毛唐もすなるブログといふものを

日本男児もしてみむとてするなり

基本に返りやがれ

2005-04-03 00:08:16 | 人権・憲法・法律
初期の人権宣言においては「表現の自由(言論の自由)」や「財産権(所有権)」は絶対的な地位を占めました。その後「財産権」は社会的拘束を負うものだということが徐々に明らかになり、その権利としての性格は大幅に相対化されました。それを推進したのは生存権をはじめとする社会権の登場と発展です。

その理由は、主に二つあります。まず、「弱者にとっての自由とは貧乏になるための自由だ」という結果が自由競争により生じ、そこで起こった経済的弱者の悲惨な現実から、最低限度の経済的基盤がなければ「個人の尊厳」すら守れないということが認識されたことです。もうひとつは、恐慌を経て市場の拡大なしには経済を制御できないことが認識され、市場の拡大のため富の偏在を是正することが正当化されたことです。

以上のような理由から、憲法典に社会権が明記され、各種社会保障政策が実施されました。そして税制としては累進課税が採用されることとなりました。これらの制度は、早い話が「強者から税金を取って弱者に再分配する」ということで、自由競争の結果に対する最低限の平等(=実質的平等)を確保するということです。本来的な自由権からはこんな発想は出てきません。

一方「表現の自由」は、「財産権」のような相対化は免れ、本来の自由権としての性質を失いませんでした。「表現の自由」の基礎は「思想の自由市場論」で、これには「財産権」を相対化した上記の二つの理由はいずれもあてはまらなかったからです。しかし、マス・メディアの登場と発展により、言論の世界でも強者と弱者の分裂が顕著になり、状況は変わってきています。そこで、言論の世界においても強者と弱者との調整が必要ではないのか、との議論が起こりそれは現在でも続いています。

この議論のひとつの切っ掛けとなった事件として、『サンケイ新聞事件(最高裁判決昭和62年4月24日)』があります。訴えを起こしたのは共産党で、社会権条項(強者と弱者との調整=実質的平等)の趣旨を表現の自由に及ぼすべきだという趣旨のことを論じましたが、最高裁は現憲法下で具体的立法を待たずにこのような権利を認めることはできないとして、その主張を斥けました。

そこで、言論の世界における強者と弱者との調整について何等かの立法措置を講ずる必要があるのではないかとの意識が高まりました。現行法の名誉毀損罪(刑法235条)や不法行為(民法709条)ではもはや対応できないのではないかというのです。『サンケイ新聞事件』で最高裁判決が、言論における強者と弱者との調整は立法の仕事だとしたからこれは当然の流れです。

今回の人権擁護法案もこういう流れと無関係ではありません(続く)。

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