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す ず な り

なかなか辿りつけない辺鄙なブログへようこそ... メールはIDのplinkに続けて@willcom.comです

自分を離れたところから見る

2008-06-20 01:54:05 | 音と動きと形
先月図書館で借りた「MANSAI解体新書」という本の章のひとつはタイトルが
「輪郭」~表現のアフォーダンス~
狂言師野村萬斎さんと書家の武田双雲さん心理学者佐々木正人さんの鼎談です。

書く前には全体のレイアウトが頭の中にあるものの、始めると部分しか見ていないのに書ける。なぜ書けるのかわからないのだそうです。これは私も同じことを考えた記憶があります。私がお習字に通っていたのは中学の途中まででしたが。

細長いスペースに文字列を入れる時、配分を測って決めなくても、適当に書き始めていくとなぜかうまくきっちり収まってしまいます。これは楽譜を書いていてもそうでした。合奏で使う自分のパートの譜面を、結構いいかげんに書いても、スペースがそう多く余らず足りなくなることもなく、なぜかうまくおさまってしまうことがよくあったのです。

私はお習字を習っていた頃はわかりませんでした。合奏をやってみてわかったような気がします。空間よりも時間の方の経験がわかりやすかったのか、空間の後に時間という順序のせいでわかりやすかったのか。
それまでに自分がしたことを周囲と照らしあわせて常に全体の中の自分の位置をアップデートし、ごく近い未来に自分が動ける場所を予測しながら今を活動するのです。はっきり見えるのはすぐ近くの場所と未来です。全体はそう簡単には見渡せません。しかし慣れてくれば全体もいくらか把握できていそうな気もします。そこらへんが勘というものでしょう。どのくらいの数ならどのくらいの位置にどう来るか、からだのどこかがぼんやり記憶しているのですが、記憶しているつもりがない。

可能性とは環境をいかに知るかということですか。人間が動く場合のアフォーダンスとはきっと意識していない記憶が、もしかしたら何かの感覚がかかわっているけれど、佐々木さんが見せたビデオの中で動く仰向けカブトムシの動きはランダムでした。ランダムに動いていれば、じっとしているよりはチャンスが来る可能性が高いのも確かですが。

書道でも狂言でも、どう頑張ってもお手本と全く同じにはできないということでした。まず、ひとりずつ身体が違うので、同じ動きをしてもできあがる形は違います。だから人それぞれ違う動きをして同じ形ができあがることもあるでしょう。

私が若い頃によく書いていた楽譜は定規などを使って几帳面に書いたものよりも、フリーハンドで書いたものの方がむしろ見やすくて一見印刷されたもののように見えるというのも意外でした。近づけて見るとやはり荒い鉛筆の線ですが。手はどうやら錯覚の分まで配慮して動いてくれていたようです。

離れたところを想定し、そこから見えるはずの、環境とのかかわりを含めた自分を把握する。人間のアフォーダンスとは視点が時間と空間を行き来でき、かかわりと展開を推測できること。そう思えてきます。一方、ひっくりかえったカブトムシの考えてなさそうな動きにもアフォーダンス。この差は何なんでしょう。

半゜だ

2008-06-20 01:05:16 | 音と動きと形
携帯電話で可愛らしい写真を見せてもらいました。まだ小さいパンダが壁の端から半分覗いているところです。

きっと全身見えていた方が絵としては訴えるのですが、半分姿を見せるという行動もまた魅力的。この感覚は人間特有の、時間を超えた記憶の参照の仕方や展開の推測によるようにも思えますし、半分隠れるときの気持ちを自分の感覚として写し出す能力によるようにも。

お友達が送ってきたというその写真メールのタイトルは「パンチラ」だったそうです。

遠いいつかの誰かとわかりあう

2008-06-11 02:08:53 | 音と動きと形
ポストの奥に封筒を落とし、今週の仕事は終わり。やや上を見上げると、まだ灯らない背丈の違う街灯が三つ寄り添っています。正八面体のフレームの中に電球。そこまではぼんやり見ていました。歩くうちにそれは六角形の中にダビデの星がおさまった形になりました。おお、そうか。作者はこの瞬間を、これができたずうっと過去ににたりと笑って待っていたんだろうね。

