毛唐もすなるブログといふものを

日本男児もしてみむとてするなり

ギアとチベット

2005-03-31 14:39:10 | 支那、韓国・朝鮮
リチャード・ギア、中国政府批判 (日刊スポーツ) - goo ニュース

リチャード・ギアは著名なチベット仏教徒で、チベットを侵略した支那が大嫌いです。当然あらゆる機会をとらえて支那を批判します。昨日小泉首相に会った機会にも当然のように
支那を批判しました。小泉首相にしても自分が言いたいことを米国人のギアが勝手に言ってくれるのだから「もっと言って」という気持ちなのではないのでしょうか。

支那によるチベット侵略は支那とインドとの衝突を引き起こし、その後支那が核武装したためインドを核武装に走らせました。さらに支那は敵の敵は味方ということでパキスタンの核武装を支援しその代償としてパキスタンとの国境を有利に引くという取引をしました。そして世界はインド対パキスタンという構図で核問題を論じ報道する。インド人としては面白うはずがありません。かくしてインドは欺瞞に満ちたNPT体制に決して入ろうとしないわけです。インド人にとってNPT体制に入るということは支那に政治的に屈服することを意味するからです。

チベットといえばダライ・ラマ十四世。彼は支那によるチベット侵略以来インドに亡命しています。チベットでは支那に逆らうチベット人は散々迫害され虐殺され、それが現在でも続いています。このような現状にあって、当初チベットの完全独立を求めていたダライ・ラマは、現在では「チベットは支那の一部であることを認めるから自治権を認めてほしい」と言っています。これは苦渋の決断だったに違いありません。しかし、支那はダライ・ラマの譲歩をまったく取り合おうとはしていません。支那人は自分が優位に立っていると認識すると嵩にかかるとよく言われます(もちろん朝鮮人も同様です)。チベットに対するこの支那の態度は「弱いやつに対してなんでわしが譲歩せなあかんの?」というのが支那人の本性ということの動かぬ証拠といっていいでしょう。

しかし、ダライ・ラマはなぜチベットを支那の一部と認めるというような譲歩をしたのか。このことを通じてわたしは国家とは何のために存在するのかを考えてしまいました。わたしは、国家とは民族の生き方を守るために存在するのだとおもいます。個人の権利・自由を守るというのは民族の生き方が守られた上での副次的なものに過ぎないとおもいます。

現在チベットにはどんどん漢民族が流入してきているようです。このまま時間が経つに従い漢民族が定住してしまい、追い出すことが困難になっていきます。そうするとチベット自体が変質し、もはやチベット人の生き方が守れなくなってしまうおそれが強まります。そこでダライ・ラマは民族の生き方を守るための現実的な選択としてチベットの完全独立を放棄し支那の一部として自治権のみを要求せざるを得なかったということなのでしょう。まことに苦渋の選択です。しかし支那はそれさえも認めようとはしません。

もっとも、ダライ・ラマはチベットが支那の一部と認めても、いずれ支那は内乱で分裂状態になるから、そのときまでの辛抱だと考えているのかもしれません。しかし、それとて支那がチベットの自治権を認めてくれないと話になりません。支那がダライ・ラマの提案を受け容れる可能性がない以上、チベットが支那の一部と公式に認めることは政治的にかえってマイナスではないのかとわたしはおもいます。

国やぶれて三部あり

2005-03-30 15:21:34 | 社会
「武富士の提訴は違法」 批判本訴訟で東京地裁 (朝日新聞) - goo ニュース

行政訴訟において次々と国敗訴の判決を書き、その所属する東京地裁民事第三部をもじって《国やぶれて三部あり》と謳われた藤山雅行裁判官による判決が、久しぶりに新聞に出ました。各方面からDQN裁判官だとの誉れ?高い藤山雅行裁判官の判決です。ある種の期待をもって読んだのですが、今回の判決は、「言論の自由」を金や暴力で圧迫する武富士というサラ金に対して『ふざけるな!』と一喝したということで、まことに真っ当な判決でした。少し拍子抜けです。

さらに賠償額は四百八十万円で数百億脱税する武富士にとっては塵芥以下の額です。そういう点で一部の藤山判決ファンには不満の残るものとなったのではないでしょうか。あの藤山判決なんだから『本来十億請求できるのだが原告の請求額が六千万円なので六千万円の支払を命ずる』くらいかっ飛んだ判決を出してもらわないと、藤山ファンの期待に応えることは到底できないでしょう。

ここで藤山裁判官について軽くおさらいです。藤山裁判官は東京地裁の行政訴訟専門部に属していたのですが、あまりに行政敗訴の判決を出すものだから、医療訴訟集中部に左遷されたとの専らの噂でした。政治色を持ちたがらない日本の裁判所においては極めて異色な裁判官のようです。今回の判決は医療関係ではないのでまた所属部署が変わったということなんでしょう。彼は最高裁行政局筆頭課長などを歴任したいわば裁判所内ではエリートに分類される人ですから、一旦左遷されようが結局また昇進することになるはずで異動もそのための布石なんでしょう。それが、日本のお役所というものですから。

ところで、わたしはこの藤山裁判官はDQNというより憲法原理主義者なんだとだと思っています。権力分立における裁判所の目的は、現実社会で(民主的)多数派に敗れた少数派の権利を救済するところにあるのだから、彼にしてみれば世の多数派からDQN呼ばわりされるのはむしろ名誉なことなのかもしれません(談)。


≪参考資料≫

藤山雅行でぐぐった結果

国益を騙るうつけ

2005-03-29 03:10:25 | 日本男児
若手の政治家を中心に【国益(the national interest)】という言葉が日常的に使われるようになりました。それとともに【平和】という言葉の神通力もなくなり憲法改正を討議できるようになりましたし、集団的自衛権についての議論も可能になりました。【国益】の追求が何かとてつもなく悪いことかの如く言われ、【平和】の名の下に憲法改正を言い出すことすら難しいような、ある種のマインドコントロールされていた時代からすれば、今は相当正常化されたということでしょう。

しかし、わたしは政治家はじめとする連中が【国益】という度に違和感を覚えるのです。この違和感の正体は何かと考えてみて、はたと気付きました。そうか、そういうことだったのか。

気付いてみれば何のことはない、多くの政治家やジャーナリズムが【国益】の語る場合、そこにあるのは《裸の利益追求》だからだったからなのです。これでは日本民族の共感を呼ぶことはできません。誰しも損はしたくないし儲かるなら儲かるに越したことはありません。その点は世界共通です。しかし、単なる利益損得のみで終わることを少なくとも日本民族は好まないのです。支那人、朝鮮人とは違うのです。更に言えば欧米人のように《神の意思》の名の下に自分らの利益追求を正当化することもできないのです。日本民族にはお天道様あるのみ。そう、日本民族の【国益】はお天道様とともにあるはずで、またそうでなければなりません。

