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基本にけぇれ

2005-04-02 00:07:24 | 人権・憲法・法律
人権擁護法案提出の憲法論的流れ

人権は対国家権として発展してきました。個人が自由に行動する中で「神の見えざる手」によって社会の調和が達成され、それとともに社会も発展(進化)するという考え方を下敷きにして、国家による個人の自由への干渉を極力排除しようという発想のもと、【国家からの自由=自由権】を基本にした人権の観念が発展していったわけです。そこではアダム・スミスの『国富論』やダーウィンの『進化論』が大きな影響を与えたことは言うまでもありません。

次の段階で人権は、参政権を中心とした【国家への自由】という方向へ発展しました。当初は多額の納税をする自由競争の勝者に「金を出す者は口も出す」という論理のもと選挙権が与えられ、次いで国民皆兵のもと「国家のために命を捧げる者は口も出す」というギリシャ都市国家以来の論理の下、成人男子に選挙権が拡大していきました。さらに、いわゆる資本主義による矛盾による社会不安や社会主義革命の脅威の下、二度の世界大戦を経て社会権つまり【国家による自由】を徐々に拡大しました。

現代では【人権の国際化】の名の下、人権侵害を理由として国家主権に介入することが行われています。これは国連関連で条約化されており、国際人権規約をその嚆矢とし子供の権利条約など条約を批准するよう米国や欧州が世界に圧力をかけています。また、最近では人権侵害を大きな理由として米国がイラクを攻撃し崩壊させましたし、北朝鮮に対する人権法案の制定や、ミャンマーなどに対する政治的圧力などがその例です。

そして、人権は公権力に対する防御権であるだけではなく、【人権規定は公法、私法を包摂する一般原則】であるとして、私人間にも何等かのかたちで人権規定を適用しようという流れが強まっています。私人間に人権規定を直接適用する根拠は、社会の発展とともに大企業、労働組合、マス・メディアといった個人との関係で国家と類似する程度の権力を行使しうる団体が生じたことにあります。そういう私的団体から個人の人権を守るため何等かのかたちで人権規定を適用しようとする試みです。

したがって、各種圧力団体やマス・メディアなどの社会権力から個人の権利を守るために何等かのかたちで私人間に憲法条項を適用すること、それ自体は憲法論的な流れからは自然なことといっていいでしょう。また、条約を梃子にして人権規定を充実させていくことも、それ自体としてはやはり自然な流れといっていいでしょう。問題はその流れを悪用しようとする政治勢力です。(続く)



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