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す ず な り

なかなか辿りつけない辺鄙なブログへようこそ... メールはIDのplinkに続けて@willcom.comです

運が良かったのさ

2011-03-20 01:06:51 | おもったこと
日本人の行儀良さについて話題にし、益々自信を持つのはいいことだと思います。

しかし外国と比較するのは恥かしいことです。

日本が今の状態でいられるのは島国という事実や長らく鎖国があったこと、歴史などの様々な偶然が長い長い年月かけてより合わさった結果でしょう。

生き延びるためには礼儀や品格など言ってられない環境で凄まじいできごとに翻弄されて育っていたらきっとそうはいきません。

努力できるということも運の良さのひとつです。心かからだのどこかにある努力のスイッチがダメージを受けなかったということを、喜ぶのはいい。運の良くなかった人を責めたり見下したりしたら、それはものごとのなりゆきを理解できていないということだと思えます。

そういう私もしばしばなりゆきを理解できないのです。

遠くをあたためる想像

2011-03-17 20:32:42 | おもったこと
両手を水を掬うような形にし、中に温かさをためて、寒がっている人を小さくして中に入れてみる。あるいは私が大きくなって。

ただ想像です。

温めた手の内側を丑寅に向けてみる。

方角がわからないときは天に向けて、神様に託す。



昔、こりのひどい人の肩をよくマッサージしていました。
ちょっとくたびれたら手をあてるだけ。手の熱だけでも血行を良くする効果があるだろうから。
そうしていると、肩に置いた手が熱いと言ってその人は私の手を触って確かめ、その冷たさにびっくりしていました。分厚いセーターを通してじわじわ伝わってくるのでなく、置いた瞬間から熱いと言うのです。

まだ外で飼っていた猫が生きていた頃、夜になでるなどしていたのですが、冬はよく両手で毛にわずかに触る程度に挟んでいました。しばらくすると手に痛みを感じ、それが無くなる頃には、どことなく険しい様子だった猫がゆったりしてくるのでした。最初は両手をぴったり当てて温めていたんだと思いますが、次第にそういうやり方になったのです。

手を直接当てなくても効果があるのなら。
ちょっと離しても手のひらは温かいのです。

距離なんて考えない。

とんでもないことを想像して楽しむのです。

考える子はばかになりやすい

2011-03-06 15:05:22 | おもったこと
鶴の脚と亀の脚を同じものとして数えるのに抵抗があって、それがきっかけで算数が苦手になった人はきっといると思います。

「あし」という言葉の部分で扱う分類の仕方では、という条件付きで扱う場合、いつかどこか何かのレベルで分類の条件がすりかえられる危険を、あまりに早い段階で感じ取る人。

こういう人はよほど運がよくないと馬鹿として生きるでしょう。

あまり考えない人の方が望まれる答をすんなり出して、頭が良い人としてそれなりな待遇と環境で鍛えられて本当に頭が良くなる可能性が高いのです。

考える様子を見た親が、ぼーっとしているから頭が悪いんじゃないかと心配してあれこれ干渉し、考える癖を止めさせるおそれもありそう。

言葉の扱い以前に身につけるべき、おとながほとんど忘れてしまった現実の把握の仕方が大事にされますように。

断言で問題なくても

2011-02-27 22:29:31 | おもったこと
このあいだ警察で調書作成のために行った時に、気になったのは、断言を期待され、そのような文章に仕上げられていったことです。
確かにそう思ったけど自信はない、自分の記憶違いもあるかも知れない、と思ったけど、断言へと誘導され、「間違いありません」でなければ先へ進めないのならしょうがないやと折れてしまった感じ。

多分それで問題はないだろうけど、気持ちは断言じゃなかったなあと思うと、なんとなく嘘をついたのに近い気分です。多分証言した内容は嘘じゃないのに、気持ちはどこか少し嘘。

以前の文章には被害者を当たり屋と思い込んだ書き方をしてしまって申し訳無く思っています。実際はどうなのかわかりません。あの時はそう思ったのです。これは断言した内容とは関係ないのですが。

断言しかない場所で生きると嘘が当然になってしまわないか。そうじゃない。はっきりしないんだと断言できるはず。私は記憶がはっきりしないんだと確かに言ったんだけどな。結局根負けしたのです。体力と注意力要りますよ。