戦後、占領軍のプレスコードに始まる圧政や、その延長に乗っかるサヨクによって、その顔を拝むことすら難しくなっていた我がお天道様。お天道様信者の日本常民は《隠れキリシタン》のように信仰を守ってきたとは言い難く、お天道様のことを忘れて堕落の一途。時代が移りようやく雲の切れ間からお天道様を拝めるようになってきたのに、若手政治家はその顔すら忘れて支那人や朝鮮人や毛唐みたいに【国益】を語るじゃなかった騙るうつけばかり。さて、どうしたものか(談)。

道義立国

2005-03-28 13:44:27 | 日本男児
今週の正論は志方俊之先生が二十一世紀のあるべき自衛隊像を論じていました。なかなか要領よくまとまっているように思います。

確かに、日本人の多くは【国益追求】と言ったところで違和感を覚えるものでしょう。単なる利益の追求は日本人の美風に合わないからです。それは身も蓋もない支那人や朝鮮人のやることです。欧米の連中は同じく利益を追求しますが、支那や朝鮮の連中と異なりやり方がスマートです。利益の追求を理念で粉飾するからです。そしてその粉飾の仕方が滅法上手い。もっとも、現在でも世界中が欧米文明に席巻されているので、粉飾を粉飾となかなか気付きにくいというのもあるのでしょうし、粉飾と気付いたからといってどうしようもないわけです。それは人間の現世の欲望を肯定するからで、それこそ波及力は抜群です。だから、イスラムの連中が粉飾だと気付たとしても、その多くは、アメリカに移住できるとなるとアメリカに移住してしまうわけです。

日本人は最近おかしくなって来たとはいえ、裸の利益の追求を良しとしない気風には根強いものがあります。ライブドア騒動でもそれは見て取れます。現在ライブドアを支持する日本人の多も、いざ自分がライブドアのようなことを一緒になってやろうと誘われたら躊躇するのではないでしょうか。結果として金に目がくらむのは人間の弱さでしょうがないところです。しかし、その躊躇こそが日本人を日本人たらしめているのです。わたしの想像では、支那人、朝鮮人に躊躇はないでしょうから。まだしも欧米人の方が神との関係を意識して躊躇するのではないでしょうか。何にしろ日本人は単なる利益追求を好みません。お天道様に恥じる行為を好まないのです。

そうかといって、現在の日本人は無防備すぎます。朝鮮系のソフバンや欧米系ハゲタカにやりたい放題やられるのは、その無防備さから来ています。拝金主義を拒否し地道に生きることをよしとする日本の美風を維持するためには、もっと意識的にならねばならないのでしょう。すなわち明確に日本の美風を意識することです。自己の内部にある価値観(常識)を探求し掘り起こすのです。それに一致する行動こそ日本人に一体化をもたらすのです。個々の個人が自らを律することを忘れ、ただダラダラ醜い行為を繰り返し、何も満足感が得られないと不平不満を言うのは、戦後、自らの内部にある美風(価値観=常識)に目を向けさせないようにされた当然の結果なのだと思います。日本の美風を守る限り何度でも日本はよみがえることができますが、美風を失えばそれは不可能です。

志方先生のこの論考は日本の滅亡を企てる国が多数存在する国際社会のパワーバランスの中にあって、日本がどのようにしてよみがえるかという具体策の一端を示してくれます。自らの美風にそぐわない軽薄な国益追求で日本はよみがえるわけがありません。日本が自らの美風を自覚したとき、真に地に足のついた国際援助も可能となり、そのとき損得勘定を越え日本人が心を一つにできる真の国益追求ができるのだと思います。

≪資料≫
志方俊之先生(退役中将)の今週の正論

楽天大敗

2005-03-27 23:59:59 | 社会
楽天26失点大敗、夢心地から厳しい現実に

シャットアウト試合ではパリーグ新記録となる点差だそうです。さすがは寄せ集めの楽天。球団設立当初から投手力不足は言われていましたが、ここまで凄まじいとは。まだ二試合とはいえ先が思いやられます。田尾監督、小野コーチは、中継ぎの三投手に対して二軍落ちを通告したそうで、その理由は『攻める姿勢が足りない』からだとか。身につまされます。そういえばわたしも最近攻める姿勢が足りないです。さらに『強気でなければこの世界ではやっていけない』とも言っていたとか。これまた身につまされます。強気でなければ運も逃げていくというか幸運の女神を振り向かせられないし、振り向いたときにゲットすることもできないということですね。はい、よくわかりました。

さて、楽天といえばライブドア。去年も散々楽天とライブドアを競わせといて最後においしいところを持っていった野郎がいました。言うまでもなく孫です。今回のフジとライブドアの騒動でもまたしてもおいしいところを持っていこうというのでしょうか。しかもそれにSONYも一枚かんでいるとかいないとか。なんかSONYが朝鮮系の連中とつるんで悪さをするのは、その意図はどうあれちと残念です。以前にも書きましたが、孫のソフバンは苦情の殿堂です。よくもまあこれだけ苦情がでるもんだと感心します。儲かればいい、うるさいやつは金の力で黙らせる。それが朝鮮系の朝鮮系たるゆえんですから、致し方ないといえば致し方なし。自己を律する道徳律、倫理観が日本人と大きく異なっているののだから、孫一人の不道徳を責めてもしょうがありません。朝鮮、支那の文化はそういうものだという認識で付き合うしかないということです。もっとも倫理観を失った日本には拝金亡者うじゃうじゃですから、最早どうしようもないのかもしれませんが。朝鮮人は商行為に関してはわれらのほうがグローバルスタンダードに近いと威張るそうです。確かにハゲタカファンドなどを見ているとそうなんだろうと思ったりもします。ソフバンも日本に寄生する朝鮮系ハゲタカですから。しかし日本人たるもの、そのような不道徳に染まってはいけません。こういう点でのグローバルスタンダード化は断固阻止するしかありません。『悪貨が良貨を駆逐する』という事態にならないように細心の努力が必要だと強く思います。

そうそう、野球ついでに明るい記事をひとつ。わたしは古くからの野茂マニア(死語)です。去年は野茂が手術明けで不調だったためBSを見る機会が余りなかったのですが、今年はいけそうなので今から楽しみです。HIDE~O!


