W-ZERO3で通勤電車の中で書いて長らく経ち、ちょっとばかり季節はずれになりましたが、まだいくらか暑いうちに投稿しておきます。
私が子供の頃に、かき氷にかける蜜といえば、苺なら真っ赤、メロンなら鮮やかな濃い緑でした。いただきものでもない限りそんな着色されたものはわが家にはありませんでした。果物があんな色をしているはずはないのは子供にもわかりました。色は果物の色を言葉で表した後に果物を切り離し、色の名前だけで色を呼び出したもの。味も香も似ていないのが普通でした。しかし疑問を持たない人が多かったようです。お店で売られるものってそんなもの。そういう時代でした。
言葉で表した時に共通するだけで似ていない色を対応させて平気だった時代は、テレビも写真も白黒が普通でした。紙の媒体にも写真は少なく色もついてないのが普通。少ない情報を受け取り、それをもとに自分の想像によって不足を補っていた時代です。印刷物の絵に色がついているとしても色の数自体が少ないので似ても似つかない色がついているのもごく普通でした。人々の想像する力は今とはかなり違っていました。
子どもの頃は果物の名前を戴いた食べ物の人工的な色を見て、大目にみたとしてもそれは皮の色とか表面の色であって、皮を剥いたり潰したりすればもっと白っぽいはずだ、といつも思っていました。しかしあの極端な色を着ける感覚って何なんでしょう。違う色から想像する力があるのか、違いを見抜く力が無いのか、差を大目に見てしまうのか。大目に見ても色が嘘っぽいのは明らかだったのですが。
今年のことだったか、コーヒー店で桃のケーキを注文しました。表面のクリームの端の方に赤い色の粉をふりかけてあるらしく、桃の皮の赤みのつき方にそっくり。思わぬ部分にそっくりを施すセンスと技術に感心して、普段なら人工的な着色は嫌うのですがそれはそれ。この時だけは甘い夢を楽しむことにしました。見事なほど似ているのに明らかに違うものは警戒心なく楽しめてしまうようなのです。
着色された氷蜜だって明らかに違います。なのに騙している感じがあります。桃のケーキは見事にそっくりな部分があるのにそれがそっくりであるはずのない部分だから許せてしまいます。
着色も今時は野菜色素などもあるので心配ないのも多いようですが、なるべく気をつけたいです。
私が子供の頃に、かき氷にかける蜜といえば、苺なら真っ赤、メロンなら鮮やかな濃い緑でした。いただきものでもない限りそんな着色されたものはわが家にはありませんでした。果物があんな色をしているはずはないのは子供にもわかりました。色は果物の色を言葉で表した後に果物を切り離し、色の名前だけで色を呼び出したもの。味も香も似ていないのが普通でした。しかし疑問を持たない人が多かったようです。お店で売られるものってそんなもの。そういう時代でした。
言葉で表した時に共通するだけで似ていない色を対応させて平気だった時代は、テレビも写真も白黒が普通でした。紙の媒体にも写真は少なく色もついてないのが普通。少ない情報を受け取り、それをもとに自分の想像によって不足を補っていた時代です。印刷物の絵に色がついているとしても色の数自体が少ないので似ても似つかない色がついているのもごく普通でした。人々の想像する力は今とはかなり違っていました。
子どもの頃は果物の名前を戴いた食べ物の人工的な色を見て、大目にみたとしてもそれは皮の色とか表面の色であって、皮を剥いたり潰したりすればもっと白っぽいはずだ、といつも思っていました。しかしあの極端な色を着ける感覚って何なんでしょう。違う色から想像する力があるのか、違いを見抜く力が無いのか、差を大目に見てしまうのか。大目に見ても色が嘘っぽいのは明らかだったのですが。
今年のことだったか、コーヒー店で桃のケーキを注文しました。表面のクリームの端の方に赤い色の粉をふりかけてあるらしく、桃の皮の赤みのつき方にそっくり。思わぬ部分にそっくりを施すセンスと技術に感心して、普段なら人工的な着色は嫌うのですがそれはそれ。この時だけは甘い夢を楽しむことにしました。見事なほど似ているのに明らかに違うものは警戒心なく楽しめてしまうようなのです。
着色された氷蜜だって明らかに違います。なのに騙している感じがあります。桃のケーキは見事にそっくりな部分があるのにそれがそっくりであるはずのない部分だから許せてしまいます。
着色も今時は野菜色素などもあるので心配ないのも多いようですが、なるべく気をつけたいです。