を行使できないと考えるのが一般で、憲法学の圧倒的通説も解散権に限界ありとします。もっとも、もし限界を超えた違憲な解散が行われたとしても、それを法的に追求することは、裁判所が統治行為論により判断をしない現在不可能です。したがって政治的責任を追及する以外にないのが現状です。そして、現在の政治的状況においては内閣の政治的責任を追及することは不可能です。そのため、今回の解散が解散権の限界を超え違憲なものかどうかを検討することは、政治的には一見無意味なようにもおもえます。しかし、将来の歯止めのために解散権の限界につき今議論しておくことは必要です。苫米地事件以降今回まで、解散権の限界についてあまり議論をして来なかったことが、今回の解散権行使を傍観し曖昧なうちにやり過ごす原因となったからです。

憲法学の通説は、69条の場合以外で内閣が解散権を行使できるのは、内閣不信任と同視できるような議決がなされた場合や、任期満了が近づいている場合などに限られるとします。議院内閣制の本質として【議会の内閣への信任】を中心に考えるからです。一方、議員内閣制の本質として【議会と内閣との均衡】を加味して考えるならば、内閣は自由に衆議院を解散できるという方向に傾きます。議院内閣制の母国・イギリスでは、もともと衆議院の解散は国王の議会に対する懲罰として行われていたという歴史からは、議会と内閣との均衡→自由な解散権という流れになりそうです。しかし、現代では民主主義の進展により内閣は議会の信任に依拠するということに重きが置かれているのですから、内閣の自由な解散権は制限されるべきです。したがって、内閣が解散権を行使できるのは、原則として、議会の内閣に対する信任が失われたと見うる場合に限定すべきと考えます。また、現代の福祉主義的国家にあっては、議会と内閣との協働が特に要請されるので、協働関係に問題が生じた場合、その回復を目的とした解散も許されると考えるべきです。

では、今回の解散はどうでしょうか。郵政民営化法案は小泉内閣の最重要法案と首相がい言うのだからとりあえずその点はいいのでしょう。問題はそれが衆議院では可決されたものの【参議院で】否決されたから衆議院を解散することが許されるかです。まず大原則を押えると、憲法はこのような場合衆議院に返付して3分の2以上の多数で再議決せよとしますから(59条2項)、まずその手続きをふむべきでした。その点にまず問題があります。どうせ否決される衆議院への返付は政治的には無駄かもしれませんが、自由民主主義は手続きが命です。蔑ろには出来ません。小泉内閣は衆議院の再議決を経て解散すべきでした。そして、その場合は、3分の2の議席を目指して解散することとなります。参議院の構成が変わらない以上そうするのが筋です。したがって、筋を通せば総選挙での、勝利へのハードルが高くなります。それを嫌って小泉内閣は再議決を経ずに解散したのでしょう。結局与党が3分の2以上の議席を得る結果となりましたが、結果オーライで済ませるわけには行きません。この点は厳しく追及されるべきです。

次ぎに、議会との協働関係の回復という点です。このたびに解散は、衆議院選挙の結果を国民投票に見立てて参議院に圧力をかけ、それによって強引に議会と内閣との協働関係を回復させるという意図の下なされたものです。それは選挙に当たって小泉首相が「衆議院選挙の結果である民意を見れば参議院も従わざるを得ない」という意味のことを述べていたことからも明らかです。しかし、このような意図に基づく解散を認めたのでは、法律案の議決の原則を定めた憲法59条は骨抜きになってしまいます。あくまでも解散の時点で衆議院の3分の2の議席を得ることを目的に掲げなければ筋が通りません。

やはりこのたびの解散権の行使は違憲というべきでしょう。

選挙総括Q&A(暫定版)

2005-09-20 17:31:49 | 改革狂騒曲
Q1 「郵政民営化法案に反対した連中は郵政民営化を公約に掲げた小泉氏を総裁に選んだのだから後になって反対するのは筋が通らないのではないか」

