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す ず な り

なかなか辿りつけない辺鄙なブログへようこそ... メールはIDのplinkに続けて@willcom.comです

不協和音あたり

2008-01-26 23:51:29 | 音と動きと形
セブン、セブン、セブン…。はるかな星がふるさとでもなく、非常に近くなんだけど、帰る時は楽譜と一緒。だいたいそういう習慣がいつからか。ピアノの練習をしますが、ほとんど弾かれない楽器はきれいに鳴りません。そもそも私も普段弾かないから、とても聴けるような演奏じゃありません。いや、練習してもうまくはありませんが。調律もされてないんだったかな。

ジャズを教わり始めて意外だったのは、やたらセブンのコードが多いこと。料理のスパイスみたいにほんのちょっと、さりげなくおしゃれに効かせるんだとばかり思っていたけれど、どうやらジャズはカレーなのです。

久々のアコースティックで身も心も楽に弾けるぞと楽しみにしていたのですが、セブン、セブン、セブン。不協和音にあたって気分がわるくなってしまいました。ああ、もうだめ。やっぱり私はジャズに向いてない。セブンが聴いてられないんだったら。

アコ楽器は普通鳴っている音の共通部分が揃い易いので、デジタルよりも心地よいのですが、不協和音の場合はどの音に全体を合わせるかが決まらないんでしょう。特に調律の狂った楽器では。

もしかしたらデジタルだと音がまだマシかも。そう思って久々に(ではいけないんだけど)弾いてみると、ちっとは聴ける音ではありませんか。ああ、やめる口実が消えた。ある程度理解して身につけるまでは、続けろよ。

しかし、今度の曲、見た目は前回より易しそうなのに。練習不足のままレッスンに行くと、先生が発表会用にもうひとつといつも言っておられた、そのもう一曲を出してこられました。そんなあ、無理ですってば。しかしさすがは先生。その楽譜はほかのピアノばりばりのみなさんにはつまらなかったり難しかったりするとしても私に最大限弾きやすいものだったのです。Take Five。途中全音符を8小節入れて全体8分の5拍子で、延々伴奏していればいい。続けるかどうかまで考え始めていた私はちょっとばかりわくわくしてきました。思いがけなくその日は胸に楽しみの火が灯って帰りました。

音の高さと全身の関係

2008-01-19 23:25:39 | 音と動きと形
私が大学で受けた授業の中で珍しくて面白かったもののひとつは「聴能形成」でした。

その中には音楽の中で特定の周波数を強調した音を聴き取る訓練もありました。

日頃ガラにもなくドラムを教わっている私は、低音領域では、この辺りの音はバスドラムの音と同じくらい、あの辺りはスネア、あの辺りはライドシンバルと同じくらいだな、というふうに見当をつけて聴き分けられました。ドラムセットのうちのどれに似ているか、そればかり注意していました。

高音域となるとそうもいきません。そのうちに自分のからだが音と共振しているのに気づきました。低音がおなかに響くとは普通よく言います。高音になるとそれが少しずつ上へ移動していくのです。周波数は倍になっていきますが、位置は等間隔に近いような気がしました。

丁度耳の辺りが振動するのが4000ヘルツ。人間が一番聴きとりやすい周波数というだけではっきりしたわけもないのに納得した気分になりました。

そして、奇妙なのは、ずっと高音では頭の上が振動していると感じたことでした。頭が振動しているんだと思いたかったので気持ちは頭の中でおさめようとしていましたが、どうも頭の数センチ上のところに振動を感じたのです。そんなところに感覚があるのでしょうか。

からだのどこが振動しているかでどの周波数が強調されているか聴き分けようとしたのですが、別の音も同時に鳴っていますし、にわかにそんなことをしてうまくはいかず、振動をあてにすると成績はさんざんでした。あまりに微妙な振動であり、その上少ない音も拾ってしまうのです。

よくソプラノは頭で響かせてアルトは胸で響かせると言います。頭のてっぺんから声を出しているんじゃないかという言い方があります。音の高さは全身と何か関連がありそうです。音がからだを振動させるならばヒーリングミュージックというのもものによっては納得できそうです。振動によってどこかを活発にさせるならば、肩こりに効く音楽だってありそうです。もっとも、肩こりは精神的な原因も多いので肩だけの問題ではありませんが。頭脳を活発にさせるとか官能的な効果を狙うにはどういう周波数がいいとか。考えると非常に危険な分野ですが、噂では軍事方面でかなりなところまで研究されているという話。

