毛唐もすなるブログといふものを

日本男児もしてみむとてするなり

日本の刑事裁判

2005-05-12 13:55:36 | 人権・憲法・法律
連続女性殺人 「疑わしきは無罪」はルール 《毎日》

3女性殺害 逮捕に無理があった  《アサヒ》

刑事裁判も社会的制度ですから国民感情(規範意識)と乖離して存在できるはずはありません。日本国民の多くが法廷に何を求めているかは、まず「法廷で真実を明らかにする」ということが安易に語られるところからも明らかです。つまり「真実の追求」です。

この点は英米法の諸国とは相当異なり、欧州大陸法(仏独)などと近い点です。英米法では「真実」より「手続」が重視されますから、司法取引などが行われる社会的文化的基礎があるわけです。その背後には「真実は神のみぞ知るのであり人は真実を知ることはできない」という諦観があります。ですから「真実」よりも「手続」や国民参加による「納得」を重視するのです。

これに対して欧州大陸法国では「真実」追求が重視されます。その背後には「理性信仰」というようなものがあります。つまり「人間は真実を知り得る」という考えです。例えばフランス憲法が「理念」を掲げる「綱領的憲法」だといわれるのはそういう社会的文化的背景があるからです。

日本は「法廷で真実を明らかにする」というのですから、欧州大陸法に近いのですが、一方で「理性信仰」というようなものはありません。理性どころかむしろ法廷を神聖化してある種の宗教裁判を行っているような趣すらあります。それは、法廷で「心からの反省」を求めたり、裁判官が「説諭」をすることからも窺えます。こんなことは英米含め欧米諸国では有り得ないことです。

欧米諸国において反省を求めるのは教会をはじめとする宗教であって法廷ではありません。つまり反省は神との間でなされる話なのです。そして神が被害者との和解を「命じる」から謝罪し和解するのです。そうでなけえれば基本的に欧米の連中は反省も謝罪もするわけがありません。彼らの文化の中にそういう動機付けがほとんど存在しないないのですから。

ですから、欧米の法廷にあるのは罪に対する社会的合意としての刑罰を科する作用だけということになります。欧米の刑法学が戦後刑罰を、応報よりも専ら犯罪抑止という観点から捉えてきたのもそのためです。死刑廃止論もそういう流れから有力化したものです。また、刑罰のもう一つの目的である矯正教化も、欧米では自分達の社会を犯罪から守るためには矯正教化すべきだという点が重視されるのに対して、日本においては「真の反省」の過程として矯正教化が位置づけられる~少なくとも国民感情としてはそういう意識が強い~ということになります。

日本と欧米では、法廷に象徴される司法に対する意識が根本的に異なるので、かの国の制度をそう簡単に移植することは出来ません。今回の佐賀の事件も多分被告人が「反省」している様子がなかったので、警察・検察が意地になって起訴したのではないかと推察します。もっとも、冤罪は出来うる限り無くさねばならないことは疑いなく、「疑わしきは被告人の利益に」の原則は欧米生まれではあっても人類が歴史的に獲得した叡智の一つに違いありません。したがって、今回無罪判決が出たのは当然です。ただ、今回の起訴は我々の規範意識の反映でもあるという点を忘れるわけにはいきません。人事ではないのです>>アサヒと毎日の社説!

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