A. 「反対派の多くは郵政民営化そのものには反対していない。民営化の中身についての議論に小泉総理・総裁がほとんど応じなかったことがほとんどの議員の反対の理由となっている。」

Q2 「反対派は特定郵便局局長会などの郵政票などを守るために反対した族議員ばかりであり、そういう連中がごねるのを延々聞く必要はないのではないか」

A 「そういう理由で反対していた議員のほとんどは先の衆議院における採決の前に賛成派に寝返っている。なぜなら、小泉総理・総裁が解散と公認権をちらつかせて翻意を迫ったからである。郵政票に過度に義理立てして選挙で落選したら元も子もないからである。」

Q3 「党中央の決定に議員が従うことは当然であり、これに従わない議員を非公認・除名することは二大政党制の母国・英国でも行われていることである。落下傘候補も同様であって、これを非難されるいわれはない」

A「 英国では党員が従うべき党の決定は、慣習として成立した手続きに則った議論が前提となっている。これを欠く決定は当然ながら党員を拘束しないし、そもそもそのような決定は党の決定とは言わない。したがって、前提を無視して『英国でも行われていること』というのは、誤解である。」

Q4 「そうだとしても、一応、郵政民営化法案は、自民党内の手続きを履践して提出されたものではないのか」

A 「少なくとも、これまで自民党がその党の歴史として積み重ねてきた慣習的な手続きは無視している。自民党をぶっ壊すのが小泉流だからといって何をしてもいいということにはならない。ましてや、解散権と公認権をちらつかせて翻意を迫るなどということは、自由民主主義国の政党においてはあってはならないことである。」

Q5 「しかし、改革のためには、守旧派がごねるのを座視するわけにはいかないのではないか。議論しても決して変わろうとしない連中を相手に改革を遂行するには、このような手段も時に必要なのではないか」

A 「仮に目的が正しくとも、その手段についての吟味は必要である。特に我々が真に正しいことを事前に知りえない存在である以上、手続きにおける適正は改革の現場においてこそ重要なはずである。自由民主主義という制度は漸進主義であり、急進主義がよければ人民民主主義を採用するべきである」

Q6 「党内手続きに問題があるとしても、この度の選挙で小泉自民党は圧勝したのだから、この法案を通すことが民意であり、国民主権に合致するのではないか。」

A 「日本は代表民主制の国であり直接民主制の国ではないから、国民の意思通りにすることが必ずしも国民主権に合致するとは言えない。代表者の実質的な議論を通じて法案が決定されることを憲法は予定している(憲法学の通説)。また、郵政法案賛成派が反対派を議席で圧倒する結果となったが、それは選挙制度に起因することであり、今回の選挙で郵政民営化法案賛成派の得た得票と反対派の得た得票は拮抗している。仮に今回の選挙が国民投票だった場合、反対派が勝利していた可能性もある。再度議論が必要と考えるのが正当である。」

Q7 「では、改革は必要ないというのか。」

A 「改革=善ではない。改善と改悪がある。それを吟味するのが議会における実質的な討論である。議会における実質的討論に敗れたから国民に聞いてみるというのは、内閣・国会の職務放棄である。国民は実質的討議などしていないし、その内容を十分知らされてもいない。国民がよく知らないことについて意思表示させ、それによって国会議員の討論を封じるのは代表民主制を踏みにじるものである。日本国憲法のもとで改革を改善に結び付けるには、一見迂遠のようだが、人類が歴史的に獲得した知恵であり、わが憲法の採用する代表民主制の土俵の上で議論を戦わせるべきである。」

Q8 「郵政改革はすべての改革の本丸であるから、ここを突破口にすれば世の中は変わるし、それを多くの人が望んでいるのではないか。」

A 「郵政改革が改革の本丸だったのは、財投改革を前提とするからだ。しかしいつの間にか郵政改革と財投改革は切り離され、郵政改革は『民に出来ることは民に』、つまり『規制緩和』と『小さな政府を目指す』という話にすりかわっていた。そして『小さな政府を目指す』とは生存権保障(憲法25条)を減らすという話である。しかし、多くの国民は小泉改革をそういう意味での改革と未だに了解していない。多くの国民にとって小泉構造改革とは財投に代表される役人の無駄遣いを無くすことであるが、小泉内閣の推進する政策はそれと大きく異なっている。それが証拠に特殊法人への天下りの大元締めである財務省は全く抵抗していない。それどころか、小泉改革のシナリオは財務省が書いたようだ。胡散臭さ爆発である。」