全身の位置で共振する周波数が違うのはいったいどういうことなのでしょう。耳からの距離が関係するのだろうかとも考えたけれど、それなら耳の振動する音が一番高い音になるはずです。耳のもっと上は耳より高い音でした。

そして、このからだが共振する位置が周波数によって違うということはもしかしたら学問の世界ですでに常識。しかしおそらくそうではなく、この私にとって明らかな事実は、誰にとっても明らかとは限らない。これも問題なのでした。

湊川人の表情

2008-01-14 19:18:07 | 音と動きと形
先日NHKで湊川人に関する番組をやっていたので、時々台所に行きながらもだいたい見ました。

しかし、復元像の顔はいかにも大量の情報に晒された現代人の表情、それも知的な性格の情報をたくさん取り込んだ大卒以上の顔でした。尤も、大卒でなくても日頃の行いからそんな表情になる人はいます。顔について断言はできませんが、確かに傾向はあります。それまでしてきたことが表情にどこか表れます。わからない人にはわからない、わかる人にはわかることについてわかるのです。

いきいきとした魅力のある素晴らしくいい顔でしたが、あんまりありそうにないなと思いました。でも、現実は思いもよらないものです。もしかしたらそっくりなのかもしれません。

関心は必要から

2007-12-17 01:26:29 | 音と動きと形
私は自動的に動くものが好きと書いてしまいましたが、手動の道具の方が好きです。構造が納得しやすいから。電気で動くものはどうも好きになれませんでした。それはいつか誰にも頼らない自給自足の一人暮らしをしたいと幼い頃から思っていたからでもあるでしょうし、電磁波に敏感だったこともあるでしょう。

ものを作ることが好きとは言っても、ほとんどは手元にある材料で作れるものでした。気持ちからして無駄をする余裕がなかったのです。母はそのくらい望めばかなえてくれる人ですが。とにかく子供時代に遠慮しすぎました。また、その場にあるものでいかに工夫するかも自給自足に必要です。

母に裁縫ができたことは非常にラッキーでした。見るだけでも何も見ないのとは大違い。私に裁縫ができるわけではないけど、真似ごと程度の簡単なものなら。編み物も母があんまりうまくないけど少しはできたので私は教わることができ、あとは独習です。

妹たちはそういうことはやっていません。関心ありませんでした。自給自足を考えた私と違って将来必要と思わなかったようです。

誰にも頼らずに生活するなんてできないことだったのです。しかしそれを目指すことにはなんという豪華なおまけがついたことでしょう。

ピタゴラスイッチが気になる

2007-12-15 23:55:54 | 音と動きと形
テレビでたまにピタゴラスイッチを観ています。

今日のアルゴリズム体操は、なんとまあ、QURIOのみなさんと一緒。人間以外と一緒に体操をするなんて、ちょっと昔だったら考えられないことです。QURIOのみなさんはあんまり動きが素早くできなさそうだけど、健気に追いついていました。好んで観る子どもたちはものづくり感覚旺盛な傾向があるでしょうから、彼らにとってはどれだけ刺激的かわかりません。

ピタゴラスイッチは結構関心あります。佐藤雅彦さんの感覚は私の子供時代と共通するものがあります。私は食器洗いの口実で、蛇口から水を流すとあれこれ置いた食器を順に伝って水が落ちる仕組みを考えるなどして遊んだり、物を作って遊んだりしていましたから。そういえば四角いものづくり感覚。そんなに四角いつもりはないし、もっと生き物的だと思うのですが、基本的に四角いようです。自動的にものが動くのは大好きです。しかし「おとうさんスイッチ」はどうも受け付けません。

