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す ず な り

なかなか辿りつけない辺鄙なブログへようこそ... メールはIDのplinkに続けて@willcom.comです

バロック音楽の中でストレートボブ

2008-12-30 23:54:22 | できごと
前回美容師さんのお世話になったのは1年と1か月以上前のことでした。その時も1年以上ぶりとか言ってます。今回も白髪は伸びたしまとまりもわるく、どうしようもなくなって数か月経ったところでした。

いつもの条件はメインテナンスが容易であること。これまで、どうしようもない場合に備えて束ねられる長さにしていたけれど、抜け毛が多く揃ってないから短くなりそうだし、世間がウエーブのある髪だらけなのでできれば流行に合わせたくないです。今回はブラッシングし易さも考えてストレートな髪に。

年末だというのに貸切状態なので、音楽をクラシックに変えてくださいとお願いしました。作業にひと段落ついて、音楽はバロックに変わりました。そうです。これが一番楽です。

美容師さんの話では、色々な曲をある程度流して飽きると変えているけれど、日本語の歌詞のある曲だけはかけないのだそうです。意味がわかると作業のテンポや手先の動きが影響を受けてしまうから。

なるほどナガラには意味のわからないものがいい。知らない曲がいい。知っている曲はちょっと気になる時があります。そこ、低音しっかりしろー!そういう装飾音は慣れなくてイヤだぞー。

クラシックは、その中でもバロックはしあわせ。好みじゃない装飾音も大目に見るというか大耳に聴きます。ジャズなんて習っているけど私はやはりクラシックが好きです。縮毛矯正にはやはりバロックだな。ロマン派は巻きをしっかりというイメージだし、近代はアールヌーボー的な曲線が…つくわけないか。劇的な音楽など鋏を使う仕事には向いてなさそうです。

ゆったりと音楽を楽しみながら、途中出た紅茶のカップは水面がハート型になるように作られているものです。ほとんど飲み終わるまでハート型でした。

ど近眼眼鏡をかけて出来上がりを見れば、おおなんと見やすくなったこと。これまで長らく鏡を見るのが辛かったのです。しかし大人のボブというとひんやり知的で都会的じゃあなかったのか。これはどうもちびまる子ちゃんが年取って眼鏡かけて町内の子供会の廃品回収で走り回っていそうな雰囲気になっています。まあ一応は仕事できそうなイメージにはなったわけです。バロック音楽の中で。

別人になったつもりで帰り道を歩いていたら早速おけいこ仲間に見つかって声をかけられました。

頭が鈍ってもプログラミング

2008-12-30 16:02:23 | 安全に体調良く
このブログのカテゴリー「あそびマクロ」に幾つかあるように、私は脳が鈍ってきた時期にプログラミングをやっています。危機感がそれをさせたようです。しかし、実はプログラミングはそれほど脳を使わない作業なのです。

プログラミングとは少々の技術の組合わせでしかありません。どんな作業をどう組合わせるか、それさえ思いつけばいいのです。それには日常に何のどういう部分を見てどう感じたり考えたりしているかが影響されます。目に入ったものがどういう法則に従って成立ち、どんな条件の時にどう変化するか。新たに出会うものはほとんどが既に知っているものと何等かの共通点を持ちます。それによってある程度の推測が可能です。

脳が少々衰えても、既に身についているものは効率よく使えます。プログラミングはほとんどが一本道であり、途中でこなす作業は基本的にひとつずつです。途中分かれ道や何度も繰り返して通る道もありますが、選んだ方の道で一度にひとつのことをやります。ただ、歩きながら持っている荷物はひとつとは限りません。コンピュータが人間と違うのはその速さです。しかし人間が受持つ部分はゆっくりできます。一本道をゆっくり作り、走るのは機械。

人間がコンピュータと違うのは一度にものすごく多くを、大部分は無意識にしているということです。知らないうちに脳を大いに使っています。

私が鈍ってきた原因は疲労、ストレス、コミュニケーション不足、生活の切詰め過ぎによる気の滅入りその他いろいろ。当時人間らしい生活ではありませんでした。

危険だったと今思える時期の、鈍った状態でもプログラミングはできました。やったことによって少しは気が紛れ、活性化しました。鈍っていた証拠に、その当時作ったものというのは新しく発想したものではなく、過去に思いついたものや思い出したものの連想ばかりです。その後もう何もできない時期もありました。