Q9 「仮に、郵政民営化の目的が当初のものから変質したとしても、少子高齢化社会の到来を考えれば、『小さな政府を目指す』こと自体は正しいのではないか。」

A 「小泉改革のいう『小さな政府』がどのようなものを指すかが問題だ。日本国憲法は社会権条項を明文化しており、欧州型の社会民主主義的な制度を予定している。その枠内で『小さな政府を目指す』というのならば問題はない。しかし、憲法改正なしにこれを社会権条項を持たない米国憲法型に変化させるのは憲法違反の疑いが濃厚である。結局、現政府と官僚が年金破綻や財投の焦げ付き等の失政を誤魔化す為に、これからは『小さな政府』だと宣伝していると考えるのが妥当である。」

Q10 「しかし、JRやNTTなどの例を見れば、民営化の機運が盛り上がった今民営化しておくべきではないか。」

A 「JRは毎年兆単位の赤字を垂れ流していた上、過激な組合の問題があった。現在の郵政にそのような問題はない。また、NTTのようなバカ高い通信料金に類するような問題も現在の郵政にはない。国民の税金で営々と築き上げられてきた国民共有の財産を簡単に民営化するには慎重であるべきだ。民営化すれば本来国民が等しく受けるべき利益を一部の株主が山分けする事態が生じうる。仮に民営化が正しいとしても国有財産の払い下げである私有化は原則不可と考えるべき、すなわち政府が過半数の株式を保有するべきである。しかし、今回の郵政民営化法案は完全私有化を目指しており、歯止めはない。」


※他のポイントについてはここを参照

日本に自由民主主義を!

2005-09-12 21:06:03 | 改革狂騒曲
自民党が大勝し、郵政民営化法案可決のカウントダウンが始まりました。しかし、自由民主主義者は諦めてはならないのです。

今回の選挙で国民が判断したのは「郵政民営化是か非か」それだけです。民営化の中身に白紙委任を与えたわけではないのです。小泉自民党は極めて単純に「郵政民営化の是非を問うたに過ぎない」。このことは、非常に重要です。

そもそも、今回の選挙は、当初小泉首相が再三言っていたように、「自民党代議士等は郵政民営化をすると言ったわたしを総理・総裁に選んだのだから、民営化に反対するのはおかしい。そのことにつき国民に信を問う」という選挙だったはずです。ならば、排除されるべきは「郵政民営化絶対反対派」だけであって、「民営化の中身」の議論は続けて全く構わないはずです。

一部の者の指導に従い、議会は翼賛せよという人民民主主義には断固抵抗せねばなりません。

郵政民営化法案と人権擁護法案

2005-09-09 16:19:18 | 國神社・政界再編
この二つの法案が、日本を外国勢力に売り渡す契機となりうる法案であり、鏡の表と裏との関係にあることは、西尾幹二先生をはじめとする方々が指摘する通りだと、わたしはおもいます。
郵政民営化法案が日本人の資産をアメリカを中心とする外資に売り渡し、欧米が日本を経済的に植民地化する契機となりうる法案なら、人権擁護法案は日本の言論を封殺し日本の政治プロセスを支那・朝鮮などと連携する勢力に明け渡す契機となりうる法案です。
いずれも、日本を無国籍化することを狙っている点では共通します。まともな日本人ならば、この両法案に反対しなければならないとわたしはおもいます。

この二つの法案の賛否により、その議員のよって立つものが露見した観があります。すなわち、古賀誠は人権擁護法案提出の中心人物ながら、郵政民営化法案には棄権しました。ヤツは米国に媚びへつらいつつも、その実、支那・朝鮮ベッタリの人間に違いありません。
古賀誠ほどひどくはなくとも、自見庄三郎、森田実(政治評論家)などが、反米親支であることもわかってきました。
これに対して、人権擁護法案に反対した中核部隊に郵政民営化法案に賛成票を投じた議員は少ないことも興味を引きました。平沼・城内・古川・衛藤などなどの議員です。
こういった、投票行動に靖国に対する態度を重ねて見ると、来るべき政界再編のあるべき姿が見えてくるようにおもいます。