ピタゴラスイッチを好んで観る子供はきっと手順・段取りを考えます。身の回りから仕組みが見えなくなりつつある時代に子どもたちにとってきっと貴重な情報源です。

「日本語であそぼ」もそうですが、あんなのは子供番組だからって侮れませんね。大人が観るのにも非常にいいと思います。

ところで、ピタゴラスイッチの中にはたまに私の世代以上にしか通じないものも時々あるなと感じます。若い人や子供たちが連想できない、昔の動きと音です。

申し訳なくもライブに

2007-12-12 23:57:10 | 音と動きと形
そこのところは見事、と先生に言われました。目標は高く、おだてて育てる先生。ろくに弾けないのに見事というのは、テンポ、リズムです。私はこけてこけてこけまくるけれど主なアクセントには間に合ってはずさない…ことが多い。右手だけですが。遅れても慌てずかっこつけたかのような弾き方になってしまったこともたまにあります。そういつもうまくいきますか。たまたまだったのです。いつもひやひや。そのスリルが聴く側にもあるのでしょう。こんな易しい曲をピアノが当たり前に弾ける人が弾いたならただ普通に聴こえて見事なんて思いもしないはずです。

これで人前で演奏するなんて、あんまりです。しかしライブはもう決定しています。ミスタッチも音が抜け落ちるのもアドリブのうち。いつか何も考えずに手が自由に動くかのように演奏できる日なんて来るのでしょうか。

ジャズピアノを習っているなんてここと母以外には内緒なのです。今度の日曜日、一応母には声をかけてみました。

すぐここに聴こえる遠いジャズ

2007-11-23 20:54:21 | 音と動きと形
ジャズの「サマータイム」はポピュラーな曲を集めたピアノ楽譜集にたまに収められている人気の曲ですが、ジャズを聴かずクラシックや讃美歌、唱歌くらいしか弾かない人が演奏するとまるで行進曲になるのを聴いたことがあります。

私がまだピアノでポピュラー音楽を弾くのに慣れてなかった頃、ジャズ風の曲を楽譜の通り弾いて変だなあと感じ、こうじゃなくてこうでしょ、と聴き憶えあるふうに弾こうとすると、自分の手が拍の頭では非常に遅れ気味に音を出しているのがわかりました。

あれから長年経つと、そういう曲を自分が弾いても遅れを感じなくなりました。遅れが当たり前になっているのです。そんな時にジャズをきっちりクラシック風に弾く場面に出会うと、ああそうだったと思い出します。

エジプトの壁画に複数の人種が一緒に描かれているのをテレビで見た時、色黒の人々は屈み気味の姿勢でした。確かジャズダンスの基本もまっすぐではなくそういう姿勢だと聞いたことがあります。「ン」の音で始まる言葉があるのはあの姿勢と関わりがありそう。あの屈みこそが拍の頭の遅れ。あの状態から伸びるまでのごく僅かな時間が、長い海路と道のりと波乱万丈の時を通って、味わい深いリズム感を持つ音楽を作ったのでしょう。

自宅で楽譜を見ながら弾いてみて、私が再現していたのは時間的なそれらしさばかりでした。ジャズの生演奏は何度か聴きましたが、家でラジオをつける時は小さい音にする習慣がありますし、そんなに進んで聴くわけでもなく、ただ夜遅くまでつけていたらジャズが始まったという程度。熱中していたらもっと特徴を掴んでいたでしょうに。アクセントを強く意識したことがなく、私の演奏にはアクセントが足りませんでした。

拍の頭の遅れは縦方向の縮みによるとしたら、アクセントはそこから伸びた結果でしょうか。演奏中にそういう動きをするわけではないけれど、演奏には出てくるのが日常や歴史、アメリカに渡る前の古い古い時代。

いまだにアクセントの起源については自分なりに納得のいく推測ができないでいます。アフリカはここから遠いのです。私の体内には多分アフリカはありません。人間の起源がアフリカだったとしても、遠すぎ。

笑顔をみつけるまで

2007-11-18 00:35:17 | 音と動きと形
最近テレビコマーシャルでよく目にするのが、笑顔を検出するカメラです。多分ニューラルネットワークの技術によるのだと思います。とうとうここまで来たのかと思いました。私はちょっと話題に遅れているのかも知れません。既に手書き文字の認識に使われていたでしょうに。

確か十年くらい前にニューラルネットワークの話を聞いた時、同じサイズのぴったり同じ場所にあるものしか同じか違うかを判断できなかったはず。「それじゃ相似だったりちょっとずれた位置にあったりすると違うものとして判断するわけですね」と聞くと「そういうことになりますね」という返事が来た記憶があります。