プログラミングによる脳の活性化の程度なんて知れたものです。自然と親しんで人間らしく生活することにまさるものはありません。

昔からある日常の科学感覚の欠如

2008-12-29 23:37:54 | おもったこと
職場の給茶機の上は温かいので、午前中はお弁当のご飯を置いていたりします。その上に梱包用エアキャップ(通称ぷちぷち)を被せておけば少々冷めていたとしてもお昼には丁度良い具合です。これは用が済んでも省エネになるからと私はよく広げておきます。あんまり格好良くないです。できれば美しい布がいいだろうけれど。これは水を入れる時に外すので忘れられやすいし置いている意味を知らない人もいるし、よく外されています。それはそれでいいのです。給茶器は本来何も被せない前提で作られたものでしょうから。エアキャップはもちろんでこぼこした面を下にします。ある時はお弁当をエアキャップでくるんでありました。温かい部分とお弁当の間にエアキャップ。

給茶機の上は干す場所でもあります。台ふきんは使う時に濡れていた方が汚れをよく取るし洗う時に落ちやすいから帰りがけにだけ干せばいいのにと思うのですが、しばしばそこに広げてあります。人によっては端の方を垂らして。

ある時、広げておいたエアキャップの下に台ふきんが広げてありました。水蒸気の通り道を考えないようなことは普通の職場において、そう奇妙なことではありません。4年制大学を出た人がそんなことをしていてもごく普通のことです。

インスタントコーヒーや砂糖、クリーミングパウダーの瓶も詰替え前に洗ってそこに置いて熱による乾燥を図っているのですが、私は瓶のガラス面ができるだけ多く温かい部分に接するように、そして水蒸気が滞らず上がっていくように置きます。しかし多くの人にとって干すということは伏せて置くことなのです。私以外の人が置いた場合しばしば瓶の口がぴったり塞がった状態になっています。急須を伏せて置いても蒸気が上に行って乾くのに時間がかかります。

今の職場の約半数の女性(最近もうちょっと少数派かも知れない)にとって、布を干すこととは垂らすことのようです。四角い給茶器の角で直角に折れた状態でハンカチなどが干してあります。そしてしばしば、困ったことに水平の面より垂直の面が大きいのです。濡れている間ははりついていますが、乾けば落ちます。半分以上垂らすと落ちると私が何度か言ったのですが、理解されていません。

冷蔵か冷凍したものを開ける前に室温に戻すことも理解されません。お茶の葉は冷蔵しなければ湿気が来るというけれど、冷えたものを取り出して開ける時に一気に湿気が来ることはわかっていないのです。確かに以前わかってなかったです。全員ではありません。もしかしたらその後テレビか何かで言うのを聞いて憶えたかも。理解するのではなく憶えるものなのです。昔の職場の元教師もわかっていませんでした。

近頃の若者の理数離れなど言いますが現実は年齢に関係なく、定年間近から若者までこんなものです。色々な職場を経験してみてそう思います。現実のものごとの成立ちに気付かず成行きを推測できないのです。そしてこれを書く私もKYですからおそらく自分の気付かないところで。

インスタント食品

2008-12-27 23:36:38 | 台所や洗濯場やそこら
お買い得品ワゴンに並んだパスタ。生麺にソース付き。蟹は好きです。クリーム好きです。外食したと思えば相当安い。4種類あった全部買うのはいきすぎじゃないかと思うけど1つじゃ面白くない。比較的好みの2つを購入。

開封しようとして目についたのは、2人前の表示。ラッキー。生麺を茹で、あたためたソースを混ぜるだけです。それよりちょっと面白みを付け加えたくて、蟹のトマトソースパスタの上にヒラタケのバター炒めを。

