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日本男児もしてみむとてするなり

基本にけぇったべ

2005-04-05 23:18:16 | 人権・憲法・法律
米国の事情からもわかるように、形式的平等と実質的平等のバランスをいかに図るべきか、それは単純には出て来ないということです。そして、両者のバランスを図る上で表現の自由に対する配慮が非常に重要だということです。実質的平等を推進する社会権条項を持つ日本国憲法と、それを持たない米国憲法という違いはありますが、自由民主主義国において表現の自由の重要性という点に変わりはないはずだからです。また、日本の最高裁判所も表現の自由の分野に関する実質的平等は憲法上の権利ではないという趣旨の判決(前述「サンケイ新聞事件」)を出していますから、それを前提とすれば、表現の自由の分野において社会権条項のあるなしは関係ないということになります。さらに、自由の伝統が欧米諸国に比較して希薄な日本社会にあっては、表現の自由の保護に対する重要性は、米国よりも遥かに大きいと言うべきだと私は考えます。

以上のように、日本国憲法においても表現の自由に対する脅威となりうる法律については、表現の自由に重きをおいて厳格かつ慎重に審査されるべきこととなります。そしてここでのキーワードは【萎縮効果】です。表現の自由を直接規制するものではなくても、表現行為に萎縮効果を与えるような立法は極力排除すべきということです。
このことは、【法の支配】からも基礎付けられます。すなわち、『法律からも人権を守る』というコンセプトにおいては、民主政のプロセスを歪める可能性のある立法は排除されなければなりません。そして民主政は自由な言論による【思想の自由市場】を前提とする以上、それを規制する立法は極力排除されなければならないことは当然だからです。それが【人民民主主義】ではなく自由な社会に基礎をおく【自由民主主義】というものだからです。

今回の人権擁護法案は、主に私人間における人権侵害を防止し救済することを目的としています。それ自体は憲法論的には自然な流れなのは前述の通りです。ただ、私人間における人権救済は、自由競争の結果としての強者と弱者との間を調整することを本来の目的としたものであり、実質的平等とはそういう原理です。したがって、対等な個人間のこと見うる限りはあくまで自由競争が優先するのが原則のはずです。各国において、私人間における人権救済が意識されたのは、典型的には社会権力(企業、労組など)による個人の人権侵害に対してであって、そこでは強者である社会権力と弱者である個人との間の人権調整が前提となっているのは当然のことです。対等な個人間の争いにつき、表現の自由を規制するおそれのある立法を行うことは自由民主主義の国にあってはどの国であれ慎重なのは当然なのです。

然るに、人権擁護法案は、必ずしも非対等でもない個人間の争いについても人権委員会という行政機関が、一方を弱者と認定して介入することとなっています。元々は非対等な私人間での人権侵害が問題だったのですから、非対等な個人間の人権侵害に限定するべきなのに、それをしていないのは何か意図があってのことなのでしょう。対等な個人間の争いは名誉毀損等の刑法犯を除いては、民事上の訴訟などで解決するというのが、自由で民主的な社会=事後チェック社会のコンセプトのはずです。確かに人権の普遍化・実質化が進んでいますが、現在においても、なお私人間における自由というのは自由で民主的な社会の原則であり、それを急速に転換するのは一種の革命といっていいでしょう。そう、人民民主主義革命です。

なおかつ、表現の自由に対する配慮らしいものが一切ありません。まず、規制の対象となるものが不明確で、過度に広範囲な規制を招くおそれがあります。これはそれだけで違憲になりうるものです。また、人権委員会の強制処分(行政強制)に対する異議申立てが認められておらず、人権委員会の下した判断に文句がある場合は基本的には訴訟を起こすしかないことになっています。これは表現行為により人権委員会から処分を受け、それに不服がある場合の訴訟の負担を表現行為者に転換するものです。
つまり、この法律は運用によっては表現の自由に対する【萎縮効果】を生じる危険の極めて高い法律です。それなのに、表現の自由に対する配慮らしい配慮が見当たりません。これは、『法律からも人権を守る』という【法の支配】を採用し、表現の自由に重きをおく【自由民主主義】を基調とする日本国憲法に違反するものいわざるを得ません。

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