職場近くの橋は何年も前に掛け替わってなんだか凝っていそうで見た目地味っぽいのです。ある日何かの読み物で、夜に橋の隙間を通って街灯から川面に落ちる模様がデザインされているのを知りました。もともと夜に賑わう街ですから。でも私が通るのはだいたい明るい頃。遅くなった時はどんな光なのか見るのを忘れてさっと家路を急ぐのです。いつかはきっと見ます。

まるで言葉の通じない国にいるような毎日。通じるのは言葉のうわっつらだけ。ふと身の回りのものが、時間を超えて企みを果たし、「ね」と微笑んでいることがあります。私が「うん」に相当する気持ちを持つことで、どこの誰か知らない人と遠いかすかな会話がなりたちます。「ね」はなかなかみつけてもらえないし、「うん」はまずほとんど届かないのだけど、お互い信じています。これでもう少し頑張れます。

昔の家

2008-05-25 00:12:00 | 音と動きと形
何かの折に明治時代の日常生活を写した写真を見かけました。私は見憶えある様子に驚きました。実は驚くほどのものではなく、あの時代には建築に今ほどの多様性もないので、明治時代に建った家に住んだ人には誰にとっても憶えのある光景でしょう。

観光地で見る昔のままに保存された住居にも、そうよ、軒下のこの辺りにこういう細長い石があったよね、建具が確かにあんなふうだった、うちの梁はもっとうねっていて太さはあの倍はあったな、というような、詳細にあれこれ憶えがあったりします。

昔に建った家はプライベートな性格のスペースが少ないただの居場所です。それは今の時代以上に、しばしば集うためでした。置いたり隠れたりが考えに無かったか少なかったのは、物が豊富に無い時代だったから。そういえば私の子供時代はよく大勢の人で会合をしていました。

イギリスのマナーハウスもそういうふうな性格で、はじめの頃はただ大きな部屋がひとつだけしかなく、そこで家族や使用人の生活の全てが行われていたとのことです。プライベートな空間が建て増して付け加えられたのは意外に新しい時代のことらしいのです。イギリスの大学のなんとかホールとやらいう食堂程度が当時の名残をもっていて、それがそのまま一軒の生活空間だったと考えていいそうです。マナーハウスは一般的とは言えませんが、たまたま私が本で目にしたのがそれで、家の機能の変遷を感じさせるものでした。

私が育った家は建て増ししたり部屋とも物置とも廊下ともつかないスペースがあったりで、数えているうちにわけわからなくなるくらい部屋はありましたが、それでもプライベートや裏方的性格の場所は少なく、生活空間としては不便なものでした。

奇妙なのは、畳敷きなのにウマヤと呼ばれる部屋があったこと。もとは馬が居たのでしょう。その部屋ひとつの改装では呼び名は変わらなかったようですが、隣り合う部屋も一緒に造り変えてしまうとその呼び名はなくなりました。

道を歩いているとたまに昔の名残を持つ庭の家を見かけます。牛馬も居ないし馬車もリヤカーもないけれど、そして私はそれらのある光景を見た記憶もないけれど、それらのおさまる名残があることはわかります。私より若い人はもちろん、私よりやや年上でも多くの人にはわからないでしょう。そんな家も次に建て替わる時には大きく変化します。自分の年齢分の時が経つのも結構すぐなんだと今は思います。

パソコンのキーを打つ時の音

2008-05-19 00:37:53 | 音と動きと形
NECのPC9801などより前のパソコンはキーを打つ度に音が鳴っていたような気がします。私がよく使っていたのは三菱で、操作するときはいつも「ぷっぷっぷ」とか「てってって」と聴こえていました。当時は鳴るように出荷時に設定しておくのが普通だったようです。

8インチフロッピーディスクを読み取るときに「がっっっちゃん」と重厚な音が鳴っていた機械は「ぷっぷっぷ」といっていたような記憶が。やはり5インチフロッピーは読み取る音もプラスチック的で「ぺこんぺこん」と軽薄でしたから、キーの音もそれに合わせたのでしょうか、「てってって」だったような気がします。