驚きました。こんな簡単なものがずいぶんおいしいのです。おかわりしようかと迷いましたが、最近胃の負担が大きいような気がするのでやめときました。おかわりしたくなるくらいおいしいのと同時に、量がやや少ないです。これが戦略なのでしょうか。パンを用意しておいて良かった。

数日後はもうひとつのパッケージでカルボナーラです。トッピングはシイタケにしました。

昔はインスタント食品に偏見を持っていましたが、おいしいし実際に助かります。昔と違って化学調味料を使っていないものも手に入るようになりました。よく使うのはスープです。疲れて帰宅して、冷ごはんさえあればインスタントのスープで雑炊ができます。またある日は前日の残り物とごはんを温めて粉末にお湯を入れたスープですぐ夕食。

今回のパスタはインスタントの範疇に入るのかよくわかりませんが、非常に簡単です。ただ、私はついトッピングみたいに手を加えてしまう傾向があります。次は手を加えないでそのものの味を味わおうと思っています。

何故かある程度体力がついてからインスタント食品を利用することが多くなりました。無理をしなくなることとこだわりを捨てることは同じなのかも。

しかし、体力が落ちるのは脳の機能が落ちることに先行します。インスタント食品利用は脳の働きとある程度関係ありそうです。体力が落ちても脳がしっかりしていれば料理も億劫でないようです。

脳が回復するにはインスタントに頼らない気持ちが必要。しかしまずはこだわらないのも大事。これがいきすぎないように気をつけます。回復にはまず、楽しむことですから。

おいしさが違う

2008-12-26 23:51:07 | おもったこと
今月なかば頃から食事がいつになくおいしいのです。ずっと前からおいしいものはおいしいと思っていたつもりでしたが、それとはなんとなく違うようです。

十数年前に整体に通っていた頃に、背中を触って「ああ、食事がおいしくないんですね」と言われ非常に意外だったことがありました。味覚は正常だと思っていたので。

私が家を出たわけがわかった気がします。長い年月の間、食事のときに父に言われていたこと。将来について。あまりにも漠然とした要求です。何をする必要があるのか具体的なことも詳細も全くわからないまま、ただ、この家をどうするつもりか、結婚して出ていくのか、はっきりしろと。筋の通らない無理な言い方も、おとなになってから聞いたなら合理的な返答もできたでしょうに、あまりに幼いうちから言われてきた話題に対しては答えられない癖がついたままです。私の存在は父の世話のためであり私の未来は家のため。自分のためは無し。すべてに諦め、我慢。上半身も首も父のいる方にはまわりにくくなり、目もその方へ向きにくくなってしまったということは何年も前に気づきましたが、食事についてはすっかり忘れていました。

食べたいと思わない時期が長かったです。食べなければ動けなくなるから食べていました。そしていったん食べ始めるとかなりな量可能です。人並みはずれて消耗する体質でした。

あまり消耗しなくなった今は量が問題ですが、今のおいしいということはこれでよしと思えることでもあり、量を少なめにしておいてもこれでよし、です。ついたくさん食べてしまっても、これでよし。

父に言われていたことを私は気にする必要など無かったし、おいしく食べてよかったのです。自分に自由の権利があったのを、言葉のうわっつらで知っているのではなく、やっと心からわかったのだと思われます。しかし、何をきっかけに、どういうふうになのか、不明。

「おいしい」がこれまでとどう変わったのか、はっきりとはわかりません。いろいろなものが繋がった末端の、非常にわかりやすいところにあるひとつが「おいしい」であって、形は同じまま、おおもとから末端にこれまでと違うものが流れてきたのかも知れません。

それから、自分が笑っていることによく気づくようになったのも最近のことです。

「万華鏡」デバッグしました

2008-12-21 18:53:52 | あそびマクロ
万華鏡」マクロの中に文字化けを発見しましたので、直しました。

と、一度直したらまた戻ってしまっていました。普通の文章の中では使われない文字の並びがブログ画面に出ると制御コード扱いになるのか消えてしまってキャリッジリターンを消し、次の行まで道連れにしてしまうようなのです。リターンをいくつか繰り返して解決しました。


