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す ず な り

なかなか辿りつけない辺鄙なブログへようこそ... メールはIDのplinkに続けて@willcom.comです

小さくどっしり

2013-09-03 00:30:34 | 音と動きと形
「どっしりとした音」
ある日のベースのレッスンでそう言われました。
え?こんなに小さい音なのに?
最近練習不足で私は小さくなっています。
それはタイミングによるんですか?
「音の伸ばし方。ええと、そう、タイミングですね」
音の出るタイミングと、音の消えるタイミング。
余裕がつくるどっしり感。
もし大きな音を出そうとしていたらそれほどでもなかったか。

ベースのくねくね道でおいしい道草

2013-05-31 21:20:07 | 音と動きと形
今度の発表会では、私はベースはベースでもエレキを弾きます。
もう何でもありの上に変則的なことだって何だって自由にさせてくださる先生なのです。
私も一度エレキをやってみたくもありました。

私が柄にもないベンチャーズを演奏するのも受けそうだと思われたようです。そんなにイメージが違うのかな。確かに電子楽器はもともと好きじゃなかったしドラムの入る曲なんて昔はとても聴いてられなかったんですけどね。

今回座って演奏するおとなしげなベンチャーズグループは若い女の子たちが目玉で、うーんとうーんと年上の私を入れてますが、生徒の中では若い方とも考えられます。

おとなしいと言っても私はステージ上で自分の音が聴こえないのでめっちゃくちゃ大きく弾いてしまうみたいです。普通の人はこんなにストロークを高くからやらないんだろうなあ。本番は控えめにしないと。

弾いてみて、なーるほどと思うことが楽しみのひとつ、レパートリーが増えるのもうれしいです。だけど一度やればじゅうぶん。その後はウッドベースに励みます。

寄り道いっぱい。楽器というのはみんな似たようなもんで、ちょっとずつ違うだけだと思います。あれができればそれは少し易しくなる。これを練習すれば共通点のあるそれも少しは上達する。ある意味ではどれも中途半端。

マンドリン系はピックがあってこそ一番自由になれます。フレットがあるからウッドベースより易しいです。

楽器にこだわらない。なんて言えるようになったらいいけど、まずはひとつマスターして、上達。発表会のあとはこれを目指します。そう、ウッドベースは目標地点がまだはるかに遠いのです。

まずは今やっていることをおおいに楽しみます。

染まりたくない、染め合いたい

2013-04-11 17:25:45 | 音と動きと形
ベース発表会の候補曲をちょっとずつ聴かせていただいたら、意外。ロック嫌いクラシック好きのはずがロックでもやりがいありそうだったりちっとも興味なしだったり、クラシックっぽくてもそんなに関心なかったり。私の世代だったら知っているのが普通の曲がいっぱい。曲は次回のレッスンで決定しそうです。

私が普段音楽をあんまり聴いてないのは、気分を音楽に染められたくないから。自分なりの時間を持ちたいからです。しかし演奏するのは好きです。


何がやりたいか訊かれて出て来なくても、選ばせてくれるんだったら結構わがまま言うんですね。これしか無いというのならそれだけを喜んでやりますが。

最近の選曲から、先生はバラードはあんまり興味無いんじゃないかっておっしゃったけど、そうじゃないです。曲によるんです。一緒に演奏する楽器や人の性格によるのです。私は誰よりもバラードを引き立てる人のつもりなんだけど。


ソロだったらやりたい曲言えるけど、伴奏は基本的に何でもできる人でいたいからわがまま言わないつもり。…つもり、です。

ソロをやりたくないわけじゃない。だけど、誰かと一緒に演奏する方が楽しいし、それは自分が伴奏できる方がチャンスが多いのです。聴いてもらえるチャンスも。ふたりだけで演奏するとしても、少なくとも相手は熱心に聴いている人なのです。そして、伴奏するってことは相手の色をより活かしつつ幾分自分色に染めるということ。あら~、伴奏する人って意外と支配欲強いのかな。