≪関連エントリー≫
※2月9日 やっぱりね

※2月11日 ソフバンとドコモの違い

尊厳死

2005-03-26 14:21:56 | 社会
米フロリダの尊厳死論争:植物状態10年余、生命維持の管外す--法廷論争7年の末《毎日》

経過はこの東京新聞の特集に詳しく出ています。

この女性、1990年に植物状態に陥ったとありますから、14年以上植物状態なわけです。現在41歳ということですから、植物状態に陥ったのは27歳頃ということになります。夫は彼女が尊厳死を望んでいたと主張し、両親は夫が彼女の遺産を相続して別の女性と結婚したいだけと主張しているようです。

彼女の遺産というのは主に医療過誤による補償金百万ドル(約一億六百万円)のようで、これを受け取れると決定された後に夫は尊厳死が彼女の生前の意志(リビング・ウィル)だといい始めたと両親側は主張しています。フロリダ州では生前の意志による尊厳死が認められています。しかし彼女の尊厳死に関する生前の意志を証言したのは夫や夫の兄弟で、彼女の友人などからの証言はないようです。さらにこの夫は既に別の女性と暮らしているようなので、両親側の主張が的を射ているようにも思えます。しかし裁判所は逆の判断をしました。

フロリダ州の法律が要求しているのは《尊厳死に関する二人の証人》で、それが認められる以上、夫が尊厳死を申し立てた動機などは裁判所の関知するところではなく、両親側は法廷で夫などの証言の信憑性を崩せなかったのだから、法律的には致し方ない結論なのでしょう。連邦控訴審の判事は両親側に同情的だったといいますが、どうしようもありません。アメリカでは憲法上、生前の意志による尊厳死の選択が許されるとされており、その意思が裁判所により認定されたのですから。

両親側がいかに娘はカトリックで教義に反する尊厳死など選ぶはずはないと主張しても、リビング・ウィルについては一番最後の意思表示が重要なので、最後の意思表示の相手方として夫の方が有利なのは止むを得ないところなのでしょう。しかし、事の成り行きを知れば知るほど、わたしは両親側に肩入れしたくなります。

この夫は別の女性と結婚するのなら離婚すればいいのです。植物状態の彼女と一生添い遂げる意思を既に失っているのなら、両親の意思を優先すべきだとわたしはおもいます。この法律上の夫は彼女を愛している両親に返すべきです。この夫は彼女が植物状態でいるうちに離婚すれば補償金が手に入らないうえ、植物状態のままではいずれ医療補償金もなくなるってしまうことをおそれて、彼女の生前の意志をでっち上げた可能性もあります。

もっとも、彼女が真に尊厳死を望んでいる(彼女はまだ生存している)可能性もあります。裁判所
リビング・ウィルを認定したのも、それがまず間違いなく彼女の真意であろうと考えたからなのでしょう。うだうだ書いてきましたが、わたしが他国の他人事ながら不快なのは、この夫の行動にあるようです。もし彼女が夫の現状を見れば、尊厳死など到底選ばないと思うからです。しかし、リビング・ウィルは最後の意思表示がものをいう制度です。今回の件は他国のことではありますが、この制度の欠陥を教えてくれました。どこの国にも制度の欠陥を突いて恥じない輩がいるということです。ま、制度の欠陥を突くのはあちらの方が本家ではありますが。

ところで、この件はアメリカという国の一端をわたしたちに教えてくれます。

『今、アメリカでは保守化の動きに対する攻撃が強まっている。神はこうした策動をより一層、目に見えるようにするため、私たちにテリ・シャイボを遣わしたのだ』

この発言の主は米議会下院の実力者トム・ディレイ共和党院内総務です。キリスト教右派組織ファミリー・リサーチ評議会の会合での発言ではありますが、このように宗教的に裏付けられた価値観が今回の議会や大統領まで巻き込んだ法廷闘争の根っこにあることをよくよく知っておく必要があるでしょう。やはりアメリカは巨大な宗教国家なのです。
 

ペット供養

2005-03-25 00:00:00 | 社会
ペット供養は「課税対象に」 宗教巡り名古屋地裁 (朝日新聞) - goo ニュース

針供養や人形供養は非課税扱いだそうですから、習俗として宗教施設が行うことが通例なっているものは非課税扱い、民間事業者が主に行うものは課税扱いという基準なんだと思います。

日本は古来より鯨などの動物の命をあやめた場合、その供養を行う風習があります。人間が生きるために命を差し出すことになった動物に対する感謝がそこにあります。ではペットはどうなのでしょうか。ペットは人間が生きるために命を差し出したとはいえないでしょうから、それを供養することは伝統習俗と同様のものとみなすのは難しいのではないでしょうか。

したがって、寺社が関わって行うからといって、直ちにこれを宗教行為で非課税とせよとの主張は失当です。それが宗教行為となるかどうかを決めるのは国民意識であって宗教家や供養を願う個々人ではありません。これから国民意識の変化の中でペット供養を宗教行為とする合意が出来るかもしれませが未だ時期尚早です。

それはともかく、訴えた坊主はえげつない禿に違いない。ペット供養が宗教行事と考えるなら、飼い主が供養の申し出をする以前からそう世間に訴えていないと筋が通りません。でもこの坊主はそんなことは多分していなかったに違いありません。これまでは宗教行事と考えてもいなかったものが、世の中の変化で需要が生じ儲けが出始めたものだから、途端宗教行事と主張し始めた。そんなところでしょう。それは宗教行為ではなく、宗教施設を利用した営利事業に違いありません。わたしは税務署の見解を支持します。

高裁決定

2005-03-24 18:36:45 | 社会
ニッポン放送の新株発行差止めの仮処分を認める高裁決定が出ました。仮処分とはまさに仮の処分であって当該行為を本案判決があるまで仮に差し止めて審理を行うということです。新株は一旦発行されると市場で流通するので、それを後に無効とすると株式取引を混乱させます。そこで今回のような本案判決がいずれに転ぶか微妙なケースでは、取りあえず差し止めるという方向に傾くのは止むを得ないことです。しかし、今回は3月末日に株主名簿の閉鎖が行われること、ライブドアが議決権ベースで過半数を獲得した(らしい)こと、6月の株主総会で取締役のほとんどが改選されることなどから、今回の仮処分が事実上本案判決と同様の効果をもたらすこととなります。事実、ニッポン放送は今回の新株予約権発行を中止しました。
さて、ニッポン放送はわたしの予想に反し、いわゆる焦土作戦~フジテレビやポニーキャニオン株の売却~に未だ着手していない様子です。フジ・サイドは一体何を考えているのやら。何がしかの考えがあってのことでしょうけど、少々心配になってきました。

今回の高裁決定の骨子を読んでの感想は西村眞悟議員(弁護士)の見解と大きく重なります。すなわち裁判所の職責放棄ではないかということです。西村眞悟議員はこう書きます。

『この度の裁判所の判断は、資本主義を支える文化・感覚を無視して形式的に商法条文を適用したものである。文化・感覚を無視した条文解釈は、社会的妥当性を獲得し得ない。
 現実社会の紛争を裁定して常識(コモンセンス)を維持することを任務とする裁判官としての資質を疑う。』

