この度の選挙の切っ掛けとなった小泉内閣による衆議院の解散につき、憲法上の疑義が提起されています。これは極めて基本的かつ重要な問題ですから、この場で少し考えてみようと思います。
憲法上、内閣の衆議院解散権を正面から定めた規定はありません。手がかりとなる条文は二つあります。
【第7条 天皇は、内閣の助言と承認により、国民のために、左の国事に関する行為を行ふ。
3.衆議院を解散すること。】
【第69条 内閣は、衆議院で不信任の決議案を可決し、又は信任の決議案を否決したときは、10日以内に衆議院が解散されない限り、総辞職をしなければならない。】
69条から、衆議院で内閣不信任決議(信任案の否決)があった場合、衆議院が解散される場合があることがわかります。そして7条3号から、衆議院を解散するのは天皇であることは明確です。しかし天皇は国政に関する権能を有しない(4条1項)のだから、誰が衆議院の解散を【実質的に】決定するのかを解釈で決する必要があります。そして、先例・通説は内閣が天皇に対する助言と承認を通じて実質的決定を行うとしています。戦後衆議院不信任決議による最初の解散のとき、解散詔書には「憲法7条3号と69条により解散する」とされていましたが、それ以降は単に「7条3号により解散する」とされていることがそれを示しているといってよいでしょう。内閣が解散権を行使できるのは69条の場合に限定されるのかどうかについては議論の分かれるところですが、戦後一貫して69条の場合に限定されないとの政府解釈が行われ、裁判所もいわゆる【統治行為論】を用いて判断を下さないという立場である以上(苫米地事件=最高裁大法廷判決昭和35年6月8日=民集14・7・1206.)、実際上問題となるのは、【内閣の解散権行使の限界】です。つまり、内閣は自由に衆議院を解散できるのか否かの問題です。
この点について、政府は内閣には自由な解散権があると解釈していますが、政府以外の人たちは一般に内閣は自由に解散権を行使できないと考えるのが一般で、憲法学の圧倒的通説も解散権に限界ありとします。もっとも、もし限界を超えた違憲な解散が行われたとしても、それを法的に追求することは、裁判所が統治行為論により判断をしない現在不可能です。したがって政治的責任を追及する以外にないのが現状です。そして、現在の政治的状況においては内閣の政治的責任を追及することは不可能です。そのため、今回の解散が解散権の限界を超え違憲なものかどうかを検討することは、政治的には一見無意味なようにもおもえます。しかし、将来の歯止めのために解散権の限界につき今議論しておくことは必要です。苫米地事件以降今回まで、解散権の限界についてあまり議論をして来なかったことが、今回の解散権行使を傍観し曖昧なうちにやり過ごす原因となったからです。
憲法学の通説は、69条の場合以外で内閣が解散権を行使できるのは、内閣不信任と同視できるような議決がなされた場合や、任期満了が近づいている場合などに限られるとします。議院内閣制の本質として【議会の内閣への信任】を中心に考えるからです。一方、議員内閣制の本質として【議会と内閣との均衡】を加味して考えるならば、内閣は自由に衆議院を解散できるという方向に傾きます。議院内閣制の母国・イギリスでは、もともと衆議院の解散は国王の議会に対する懲罰として行われていたという歴史からは、議会と内閣との均衡→自由な解散権という流れになりそうです。しかし、現代では民主主義の進展により内閣は議会の信任に依拠するということに重きが置かれているのですから、内閣の自由な解散権は制限されるべきです。したがって、内閣が解散権を行使できるのは、原則として、議会の内閣に対する信任が失われたと見うる場合に限定すべきと考えます。また、現代の福祉主義的国家にあっては、議会と内閣との協働が特に要請されるので、協働関係に問題が生じた場合、その回復を目的とした解散も許されると考えるべきです。
では、今回の解散はどうでしょうか。郵政民営化法案は小泉内閣の最重要法案と首相がい言うのだからとりあえずその点はいいのでしょう。問題はそれが衆議院では可決されたものの【参議院で】否決されたから衆議院を解散することが許されるかです。まず大原則を押えると、憲法はこのような場合衆議院に返付して3分の2以上の多数で再議決せよとしますから(59条2項)、まずその手続きをふむべきでした。その点にまず問題があります。どうせ否決される衆議院への返付は政治的には無駄かもしれませんが、自由民主主義は手続きが命です。蔑ろには出来ません。小泉内閣は衆議院の再議決を経て解散すべきでした。そして、その場合は、3分の2の議席を目指して解散することとなります。参議院の構成が変わらない以上そうするのが筋です。したがって、筋を通せば総選挙での、勝利へのハードルが高くなります。それを嫌って小泉内閣は再議決を経ずに解散したのでしょう。結局与党が3分の2以上の議席を得る結果となりましたが、結果オーライで済ませるわけには行きません。この点は厳しく追及されるべきです。
次ぎに、議会との協働関係の回復という点です。このたびに解散は、衆議院選挙の結果を国民投票に見立てて参議院に圧力をかけ、それによって強引に議会と内閣との協働関係を回復させるという意図の下なされたものです。それは選挙に当たって小泉首相が「衆議院選挙の結果である民意を見れば参議院も従わざるを得ない」という意味のことを述べていたことからも明らかです。しかし、このような意図に基づく解散を認めたのでは、法律案の議決の原則を定めた憲法59条は骨抜きになってしまいます。あくまでも解散の時点で衆議院の3分の2の議席を得ることを目的に掲げなければ筋が通りません。