当時これじゃ実用的でないしあんまり見込なさそうだなという感じもしていました。これだけでは先に進む見込みはありません。しかしそんな発想があるのを知ったのは有意義なことだと感じました。何かに生かせそうだったから。

今のニューラルネットワークはそのままを発展させたのではなく、当時とはかなり違うやり方をしているようです。昔のはたぶんあれまで。しかし、あれがあったからこそその先があるのです。それ以上の発展の見込みないものを作ったとしても、部分は何かのヒントになったはず。小さなヒントがまたヒントを生んで新しい技術が出来上がっていきます。

大きすぎてとても人間の手に負えそうにもなかったものがそうしてちょっとずつ扱えるようになってきたわけだなあと思いました。

遅くしたら違う曲にきこえる

2007-11-18 00:13:15 | 音と動きと形
銀行のどちらの支店も職場からの距離にたいした違いはありません。その日はどこの支店で処理してもいい内容だったのでソファや筆記用テーブルの前に置かれた椅子の座り心地のいい方へ。

贅沢な造りの支店です。BGMはいかにもモーツァルト。聴いたことない曲だけど知っている曲にずいぶん似ていると思いました。モーツァルトなんてどれ聴いても別のどれかに似ているんだよね、などと思いながら。

そしてふと気づくと、それはよく知っている曲だということがわかりました。ただ、倍ちかくゆっくりの速さで演奏されていただけでした。

BGMはリラックスのための音楽。ドラマチックになってもあんまり精魂こめて演奏してもいけません。ゆっくり演奏するのは理にかなっています。しかしまるで違う曲に聴こえてしまうとは。私は自分でも速い曲をゆっくり演奏するのは昔からよくやっていましたが、こんなにも印象が変わるとは初めて意識しました。

昔、よく夜にピアノを弾き始めると、母はその部屋に来て帳簿つけや書き物を始めました。ゆったりするために。そうです、私は速い曲なんて弾けないからいつもゆったりです。速いはずの曲は2倍か3倍の遅さで弾きました。母はそれをくつろいで聴き、時には映画音楽でストーリーを思い出して涙ぐむこともありました。別れの曲。ショパンの甘いイメージ。母は気分を合わせようと座りなおしました。ところが始まりは別れの曲でもそれはすぐに大きなのっぽの古時計になってしまい、母は椅子の上で笑い崩れました。大成功。そんなゆっくりの曲はいいのです。母の知らない曲ならどんなに遅くしても問題ありませんでしたが、知っていて軽やかなはずの曲をゆったりしんみり弾くと文句が来ました。

遅い演奏とは、私の場合あんまりピアノを聴かせる機会がないだけに、演奏する立場では楽かどうか。しかし聴く側では印象がそんなにも違ったのです。

ジャズピアノの先生は、練習であんまり遅くしてもノリがわるくなるしと最初ちょっとだけしか遅くしてくださいませんでしたが、私がもっともっとというので試しにかなり遅めにやってくださいました。ちっとも問題なし。うまく弾けはしないけど少しは弾きやすい。合奏で低音をやっていたので、しかも楽器の性質上曲によってベース的パーカッション的な音を出していたのでテンポは自由自在。遅くなってもノリはいいんです。ただ、遅いと違う曲になってしまって、聴く人には大事な曲が変えられたように感じているのかもしれません。


ゆっくり演奏された曲で印象的だったのは、大阪フィルハーモニー朝比奈隆指揮のベートーベン第九です。もう20年近く前にラジオで耳にしたのですが、聴いたことないくらい遅い演奏でした。それだけに弦楽器のアタックが丁寧で、これほどきれいな第九は初めて聴いたと思いました。ただ、途中から入ってきたいかにもアマチュアの合唱は喜び勇んで走りまくり、台無しでした。

遅くすると違う曲であるかのように聴こえるけれど、違う曲と同じ曲の境目はありません。速さが極端に違っても注意すればその曲であるとわかります。だから違う曲のように感じているという実感は結構曖昧で、そう感じていないつもりというのもありそうです。

ところで、ついでに思い出したのですが、私がピアノでメジャーの曲をマイナーで弾いて遊んでいると、母は「それはいつもより音が低いね」とよく言っていました。同じ高さで長調か短調かの違いだけです。しかし低いと。違うよ、高さは同じよといつも私は言っていたのですが。じっくり考えてみれば、オクターブの中のふたつの音はちょっとだけ低くしたわけだから母の言っていることは正しかったのです。

