goo blog サービス終了のお知らせ 

す ず な り

なかなか辿りつけない辺鄙なブログへようこそ... メールはIDのplinkに続けて@willcom.comです

似てないのに許せない、そっくりでも許せる

2008-09-07 21:34:47 | 音と動きと形
W-ZERO3で通勤電車の中で書いて長らく経ち、ちょっとばかり季節はずれになりましたが、まだいくらか暑いうちに投稿しておきます。



私が子供の頃に、かき氷にかける蜜といえば、苺なら真っ赤、メロンなら鮮やかな濃い緑でした。いただきものでもない限りそんな着色されたものはわが家にはありませんでした。果物があんな色をしているはずはないのは子供にもわかりました。色は果物の色を言葉で表した後に果物を切り離し、色の名前だけで色を呼び出したもの。味も香も似ていないのが普通でした。しかし疑問を持たない人が多かったようです。お店で売られるものってそんなもの。そういう時代でした。

言葉で表した時に共通するだけで似ていない色を対応させて平気だった時代は、テレビも写真も白黒が普通でした。紙の媒体にも写真は少なく色もついてないのが普通。少ない情報を受け取り、それをもとに自分の想像によって不足を補っていた時代です。印刷物の絵に色がついているとしても色の数自体が少ないので似ても似つかない色がついているのもごく普通でした。人々の想像する力は今とはかなり違っていました。

子どもの頃は果物の名前を戴いた食べ物の人工的な色を見て、大目にみたとしてもそれは皮の色とか表面の色であって、皮を剥いたり潰したりすればもっと白っぽいはずだ、といつも思っていました。しかしあの極端な色を着ける感覚って何なんでしょう。違う色から想像する力があるのか、違いを見抜く力が無いのか、差を大目に見てしまうのか。大目に見ても色が嘘っぽいのは明らかだったのですが。

今年のことだったか、コーヒー店で桃のケーキを注文しました。表面のクリームの端の方に赤い色の粉をふりかけてあるらしく、桃の皮の赤みのつき方にそっくり。思わぬ部分にそっくりを施すセンスと技術に感心して、普段なら人工的な着色は嫌うのですがそれはそれ。この時だけは甘い夢を楽しむことにしました。見事なほど似ているのに明らかに違うものは警戒心なく楽しめてしまうようなのです。

着色された氷蜜だって明らかに違います。なのに騙している感じがあります。桃のケーキは見事にそっくりな部分があるのにそれがそっくりであるはずのない部分だから許せてしまいます。

着色も今時は野菜色素などもあるので心配ないのも多いようですが、なるべく気をつけたいです。

一緒に楽器で遊んだ思い出

2008-08-12 00:30:39 | 音と動きと形
>ただ、普通ジャズはひとりでは演奏しませんから。

ピアノソロを何度も聴いた後にこんなこと書いてます。
ひとりで演奏することが頭にないらしい。



私はもともと低音楽器で伴奏が好きです。しかしある時期色々な楽器のパソコン通信仲間が集まって遊んでいる時、だれかと一緒に演奏するなら伴奏してもらうしかなかったのでとうとうそんな演奏をするようになりました。

まずは無難な曲。バッハだったかな?ピアノの医学生はとにかく子供の頃教わったままの真四角な演奏をしていましたが、勘が良くてほんのちょっと言えばすぐわかってくれました。曲はだいたい出来上がり。内輪の発表会も近いある時、これは試しにと言って私は近代のある楽譜を渡し、一緒に弾きました。

ゆらぎを伴って風が吹き加速度をもって水が落ちるようにテンポも音量も揺らしました。自然の中にある形ならば美しい範囲内だと思うので。一曲のジェットコースターを降りた彼は楽譜を手に「これ、またやりたい」と目を輝かせていましたが、その後遠くへ行ってしまい機会はありませんでした。でも、そういう気分にさせ目を開かせた私の功績はきっと大きいぞ。


集まりの中にはジャズを演奏するルオーのキリストみたいな大学院生もいました。楽器はトロンボーン。ある主婦が向かい合って話をするうちに「ああ、どきどきする。睫毛が長いのね」と照れていました。私もどきどきしてみたかったけどやはり効果なし。「きりんさんに似てますね」というと「いいえ、ぼくはらくだに似ているんです」と返ってきました。後でファミリーレストランに子連れやら学生やらと並んで座り、長い脚を組んで見た目もずいぶん渋いのですが、「ぼくはおこちゃまですから」とコーヒーにお砂糖を入れて大人っぽく飲んでいました。普段ライブもやっているということでしたが、始まりが9時とは遅すぎ。場所は昼間通り抜けるのさえ怖い地域ではありませんか。その後お店は移転したとか聞きましたが。ジャズに関心はあったけれど結局私は一度も行かないままでした。行っていたらジャズ感覚がもうちょっと身についていたか。そうでもなさそう。