やはりこのたびの解散権の行使は違憲というべきでしょう。
憲法上、内閣の衆議院解散権を正面から定めた規定はありません。手がかりとなる条文は二つあります。
【第7条 天皇は、内閣の助言と承認により、国民のために、左の国事に関する行為を行ふ。
3.衆議院を解散すること。】
【第69条 内閣は、衆議院で不信任の決議案を可決し、又は信任の決議案を否決したときは、10日以内に衆議院が解散されない限り、総辞職をしなければならない。】
69条から、衆議院で内閣不信任決議(信任案の否決)があった場合、衆議院が解散される場合があることがわかります。そして7条3号から、衆議院を解散するのは天皇であることは明確です。しかし天皇は国政に関する権能を有しない(4条1項)のだから、誰が衆議院の解散を【実質的に】決定するのかを解釈で決する必要があります。そして、先例・通説は内閣が天皇に対する助言と承認を通じて実質的決定を行うとしています。戦後衆議院不信任決議による最初の解散のとき、解散詔書には「憲法7条3号と69条により解散する」とされていましたが、それ以降は単に「7条3号により解散する」とされていることがそれを示しているといってよいでしょう。内閣が解散権を行使できるのは69条の場合に限定されるのかどうかについては議論の分かれるところですが、戦後一貫して69条の場合に限定されないとの政府解釈が行われ、裁判所もいわゆる【統治行為論】を用いて判断を下さないという立場である以上(苫米地事件=最高裁大法廷判決昭和35年6月8日=民集14・7・1206.)、実際上問題となるのは、【内閣の解散権行使の限界】です。つまり、内閣は自由に衆議院を解散できるのか否かの問題です。
この点について、政府は内閣には自由な解散権があると解釈していますが、政府以外の人たちは一般に内閣は自由に解散権を行使できないと考えるのが一般で、憲法学の圧倒的通説も解散権に限界ありとします。もっとも、もし限界を超えた違憲な解散が行われたとしても、それを法的に追求することは、裁判所が統治行為論により判断をしない現在不可能です。したがって政治的責任を追及する以外にないのが現状です。そして、現在の政治的状況においては内閣の政治的責任を追及することは不可能です。そのため、今回の解散が解散権の限界を超え違憲なものかどうかを検討することは、政治的には一見無意味なようにもおもえます。しかし、将来の歯止めのために解散権の限界につき今議論しておくことは必要です。苫米地事件以降今回まで、解散権の限界についてあまり議論をして来なかったことが、今回の解散権行使を傍観し曖昧なうちにやり過ごす原因となったからです。
憲法学の通説は、69条の場合以外で内閣が解散権を行使できるのは、内閣不信任と同視できるような議決がなされた場合や、任期満了が近づいている場合などに限られるとします。議院内閣制の本質として【議会の内閣への信任】を中心に考えるからです。一方、議員内閣制の本質として【議会と内閣との均衡】を加味して考えるならば、内閣は自由に衆議院を解散できるという方向に傾きます。議院内閣制の母国・イギリスでは、もともと衆議院の解散は国王の議会に対する懲罰として行われていたという歴史からは、議会と内閣との均衡→自由な解散権という流れになりそうです。しかし、現代では民主主義の進展により内閣は議会の信任に依拠するということに重きが置かれているのですから、内閣の自由な解散権は制限されるべきです。したがって、内閣が解散権を行使できるのは、原則として、議会の内閣に対する信任が失われたと見うる場合に限定すべきと考えます。また、現代の福祉主義的国家にあっては、議会と内閣との協働が特に要請されるので、協働関係に問題が生じた場合、その回復を目的とした解散も許されると考えるべきです。
では、今回の解散はどうでしょうか。郵政民営化法案は小泉内閣の最重要法案と首相がい言うのだからとりあえずその点はいいのでしょう。問題はそれが衆議院では可決されたものの【参議院で】否決されたから衆議院を解散することが許されるかです。まず大原則を押えると、憲法はこのような場合衆議院に返付して3分の2以上の多数で再議決せよとしますから(59条2項)、まずその手続きをふむべきでした。その点にまず問題があります。どうせ否決される衆議院への返付は政治的には無駄かもしれませんが、自由民主主義は手続きが命です。蔑ろには出来ません。小泉内閣は衆議院の再議決を経て解散すべきでした。そして、その場合は、3分の2の議席を目指して解散することとなります。参議院の構成が変わらない以上そうするのが筋です。したがって、筋を通せば総選挙での、勝利へのハードルが高くなります。それを嫌って小泉内閣は再議決を経ずに解散したのでしょう。結局与党が3分の2以上の議席を得る結果となりましたが、結果オーライで済ませるわけには行きません。この点は厳しく追及されるべきです。
次ぎに、議会との協働関係の回復という点です。このたびに解散は、衆議院選挙の結果を国民投票に見立てて参議院に圧力をかけ、それによって強引に議会と内閣との協働関係を回復させるという意図の下なされたものです。それは選挙に当たって小泉首相が「衆議院選挙の結果である民意を見れば参議院も従わざるを得ない」という意味のことを述べていたことからも明らかです。しかし、このような意図に基づく解散を認めたのでは、法律案の議決の原則を定めた憲法59条は骨抜きになってしまいます。あくまでも解散の時点で衆議院の3分の2の議席を得ることを目的に掲げなければ筋が通りません。
やはりこのたびの解散権の行使は違憲というべきでしょう。
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