このあいだ、回覧板を持って来られたお隣さんとの立ち話の延長で庭でマンドリンを弾きました。にわかリサイタル。少人数でおとなしくもはしゃぎました。

今週、家に来られた父の訪問看護師さんの前で、マンドリン。音楽療法のうち。しかし看護師さん一緒に歌って楽しそうでした。



自分がメロディを弾くのも楽しいけど、やはり伴奏した方がもっと盛り上がりそうです。

伴奏できる人を目指しています。伴奏してくれる人もみつかったらいいな。

ベースのくねくね道

2013-04-03 17:51:56 | 音と動きと形
先月にあった発表会ではそれなりな規模のステージで2つのオケの中のひとりとして、ベースでそれぞれ1曲ずつ演奏しました。再来月にあるライブハウスの小さい発表会では、バンドのひとりとしてまず1曲、それから自分のやりたい曲を1曲。

ベースで何やりたいかって、そりゃ難しい。基本的にもらった曲を一生懸命伴奏するだけというつもりなので。

一緒に演奏する方をお願いしないといけない。だいたい先生がやってくださるけど、手に負えなさそうだったらおそらくプロのどなたかにお願いすることになります。しかし何がしたいか。わからなーい。私は伴奏がしたくてやっているんです。誰かのやりたい曲を引き立てるのが嬉しいんです。

低音の楽器でちっとは聴いて退屈しない独奏曲というと、バロックのあの曲がある。うまく演奏できるならば。部分的にはかなりいい感じだけど、全体としてうまく仕上がるか相当難しいです。

手元に楽器が無いのでせいぜいギターで練習してみていますが、ベースよりとんでもなく楽なはずのギターで手や腕が痛くなるなんて。ハイポジションで図太く盛り上げるのは無理じゃなかろうか。

ジャズ方面の感覚を身につけるんだと言いながら、超むずバロックに挑むつもりなのか。挑まなくていいけどもしもできたら嬉しいから。一応この曲、見込みあるかどうかやってみますから先生聴いてください。というのが次のレッスン。そうでなければ何か思いついたのに決めるまで。

発表会へ向けての練習が多くてまだアドリブの練習をほとんどやっていないので、やりたい曲がみつからないんだと思います。たくさんジャズを聴いていればまた違ったでしょう。

発表会は誰かと一緒に演奏するチャンスなので出ます。発表はやはり上達しますから。

好きなことに辿り着くまでにこなすべきことのひとつは、ジャズを聴くことですね。

火焔土器は魅力的

2013-03-15 17:27:12 | 音と動きと形
先日九州国立博物館へ行きました。
ボストン美術館の曽我蕭白がメイン、ほかもみごたえあったけどそんなに記憶に残らなかったです。

いつも時間ぎりぎりで余裕なかった常設展示も今回観ましたが、意外に充実しています。「雪と火焔土器」って、どこが雪かなあと思ったけど、雪深い地方のものという意味みたいです。

やっぱり魅力的です、火焔土器。三次元の模様。現代人は主に二次元で教育されてたとえ三次元であっても二次元感覚のものに囲まれて生活するから昔の人の三次元感覚が新鮮に見えます。2,30年前に本屋さんで見かけた本にはあの模様が実は文字だと書かれていたのを思い出します。

火焔土器は発見当時そう感じたから名付けられたのでしょう。いったいあの形が何を表しているのか、火焔とは言い切れません。私には火よりは水じゃなかろうかと思えます。渦だったりバシャッと打ちつけられた形だったり流れているところだったり。もしかして、水に限らない何か、エネルギーの動き。

ケルトの渦にも通じる縄文の模様です。

3Dプリンタ出力フィギュアを買ってしまいました。

遅いティータイム

2013-03-04 11:26:39 | 音と動きと形
薄暮はわずかに重く、街の下の方に淀むので、見上げると空はまだ水色でした。

ガラスに守られて私は紅茶をひとくち。足元に見るアスファルトという淡い闇の上を進む四角はどれも似たような白っぽさ。レモンはカップに入れずかじります。

きりりと柑橘系の香るヘッドライトと残念そうなテールライトをつけて車が通っても夕暮れは混ざらない。横断歩道のスリットを通り抜ける時幾つに分かれるんだっけ。薄闇に紛れみんなもとの1台に戻ってあたりまえに去っていきます。気にしなければバラバラになりはしないのです。見た目だけは。