わたしも同感です。法律バカ条文バカの地裁判事ならまだしも高裁判事がこれではいけません。前述した株主名簿閉鎖との関係で最高裁に特別抗告する時間的余裕がないのが残念です。
それにしても地裁、高裁判事の条文バカぶりには呆れます。折角条文バカにも分かるように、【企業価値の維持】という論点を提出しているのに。【企業価値の維持】なのか【取締役の支配権維持】という対立で、前者を【裁判所が判断するのに適さない】と言えば、そりゃ勝負になりません。もっとも、それを論点と認めてしまうと厄介なので素通りしたともいえますが。どちらにせよ職責放棄には変わりありません。フジサイドも裁判での争い方が下手とのそしりは免れないでしょう。

今回の買収劇に関して今日(3月24日)付けの《産経新聞の正論欄》で慶応大学の小林節教授が憲法論からの視点を提供していました。いわゆる【傾向企業】に対する敵対的買収の是非です。自由で民主的な社会にあっては、マスメディアは多様な視点を国民に提供するべきで、それが民主政の過程を維持する重要な要件となります。そして、フジサンケイグループは《産経新聞の正論》路線に象徴されるように、日本の保守派を代表する言論を脈々と受け継いできた典型的【傾向企業】ということになります。その対極の【傾向企業】は《アサヒ》ということになるでしょう。そして、その言論を止めさせる(娯楽路線にする)というようなことを軽々しく口にする人間に、民主政の過程の維持に重要な役割を果たす【傾向企業】を《買収する資格》があるのか、それは資本主義的な市場の原理の限界を為すのではないかという指摘です。2ちゃん風に表現すれば、【民主政の過程を維持する利益】>【資本主義市場を維持する利益】というわけです。わたしには目から鱗の指摘でした。確かに買収の対象が《アサヒ》だった場合早くからそういう論点をサヨクは提出していたでしょう。保守派はそういう争い方が下手なんだなぁとの感を深くしました。
眞悟議員もそうですが、要するに保守派は常識にたより過ぎるということなんでしょう。常識を重んじる保守派であっても、現実の世の中は非常識がまかり通っているということを、保守派も直視すべきなんでしょう。

もっとも、この騒動の裏を読む人もいます。週間アカシックレコードがそれです。テレビ局がビジネスモデルを変えてくれなければ、家電メーカーはビジネスチャンスを広げることは出来ませんからね。デフレで収益の悪化に四苦八苦している家電業界が裏から糸を引いているというのはあり得そうでなかなか面白い視点だと思いました。確かに、そうであれば今回の騒動の一連の経過が上手く説明できますから。ソフバン登場もすでに予測していましたから大したもんです。一読あれ。

東京都迷惑防止条例違反

2005-03-23 15:04:46 | 社会
植草元教授:罰金50万円、手鏡没収の判決 東京地裁 《毎日》

現行犯逮捕した警察官の証言を採用しての判決です。裁判長の大熊一之でググってみても、特にサヨクとかフェミに偏向しているということでもないようです。ですからとりあえずは、ごく平均的裁判官の手による判決と考えていいでしょう。だから問題なのです。

以前にも書きましたが、この件の一番の問題点は警察官による強い利益誘導です。これは痴漢被疑事件における冤罪の温床で、捜査方法としても到底フェアであるとはいえません。判決ではこの点をどう裁いたのか。是非判決文を読んでみたいものです。

また、報道による限り大熊一之裁判長は警察官の証言を全面的に採用しているようですが、これは裁判経過からみて多少問題だと思います。従来から裁判所は警察官の証言を重く見る傾向があります。事実認定の方法として一般人の証言に比較して警察官の証言を重視するのは一応合理的といっていいでしょう。しかし今回のように現行犯逮捕した警察官自身の証言を重視するのは問題です。当該警察官は逮捕の正当性につき利害関係を有するからです。

日本の裁判所は警察の捜査方法に苦言を呈することが少ないとわたしは思います。日本の裁判所は警察・検察と蜜月関係が長く続き過ぎて、検察の起訴してきた事件は余程のことがない限り有罪にする傾向が強すぎます。たまに無罪判決を出すのは、どちらかといえば素っ頓狂な裁判官で、普通の裁判官の手にかかればこの事件のように警察官が現行犯で逮捕した場合はまず間違いなく有罪です。

この判決に関わった裁判官が平均的裁判官であるがゆえ、なお問題の根は深いとの感を深めました。


≪関連エントリー≫
2月22日 神(他一名)のみぞ知る

2月17日 坂本竜一@強制わいせつ

≪関連サイト≫
植草元教授の最終弁論要旨

植草元教授を応援するブログ

ミラーマン・フラッシュ

ミラーマン・フラッシュ2

有害無益

2005-03-22 23:59:59 | 社会
東北大大学院助教授、セクハラ指摘を苦に自殺か (朝日新聞) - goo ニュース

この件については以前に書きました。そのときの感想はどっちもどっち。今もその感想は変わりません。

この記事では『同科教授会は昨年8月、この助教授から飲食店などへの同行を迫るセクハラ行為を受けたとする女子大学院生の申し立てを受け、今年2月末にセクハラと認定していた。』とだけあります。しかし、以前の記事では二人が以前交際していたとありましたから、それが事実なら一言触れてくれないと少しフェアではないかなと思いました。ちなみに以前の記事は《讀賣》。今回は《アサヒ》です。

わたしが思うには、別れを切り出されたにしろ、彼女は研究室を去るでもなく目の前にいるのだから、そりゃメシにくらい誘すだろうし、それ自体は何等もんだいないはずです。しかし、それを彼女はセクハラだと感じたというわけです。何やら人権擁護法案の人権侵害とパラレルに考えられるようなお話です。「わたしがセクハラと感じたからセクハラなのよ!」ってことなんでしょうか。もちろん、わたしには詳しいことはわからないので、もしかしたらメシに誘ったり、よりを戻そうと迫ったりという程度を超えて酷いことがあったのかもしれませんが。

もっとも、東北大学教授会の名誉のために一言すれば、この助教授は「交際を継続しないなら指導教官を降りる」と言ったとか。これをして【助教授の立場を利用しての関係継続の強要】すなわち【セクハラ=人権侵害】という点を重く見て、教授会はセクハラ認定したんだとわたしは推測します。それなら一応筋は通りますから。

地位を利用しての交際強要はよろしくない。この助教授のとった行動は非難されるべきものですし何より男として格好悪い。しかしそうだからといって、わたしはこの女学生の肩を持つ気にはとてもなれません。むしろ助教授に同情します。別れるなら彼女は助教授の研究室を去るべきだったとわたしは思うからです。それが大人の態度というものではないでしょうか。