よく見るとまだ改善すべきところがあります。
いつか気が向いたら改善するかもしれません。

しかしデバッグとは懐かしい言葉です。
昔は「机上デバッグ」という言葉がありました。今は機上ですね。おそらく机上の機上。人によっては飛行機の中で。



基本的に初期画面はまっくろですが、できあがった画面から続けて実行したい場合は、

>'開始画面 hajimeの値
>' 0:現在の状態 1:まっくろ 2:まっしろ 0<hajime<56
>hajime = 1

ここの数字↑が"1"になっているのを"0"に、つまり"hajime = 0" に変更してからやってみてください。

あんまり何度も繰り返すと危険ですから、適当なところでExcelを終了してください。

動きが語るもの

2008-12-21 18:11:59 | 音と動きと形
指揮者の朝比奈隆さんを初めて見たのは、夜遅い時間に妹と一緒に居る時についていたテレビでした。私が合奏を始めたのが大学生の時なのでその頃かもしれないけれど、どうも高校生だったような気もします。

いいね、このじいさん。妹とふたりで話していました。こんなりきみのない動きをする指揮者は初めて見ました。有名な指揮者はほかに多くいたけれど、心惹かれることはありませんでした。頭などの動きを急に止めるようなきびきびした動きの指揮者は「違う」のです。それ以来指揮者といえば朝比奈じいさん。軽いひとめぼれのようなものでした。

りきみの無さ。それでじゅうぶんです。このひとは「わかっている」。しかし世の中の基準というのはどういう有名な学校で学んだか、どういう地位であるか。朝比奈さんの地位は指揮者で問題ないけれど、おそらく経歴が問題です。○○のくせにと言われる隙のある人は非常に不利。内容よりも格好いい経歴のある方がもてはやされるのです。名前が問題なのです。精神的な美しさよりもわかりやすい技巧が称賛されるものです。

世界最高齢指揮者になってからはその珍しさゆえにもてはやされました。それはちょっと残念でした。しかし私たちの目はなかなか鋭かったということになります。

何故そんなに高齢になっても活躍できるかというと、りきみが無いから。りきみとは無理な押し付けのことです。自分のからだに対して、相手に対して。マエストロは相手を思い通りに制御しようとせず、あるがままを活かすのです。

転がしたボールを決まった位置でばしっと止めさせるのではなく、自然に減速していって決まった位置でちょうど衝撃なく受け止められるように転がすようなもの。音楽とはやりとりです。受け止めやすい投げ方があり、相手をのびのび動かす受け止め方があります。それは自分のからだとのやりとりにも通じます。「わかってない」指揮者は衝撃の蓄積によってからだをこわしていきます。

これまでは色々な意味で「名前」によって、わかりやすさによって価値がつけられていたけれど、きっと今後は本質をみる傾向ができてくるでしょう。お金という、一種の「名前」が信用を失いつつありますから。

とにかく流れを通す

2008-12-20 23:04:25 | 音と動きと形
レッスンの内容がだんだん基本的なことに重点を置いたものになっていってるなと最近感じます。いつもはもうちょっと複雑な振りがつくのにその時はただ短い1曲全部changementという足を交互に入れ替えるだけのジャンプ。滞空時間を長くとのこと。まず土台をきちんとつくろうという意図がみえます。記憶力に問題ある私はその時はちゃんとやれました。

ほとんどの人は私よりうんと若いのです。なのに跳び方が重そう。終わると息を切らしている人が多かったです。私は空中に止まっている時間が比較的長く、息切れもなし。

思い当たるとしたら、日常に階段を2段ずつのぼることが多いということ。ただそれだけです。個人的な、体質のせいもあるかもしれませんが、ただ階段を2段ずつのぼるだけで大きな差が出るようなのです。

上半身がぐったりしても歩くのは意外に平気。動けば身軽。だから職場で不調や疲れをわかってもらえなかったわけです。しかし年を取っていってもちょっと何かするだけで若い頃よりうんと能力が向上することもあるのだと色々実感しています。