私は日頃を振返ってなるべく断言できるように気をつけたいと思いますが、これは自分がどうするか決める時についてであって、認知的判断についてではありません。

金魚の引越

2011-01-22 19:24:53 | おもったこと
引越業者さんは金魚は扱わないそうなので、私より先に金魚が引越しました。

水を半分にし、隠れ場所の茶濃みたいなインテリア?はぶつかって怪我するといけないから取出して、丈夫なビニール袋を二重にし、手提に入れて、出発。

まあ重いけど小さい水槽だし、楽器を運び慣れているはずの私にはどうってことない。そう思いましたが楽器運んだのは遠い過去。しかも揺らさないように肘を常に曲げてしまうのでそれなりに負担は大きいのでした。

例えばケーキの箱を持って走る時に、何も考えないのに肘を曲げて自分の揺れに合わせて動かし箱の揺れを最小限にしようとしてしまいます。これと同じで、頭ではただ手提をぶらさげて運ぶだけと思っていたのに、からだは揺れをおさえて運んでくれるのです。頭より賢いではありませんか。

電車は適度な混み具合。いいタイミングで荷物の置ける端っこが空きました。しかし端といえば揺れは最大。ほかにも荷物があるのでその場所から移動したくありません。金魚を両手を敷いた膝に置くことにしました。揺れに合わせて手で調節するはずが、うとうとと。

乗り換えの末やっとで金魚は新居に到着し、エアレーション開始。おや、泡が出ない。とりあえずホースの先のストーンを外してごぼごぼ空気を入れ始めました。茶濃なんて後まわし、まずは空気。水足し。ここの水はおいしいぞ。

ホースの空気を細かくするセラミックストーンは移動中に水が染込んで空気が通らなくなったのではないかと思います。汚れもたまったことだし、コンロで焼きました。深夜、ひとりでこっそりと。

さて、ストーンが冷めた頃に水中に入れると泡が出ていい調子。ホースがあれこれに当たって振動がうるさいからあっちこっち向けたりしていると、どうも音が違うのです。ホースが外れている。繋いだら、泡、出ない。ちょっと泡が出ない間に水が染みてまた空気の出口を塞いだのです。翌朝乾く程度に焼いて、なんとか泡がでるようになりました。

なんでもかんでもすぐできると思わないことですね。結構時間がかかります。思わぬことが起こります。

母は幾分金魚を楽しみにしていたようでもあります。
「横から見たら魚だけど、顔は結構可愛いね」
そりゃ正面から見たって魚です。年取ってきたけど根はやんちゃです。ごはんのときは喜んで踊ったりします。

正面から見ると魚というよりは何か自分に近い生き物に思えてくるのって、わかります。私が子供の頃に猫と一緒に家の外を見ていた時、ふと横に居る存在が猫の姿をしているのがおかしく感じたことがありました(何よミーちゃん猫の格好なんかして)。生き物みんな、とりあえずそんな格好をしているけれど、実は同じ仲間みたいなところがあります。

金魚は充分休んだら茶濃に隠れもせず水槽の外を珍しげに眺めている様子。
私の引越までの間、餌やりだけ頼みました。

古いものがCMに蘇る

2011-01-15 00:23:48 | おもったこと
ビールの宣伝に使われているよ、とんとんとんからりと隣組の歌(どうやら戦後世代以降にとっては人気テレビ番組の主題歌らしいけど私は観てなかったんです)。
車の宣伝に出ているあの兎は凸凹黒兵衛じゃないか(私の世代であの兎知っている人はごくごく稀)。

大昔のアニメの主題歌もよくCMに使われていたけど、こんなにも古いものがまたリバイバルするもんだなあと特にこの1,2年ほど思います。

頻繁に思い出していると、たいていひょこっと出てくる。
CMに限らず、流行の中に蘇るのです。

多くの人が昔を楽しんでみています。昔の時代は過去か現在を否定しながらどちらかを良いものとしていた気がしますが、今は、どちらをも否定的にとらえず、慈しむようなとらえ方をしているようにみえます。

日本全体が、白か黒かの単純思考を脱したような、そんな傾向なのかな。

新年

2011-01-04 23:50:01 | おもったこと
あけましておめでとうございます。
いつも、あるいは時々、たまに、読んでくださってありがとうございます。
今年もどうぞよろしくお願い致します。