この女学生は国際文化研究科に所属しているみたいですけど、自分の適性をまったく分かっていないんでしょうね。だってそうでしょう。こういう男と女の機微といったごく基本的な人間観察もできない人が国際文化を研究しても、誤解に誤解を重ねるだけで有害無益ですから。助教授は「君のような人は国際文化研究に向かない」と言って教室を追い出すべきでしたね。合掌(_人_)。

≪関連エントリー≫
2月25日【大人気ない】

政界再編の軸は靖国

2005-03-21 16:15:34 | 國神社・政界再編
人権擁護法騒動で明らかになったことは自民党には本来自民党に所属すべきでない議員が大量におりその連中が自民党内の権力中枢に巣食っているということだ。自民党の中に野中のような糞左翼権力亡者が多数紛れ込んでいることこそが今回の人権擁護法問題の本質だ。わたしが野中を糞左翼権力亡者というのには理由がある。北京に行って支那人と一緒に日本の悪口を言ったからだ。日本国内において政権なり何なりを批判するのはまったく構わない。靖国神社の「A級戦犯」合祀について文句を言うのは考え方の相違だから致し方ない。例えば右翼の巨頭?田中清玄も靖国には否定的だった。しかし田中清玄は間違っても外国人と一緒になってそういうことは言わなかった。こういう「あんた何で自民党にいるの?系」の議員の存在は数こそすべてという田中角栄が残した負の遺産の最たるものとわたしはおもう。こんなことでは国民は安んじて政党を選択することができない。特に小選挙区制の下でこのことは致命的だ。政界再編が急務たるゆえんである。今回の政界再編の軸は言うまでもなく靖国だ。西村眞悟よ。もうそろそろ動く時だぞ。鳩ポッポも私財を投じて民主党を立ち上げたのは知っているけど乗っ取られたんだから潮時だ。何十億使ったかは知らないがお国の為だ。この際諦めて眞悟と一緒に党を割ってくれ。

天皇という制度

2005-03-20 21:44:29 | 日本男児
唐突だがわたしは天皇という制度を維持することに賛成だ

もっとも天皇を尊敬するとかましてや美化するといった感覚は残念ながらわたしには皆無だ

多分合理主義に相当毒されてしまっているのだろう

もっともだからといって天皇を通常の人と同じく扱へという類の意見には全く賛成しない

それは合理主義ではなく美意識の問題だからである

この点においてわたしの精神は未だ合理主義に冒されていないようだ

天皇という制度の維持に反対する人たちがいる

聞けば平等原則に反するとか費用がかかるとかなどということを言う

勿論わたしはそのようなさもしい意見には与しない

ただ昔から続いてきたものだから余程のことがない限りそのまま次の世代に伝えようというだけだ

だからサヨクのように天皇の効用とかを合理的に考えることはしない

人間万事合理主義で解決できるわけがないからである

またサヨクとは限らないが天皇などという特別な存在に嫉妬する人がいる

人間は嫉妬するものだからこういう人がいること自体はしょうがないし否定もしない

わたしもある瞬間には無意識の奥底で嫉妬しているに違いない

ただわたしはそれが優美な態度なのかと自分に問うのみである

社会契約論でいこう

2005-03-19 23:25:42 | 人権・憲法・法律
外国人の人権も国家が保障するというようなことが、あたかも《当然のこと》のように語られることがある。自由権は可能な限り認められるが、社会権は政策的に認められる場合があるだけである。ましてや参政権など認められるはずがない。しかし、人権と言われた途端「それは認めなければならない」というような錯覚に陥るのは、現代人最大の欠点の一つだろう。そういう錯覚をサヨクは利用し、国家を蝕むのである。

サヨク・マスコミやサヨク団体の構成員のほとんどは錯覚とともにある。多くの教師や宗教団体などキレイ事が大好きな連中は喜んで錯覚に陥る。世間知らずの田舎者も人権と聞くと、何やらあり難いもののような気がして反対するとバチがあたると錯覚する。

以上のような錯覚は誤解に基づく。ただ誤解の原因はそれぞれである。

世間知らずの田舎者は、日本が未だに鎖国していた時代そのままの心理を引きずっていることが、誤解の原因である。今や自分の周りに住んでいるのが善意でお人好しの日本人ばかりではないことをハッキリ認識できていないでいるのである。

キレイ事大好きの連中は、周りに住んでいるのが日本人ばかりでないことは一応認識しているが、そういった連中が日本流のお人好しばかりだと誤解している。誤解していないとは言わせない。心の奥底で誤解しているから、外国人につけ込まれるのである。

宗教家がお人好しなのは、いささか致し方ないという面もある。しかし、わたしの知る限り、外国人の宣教師に日本的な意味でのお人好しは少ない。極めて少ない。

教師が小学校の教室で人の善意をそのまま信じることを教えるのは当然である。しかし高校の教室で何の留保も付けずに教えるのは怠慢との謗りを免れぬであろう。

サヨク・マスコミ、サヨク市民団体の一般構成員はキレイ事大好きな連中と同じである。一方、幹部は確信犯である。連中は自分の欲望の追求に正直だから、誤解であろうがどうであろうが最早どうでもいいのである。

確信犯の中にも少しは冷静な者がいる。彼らは時折誤解に気付きそうになる。しかし、その多くはそれを打ち消す。自分の欲望の追求の障碍になるからである。

誤解を乗り越えるためには、観念的ではあるにせよ、人権と国家との関係の本質を考える必要がある。そうすれば、外国人参政権などというバカな考えに惑わされずに済む。

社会契約論によれば、国家とは人民が自分達の自然権を守るために契約を結び設立したものである。その契約書にあたるものが憲法ということになる。イギリス以外の憲法のほとんどは成文憲法なのは、重要な契約は文書化すべきという合理主義に基づくのである。

イギリスは極めて幸運な国である。極端な革命を経ることがなく、自国の歴史の中から議会制民主主義などの仕組みが出来上がり、人権もイギリス国民の権利として成長したため、イギリスの伝統の中に社会契約があるとすることができ、それゆえ文書化する必要がなかったのである。

国家と契約関係に入らない者が国家運営に参加する権利を持つことはありえない。国家経営への参加を求められることは論理的にありうるけれど、それを権利とすることは論理的にありえない。国家の運営に参加する権利を有するのは主権者であり、主権者とは社会契約の主体のことである。

社会契約の主体でない者は権利として政治に参加することはできない。なぜなら、その契約の目的は、契約の主体である国民の権利・自由を確保することにあるからである。また、その目的から国民以外の者が政治に参加することを原則的に禁止する。契約目的達成の障碍になりうるからである。