弾けているフリの能力

2007-11-15 00:31:12 | 音と動きと形
発表会といいますか、内輪ライブに出ませんかという話はまた甦って来月ということに。

先生はカラオケ鳴らして一緒に弾いていて、気づかれないのでしょうか、私がどれだけ弾けていないかを。ジャズは本来楽譜そのままを弾くものじゃないという意味で大目にみてらっしゃるのは確か。でも指もよく動かずアドリブのセンスもない私は現時点で楽譜のままを目指さないとどうしようもないのです。

しかし私もたいしたものです。出来栄えは可能なかぎり範囲内で最良にする技術を若い頃の合奏で身につけてしまっています。実際よりは弾けているように感じさせる要領。人間が意識しやすいところはできるだけ外さずに、限られた注意力と体力をどこに優先して配分するかです。まっ手抜きだなんて人聞きのわるい。しかし精一杯でも確かに手抜きでしょう。

これを身につけた原因のひとつは過労気味で体力が落ちていたという事実。大きい楽器は当時細かった腕の重力と慣性・遠心力では補えない分がどうしてもありました。全部はとても無理。最低限ここは頑張るべきというところを選びました。自分以外の人がはずしがちなところ、音が薄くなってはいけないところ。自分が頑張らなくても音が十分聴こえそうなのは任せます。

要領をつけた原因のもうひとつは、低音という、人が意識することの少ないパートを受け持っていたということです。目立つべきところ、聴かれてないようで、全体のバランスから言って大きくあるべきところ。他のパートに聴かせる音もあります。それはテンポを安定させる為。また、クレッシェンドの始まりが遅れないよう意識させる為に他のパートに先駆けてクレッシェンドしたり。普段メロディーを取るパートはクレッシェンドするべきところを忘れ遅れて気づきがちですから。聴衆は主に高音を聴いているので低音が少々動いても意識の表では気づきません。しかしこれから起こることの予感のように感じているかも知れません。そんな大事なところとたいして聴かれないところを無意識に区別しているようです。

長年低音の伴奏中心な演奏ばかりやっていましたが、あるときパソコン通信仲間と楽器を持ち寄って遊ぶ機会ができました。すると、適当な楽譜がなく、あるのはピアノ伴奏つきの独奏楽器用程度。私も独奏をするようになりました。低音の伴奏パートは注意を全体に広く払うものですが、分散される分薄くなります。ところがメロディーパートは聴衆の注意が一番来るところなので自分ひとりに特に注意しないといけないのです。あまりほかを聴き過ぎると引きずられてしまいます。慣れなかった私は自分ひとりに間断なく注意し続けるのが大変。自分が中心になるのも有意義な経験でした。

長らく人に聴かせる演奏から離れていましたが、一度経験したものは強いのです。わりと蘇ります。最重要の音を選ぶ技術は。下手なピアノ演奏で、ちょこっとだけですが、発揮できるのはそれだけ。

今のところ、ジャズは自由さがあるという事実と、聴く人がメロディーを頭の中で補いながら聴いてくれるであろうことに甘えています。本当に弾く力をつけないといけないけど、若い頃みたいにおぼえが良くはないので頑張らにゃ。

アコースティック感覚を大切に

2007-11-08 00:24:54 | 音と動きと形
練習するほどタッチはまずくなるかも。デジタルピアノで深夜に弾いていますが、普通に叩いて疲れやすいこの鍵盤にも少しは慣れてきました。デジタルで疲れにくいタッチはアコースティックではどう鳴るでしょう。レッスンの時に自分の音が効率良く出てないのを感じます。指の落ちるスピードが足りないのでしょう。

サニーサイドとはなんて私にぴったりな曲なんだろうと思いつつ、自宅練習では毎回ちょこちょこと別の曲も弾いて、しばしばめちゃくちゃ。一番私をわかってくれていることになっているバッハはやつあたりされるのを好きでないんだなと感じるけれど、細やかなのにでんと構えた曲はやはり安心です。しかしデジタルの音でしかありません。