空は水色から変わった様子もないけれど、苦みが加わったようす。窓のこちら側ではレモンの香が助けてくれます。春一番まではこんなふうに味わうことにして。

石橋、有馬、観ごたえ充分を少しずつ

2013-03-02 14:37:36 | 音と動きと形
前回行った久留米の石橋美術館の展覧会の離れた会場、有馬記念館は初めて行きました。

視力が良くないので絵が見えづらかった。しかしオーラが届きます。ガラスケースのこちらまで。

お茶碗はケースも小さくてよく見えました。上から見下ろして、それだけで通り過ぎるみなさん。これね、横からも見えるようにしてあるんです。しゃがんだ時に丁度良く見える高さ。反対からも。織部のお茶碗は裏から見た方が断然可愛いかったです。なのに図録は最高の角度を見せていないのは残念。焼物の中でも特に茶道のものを観ると、日本の文化はハプニングや現実の成り行きを肯定的に愛でるのだなあと実感します。

書が、変体仮名が、すらすら読めたら、更に書けたら、どんなに楽しかろうと思います。ところどころ読めるところもあるという程度なのです。将来余裕できたらのお稽古候補のトップではないけど、ひとつです。

石橋美術館では今回本館が常設、企画展が別館と有馬記念館を使って。本館をあまり動かさなくて合理的です。

それにしても等伯やっぱりすごい。宗達の洗練すばらしい。そして常設展示で私は佐伯祐三がそんなにも好きなんだなあと思いました。

等伯、宗達、そしてばたばた帰宅

2013-02-23 19:26:30 | 音と動きと形
たまには一緒に、あの展覧会とあっちのも行きたいね、でも会期の終わりはあっちの方がまだ先だからそっちの方に行こうか。父がデイケアから帰るまでに帰らないといけないから、急げー。

母と久留米に行きました。石橋美術館の展覧会。最近のは長ったらしいタイトルのが多いですね。金閣・銀閣の寺宝展 雪舟、等伯、宗達、そして若冲。

とにかくチケットを買った場所、本館から。
中学生の校外授業らしくて、大勢が絵の前の床にしゃがみ込んで説明を受けていました。ほおー青木繁の「海の幸」の背景の白い部分がもとは金色で、青がもっと鮮やかだったんですって。知らなかった。一緒に説明を聞きたいけど私たちには時間が無いのよ。

どうもこれいつもの絵ばっかり。常設から見てしまったのです。途中で聞いてみたら、別館と有馬記念館にそれらのテーマのが展示されているとのことで、時間ないから急げーと別館へ。

若冲の展示期間は過ぎてしまっていたけど、そうしょっちゅう行かないなら今回の方が良かったのではないかと思いつつ、わくわくしたのはまず等伯の屏風。萩と薄が描かれています。自然の中にある法則をそのままではなくエッセンスを美しく再現する人。ランダムネスの中に潜む規則さえ掴んでいるのが憎い。ということはランダムネスとはいいきれないけど、確かに感じる何かがあります。どちらかというと科学のにおいがします。

そして、宗達。あら、もうタイトル忘れてしまいましたがナントカの細道。葛だったか蔦だったか。古い時代のものなのに現代的で古典的。斬新。なんというおしゃれなんでしょう。

ほかにも幾つかあったけど等伯と宗達の屏風だけでも充分なインパクト。ぐるりとそれぞれの向きから楽しめる赤楽茶碗は好みですが、模様のお茶碗も可愛く、水差しの素敵なへこみはハプニングか故意なのか、数は少なくてもなんだか満足。

さて、もうひとつの会場になんて行く暇はありません。また会期中の近いうちにということにして、3時を過ぎたのでバスで駅に向かいました。甘かった。乗っている時間は見当ついても乗換が多いのです。電話はうっかり家で充電中のまま。いまどきそこらに公衆電話は見かけません。

バス停から母と分かれて先に私が走り、家の鍵を開けるとデイケアから連絡が入ったあとがありました。30分ほど帰宅が遅くなってしまったのです。迎えに行くにはタクシーと聞いて職員さんが個人の車で送ってくださいました。なんということ。せめて連絡が取れたら少しは心配を減らせたものを。

やっぱりふたりでお出かけは厳しいです。国立博物館のボストン美術館のナントカよりも同時期に展示されている火炎土器がどうしても観に行きたいのですが、朝一番に出るのは当然。一緒に行くかどうか。