外国人が在留国の政治に影響力を行使する目的でなす政治的表現は制限の対象となりうる。主権者の判断に他の契約主体が影響を与えることは社会契約目的の達成上好ましくない場合があるからである。社会契約の主体以外の政治的活動が制約されるのだから、ましてや参政権など認められるわけがない。

ここまでは国の話である。地方自治体への参政権についてサヨクはことのほか熱心である。では地方自治体に関してはどうなのだろうか。結論を先に言えば、国の場合と変わりはない。

地方自治体の自治権は何ゆえ認められるか。地方住民が社会契約を結んで地方自治体を設立したからなのか。そんなはずはない。地方自治体の自治権は国民による国家設立の社会契約から派生したものである。派生という用語が嫌なら授権されたと言ってもいい。

地方自治体に固有権として自治権があるなどという、素っ頓狂な理屈をこねる憲法学者風情がたまにいる。尋ねてみればおよそサヨクである。自治体の自治権を何としても国家設立の社会契約から切り離したいのだろう。ならば聞くが、地方自治体の社会契約とは何なのか。住民が地方自治権を自治体に授権する根拠は何なのか。

そんなものはあるわけがない。元々国家から授権されたものなのだから。地方自治体に住所変更するだけで地方自治に参加できることがそれを如実に示している。国家と社会契約に入っていればそこから派生する権利を行使できることは当然なのである。

つまり、地方自治権の根拠となる国家設立の社会契約の主体となっていない者に、地方自治体への参政権はないし、参加することも原則禁止されるのである。仮に参加するにしても、政治的表現活動などにとどまる性質のものと考えるのが妥当である。

もっとも憲法学者の中には、地方自治権の社会契約は住民の権利として、国家のあるなしに関わらず認められるから、イギリス憲法のように不文なのだという人もいるのかもしれない。わたしもそれを理屈としては評価してもよい。しかし、その内容を具体的に摘示できる者はどこにもいない。論理のみの存在であって、政治的事象を説明するには内容があまりに空虚なのである。したがって、地方自治権も国家設立の社会契約の一内容とする方が観念的にも優れているとわたしはおもう。

サヨクは自分に都合のよい理屈をこねるのが仕事みたいなものだから、わたしはこういうエセ学者を生暖かく見守る他なく、今日もそうしている。

人権擁護法≒人民民主主義革命法

2005-03-18 19:23:23 | 人権擁護法案
世の中には哀れな【対案ヲタ】がよくいます。例えばある法案に反対すると「じゃあ対案を出せ。批判だけするのは無責任だ。」と迫るやつです。そういうバカチンにわたしはこう答えることにしています。「俺は国会議員でも閣僚でも官僚でもなくただの【主権者】だ。だから対案など出す義務などない。悪いと思う法案にただ反対するだけだ。」と。間接民主制の社会にあっては法案にしろ対案にしろ、それは議員や内閣が官僚を動員して作るもので、我々【主権者】はそれに対して裁定を下せばいいだけです。【民主主義とは専門家の議論に対して素人が最終決定を下すシステム(小室直樹)】なのだから。

この度の【人権擁護法案】についても対案ヲタが必ず現れるでしょう。いや、もう現れているかもしれません。そういうバカチンに対しては、いつものように答えてやってもいいのですが、今回は特別に不肖わたくしが【主権者】という立場をかなぐり捨て、対案を考えてやることにしました。何故か。それはこの法案が日本社会に一種の《革命》をもたらす法案だと気付いたからです。【自由民主主義】から【人民民主主義】への《革命》です。【人民民主主義】とはサヨク国家における民主主義で、早い話が《独裁》です。我々の代表者のはずの連中の一部が、少数の圧力団体とつるんで不埒にも《独裁》へ向けた《革命》を起こそうとしているのです。そして【人民民主主義】大好きの《アサヒ》や《革命ごっこ世代(©江藤淳)》がそれを陰に陽に後押ししているという構図です。恐ろしいことです。最早【自由民主主義国の主権者】として黙っているわけにはいきません。長文になりますが、よろしければお付き合いください。

※【人民民主主義】:公権力が何が民主主義であるかを決定する民主主義。共産主義国、社会主義国の民主主義がその例。


≪対案≫
1.総論
日本国憲法は【法の支配】を採用する。すなわち、【法律による人権侵害】からも個人の権利・自由を守るということである(芦部信喜「憲法」補訂新版13~15、102頁)。現代社会において私人間の人権侵害が大きな問題になっているにせよ、依然として人権に対する最大の脅威は公権力である。そして歴史的に人権侵害の主体は専らと言っていいほど《行政権》であった。

然るに、【人権擁護法案】によれば《行政機関》たる独立行政委員会(例:公正取引委員会、中央労働委員会)である《人権委員会》が、私人間の人権侵害につき、何が人権侵害であるかを決定し、個人に対して立ち入り調査などの公権力~しかも司法的抑制を受けない行政権~を行使することができるようになっている。これは、私人間の人権侵害を理由に、公権力が広範囲に個人の権利・自由を制約することを可能とする法案である。行政権による人権侵害から個人の権利・自由をいかに守るかに腐心してきた歴史の教訓を省みない法案であると言わざるを得ない。

さらに人権侵害を理由とする《行政権》の介入は、民主政の基礎である自由な言論に対する萎縮効果をもたらすおそれが大きい。大手マスメディアの情報独占時代から個人が自由に情報をコミュニケートできる時代になり、これは民主政にとって好ましい変化にもかかわらず、これを圧殺する可能性のある法案を通すことは、民主政の充実に逆行するものである。

2.各論
(1)法の支配に反するのではないか
本法案は人権侵害一般を禁ずるものである。法務省人権擁護局長の説明によれば、人権の定義は憲法の通りであるという。そうであれば、本法案は憲法の人権規定を私人間に直接適用するに等しいものといってよい。ならば、憲法を私人間に直接適用する場合の問題点が多かれ少なかれ本法案にもあてはなることになるはずである。では、憲法を私人間に直接適用する場合の問題点とはどのようなものか。

それは主に以下の三点である。すなわち、第一に、市民社会の原則である私的自治が大幅に害されること。第二に、基本的人権が、本来主として「国家からの自由」という対国家的なものであったことは現代でもなお人権の本質的な指標であるのに、それを希薄化させること。第三に、人権と人権とがぶつかりあう場合直接適用を認めると、かえって国家権力の介入を是認する端緒を生じることである(芦部同109~110頁)。

本法案は、人権委員会という行政権が私人間の人権問題につき一方の側に立って直接介入することを正面から認めるものであるから、従来民法の不法行為等で規律されてきた私人間の人権侵害に対して国家が全面的に介入することになる。それは、結果として自由な社会の基礎である私的自治を大幅に害し、人権の対国家権という性格を希薄化し、個人の自由に関して大幅に国家(行政権)が介入する端緒になる可能性が高い。