取引先に行くと同じメーカーでも新しいのが置いてあり、そこのは「ぺんぺんぺん」またあるものは「ぺしぺしぺし」といっていました。よりシャープな音。

「ぺんぺんぺん、ぺんぺけぺん」
点線を引くにはマイナス記号を押しっぱなしにします。
「ぺん。………ぺけぺけぺけぺけぺけぺけぺけぺけ」

今の時代はオフィスでひとりに一台パソコンがあるのが普通になってしまって、あちこちで鳴っていたらさぞうるさいことでしょう。パソコンがあって当たり前な今、珍しくもなくなりありがたみがそれほど感じられなくなったら音は邪魔です。

慣れないうちはちゃんと打鍵が受けつけられているのか不安でしたが、慣れるのもすぐでした。またあの音がほしいとはちっとも思わないけれど、懐かしく思い出します。

ぬいぐるみの役割

2008-05-12 07:08:47 | 音と動きと形
十数年前に短期アルバイトに行った職場で私が奇妙に感じたのは、時々社員がぬいぐるみを手に歩いているということでした。若い人に限りません。白髪頭のおじさんもです。会議をしているテーブルの上に置かれていることも。普段は各グループの予定や行先を書いたホワイトボードの横にかかっていました。

ソフトウェアの仕事のいったいどういう場面でぬいぐるみが必要なのか、そこに行き始めて何日経ってもわかりませんでした。どうしても解けない謎。ある日聞いてみました。

「あれはコピー機のカードについているんです」
よく見ればカードにぬいぐるみが、というよりはぬいぐるみに紐でカードがついていました。最初のうちはキーホルダーなどをつけていたけれど、見失うことも多く次第に大きくなって、そのうちクレーンゲームで獲得したぬいぐるみをつけるようになったのです。そして一目でどこにあるかわかるようになったということでした。

声がピクチャレスク

2008-05-03 10:01:00 | 音と動きと形
私が今の関連の職場で臨時パート勤めしていた頃のある朝。

「うぉらぁ、お前らぁ」

低い、巻き舌気味の声。
みんなが振り向くとそこにはコーヒーサーバーを手にした係長が。

「コーヒー飲まんかぁ。俺が朝せっせと豆からいれたんぞぉ」

珍しく朝一番からみんなにコーヒーが振舞われました。

いつも自分の机の上を見て仕事をしている時に係長の声がすると、大きくてとんでもなく怖いおじさんのように聴こえたものでした。顔を上げてその方を向くと、見えるのは非常に小柄で結構若く可愛らしい姿でした。

当時あまり普及していなかった携帯電話を手に、声だけは凄味のあるコメント。
「番号はクログロかぁ。アデランスみたいやなあ」
「係長、色はこの黒のほかにションベンゴールドがあります」
そう言った人の目が私と一瞬合って優しく輝きました。

この部署は隣の課と低い戸棚でなんとなく区切られていて、話し声がよく聴こえてきました。お隣は美声揃い。声優が吹き替えたアメリカあたりのドラマをテレビが流しているんじゃないかと感じるほど。こちら側はヤクザ映画です。しかし見渡せば視覚的には全くそんな想像もできないような、非常に日本的で地味で真面目な事務所でした。

電話の着信音

2008-04-26 11:55:16 | 音と動きと形
電話の着信音などあまり凝らない性分、というわけでなし。私はいつもだいたい「黒電話」にしています。本当は、結局望みのものが存在しないし、どんな状況で鳴っても問題ないのを望むし、アコースティックな音色が好きだから、一番無難な音になるってもんです。まるで気にしないなら買った時のままになるでしょう。

これまでのPHSは「黒電話」の音が入ってないのもありました。そういう時はクラシックの名曲、バッハなら問題無し。大抵機体が白っぽい色のばかり使ってきましたが、ひったくられた時は購入まもなくで、一年間は同じ番号で買い換えることができない為、レンタル。ただでさえ少ないPHSは選べません。黒いのが来ました。入っていた曲のムードはそれまで使ってきた幾つかの白いのに入っていた明るく美しいイメージの曲とは違いました。その中で憶えているのはオルフの「カルミナ・ブラーナ」の始まりのおどろおどろしい曲だけですが、色と着信音は関係していると確信しました。

着信メロディーにクラシックとラテンとジャズというのは普通のようですが、選曲が問題です。今の白いW-ZERO3の音楽はやはり明るめの軽め。この中でやや重いのはラヴェルのボレロくらい。マイスタージンガー前奏曲とJe Te Veuxはラテン風電子音です。これらはどんな色でも馴染みそうな選曲ではあります。しかし発売された頃時代の最先端を行った機種ですし、黒はカッコイイ渋めの曲が入っていたんじゃないかな。しかしそういう音にうるさい人は自分で調達してくるに違いないのです。