いまどきのお稽古

2012-12-17 22:58:08 | 音と動きと形
「先生、このあいだいいムードの曲みつけたんですよ」

「え、じゃあ今日はそれやりましょうか。どんな曲?」

「ええと、こんなメロディですけどね。」

♪~

「あ、それ、僕も大好きなんですよ。じゃ、コードを書きますね」

「その間に調弦しようかな。ちょっと違っている」

「あ、このあいだ○○さんに教えてもらったんですけどね、チューナーのアプリがあるんですよ。ちょっと待ってくださいね」

「わあそんなもんまであるんですか。ありがとうございますー」

先生はホワイトボードの五線にせっせと書いています。

「ええと、ここから先のメロディはどうでしたっけ」

「うーん、おぼえてないです」

「じゃ、YouTubeで探してみよう。…あったあった。これね」

一応曲全体のコード書き終わり。

「このYouTubeの音源に合わせてやってみましょうか」

スマートフォンを私に向ける先生、それに合わせて演奏する私。
その後あれこれ質問などのやりとり。

「そうそう、ホワイトボード写真にとっとこう」

「あっ、ここらへん消しちゃった」

「大丈夫です。楽譜は見なかったけどコードだけならネット上で見かけましたから」

「じゃ、いいですね、メールで楽譜送るまではそれで練習しといてください」

打音でわかる

2012-12-08 19:43:27 | 音と動きと形
大事にしているひとり用のティーポットを置いてすぐ、私は叫びました。

   陶器は大理石の上に乱暴に置いたらだめよおおおお。

大事なものは人に触られるような場所に置いてはいけません。しかし、洗って水きり籠に入れたものをそんなに早く扱われるなんて思わなかったから。洗ったらすぐ拭くべきだったか。

   ひびが入ったああああぁぁぁ。

正面から見たらわあすごいなあと思える、横から見たらなあんだ薄さがすごいなあと思える大理石をトップにはってある台ですが、母はよくこの上にこれから戸棚にしまうものを水きり籠から取り出して置きます。ちょっと置くのにいい場所にあるから。

私もそこによく置きますが、石材とティーポットの接触した音が悲しいものだったのです。

楽器を扱う人は音や感触でひびのあるなしを感じる傾向、ありません?

今宵の君は、ぽん、ころり~ん

2012-11-24 22:02:18 | 音と動きと形
オルガンというのはこんなに進化していたのか、とはピアノのレッスンの時に何度か先生が使われるのを目の当たり耳の当たりにして感じていましたが、ひとりでアンサンブルやオーケストラだけでなく効果音までできたとは。

演奏中に、あれ、ぽんと聴こえたけど…あら、ころりんですって?雑音が混じっているよ、と思っっていたら、ああなるほど。ベースソロがますますいいムード。

The Way You Look Tonightという曲は昔NHKのFMの何かの番組のタイトル曲だった気がします。

http://www.youtube.com/watch?v=kn1cOvwBjPc

何の音でも出せて、オルガンは面白いですね。それは演奏者のセンスが抜群だから。AtelierOrganさんの他の曲もとにかく楽しめます。

背中が少女ではない

2012-11-24 21:54:05 | 音と動きと形
今度も女子スケート選手を見ていて気になったのが背中の丸み。もうそんな年齢かなあと思ったら若いではありませんか。あれを女っぽさとして活かせるならいいけど。

母はこの間展覧会でフェルメールの絵のついたクリア?ファイルを買いました。真珠の首飾りの、少女…だろうか。どう見てもあれはおばさんです。この背中の丸みはおばさんよ。母にその絵の背中を指で隠して見せました。頭部は若くありませんが、背中がまっすぐになった、ただそれだけでも断然若くなります。

「真珠の首飾りの女」でいいのに、なぜ少女?真珠と少女が揃えば耳飾りのあの絵と間違える人がいそうでお客をたくさん呼べそうだから?少女を期待しておばさんよりは女と聞いておばさんに会う方がいいです。

あの展覧会は充実していました。だけどねー、こんなふうでなんだか騙された気分があるのです。内容がいいからまだ行ってない方にはおすすめします。

メタ新しいメタ音楽

2012-11-19 19:40:13 | 音と動きと形
丸善の学燈は有料ですが、別の本屋さんで無料でもらってきた春秋11月号の特集は現代音楽。ケージ生誕100年ですか。

中川克志さんの「現代音楽の『現代』って何?」を特に興味深く読みました。

中川さんの関心は「現代音楽」の定義についてでした。昔の私が書いていたような「現代」の定義ではなく。しかし確かにそうだなあと思ったのが、メタ音楽という言い方です。現代音楽とは音楽について考えさせるもの。