日頃よく注意を受けるのは振りや順番をしっかり憶える人たち。注意して良くなる見込みがあるということか。私は振りをあまり憶えない代わりに基本的な動きはできる範囲でできているのかどうか、あまり注意されません。わかっていてできないところは注意してもしょうがない。ふらつきの原因である股関節の異常や体型も練習量がカバーするべきだからしょうがない。普通の大勢の人の傾向としては、形を大雑把に掴み細かいところを捨ててついていくけれど、私ははじめに教わったことを守るのに一生懸命で、できているふうなポーズが取れないのがいつものことです。

舞台で行うようなことというのは、できているふうなポーズを取るのが大事です。そして何があろうと流れを最後まで通しきる必要があります。ジャズピアノでは私が片手でもいいからテンポを守って、間違えてもさっと次に追いつきながらやっているのと同じ。ろくにできてないというのに「そこのところは見事」と部分的にほめられます。

キャパシティの問題があって、ある程度を捨てて残すものを選ばなければならない場合、私にとってバレエでは土台になる動き。単独で見ると非常に泥臭い。そして多くのお嬢さんたちにとってはバレエをやっていると実感できるポーズ。土台は本当に必要。そして舞台を考えるとポーズは本当に必要。そうでした。私は好みの音楽でできる健康維持の体操のようなものとして始めたのだし、音楽は舞台が好きでなくて日常の練習の中で人と一緒に演奏することが好きなのです。

土曜日にはNHKの連続ドラマをみることがよくありますが、あの中で芸妓がお客の前で舞をこれではいけないと途中で止めてしまったり、バンドがメンバー登場で歌を中断し、途中から続けたりしていましたが、あれは音楽をやる人からみるとありえないことです。出来がひどくても何かハプニングがあっても、続けるものです。滅多なことでは止めないものです。

前に教わったバレエの先生は、動きを見ていればその人が楽器を演奏する人かどうかがわかると言われました。おとなで始めてからそう長くない人たちについてのことでしょう。ある動きができあがった時には次の動きへの準備を始めているのだそうです。

私も一応流れを通す感覚はあります。ただ、見た目を伴う何についてもうまくポーズが取れない。世間はポーズしか見ません。でも自分が大事と思うことは大事にしたい。大事の基準が分不相応みたいです。それを自覚してポーズまで作れるキャパシティがそのうちできますように。

何度もやめては再開するお稽古。やっぱりやっていた方が健康でいられます。ああ、やっぱり私はそんなつもりなんだ。夢を持てよ。

しゅぱつぃーれんげーえ

2008-12-20 00:59:18 | おもったこと
「お散歩に出発ィーレン(spazieren)」なんてくだらない言葉が最近頭の中をうろうろしています。ホメオパシーでも言われたけれどそのずっと以前から実感していた、自然に親しむ必要がありますが、はっと気付くと夕方になっていたり用事がまるで済んでいなかったりしてなかなか。明日こそは椎茸を干しに出したら出発です。

あまりにくだらない言葉だけどこの調子だとまたケン・モージャイ氏に先に書かれてしまうかなと思っていたら、これも最近頻繁に思い出していた「アルジャーノンに花束を」の方が日記に出ていました。これはたいした偶然でもないですね。分野特有、ありがちな一致。このあいだ片付けていると本が久しぶりに出て来ました。

以前もじゃいおやぶんが福岡でお話された日には私はそのイベントの関係者と思われる先生の試験を受けていました。終わったら先生にかじりついて参加させてくださいとお願いするはずだったのにけろっと忘れて何に急いでいたのかさっさと帰ってしまいました。気がついたときは遅かった。

こんなふうでなかなかお会いできませんし前回ご挨拶してから何年経ったやら。私の顔も忘れられたことでしょう。おしらさまともひとことふたことお話したんだったなあと懐かしく思い出します。何もかも遠くなっていきます。

遠くてもかまわない。まずは近いところに出発ィーレン。

お買いもののとき

2008-12-18 00:00:49 | おもったこと
私が「バラ色の経済崩壊」なんていうタイトルで書いていたのは15年かそこら前でしたが、なかなかこのシステムはよくもちますね。そんなふうにしか言えない私はもう確信しています。