さて、実際はどうなんでしょう。白も黒も同じのが入ってたりして。

パソコンのアラーム音

2008-04-26 11:49:09 | 音と動きと形
もう20年近く前に聞いた話。職場でパソコンのエラーの時に鳴る音を自分の好きな音に設定している人がいたそうです。それも若い女性の声で「だめ」と。仕事中時々鳴り、たまに「だめだめだめっ」と言っていたんだとか。上司に何かひとこと吹き込んで貰った方が仕事が捗りそうなものです。起動の時は本人の声で「じゃじゃーん」

今までごめんねデジタルピアノ

2008-04-05 21:28:38 | 音と動きと形
調律関係の本を読んで、確か私のデジタルピアノもなんとかいう調律に設定できるはずだったんじゃないかと思い出していました。取扱説明書はどこに。何度も引越してなんとなくわからなくなっていました。

デジタルピアノの下にはちょっとばかりスペースがあり、そこにブックエンドを置いて楽譜を立てています。楽譜がはみ出しぎりぎり落ちない幅なのでペダルの付近には置けません。時々倒れかけてくる楽譜を押しやらないとブックエンドはじわじわずれて、ペダルの上まで来ると踏めません。ほっとくとある日どさどさと落ちてきます。それを拾って置き直していると、その中に取扱説明書がありました。

初期設定の平均律のほかに、ヴェルクマイスターとキルンベルガーが選べます。どっちがどういうものだったか、本の内容なんて憶えちゃいません。そして、聴いてもわかりゃせんだろうとは思ったけど、とりあえずヴェルクマイスター。はっきりとはわからない。でもなんだか気持ちいい。気のせいか。ついでにリバーブの設定。アコースティックピアノの弦の響きをシミュレートしますですって。これが欲しかったんだよ。それからコーラス効果とやらも設定。音色を明るく全部の設定を最大にするとどうもいやらしいのでやり直し。ヴェルクマイスターでリバーブ多め。ピアノの音色ではこれが気持ちいいです。

まあ、これが今までと同じデジタルピアノでしょうか。楽しい。なんと長い間面白くない音で弾いてきたことでしょう。長い間設定なんてしてられないくらい忙しかったか疲れていたし余裕が無かったのです。今は仕事もそこまで忙しくはなく気持ちに余裕が出てきて体力もついてきました。

ある程度は自分のせいで面白くなかったのに私はデジタルピアノへの不満を何度か書いて来ました。実際はかなりな配慮を持ってつくられたものを。ごめんなさい。相変わらずタッチについては不満です。でもこれからはもうちょっと楽しんで弾けます。

記憶がこぼれ落ちないうちに

2008-03-30 01:00:25 | 音と動きと形
NHKで深夜に放送される"Begin Japanology"はネイティブ日本人にも非常に興味深い内容で、よく録画して観ています。ゆっくりはっきりした英語で聴き取り易いのですが、何となく意味が掴みにくかったです。それは私の場合英語に限ったことではありません。日本語でさえ。

先日外出する前に何をするにも中途半端な時間に録画を、途中までのつもりで観ました。ふと気づいたのは早送りらしきボタン。マウスのポインタを合わせると「ちょい早」の文字列が出ました。よぉし、急げ。やっぱり「ちょい」程度なのでそんなに動きがおかしくもないけれど早口です。そして、突然意味がすんなり入ってきたのです。

意味を取りづらい問題は私が聴いた言葉を頭のなかにほんのちょっとの時間持ち続けていられなかったからだったのです。ゆっくりした話し方では文章の終わり頃に最初の言葉を忘れてしまっていたのです。ただ速くすればいいわけでなく、聴き取り可能な速さで話される時間と記憶してられる時間のちょうど良い中間点だったのでしょう。聴き取りづらい部分は遅くしたって同じみたい。

やっぱりそうです。私の弱みは短時間維持するべき記憶。アタマの良さの決め手はそれです。喧嘩での強さもそう。鬱の影響や年のせいは幾らかあるでしょう。でも昔から頭の回転は遅い方ですから。何かまくしたてられて何も言えずに、反論が浮かぶのは数日から数か月後だったりしていました。おや、これは短時間ではなく長期間記憶しているではありませんか。ということは、思考のスピードの問題もあるということか。