のんびりと年を越しました。
そこらの空気もメディアもなんだかやさしくて前向きな気がします。

あそこにそれは嘘っぽい

2010-12-29 15:36:39 | おもったこと
「走れメロス」の中で嘘っぽく感じた部分は、友人を助ける為に必死になる部分ではなく、走り終わっての周囲の人々を描写した部分でした。詳細をはっきり記憶しているわけではありません。だから今から読み直したらなんともないかも知れませんが、たったそれだけを読もうという気持ちがないのは問題ですね。そのうち読むと思います。遅すぎ。

当時虚飾みたいな匂いを感じました。最後の場面は少なくとも私には受入れにくかったのです。もしかして、ほかの多くの人も実は受入れられない部分があるのに、批判的なことを言ったら、道徳的にいい話を否定する悪者になりやしないか怖くて無理に好意的に見ているんじゃないかと、穿った見方もしていたような気がします。そういう意味でも嘘っぽかったのです。



嘘っぽいことについて、この数年テレビを観ていて思うことは、日本という場所であまりに抱擁が普通にされているということです。平成の時代ならばわからないでもないような気がしますが、それより前の時代には公共の場どころか日常でもまず見なかったことです。あの時代にそんなことはあり得なかったのに。もっと古い時代はどうだったか知らないけれど、少なくとも戦前生まれの親を持っていて昔から映画やドラマも観ているとそこらへんは推測できます。

現実の場面でも映像においてもおそらく抱擁でなければ表現できないと思われる気持ちはあるでしょう。表現力不足を、また相手や視聴者の想像力不足を予想して、それを使うと、人は見慣れてしまい、発信する側は使い慣れてしまって、そのうちそれが一般の日常で当り前になってしまうのです。

日本人が本来に戻ろうとしているのか、それともはやりに影響されているだけなのか。

そうすると、ほんの数十年前以前の物語や映像その他のメディアはそれなりな覚悟を持って観ないといけなくなります。大袈裟な動きは何もないけれど心の中は。

昭和の中頃は、数百年もしかしたら千年かそこら変化していなさそうなものが身近にごろごろしていましたが、あの当時と今と比べたら、年数を指数のようなものとして考えるべきだったのかと今頃思うのです。ものと一緒に人の感覚もある程度変化しないはずはありません。メディアの変化の大きい時代。

テレビゲームはもっと古い

2010-12-11 21:00:02 | おもったこと
テレビゲームができて30年ですって?

私が初めてテレビゲームで遊んだのは、小学校高学年だった40年近く前だったように思います。

父がどこからか買ってきてテレビにつないだ、球技を思わせるゲームでした。

非常に単純で、コートを思わせる長方形の中で、自分の手で操作できるのはラケットを意味する太く短い線、これは左右2次元の動きしかできませんでした。四角いボールを打つとラケットに当たって跳ね返り、壁に当たって跳ね返り、むこうのゴールに入ればいいのです。ラケットを動かしながら当てると跳ね返る角度を変えられたような気がします。

慣れないうちは面白いけれど、やっているうちに、これをあんまりやっていると感覚のどこかが損なわれるといううっすらとした恐怖感を感じたのを記憶しています。

あれ以来、ゲームをやると、感覚のどこかが損なわれると思ってきました。思考に望ましくない影響をすると思います。あれで遊ぶなら、自然な現実の感覚を使う生活をして、自然の法則をからだにしみこませないといけない(ある意味で自分の経験で得た法則を信じすぎてもいけませんけど)。ゲームでどこかが鍛えられるという事実も確かにありますが。

おとなは自分の感覚がどうやって得たものなのかを実感していない人が多すぎます。おとなと今の時代の子どもの育つ環境が違いすぎます。そういえば今のおとなも30代はゲームのある環境で育った人が普通でした。

大学生時代にスペースインベーダーがはやっていたけれど全然触れることがなく、私が次にテレビゲームかコンピュータゲームで遊んだのは職場のアフターファイブでした。まだパソコンさえそれほど普及していない時代でした。16ビットパソコンの表示の細かさに驚いていたか、まだ見たことがなかったか、そんな頃。

前世紀にできた身近で偉大なもの

2010-12-11 20:33:32 | おもったこと
前世紀にできた身近で偉大なもの。


まず、このタイトルが浮かんだのはこれを考えていた時です。クリーニング屋さんの針金ハンガー。

洗濯ものを干すのにこれが無くては。狭いスペースに幾つも並べられるし、タオルみたいなまっ平らなものも干せる、重い上着は複数重ねて使えばいいし、長いものは下の方をもう1本のハンガーにかけるなど、そのままでかなりな使い道がある上に、洗濯以外にも工夫し放題です。加工して使うこともできます。その前に、ハンガーとして場所を取りません。古い木のハンガーが一番好きだけど、形を気にしなかったら断然針金がいいです。

