先月図書館で借りた「MANSAI解体新書」という本の章のひとつはタイトルが
「輪郭」~表現のアフォーダンス~
狂言師野村萬斎さんと書家の武田双雲さん心理学者佐々木正人さんの鼎談です。
書く前には全体のレイアウトが頭の中にあるものの、始めると部分しか見ていないのに書ける。なぜ書けるのかわからないのだそうです。これは私も同じことを考えた記憶があります。私がお習字に通っていたのは中学の途中まででしたが。
細長いスペースに文字列を入れる時、配分を測って決めなくても、適当に書き始めていくとなぜかうまくきっちり収まってしまいます。これは楽譜を書いていてもそうでした。合奏で使う自分のパートの譜面を、結構いいかげんに書いても、スペースがそう多く余らず足りなくなることもなく、なぜかうまくおさまってしまうことがよくあったのです。
私はお習字を習っていた頃はわかりませんでした。合奏をやってみてわかったような気がします。空間よりも時間の方の経験がわかりやすかったのか、空間の後に時間という順序のせいでわかりやすかったのか。
それまでに自分がしたことを周囲と照らしあわせて常に全体の中の自分の位置をアップデートし、ごく近い未来に自分が動ける場所を予測しながら今を活動するのです。はっきり見えるのはすぐ近くの場所と未来です。全体はそう簡単には見渡せません。しかし慣れてくれば全体もいくらか把握できていそうな気もします。そこらへんが勘というものでしょう。どのくらいの数ならどのくらいの位置にどう来るか、からだのどこかがぼんやり記憶しているのですが、記憶しているつもりがない。
可能性とは環境をいかに知るかということですか。人間が動く場合のアフォーダンスとはきっと意識していない記憶が、もしかしたら何かの感覚がかかわっているけれど、佐々木さんが見せたビデオの中で動く仰向けカブトムシの動きはランダムでした。ランダムに動いていれば、じっとしているよりはチャンスが来る可能性が高いのも確かですが。
書道でも狂言でも、どう頑張ってもお手本と全く同じにはできないということでした。まず、ひとりずつ身体が違うので、同じ動きをしてもできあがる形は違います。だから人それぞれ違う動きをして同じ形ができあがることもあるでしょう。
私が若い頃によく書いていた楽譜は定規などを使って几帳面に書いたものよりも、フリーハンドで書いたものの方がむしろ見やすくて一見印刷されたもののように見えるというのも意外でした。近づけて見るとやはり荒い鉛筆の線ですが。手はどうやら錯覚の分まで配慮して動いてくれていたようです。
離れたところを想定し、そこから見えるはずの、環境とのかかわりを含めた自分を把握する。人間のアフォーダンスとは視点が時間と空間を行き来でき、かかわりと展開を推測できること。そう思えてきます。一方、ひっくりかえったカブトムシの考えてなさそうな動きにもアフォーダンス。この差は何なんでしょう。
「輪郭」~表現のアフォーダンス~
狂言師野村萬斎さんと書家の武田双雲さん心理学者佐々木正人さんの鼎談です。
書く前には全体のレイアウトが頭の中にあるものの、始めると部分しか見ていないのに書ける。なぜ書けるのかわからないのだそうです。これは私も同じことを考えた記憶があります。私がお習字に通っていたのは中学の途中まででしたが。
細長いスペースに文字列を入れる時、配分を測って決めなくても、適当に書き始めていくとなぜかうまくきっちり収まってしまいます。これは楽譜を書いていてもそうでした。合奏で使う自分のパートの譜面を、結構いいかげんに書いても、スペースがそう多く余らず足りなくなることもなく、なぜかうまくおさまってしまうことがよくあったのです。
私はお習字を習っていた頃はわかりませんでした。合奏をやってみてわかったような気がします。空間よりも時間の方の経験がわかりやすかったのか、空間の後に時間という順序のせいでわかりやすかったのか。
それまでに自分がしたことを周囲と照らしあわせて常に全体の中の自分の位置をアップデートし、ごく近い未来に自分が動ける場所を予測しながら今を活動するのです。はっきり見えるのはすぐ近くの場所と未来です。全体はそう簡単には見渡せません。しかし慣れてくれば全体もいくらか把握できていそうな気もします。そこらへんが勘というものでしょう。どのくらいの数ならどのくらいの位置にどう来るか、からだのどこかがぼんやり記憶しているのですが、記憶しているつもりがない。
可能性とは環境をいかに知るかということですか。人間が動く場合のアフォーダンスとはきっと意識していない記憶が、もしかしたら何かの感覚がかかわっているけれど、佐々木さんが見せたビデオの中で動く仰向けカブトムシの動きはランダムでした。ランダムに動いていれば、じっとしているよりはチャンスが来る可能性が高いのも確かですが。
書道でも狂言でも、どう頑張ってもお手本と全く同じにはできないということでした。まず、ひとりずつ身体が違うので、同じ動きをしてもできあがる形は違います。だから人それぞれ違う動きをして同じ形ができあがることもあるでしょう。
私が若い頃によく書いていた楽譜は定規などを使って几帳面に書いたものよりも、フリーハンドで書いたものの方がむしろ見やすくて一見印刷されたもののように見えるというのも意外でした。近づけて見るとやはり荒い鉛筆の線ですが。手はどうやら錯覚の分まで配慮して動いてくれていたようです。
離れたところを想定し、そこから見えるはずの、環境とのかかわりを含めた自分を把握する。人間のアフォーダンスとは視点が時間と空間を行き来でき、かかわりと展開を推測できること。そう思えてきます。一方、ひっくりかえったカブトムシの考えてなさそうな動きにもアフォーダンス。この差は何なんでしょう。