本法案は、人権救済の名のもとに行政権が個人の権利・自由に介入する口実を与える点で、【法律からの人権保障】を目指す【法の支配】に反するのではないかとの疑問がある。個別具体的な人権間の調整を図る法案ならば検討の余地もあろうが、このような適用範囲の広い、言ってみれば安易な法案を認めることは、行政権による人権侵害という歴史の教訓に学ばないものであり、到底是認できるものではない。

(2)行政委員会の事務として適切か
行政権は内閣に属する(憲法65条)。しかし行政権の行う事務の中には高度の政治的中立性が要求されるものや、専門性・技術性の高いものがある。前者の例として「公務員の人事行政」、後者の例として「市場の公正を維持する行政」などを挙げることが出来る。このような事務を国会の多数派が組織する内閣が取り扱うと、事務の中立性が脅かされる。また、専門的・技術的判断について多数派に従うことは、喩えれば《天動説》にも等しい。そこで、多かれ少なかれ、多数派の支配する国会・内閣から独立して活動する行政機関をおくことが必要とされ、戦後の民主化の過程でアメリカの制度に倣って導入されたのが、独立行政委員会である(芦部同288頁)。

独立行政委員会の典型例としては公正取引委員会を挙げることができる。公正取引委員会にはその所掌事務につき規則制定権(準立法作用)、立ち入り調査等の強制権限、紛争を裁定する権限(審決=準司法作用)、委員には裁判官に準じる身分保障が与えられている(独占禁止法参照)。本法案の人権委員会も独立行政委員会として設置され、《人権擁護という事務》につき、およそ公正取引委員会と同様な権限が与えられる。

では、《人権擁護という事務》は行政委員会制度が予定している種類・性質の事務と言えるか。わたしは以下の点で疑問がある。すなわち、第一に法の支配の観点からの疑問、第二に委員会の中立性確保への疑問、第三に表現の自由への配慮が欠けていることへの疑問である。以下検討する。

(ア)法の支配の観点からの疑問
人権委員会の事務は行政の事務と言えるのか。確かに、人権については判断の中立性が要請されることは言うまでもない。しかし、行政委員会の事務といえるためにはそれが《行政の行うべき事務》であることが必要である。そして、前述の通り人権委員会の事務は私人間の人権侵害に対して、行政権がその一方に立って直接介入するものであり、憲法を私人間に直接適用するのと同様の結果をもたらすものであるから、前述のように法の支配の見地からは、それが《行政の行うべき事務》と言えるのかに、そもそもの疑問がある。

もっとも、人権侵害をされた社会的弱者の側に立って国家が介入するのは、弱者救済という福祉国家の理念に合致すると言う反論もありえる。しかし福祉国家の理念は、先ず第一に社会権の保障についての原則であって、それを自由権に及ぼすと、人権の名のもとに国家が個人の自由に干渉する端緒を与えることになるので、慎重に検討せねばならないはずである。然るに、今回の法案及びその審議過程において、慎重さのかけらもわたしは見出すことが出来ない。

(イ)人権委員会の中立性確保への疑問
民主主義的を原則とする社会にあっては、その例外である行政委員会の事務は制限的に考えられなければならない(例外の厳格解釈)。また、行政委員会が独善に陥らないよう、その公正を担保できないような事務については、そもそも行政委員会の事務とすべきではない。そうであれば、ある事務につき行政委員会を設置するには、当該事務につき相当程度、客観的で明確基準が社会的合意として存在する必要があるはずである。(国家公安委員会については国家存立の基礎に関わるので多少例外的取り扱いは可能と思われるが)。公正取引委員会や中央労働委員会の取り扱う事務については、そのような客観的基準が存在すると言ってよいだろう。

では、人権侵害にそのような客観的基準が存在するか。もちろん名誉毀損、プライバシー侵害などのようにある程度明確な人権侵害行為が存在することは言うまでもない。しかし、人権侵害の概念は曖昧で不明確な部分が多分に存在するがゆえ、裁判でも判断が分かれるのである。そのような不明確な概念を扱う人権委員会は独善に陥る危険が存在するが、その歯止めをどのように担保するのか。本法案の中にその担保らしきものをわたしは見出すことが出来ない。

(ウ)表現の自由に対する萎縮効果の危険はないか
従来の行政委員会の扱う事務は表現の自由に対する萎縮効果を直接もたらさないものであったが、人権委員会の事務は表現の自由に対する萎縮効果を直接もたらす点で、従来の行政委員会の事務と明らかに異質なものである。それにもかかわらず、本法案に個人の表現の自由に配慮する規定をわたしは見出すことができない。

(エ)小括
したがって、わたしは本法案に基づく人権委員会の事務は、中立性の担保もなく、表現の自由に対する萎縮効果をもたらすものであり、なおかつ法の支配に抵触するものであるから、行政委員会制度の予定する事務とは到底いえないものであり、行政委員会制度の趣旨を逸脱ないし悪用した疑いが強いものと考える。

(3)出頭命令、立ち入り検査等行政強制に関する問題点
本法案による人権委員会には人権侵害行為をした人に対して強制的な質問・調査権が与えられている。このような行政強制は、公正取引委員会等の行政委員会に広く認められ、その他には税務調査、食品衛生法等において認められている(行政強制という)。それぞれの行政事務の目的を達するために必要という点に理由がある。

この行政強制が憲法35条の令状主義にや38条の黙秘権(及び総則規定としての31条)に反しないかが問題となる。この点、最高裁判所は行政手続きが刑事手続きでないというだけで、それらの保障が及ばないとすることはできず、行政手続にも原則としてそれらの保障が及ぶことを認めたうえで、行政手続は多種多様である点を指摘し、必ずそれらの保障を与えなければならないものではないとしている(最高裁判所大法廷判決昭和47年11月22日=川崎民商事件、同平成4年7月1日=成田新法事件)。そして税務調査における行政強制については、刑事責任追及を目的としないこと、刑事責任追及のための資料の収集に直接的に結びつく作用を一般に有しないこと、強制の程度が低いこと、租税の公平な徴収という公益目的達成に不可欠との理由を挙げて合憲とした。

しかし、一般的な行政強制は表現の自由に対する萎縮効果をもたらすおそれが小さい点で、今回の人権擁護法案と比較するすることはそもそも適切ではない。また、成田新法事件では集会の自由という表現の自由が問題となってはいたが、集会は行動を伴うがゆえ純粋な言論とは別に公益的な規制に服することがあるのは当然である(例:道路使用許可における自治体の公安条例)。さらに成田新法で規制対象とされたのは一部の破壊活動を行い、または行うおそれの強い団体であって、純粋な言論と比較することがそもそも不適切な性質のものである。