この世の仕組みが変わって安定する前はそれなりにお金がまわる必要があるので、みなさん、もし余裕があったら今はお買いものしましょう。

お米に塩に味噌醤油、トイレットペーパー、シャツにパンツに靴下みたいな消耗品で少々長く置いても大丈夫なものやすぐ使ってしまうものは、いつもよりちょっとだけストックを増やしましょう。そろそろ買い替えの必要のあるもので置き場所に困らないもの、いずれ買う予定だったもの、そんなのをなるべく今買いましょう。

今日はやっと歯の治療が終了。何本もの歯を扱いました。歯医者さんの世界も日進月歩のようで、これからはこれまでとは違って治療あとが古くなってもそう悪くはならないでしょう。しかし費用が大変。11月は休日が多かったために収入が極端に少なく、今回のひととおりの治療費の方がずっと多かったのです。しかしお金のかかることを今のうちにやっとくのはきっといいことです。

私はそんなに余裕ないけど、ストックはあった方がいいです。これからどうなるかわからないから。あ、歯ブラシも買っとけよ。

楽譜が読めるということは

2008-12-15 00:35:39 | 音と動きと形
ジャズピアノの生徒さんも色々だそうで、私みたいに楽譜が読める人は先生が楽らしいです。読めないで、全部暗譜で弾いた初心者のおじさんがいましたが、私より先に教わりはじめて、私にとって5回目かそこらのライブでやっと初舞台でした。でも、私と違ってちゃんと全部の音を出していました。私なんて音を間引きしまくり、難しい部分は開き直って片手の単音でやっているのです。そして楽譜が無ければ弾けません。

おじさんの演奏はもちろん初心者らしかったけれど、聴いていて嬉しくなってくるものでした。私はうまい人の演奏よりも素朴な喜びを感じました。

私もあんなふうに暗譜した方がいいですよね。そう言うと、先生は楽譜が読めることがどれだけ助かるか力説されました。それじゃAのところからね、と言って、私はすぐにそこから始められるけれど、楽譜を読めない人は最初からしか弾けないのだそうです。

楽譜が読めるとは言っても、私はもともと音のまばらな低音楽器で単音専門だったわけで、ピアノみたいに一度にたくさんの音をリアルタイムで把握しようというのは大変です。憶えさえすれば弾けるけどこの年齢でこの「無理のない」練習量では。

今度の曲はうんと易しいと言われる、「枯葉」。まず曲を通してみて、私はほとんど単音で曲についていくのですが、先生はメロディーやリズムがわかっていればそれでいいというふうです。楽譜にある重音なんて大部分は弾けないまま。なのにもうだいたい出来上がっているみたいな言われ方をされます。私の問題はただただ、ピアノに慣れて、練習し音をおぼえること。これは教わることではなく練習量の問題です。別の楽器で演奏慣れしているせいか曲想などはそう問題ないようなのです。

そのうち片手の単音バラードで泣かせてやるぜ。以前そう思っていたけれど、そろそろ音は少ないながらなんとか両手でいけそうです。子供の頃と違ってどうやら私はかなりドラマチックなタイプ。演奏中これじゃあ魔性の女じゃないかと思う時もあります。日常に自覚はないんですけど。楽譜には書かれていないけれど年をとれば行間?が読めてきます。書いてないのにでっちあげているのかも。というのもその内容は半分はメロディが持つ人間の普遍的な感情、半分は私の性格ですから。上達すればそういうところもどんどん表に見えてくるはず。こわいこわい。内面を磨かないと。

ライブも済んで、次回からまたコードの勉強に重点が置かれます。コードさえからだに染み込めば楽譜のメロディ部分しか読めなくてもそれなりな演奏ができますから。というか、それこそがジャズです。遠い道のりよ。

体調、上向き

2008-12-13 23:32:05 | 安全に体調良く
W-ZERO3で文字入力するにはキーを押すのが一番間違いなくできます。わりと最近気づいたのですが、この作業が辛くないのです。