そういえば私は現代音楽は音楽とは思ってなかったです。音を楽しむものが音楽なら、現代音楽はほとんど楽しめないものであり、芸術を鑑賞するのだという大義名分だけあって忍耐を要するもの。そしてたまに楽器を損なうもの。せっかく育てた楽器が、きちんとした響かせ方で使われないせいでうまく鳴らなくなるおそれがあるのです。あんまり良い現代音楽に出会わなかったんだなあと思われそうですね。

なるほど、あれは音楽ではなく、メタ音楽。

私にとって音楽は響きやリズムのような数学的な美しさなしには考えられません。学校教育の影響なのか日本の伝統的な音楽よりは西洋音楽寄りの感覚かも知れません。あるがままの自然により近い日本の音楽の方がメタ音楽に近いのです。

音楽とは?これまで親しんできた現代音楽以外のを音楽と呼んで、それとは違う、音を楽しむ分野をまた別の名称で呼びたいです。定義し直しがあったらいいのに。

次のページには柿沼敏江さんの文章があり、ニューミュージックという呼び方はもうほとんど使われなくなったとあります。この「ニュー」も私が気にしていた「現代」と一緒で、時が経てば困ったことになるものです。「ニュー」「ノバ」「新」がつくものは大抵古くからあるのです。最新のものには「現代」がついたものは無いように思います。

九州国博ベルリン国立美術館展に行った

2012-11-16 23:59:05 | 音と動きと形
もうかなりな日数が経ってしまいましたが、この間九州国立博物館の展覧会に行きました。『フェルメール「真珠の首飾りの少女」 in ベルリン国立美術館展 学べるヨーロッパ美術の400年』

西鉄電車の切符売り場のカウンターでは電車往復券とセットになった展覧会の券も売っているようですが、私は展覧会チケット貰ってますから。

太宰府天満宮をさっとお参りして行くはずが見事な菊がいっぱい並べてあって、これも満遍なくに近い通路をさっと通って行きました。管物のスプレータイプなんて今まで見たことないのもありました。

エスカレーターと一緒に期待もまあ高まっているようないないような。博物館は美術館では気が引けそうなデパート催場レベルのもやっているような気がするから(しかし美術館も昔はありえなかったようなのやってますね)芸術レベルはそれほど期待してはいないけれど、楽しめるレベルはやはり期待しています。

動く歩道の上はみんな歩いています。時間がもったいないし平行移動なら疲れない。歩道の終わりを告げる音声がぎりぎりのタイミングで聴こえるのですが、これは混み具合によってはちょうどいいタイミングかも知れません。人が少ないので音を吸収せず反響が多く、かなり前からそれなりな聴こえ方をするので注意が行かず、音源から直に聴こえるのが直前になってしまうのでしょうか。それとも歩道の上で静止している人にちょうどいいタイミングか。そういえば以前大混雑の時は歩かないでくださーいと言ってましたっけ。

おなかの具合や疲れ・低血糖予測からすると今だ。観覧前にお茶の時間にするべき。到着前にカフェ的建物があるけど軽食中心なので博物館の中のカフェへ。パフェも複数種類ありました。コーヒーと一緒に注文。しかし高い。でもおいしくて高品質の印象。ディスポーザブル容器ががっかりな点で自分でお盆を運ばないといけませんが、容器や運びがあったとしても高い。でも中身良質。

エスカレータで上って会場へ向かう時に、ピンク色のつやつやした丸い大きな物体が。そろそろ動くのが見えました。進行方向反対側に小さすぎる羽らしきものも一対。係員に誘導されてそれが向かう先は…。まさか、あの狭い入口の開いたエレベータ。無理。大きすぎ。でも押せば柔らかくへこみそうなそれはじわじわ歩いていくと当たり前のように中に入ってドアが閉まりました。可笑しくてしょうがない私は係員さんにあれは何ですかと尋ねると、「ももピッ」ですと言ってました。

展覧会としては非常に充実していました。有名な画家の名前の後に「派」がついていたり「工房」がついていたりも多かったです。あの時代のあの辺りは光の扱い方が特徴的。目を近づけて見て離れて見て凄い。近づきたいけど特に真珠の首飾りの少女は特に近づけないようにしてあります。白線から出ないでください。目がわるいんだもの、バレエの1番や2番に近い脚してせいぜい近づきました。写真にはできない超写実。いかにもゲルマン人を描いた絵はやはり色が魅力。見事な彫刻も多数。