暫く弾いてもデジタルは音色の調子が出てくるということもなく、いやになるくらい平均率です。タッチと音色の関係がフィードバックできないだけでなく、共鳴によってその時に鳴っている音に調和する音が作られることがありません。ただ打音のピッチそのままが鳴るのだから。アコなら気を利かしてカバーしてくれるのにデジときたら融通きかないんだ。

無伴奏チェロ組曲5番のプレリュードを弾く時、最初のCのオクターブの重音は実家のアコースティックピアノではメジャーに響きます。それで当時は予めEフラットをそーっと押さえた状態から弾き始めていました。デジタルでは最初の重音を弾いた時点ではメジャーともマイナーともつきません。長く延ばした後、幾つか後の音が出るまでは。

今では親の元に帰ってピアノを弾いてもたいして気持ち良く響きません。普段滅多に弾かれず、たまに父が片手の鳴らない弾き方で古い流行歌をたどたどしく弾く程度。アコースティックは育てるべきもの。そうでした。弦楽器もたまにはケースから出して弾こう。アコースティック感覚を忘れず生き物らしくあるためにも。

ところで、発表会らしきものは思い出した時には過ぎていました。とても人様の前でやれるレベルでないのを先生は途中でようやく理解されたのでしょう。私はとにかく覚えるのに時間がかかるのです。ほかのお稽古事でもそう、みんながさっと形にしてしまうのに私は長らくぐずぐずもたもた。しかし最終的にはほかの人より本質をしっかり掴んでいるのだそうです。ピアノはそうはいくかな?

薔薇と目が合って

2007-11-04 18:13:01 | 音と動きと形
途中下車してすぐのスーパーに入ってすぐ、そういえばここはお花が百円で売られているんだったなとそこでピンクの薔薇と「目が合い」ました。

暑い日が長らく続いて長持ちが期待できないそういう安売りの花は買わずにいたのですが、そろそろ良さそう。よそのセンスのいい取り合わせを置いているところのは500円。ここは一種類かせいぜいもう一種類ですが、今日の私はピンクの薔薇さえあればじゅうぶんです。

ただ、そこにあるのは安くなっているだけにある程度開いていたり外側の花びらがやや傷んでいたり。一番きれいなのはどれか。霞草つきは薔薇が貧弱。数の多いのは花が小さすぎ。やっぱり青みではなく黄色みのピンクが私の色です。

迷っていてもしょうがないので、まずはあれこれ籠に入れてレジの列に並ぶ前にまた戻ってきました。暫く離れてみると迷いは減って、結局目が合った薔薇に決まりました。2本入りです。

ちょっと歩いたところのリヤカー部隊だったら同じ値段で何倍も本数があるんだなあともちらっと思ったけど、今回薔薇が呼んだみたいだし。

正解でした。薔薇は元気で、外出から戻るともう少し開いてますますきれい。ピンクの薔薇は私にとって「恩人」なのです。ただテーブルに置かれていた庭の薔薇でしたが、絶望的に疲れ果てた当時の私を励ました功績が大きく、見るだけで効果絶大です。

目が合う、まず目にぱっと飛び込むということは、いったい何なのでしょう。全体を見る前から的確な判断ができてしまっているというのは。

鏡のテストに映るのは

2007-11-03 09:49:15 | 音と動きと形
子供の頃、猫に鏡を見せたことが何度もあります。猫は鏡が好きでないようで、抱いて顔を見せようとすると目をそらしました。三面鏡の前に置いて万華鏡のように囲んで閉じると怖がりました。その後もずっと鏡はだっこして歩き回る時のコースの中にありましたが猫はいつも目をそらしていました。

しかしある時期に居たまるで警戒心の無い猫だけは別でした。鏡を見ても平気。まもなく極端に大きな口を開けて鏡にがつっと音をたてました。

本当に可愛い無邪気な猫だったのですが、大きくならないうちに知らない小学生に連れ去られてそのままです。

最近テレビの「爆笑問題のニッポンの教養」では、合間にところどころ出るお猿さんが件の猫と同じように鏡にほとんど接する距離で向かって大きく口を開けていました。

チンパンジーに似てはいても猿。そして猫。かれらは鏡に見えるのが自分だと思っているとは認められていないわけですが、自分以外の同種の生き物に向かってあのように口を開けるでしょうか。そもそも自他を判断する以前に、映像が示すものを現実のものとは違うように感じ取っているのかもしれません。例えば、ある程度の距離があれば感じないけれど、傍にいる時に感じるはずの場のようなもの、熱以外にも放っている何かが無いので。きっとかれらには抽象がほとんど無いのです。抽象とはそういえば感覚の切捨てです。