私の数少ないピアノのレパートリーを弾くと、昔合唱でアルトを歌っていたという主婦がスキャットをつけてくれました。思いがけなくて嬉しかったです。もうひとり可憐な声の主婦がいました。できることならそのピアノ伴奏をしたかったなあ。

かなりまとまりがない集まりだったけど楽しい思い出。今頃みんなどうしているんでしょう。多くは本名さえ知らない人たちです。

ジャズが好きなのか

2008-08-09 13:38:11 | 音と動きと形
このあいだの私の演奏のひとつはドラマチックな展開と解釈したけれど、ジャズはそういうもんじゃなかろうという気もしています。ジャズだけでなく音楽をあんまり聴いていないからわかってないのです。

「サテンドール」は表情がわからないから難しいなんてKYの言葉でしょうか。きっと私の音楽は勘違いだらけです。

ジャズと思わなければそれでいい。自分なりの音楽と思う場合は。ただ、普通ジャズはひとりでは演奏しませんから。

先月図書館でCDを探しました。ジャズをかりるつもりが紹介された奏者のがありませんでした。気がついたらバロックのトランペットと現代のパーカッション。パーカッションは一度だけでもういいやと思い、トランペットは何度も再生。バロックはしあわせだなあと思いました。クラシックがやはり好き。

私はジャズが好きなのかと聞かれると、そうとも言いきれません。好きだったらこれまでにさんざん聴いているはずです。音楽が好きなのか、これもよくわかりません。音楽のない環境の方が好きだから。ひとりで演奏するのもそれほどではないけれど、だれかと一緒に演奏するのは好きです。突然楽譜がなくても演奏できるようになったら。それでジャズなのです、ひとつには。

ジャズピアノ2年目

2008-08-05 23:58:38 | 音と動きと形
ライブでの演奏はそういえば4回目。ジャズピアノを習い始めて1年経ちました。1年間だけと言って始めたけれど、ここでやめたらあまりに中途半端です。贅沢だけど続けます。

前進はありました。新たに何か身についたようにはちっとも思えませんが、ただ図々しさが大いに引き出されました。テンポの感覚はある程度若いうちに得たもので、慣れることで動きが自由になり、表に出てきました。やはりこの年齢ではピアノの技術を身につけるのは大変です。まじめに練習するのも。

ライブの出番はいつも最初です。緊張するし前例がないと普通の弾き方がわからないのでそれまでずいぶん小さい音でやっていたので他の楽器がかなり遠慮した音になってしまっていたようですが、今回はなんとか普通に音を出しました。バラードはドラマチックな展開を望んでいそうな音の並びなので大袈裟に。ちょっとクサいんじゃないかという程度でちょうどいいはず。そしたらドラムがいきいきしてきて次の曲は私がもっと大きな音を出さないと聴こえないんじゃないかと思ったほど。やはりリハーサルが最良になるのはいつものことです。

後の皆さんの演奏を聴いていると、始めてそう長くない若い人はみんなきめ細かくて丁寧、そして平坦。いかにもクラシックをやってきたお嬢さんです。それに比べて私の演奏がいかに荒っぽいか。要所のある程度をなんとか押さえるけれどそれ以外がスカスカ。でも、ジャズを楽しむにはそれで一応間に合うらしいです。アクセントとリズムがツボ。もちろん子供の頃習った人だったらありえないような大きなミスがいっぱい。

私も若い頃は楽器は違うけれど音の出し方が丁寧でした。音色を崩してまで激しい音なんてなかなか出せませんでした。声の荒っぽさが辛くて民放が観ていられなかったくらいですから。それが今ではドラムなどの響くライブハウスに長時間居て平気なのです。加齢による聴覚の衰えによるのでしょう。しかしこれでずいぶんと自由を得ました。

身につけたいのは指と鍵盤と音の対応、コードとその進行の感覚。身についていく具合が遅すぎと感じるけれど、今はそれらを載せる土台をつくっているのかも。

一番大事なのは楽しむことです。今回の自分の出番で特に楽しかったのは私の年齢の半分もない可愛いドラム君の反応でした。

プログラム後半のみなさんそして最後の先生の演奏はやはり聴きごたえあり。いつか私もあんなところに近づけるだろうかと思うと、どうもありえなさそうだけど、そこを可能なこととしてイメージトレーニングせにゃ。

明けて早速レッスン日です。廊下でお会いしたのは私と一緒にギターを演奏された、伝説的ビッグネームのグループにいた人と一緒に演奏してきたとかいう先生。私は人の顔を記憶するのが大変な上に先生は当日薄暗い環境で帽子被ってらしたので、そうじゃないかなあと思いつつ、お互い挨拶するうちに確信しました。先生はぶっつけ本番で途中無邪気に走りたそうでしたが、こっちはよちよち歩き。そこで合わせたら先で大変です。私が頑としてのろまテンポをキープしたから印象づいていることでしょう。曲が進むにつれて事情がわかってきたんじゃないかな。