しかしこういうハンガーで返してくれるクリーニング屋さんに最近お世話になっていません。もしかして今は貴重品なんでしょうか。


次に浮かぶのは、レジ袋です。この形がいかに良いものであるかは、ゴミ袋の形の定番がこれになってしまったのでもわかります。あの持手は提げるためだけでなく、結ぶためにも。

1枚バッグに入れておけば何かと便利。手提袋としてだけでなく、濡れたもの、匂いのするもの、見えないようにしたいもの、散らばりやすいものなど、入れ物として活躍しますし、穴さえ開いていなければ口をしっかり結んで密封に近い状態にできます。だから、圧迫すると壊れるものは空気をいっぱいに詰めてバッグに入れたり。

底を切って、汚れやすい作業をする子ども用のエプロンに使えます。ランニングシャツみたいに被るのです。底と正面中心を切り、持手の根元の片方を切って長い紐にし、髪を染める時のケープとして使ったこともあります。

加工しないなら最後はゴミ入れ。自前の手提袋を持ち歩いていて、普通はレジ袋を断るけれど、それでもある程度は増えます。いただきものがそういう袋に入っていたり、その場の状況で袋に入れてもらわないとまずい場合があったり誤解防止のためだったり、水分がこぼれるおそれがあったり。そうしてだいたいゴミ袋には困っていません。


三つ挙げようと思って、最後のひとつは何だっけ…と長らく考えました。三つ挙げたがるっていったい何でしょうね。

そうして三つ目はビニール傘に決定。針金ハンガー、レジ袋と並べるにふさわしいものです。

何が素晴らしいかというと、向こう側が見えるという点。交通安全。向かい風の中をあまり濡れずに進めるのが嬉しい。ただ白く、ただ透明。これほど中立なイメージの傘はありません。だから男性にも女性にもかしてあげられます。

ただ、普通の傘をまた貰ったし、ビニール傘はそうしょっちゅうは使わなくて、職場のロッカーの置き傘となっています。折畳では心もとない日に、あって良かったなあと思って使っています。


どれも安っぽいものだけど、たいしたものです。

振込んだことになっているけれど

2010-11-13 17:19:37 | おもったこと
ファームバンキングの期限切れで、前任者からの引継に無い内容もあって、銀行と電話でやりとりしました。

言われるままに操作していると、ほんとにこれでいいのかなあと思いながらも念押ししてやったら、余計なところまで削除。書類を書いて提出しないといけなくなりました。しかし意外と早い片付き方で良かったです。

現在の設定では書類で銀行に申請した振込先にだけ送金できます。宛先をどこにでもできる方が便利だろうけど、何か間違いがあると恐ろしいので、このまま。

IDとパスワードで簡単にできることはこわいことでもあります。

お金とは、昔は金属片や紙切れ。今も小さい額では多くの場合それです。
今扱われる大きい額は、画面上の数字、記録媒体の中の何かの並び具合、情報のことなのか、何なのか、わからなくなってきます。


プライベートで現実を触り、ものを作ることで、バランスを取りたいものです。

旅情らしきもの

2010-11-05 07:50:24 | おもったこと
いい感じに薄暮。中洲の橋の中ほどに若いビジネスマンがひとり。出張か。ころころ引きずる鞄を横に、腰かけにかけて膝の上にはノートパソコンを開くけれど、やさしい風に吹かれつつ、向こうにライトアップされた赤煉瓦文化館を望む。

素敵な思い出に私を通行人として出演させてくれてありがとう。

思い出を食べていることもある

2010-10-16 22:44:53 | おもったこと
半月ほど前に東京の人々と仕事をする機会があり、そこで福岡にしかないお土産の話題が出ました。

福岡の、おそらく私と同世代と思われる人が挙げたのは、菓子パン売り場にあるマンハッタンという名のドーナツ、おにぎりせんべい、地元仕様に味付けしてあるカップうどんでした。

マンハッタンは昔からよく見かけましたが一度も食べたことが無かったので今回買ってみました。話によると昔はずっと濃厚な味で、今はそれほどではないとのこと。チョコレートがかけてある黒っぽいオールドファッション的ドーナツでした。