猫が鏡から目をそらす時点では自分と同等程度の生き物と思っているように思えます。自分であるかどうか判断する能力が仮にあったとしてもそらしてはできません。

テレビを観るのが好きな猫が時々いますが、例えば猫が映っていても猫とは思っていないでしょう。シロニャーは湾岸戦争について解説する髪形の独特な軍事評論家に飛びついていました。普通人にあのように飛びつくことはありません。厚みもないし質感も違う、映像でしかないのです。しかし球技の試合ではボールの動きにあわせて鼻先で宙に弧を描き、その後テレビの下を探しました。小さいものであれば知覚できない部分の多さが現実と似ていそうです。

私の母が言うには、母猫は自分とよく似た色柄の仔猫を特に可愛がる傾向があるということです。

自分の姿をある程度知っていても、自分と他を区別する力があったとしても、鏡の前で発揮されるのは抽象化し記号を使う能力だと思います。記号だけなら「お手」「おすわり」みたいに多くの生き物が使えますが、抽象はそうはいきません。進化とは状況に応じて感覚を捨てることでもあるようです。

おなじおもいで集まれば

2007-10-17 14:57:03 | 音と動きと形
演奏する立場としてこれまでに経験した一番澄んだ聴衆は老人ホームのみなさんでした。

人が大勢集まると何故かその集団の性格や気持ちが伝わってきます。学生時代から何度も演奏会は経験しましたが、老人ホームほど気持ちのきれいな聴衆はありませんでした。雑念がなく、ただ楽しみな気持ちでそこに坐っている人々でした。

普通の聴衆は不機嫌だったり悩みを抱えていたりあらさがししてやろうとかいう人も大勢混じった集団です。老人になるとそういう部分がきれいになっていくのでしょうか。それとも、あれは小賢しくしない時代に育った世代の或は老人ホームに入る人の特徴なのかも。

大勢の聴衆や観客の前で何かする人はしばしばその集団の性格が何もしなくてもただそこにいるだけで伝わってくるということを知っています。あるピアニストは珍しい曲を演奏した後で、みなさんが非常に関心を持って聴いてらっしゃるのでというふうなことを言っていました。

老人ホームで私がいつもの慣れたテンポで演奏を始めると聴衆は馴染みのメロディーに非常にのってきたのですが、意外にそのテンポがゆっくりだったので私もそれに合わせることにしました。ライブは聴衆次第なところがいいのです。ふりまわしてスリルを楽しませたり、ついてこれる範囲でちょっとハードな感覚を楽ませることも、聴衆によります。この場合一緒にゆったり味わうのが大事でした。歌う小声も多分あっただろうと思いますがほとんど聴こえず、しかしリズムが聴衆から強く押し寄せて来たのです。

人が集まるとその集団の共通部分が強くなるようです。

バレエの先生はレッスン中に「息止めないで。苦しい」とよく言われていました。あるポーズでバランスを維持する時に生徒が何人も息を止めていると先生が息苦しくなるらしいです。どうやらバレエ教師は共感する力がかなり強い傾向があります。私が壁のむこうでやっていたことをおそらく何も知らずに話題にしてしまうし、別の先生はふと私が思い浮かべたことをすぐ、たった今思いついたふうに話していましたから。人の考えを読んでいる自覚はおそらく無いでしょう。そういう私もよく人の考えていることを話題にしていたらしいので。私にもそんな自覚は全くありませんでした。

渡り鳥の群れが合図なしに同時に飛び立つように、そばにいることで共有し強めあう感覚はあるのかも知れません。

ホールで演奏会のリハーサルをしている時は音が響かず心細くなりますが、聴衆が入れば音はずっと豊かに響きます。それはある音が聴こえているという現象を大勢で共有して強めているせいもあるんだろうか、などと想像するのですが。

神経という電流の作る場なんてあまりにも弱いのかも知れません。しかし実感としては、集まると共有できるのはかなりなものです。