早回しは思考のスピードを上げる訓練になりそうな気もします。思わぬ害もあるかも知れないけど、スピードを上げたいので時々早回しでビデオ再生してみようと思います。

あとちょっとの時間記憶を維持することは今からだって鍛えられるはずです。それができればきっと今よりは頭が冴えそうなもの。その練習には何がいいんだろうと考えているところです。何かの遊びで。楽しくなくては。

ひとりで同時にふたり

2008-03-22 23:05:41 | 音と動きと形
教育テレビで文楽鑑賞の番組があり、人形を遣う人が解説していました。ひととおり終わってアナウンサーがありがとうございましたとおじぎをすると、人形がそれに応じて非常に自然で女性的な動きでおじぎをし、それを持ったおじいさんはじっとしていました。なんだか可笑しかったです。

これで思い出したのは辻村ジュサブローさん。何年も前に土曜日スタジオパークでなんとかいう番組に登場する時、大勢の人が囲む道を進みながら、手にした人形がまるで辻村さんとは独立した存在であるかのように左右の人々におじぎしていました。いかにもおばさん的なその動き。

ピアノを弾いていると、右手と左手が別々の人格として存在しているように見えそうな時があります。単独にはまとまりのある安定したテンポで弾いているのですが、左右微妙にずれている時です。若い頃は左右どちらももう片方につられてしまうものでしたが、楽器を長らくやっていると変化していきました。特に私は弦楽器を弾いていました。左で押さえるタイミングは右よりもわずかに早くないといけませんでした。それが影響しているのかいないのか。ピアノでも同じ長さを左は二等分した拍を右は三等分した拍を刻むこともあって左右分けて意識できるようになっていったようにも思えます。

左右のタイミングが微妙にずれている時、それはそれでいいことだとドラムの先生は仰っていました。もちろんずれない方がいいわけですが、それぞれがひとつの安定したテンポを持っているのは良いという意味で。

弦楽器などで誰かと同じ音を一緒に弾く時は相手によってはまるでひとりの演奏みたいにできますが、超練習不足のピアノではさんざん憶えた指遣いに限りますが、自分ひとりの左右の手がふたりの人みたいにわずかにずれる時があるのです。どこか意識がふたつあるようなしかしほとんどひとつのような、ただぼんやりしています。

自分がしっかり自分でありながら人形を動かす場合は、意識はどうなっているのやら。複数こなすにはある程度ぼんやりしないといけないように思えるのですが。きっとはっきりの中にぼんやりを、ぼんやりの中にはっきりを使えるようになるのです。

その曲が気になるのは何故

2008-03-22 22:58:48 | 音と動きと形
テレビのタイトル音楽にもお気に入りがたまにあります。ある人は昔の「新日本紀行」の中の女性の声を聴くと涙がぼろぼろ出そうになると言っていました。NHKアーカイブスで再放送された時に聴いてみると、地の底から這い上がってくるような感じの歌でした。

私のお気に入りは「文化シリーズ」で、高校の頃だったか何故か涙が流れてしまいそうになったそれは広々とした空を思わせるようなトランペットの演奏です。その空のお天気は不明だけど音色は晴ればれ。同じメロディーでギターによる演奏も耳にした記憶がありますが、おそらくトランペットだからこそあれだけ気に入ったのです。

性格などを考えると、一見逆に見えそうなものです。例の人は街中に住む結構おしゃれな人。私はおそらく泥臭いイメージだろうから音色にしても自然にあるものからそれほど手を加えずに作られる楽器の音を好みそうなものなのに、いつも聴くわけでもないけどトランペットの音は好きだし、パソコン通信時代からIDはplinkです。金属音などは天界の音だという人がいます。私はあんまりそういうのは関係なさそう。いや、もしかしたら誰もが関係あるのかも。

好みや気になる音楽とはその人が本来持つ部分なのか、持たないからこその憧れなのか。しかし憧れるとしてもそのイメージをある程度自分の内に持っている必要はあります。内に持っていて、どの程度気になるか、どのくらいその人に影響を与えたかによるのでしょう。影響を与えられた憶えはない場合、遺伝とか輪廻転生とか、やはり考えたくなります。