うーん、生地もチョコレートも質はあんまりうれしくないレベル。おそらく今も好んで食べる人は昔のおいしい思い出を食べているんだと思えました。もし昔がもっと良かったのなら。

もうおいしくなくなったけど昔のおいしかったという事実だけで食べていたものって、以前は結構ありました。ある時ふと気づいて、離れていくのです。

そんなものもある時現れて、懐かしさで買い求めたものが意外においしくなっていたら、しあわせでしょう。

菓子パン売り場にあるものは本来そんなに質が良かったとも思えません。でも、少々値段が高くてもうんとおいしいバージョンを作ったらどうだろうな、と思いました。

それは決まっていたのか 変えられたのか 本人が選んだのか

2010-10-02 10:30:46 | おもったこと
職場に新しく入った方が亡くなって半月と少し。
よりによってというほど気づかれにくい場所で、蜘蛛膜下出血でした。

亡くなったと聞いて、どうか生き返ってと願ったけれど、現実は甘くないのです。

なんとか防げなかったか、あれこれ思っても、後ではどうしようもないこと。

入って来られてすぐの頃から、その方は数カ月の内に亡くなるというイメージが浮かんでいました。まさか本当になるとは思いませんでした。縁起でもないことは口にしたくないのでそれは誰にも言えず。私の横を通られる度にもそれは浮かび、自殺とかしないでよね、と心の中でつぶやいていました。早いうちに辞めた方がいいよ、とも。仕事を変われば運もそれなりに変化するものなら、早くそれを上司に言えば良かったでしょうか。そんなこと、とても言えないし、聞いた人も真に受けるわけにはいかなかったでしょう。

まじめな人でした。そのポストの以前の人たちは仕事しながら覚えていこうというふうでしたが、その方は勉強熱心。お昼のお弁当を5分ほどで食べると出向元の会社に帰ってその分野について教わっていたということです。それまでかかわってこられた分野と違ったことは大きなプレッシャーだったのでしょう。

早食いが命を縮めるとはよく言います。ほかの要因もあったとしても、それがなかったらもっと違っていたのではないかと思います。

健康のためにもっとゆっくり食べてくださいよ、と言ったって聞いてはくれませんでした。誰だってそういうものです。しかしそんな、本人には些細で関係ないように思えることが大きなことに繋がるのでしょう。

予感してしまったということは命の長さは決まっていたんだろうか、それとも変えられたんだろうか。私は何をすれば良かったのか。ただ今後は似たシチュエーションを見かけたら注意するだけのこと。説得できるならいいけど、できなければその人がそういう道を選んだということ。しかし何かできることは?

音楽の趣味についておしゃべりしたことがあります。歓迎会では楽しそうにされていました。
今も笑顔が浮かびます。ご冥福をお祈り致します。

身だしなみのいい町

2010-09-12 19:41:28 | おもったこと
先週イベントにかりだされて行った先は飯塚。麻生元首相の「城下町」です。

ほとんどが昭和そのまま、しかしなんときれいな町。育ちのいい人みたいに、古いものを大事にする、身だしなみのいい町なのです。

ちょっと足りないものを買いにと思ってコンビニを探して、少々歩いても見当たりません。お店は閉まっているところも多いようでした。

商店街の端にある柱には、前の水害の水位が示してありました。私の胸の高さです。

飯塚がこんなにいいところだとは思いませんでした。

我が家を考えてみると、ため息が出そうです。せめて庭だけでもきれいにしたいものですが、父はやりたいことだけやってあとは家族任せなので。家の中を掃除してもあっという間に散らかし、玄関から枝やら何やら廊下を通って裏口に運ぶと足跡はつくし木の葉は落ちるし洗濯ものに当てて汚すし。

両親ともに高齢になっているのでそのうち私は同居しないといけません。母ひとりでは大変。私は時々帰ってできることは手伝っている程度です。今回庭に倒れている温室代わりのショーケースを起こして整える予定もあったのですが、母がくたびれているし私ひとりではできそうにないのでそのままにして帰ってきました。

飯塚のような整った環境にするなんてとても無理。そんな維持の能力は一朝一夕に身につくものではありません。体力も必要。美容師さんが「お宅はうんざりするほど広いですね」ときのう言っていました。手入れや片づけの手間や体力あれこれを考えると、確かに広いです。