したがって、わたしは本法案に基づく人権委員の質問・調査・公表権は、表現の自由に対する重大な萎縮効果をもたらすおそれがある点で、従来の行政強制と一線を画するものであり、憲法21条1項を侵害し、憲法31条、35条、38条に反する疑いが強いと考える。

3.現状認識
(1)マスメディアによる人権侵害
大手メディアによる報道被害について何等かの対策が必要なことは論を俟たない。また、インターネットによる被害についても同様である。しかし、マスメディアとインターネットについてはまず分けて考えるべきである。なぜなら、まず第一に、マスメディアとインターネットは現段階でその影響力に格段の差異があること、第二に、マスメディアは言論を生業とする組織であるのに対して、インターネットは主に日常生活を抱える個人によるものであることからすれば、両者には公権力の規制に対する耐性につき格段の差異が存在することが挙げられる。更に、マスメディアは憲法上の国民の知る権利を充たすために活動しているのだから、各種圧力に対抗することが憲法上も国民からも期待され、また対抗することがメディアの義務(職業倫理)でもある。これに対して、言論以外の日常生活を抱える個人に公権力の圧力に対抗する義務があるか。もちろん観念的にはあるのであるが実際上はないというべきである。しかし本法案は公権力である人権委員会に対抗する義務を個人に負わせている。これは間違いである。

まず現行法で出来ることと出来ないこととを明らかにすべきである。それが明らかにされていないのに新たな法整備をするというのは拙速である。

(2)インターネットによる人権侵害
民主政の基礎は情報を自由にコミュニケートするところにあるが、従来情報の送り手と受け手が分離しておりそれゆえ国民の表現の自由を国民の知る権利として再構成しその権利をマスメディアが担って活動していた。それは多数の国民が情報をコミュニケートすることが不可能だったからである。しかし、インターネットによりそれが可能になった。

もっとも、国民がインターネットという武器を手にして間がないため、その扱いに慣れていない者が多数おり、その武器を暴発させることが多々あることは否定できない。しかし、それでもインターネットが民主政を真に充実させる可能性をもつ道具であることに変わりはない。この新しい武器を国民が使いこなせるようになるのになるためには一定の時間が必要である。その間に試行錯誤が繰り返されるだろう。その間に人権侵害にあたる行為が多々行われることも容易に予想される。それらにつき何等かの手当てが必要なことも確かである。

しかしその際にも、自由な社会を標榜し、民主制の価値に重きをおく日本国においては、インターネットによって国民が情報を自由にコミュニケートすることに対して最大限の配慮を行わなければならないことは言うまでもない。

4.対案
以上の現状認識からわたしは以下の二点を対案とする。

(1)報道被害対策として【メディア条項】のみの法案を審議せよ

報道被害について何等かの対策が必要なことは言うまでもない。それに反対する人は少ないだろう。それならば【メディア条項】のみに絞ってまず議論するのが筋というものである。インターネット等による個人情報発信者をメインターゲットにする法整備は主客を転倒させたものと言わざるを得ない。


(2)個人による人権侵害に対しては【刑事法】として制定せよ

人格権侵害についてはこれまでの訴訟である程度内容が固まっているのだから、定義の曖昧な人権侵害で行政機関が取り締まるよりも、名誉毀損罪、侮辱罪とならぶ人格権侵害罪を新設すべきである。その方が真に被害を受けている個人を的確に救済できるはずである。

確かに刑事法として制定すれば、人権侵害を理由に表現者に対する逮捕・勾留などが行われることになり、人権擁護法案に比べると一見表現者に対する人権侵害の程度が高まるようにも考えられられる。しかし、刑事法として制定すれば、その解釈において厳格な制限を受け、またその運用においても令状主義をはじめとする刑事司法実務が積み上げてきた様々な規制を受けることとなり、令状主義による司法的抑制と相俟って、行政機関による恣意的運用の防止を期待出来る。

少なくとも得体の知れない人権委員会による規制よりも現時点では刑事司法による規制の方がまだわたしには信用できる。

5.おわりに
短文に終わらせる予定が、思わぬ長文になってしまいました。なるべくサヨクにも納得のいく法的観点から攻めようと考えたため、人権擁護委員に人権活動を行ってきた極めて偏向した非常識な団体から採用されかねない点については割愛しました。

本法案は、行政委員会制度の趣旨を逸脱し悪用するもので、さらに、刑事法の規制を逃れる為に行政罰を課すなど、ずる賢いことこの上ない法案です。
戦後猛威を振るっている《人権の神さま》を人権委員会が独占するかの如き法案です。《人権の神さま》を日本化し八百万の神の一員として位置づけようとする日本民族の努力に水を差す、文化的に見ても極めて質の悪い法案です。

法案を推進している連中はおよそ日本文化を継承する資格のない者に相違ありません。何たって、《人権の神さま》を聖書の唯一神のように押し頂き、魔女狩りの宗教裁判によって日本文化を瓦解させようと企んでいるのですから。

もし不幸にして本法案が通過した場合、我々も唯一神の論理に基づき、自然権としての抵抗権を行使しましょうと呼びかけて、この論考を閉じさせていただきます。
最後まで長文につきあっていただきありがとうございました。

訴訟保険~これって事後チェック社会と違うんでないの?

2005-03-17 01:43:32 | 人権擁護法案
【人権擁護法案】が不幸にして通ってしまった場合、保険会社は【人権擁護法訴訟保険】なんてものを発売するんでしょうか。個人的には是非作ってもらいたいというか、作ってもらわねば困ります。だってこの法案によれば、【人権委員会のやることに文句のあるヤツは自分で訴訟を起こせ】つまり【人権委員会による人権侵害の救済は自分やれ】という法案ですから。訴訟の負担を個人に転換される(押し付けられる)以上、保険でも掛けとかないと安心して発言すらできなくなりますからね。

しかしこの法案、見事に【事後チェック社会】に移行するという現政権のコンセプトからずれていますよね。確か、近時の《規制緩和という名の自由化》や《弁護士、会計士の増員》などは全て、《自由な社会》=【事後チェック社会】に移行するために行われていたんじゃなかったんでしたっけ?小泉内閣の《郵政民営化》だってその一環ではなかったんでしたっけ?【人権擁護法案】は【事前チェック社会】を目指す法案ではないのでしょうかね?現内閣の方針と正反対の法案なんじゃないんでしょうかね?おかしな話だ。と、小泉首相はじめとする閣僚や自民党の改革推進派を問い詰めたい。

そしたら『《自由な社会》=【自己責任】だから、これでいいのだ!』とかバカボンのパパみたいに真面目に開き直られたりして…。…鬱だ。



しかし、この法案が【治安維持法】を髣髴とさせるという意見もあるけど、どちらかと言えばナチスドイツの基礎となった【全権委任法】の方がより具体的イメージにマッチすると思いますね。