輪廻転生を、自信を持って否定するなんて、できませんね。いつ覆るかわからない仮定として楽しみたいです。

私はどうやら縄文の要素は少なく、いかにも渡来人です。考え方によっては縄文だって渡来しているわけではありますが。チェコフィルの演奏のリズムに極端に反応したりしました。

多くの人数分の経験が自分ひとりの好みに、姿形に、動きに表れます。自分でも知らないけどそうとう長い道のりを来たんだなあと思うのです。気になる音楽の部分はその途中のいつかどこかの決定的な出来事と一緒にあったものか、それとも、音や形や心など形式は違っても同じ変動パターンだったのかも知れません。

マーラーの呼吸

2008-03-09 22:31:04 | 音と動きと形
音楽は時には呼吸そのものです。特に呼吸を思わせるもののひとつに思い浮かぶのがマーラー交響曲第9番の1楽章です。繰り返し出てくる2度の音の下降は呼吸です。

あの曲が表現する心境の呼吸は優雅でも穏やかでもありません。穏やかであろうとしながら必死です。精一杯吸って、吐くときは乱れを制御しながらささやかに弛みます。音程が下がると声を出す喉も楽器の弦も弛みます。音程の下降は弛緩を意味するのだと思われます。吸う3倍の長さの吐く間だけが力を抜いて少しは楽になれる時間。それを静かな心境のように演奏されると、違うな、と思います。吸って吐くそれぞれの時間の長さが「楽になりたい」と言っています。

音楽療法では絶望に効くとされる曲のひとつですが、一種の同種療法であるからには、最初の楽章は特に苦しみを表しているはずです。

人それぞれのその曲は在り得るので、違う心境の曲としても演奏できるでしょう。しかし最初から悟りきったあんまりドラマのない曲になりそう。

言葉として、または音として

2008-02-04 00:23:17 | 音と動きと形
大学で教わった中である意味で特に印象的だったのは、母音のフォルマントの変化でした。人間は言葉の母音の移り変わりを一瞬のはっきりしたものとして感じ取るけれど、計測してみれば実は非常になだらかなものであるということです。

授業はどうだ意外だったろうという雰囲気がありましたが、実は私には懐かしいものでした。子供の頃から母音のなだらかな変化は実感していいて、それが大学生くらいまで続いていたからです。私みたいなのがいるということは、若い学生さんの中には、いったい何が不思議なんだ、そのまんまじゃないか、と思う人もいたことでしょう。それとも私は稀なケースなのでしょうか。普通の人はいつ頃からフォルマントの変化の感じ方を整理してしまうのでしょう。

小学生の頃、友達と話していて聞き取れなくて聞き返すことがよくあり、耳が悪いんじゃないかと言われたことがあります。一緒にいた人たちはちゃんと聞き取っていました。聴覚はおとなになってメニエル病の後一時低音が聴き取れなくなったことがありますが、それまでずっと異常なしでした。

おそらく私は人の話し声を言葉としてよりは音として聞いていたのだろうと思います。発音の微妙な違いはよく聴き分けていましたから。しかし鼻濁音についてはそうでもありませんでした。それは言葉にそんな発音のない土地柄だからでもあります。しかしテレビやラジオでは耳にしていたはずです。意識することとしないことの両方あったようです。

ひとまとまりの言葉という、記憶の中にあるパターンにあてはめるという傾向が私には少なかったようです。あるがまま。それは自閉症的な傾向と関係あるかも知れません。この傾向はものの見え方にも共通するものがあります。

何年前だったか、言葉がものの見え方を決めてしまいやすいということを私がメーリングリストで書いたら、それから何週間も経たないうちにアメリカの学者がそれと同じことを発表したというニュースがありました。その論文は読んでいませんが、それまで知られていないことだったようです。

視界の中に言葉が作ってしまう輪郭と同じように、音についても言葉のようなひとまとまりがあって、認知し記憶しやすくするのに役立ち、それと同時に微妙な違いを聴き分けられなくしているようです。

デノミネーションか、代数おきかえというか、多い情報をコンパクトに扱う人間らしい技術を、私は小さいうちはあまり駆使しなかったのです。そのおかげで人よりやや多くのものが見え、音が聴こえていたのでした。要領の良さのかわりに。