日常の動きの大部分はポテンシャルエネルギーを使ってできます。多くの作業は手や腕などの重さを使えるし、ドアの取っ手まで手を持ち上げるのはちょっと肩を動かして手を振り子のように上げたらいいのです。自分の力はきっかけ程度だったり、一瞬だけだったりするので、そんなに気にならなかったけれど、例の電話のキー入力だけはある程度の時間続くので辛さを感じていました。電話を見やすい位置に持ち上げておくのはかなり前から平気になりましたがそれだけは。しかし今、私には押す力が普通にあります。

荷物を運ぶなどの作業も気持の持ちようです。仕事の上でするべきならば辛いとも思わずに平気で普通にやれます。ただ、後でそれなりにぐったりするのがいつものことでした。最近はぐったりすることも珍しくなりました。

こういう経験を通して思うことは、世の中のかなり多くの人々がからだや精神状態の不調によって動きにくいために怠け者として人に責められ自分でも責めて無理をして生きなければならないだろうということです。かなり幼い時期に外部から自分を貶める癖をつけられてしまい、そのイメージの中で生きてしまうということもきっと多いでしょう。

歳を取るほどに思うのは、人間は世間で言われるみたいに大人になった後ひたすら衰えるわけではないということ。能力は使い方次第では身について強化されていきます。鍛えるのは大事。しかしその前に、あるいは同時に、古い疲れを取らなければなりません。間違ったイメージを取り去らないといけません。

ホメオパシーによると私には精神的疲労がかなりあるということでした。それはどうやって取ればいいのかよくわかりません。しかし自分のからだがひとりでに必要なことをし始めるのではないかとも思っています。

数年前までの何年もの間、週末二日間寝たきりでした。それだけ休養が必要だったのです。最近は平気で起きていられます。この頃の変化というと、もっと人と会話したいという気持ちが強くなってきました。

夕陽の照らす波打ち際で

2008-12-13 23:30:20 | おもったこと
以前住んでいた場所に、電車が廃止された後に行った時、近所の乗馬クラブが無くなっていました。

海岸へのお散歩に行く途中、馬がぶるると呼びかけてくれた、その場所もからっぽ。あれは道路に面したところに居た時に私が挨拶の言葉をかけた馬だっただろうけど、私には区別がつきませんでした。

夕陽を背景に人を乗せた2頭が並んで波打ち際をお散歩することももうありません。カメラのレンズの前に自分の指を入れてしまっていたのに気づいて画像を消し、また見に来ればいいんだからと思っていたけれど。

馬のお向かいの家に居た犬は、落ち込んでいた私の前にボールを転がしてくれたことがあります。

いつまでもあるわけではない。でも、まあいいや。

私はここで素敵な景色を見ました。いつかそう自慢します。その頃も雲母の載った金色の波紋はきっとあるはずです。

旧仮名遣い

2008-12-12 22:28:47 | 言葉と過去
確か今月号だと思います。ご自由にお取りくださいと本屋さんに置いてあるPR誌を読んでいると、「VISTAでも使へる」という古めかしい活字がありました。旧仮名遣いと旧字体に変換するソフトウェアの広告でした。ずいぶん高価です。こんなのを買う人がいるわけだなあと思いました。出版業界くらいでしょうか。

私は母が子供の頃に読んでいた古い童話の本を読んで育ったので旧仮名遣いには抵抗ありませんし、そう構えるわけでもありません。しかしわざわざ書くこともなく、書こうと思えば多分書けるけど、おそらく単語については自信ない部分がたまにあります。そんなのは辞書を引けばわかること。わかってはいても念のためと辞書を引くのに時間がかかるだろうなと思います。

誰かが旧仮名遣いらしい文章を書こうとして間違っている場合、その人が言葉の起源やその規則を理解していないんだとわかる場合もあります。古い書き方にはたまにそのおおもとの気配が残っています。

イギリス童話の中で面白い訳語がありました。妖婦(えうふ)と書かれていたのです。現代語では「ようふ」と読むことになりますが、昔は書かれたままに近い読み方をする人もいました。昭和の中頃まではところどころ旧仮名遣いみたいな話し方をするおじいさんもいたのです。本が書かれた当時、妖婦は発音が"elf"に似ていたかも知れないなと思いました。