結局『フェルメール「真珠の首飾りの少女」 in ベルリン国立美術館展』というけれど、フェルメールの絵は真珠の首飾りの1点だけでした。そりゃないだろ。タイトルの頭についているのにってよく見ると「フェルメール」の字は色が薄く、「真珠の首飾りの少女」の字はごく小さい字。タイトルの中で大きさ色ともにはっきりしているのは「ベルリン国立美術館展」です。でも期待からフェルメールと真珠の云々の印象が強いわけです。今回もヤラレター。可愛いもんですが。フェルメールの絵は無かったよという人もよくいるようですが、それは有名な「耳飾り」の方を期待しているからです。耳飾りを期待した人はもっともっとヤラレタ気分のはずです。そういう意味であの宣伝の仕方や名づけ方はまずい。しかしあの内容は展覧会としては充分ですとも。

ほかの展示を観る余裕も無く、会場を出ると淡水真珠の首飾りも売ってあってなるほどと。ショップももうちょっと見たいなあきょろきょろとしかし閉館時間で帰路帰路。

行きより更に人の少ない帰りの長距離エスカレータは壮観というか恐怖感が起こりそうなぎりぎりのところ。もし目の前に人がひとりいてくれたらどれだけ心強いかわかりません。

周囲より寒い地域という上にいつになく寒くなったこの日、おみやげの梅が枝餅の袋に後から買ったあたたかいコーヒーを追加、セーターのおなかにこそっと入れて電車に乗りました。

愛のささやき

2012-11-04 21:13:36 | 音と動きと形
京大の松沢先生の「ことばのちから」が學燈の秋号に載っています。

人間のことばを覚える生き物は多いけれど、人間のようなやりとりが成り立たないわけは?
ある言葉やサインがあるものごとを示すのはわかっても、ものごとから言葉・サインが出てこないなど、不可逆なところがあるようです。逆は必ずしも真ではないからかなのかわかりませんが、推測ができないということです。

サインの上での推測ができないのでしょうか。生き物は経験によって推測して生きていそうな気もしますが、サインは成り行きとは違うものではあります。下手に推測しないのは賢明だと思います。

多くの人間は「正解」を記憶するのが得意になって、善悪、白黒のうちのどちらかに単純に決めたがる傾向がありそうで、これは推測の力がまずい方へ進んだ結果ではなかろうかと私は思うのです。善の中の悪や悪の中の善や灰色を認めるのは人間らしい能力だと思いますが、これが発揮されないように教育された場合、推測を正しくできるかどうか。不可逆性の予感がうまくストップをかけるかどうか。

人間の推測の力は少々危険ではあるけれどそれなりな能力があるから与えられたものだとしたら、能力を損なう教育をすると大変。ものごとの間の繋がりを納得しないままで結びつける訓練を人間は学校でよくやっています。

動物にとってのサインの不可逆性は、その動物の能力に合わせた安全装置なのかも知れないと思えてきました。しかし安全装置だなんて、何もないところに勝手に名づけさえすれば生じる概念のようでもあり。頭のいい人だったら思いつきもしない無駄かも。




チンパンジーは耳元で愛をささやかないのだそうです。ということは、相槌を打たないのでしょうか。それは書いてありませんが、愛のささやきと相槌は関係がありそうな気がします。

パントフートという、存在を示す挨拶のようなものについては書いてありますが、これは私には相槌の一種、愛のささやきと言えないとしてもそれに連続しうるものと思えます。ローレンツ博士が一晩中雛の呼びかけに返事したことも存在の確認、しかし同時に愛のささやき。存在の確認は耳元でなくていいのです。しかし存在以上を確認している気がします。

私の経験では、猫は愛をささやきます。相槌打ちます。人間と猫とは「にゃあ」だけで長時間会話できるのです。動画でもよく見かけます。音楽の合いの手は相槌と近いですね。存在は確認済み。その上で、存在以上の情報を共有する喜び。言葉の意味なんてたいした情報ではありません。

会話する猫の動画
http://www.youtube.com/watch?v=z3U0udLH974
太鼓に合いの手を入れる猫
http://www.youtube.com/watch?v=5PS9ypVv-2U&feature=player_embedded
こういうのをシャウトというらしいけど猫だから静かです
http://www.youtube.com/watch?v=Ns7Z8ag4oSY&feature=player_embedded
同じく
http://www.youtube.com/watch?v=vxvJKVsErqA&feature=player_embedded