次の曲は表情が読めなくて難しいと嫌がったんだけど一応順番としてはサテンドールをもう一度。不協和音あたりの記憶も強いのです。弾いてみたら以前ほどの苦手な感じはありませんでした。そんな感じでいいんですよって、単音ばっかりで弾いて言われたけれど、いつまでもこんな弾き方で甘えてもいられません。何事も、楽しむまでが大変。確かに少し楽しめるようになってきました。

手刀

2008-08-05 23:58:26 | 音と動きと形
例によってジャズの生徒と先生のライブがありました。貸切のお店はドラムや電子ピアノを置いた演奏スペースに元はあったと思われるのやよそから借りたふうな椅子やソファでぎっしり。そんな席の間の狭い通路を手刀切って通って行ったのは店員らしきコーカソイド青年でした。私の行動範囲内では日本人の高齢者でもそういうことをする人は見かけませんが、案外若い人には多いかも知れません。同世代以下でなら何度も見ましたから。家庭でよりは人の多い環境である学校で伝わり易いでしょう。学校で同級生に。そしてきょうだいに。クラブ活動の先輩から後輩に。それにしても彼は誰からあの所作を教わったんでしょう。今風な格好した若い店員さんからかな。

かぐや姫の茶筒

2008-07-29 23:22:02 | 音と動きと形
今日お茶屋さんで見かけた茶筒。青竹を斜に切って中が空洞になっているかのように見えるけれど、スチール缶に塗装してあり、蓋の上部は斜になっています。2個セットの煎茶です。あまりの可愛さに店員さんは入荷したその日に購入したそうです。そして夜、暗い時に見ると竹の内側がなんとなく光っていたとのこと。パッケージにはそんなこと一切書いてないなんてにくいではありませんか。

意外な楽器で似た音

2008-07-21 00:52:00 | 音と動きと形
今日のN響アワーではボウイングや奏法についてあれこれバイオリンを使って説明していました。私はそれらとは違う面白いのを見たことがあります。ある時まるで日本のお祭りの大太鼓のような音がすると思ったら、コントラバスが弓の毛で弦を叩いていました。


ギターがスネアドラムの音を出すのを聴いたこともあります。おそらく複数の弦を指板の上でくっつけて押さえ、じゃらじゃら鳴らしていたのだと思います。

代用で思い出すのは、小規模ドラムセットでラテンの演奏。クラベスに相当する音をスネアの縁を打って出していました。なるほど。そんなに似ていないけど、間に合わせられます。

グランドピアノでチェンバロみたいな音を出すには、弦の上に新聞紙を広げるんだと聞いたことがあります。本当かなあ。もちろん人前での演奏ではなく、楽しみとしてでしょう。

つくるには実感したほうがいい

2008-07-20 19:48:26 | 音と動きと形
山笠が済んだら博多の街中は落ち着いた夏になります。今年は飾り山を眺めて感じたことが昔とはちょっと違いました。

これまで興味を持って飾り山を見ることは少なかったのですが、母と一緒に道を歩いた時は一応眺めました。子供の頃もそんな機会があれば一緒に眺めていたのですが、自分ひとりで歩くときはじっくり見ないのです。

昔と違うのは、人形が人間であった場合の重さのかかり方や力の入り方、勢いを私が見ているということ。

人形を作る人はダンスかスポーツか武術か、からだをうごかすことをして実感した方がいいんだなあと思いました。

そういうものを経験したからといって必ずしも身に付くとは限らないようですが、しないよりは可能性が高いです。また、何も経験しなくてもバランスを見る力のある人もいるでしょう。

昔はこの人形なんだかぎこちないとか下手だとかうまいなあ迫力あるなあという感想しかなかったけれど、今年はどこがどうだからどう見えるかを私が母に小声で喋っていました。

弾けたおぼえはないんだけど

2008-07-10 23:05:43 | 音と動きと形
レッスンの休みが続きましたがちょうど忙しかったので良かったです。前日に慌てて練習したけどやっぱり地道にやらないと弾けるようにならないのはよくわかります。

出だしから違う音を出す始末。しかしそのまま通して終わり、しょんぼりしかけていたら、先生は「会心の出来!」
前回と同様ほめまくられてもちゃんと弾いたおぼえがないと困ってしまいます。
「ジャズはノリですよ」
そうでしょうけど。やっとこさ間に合って出た音がぴしゃり決まったというだけで、それ以外てんでだめです。様になる間違え方なんかじゃありません。でも隣の電子ピアノで一緒に違うパートを音色を変えて弾く先生はきっとやりやすかったのです。

弾けてない、間違いだらけなのに歌えている、ところもある。テンポが合わせられる。ただそれだけです。踏み外し場所が違えばどうなるか。このまま本番だったらあんまりです。私は曲のムードを掴んで心の中で慣れただだけで、手は進歩なし。

おそらく、私は一緒に演奏して心地よいと思わせるくらい、合奏慣れしているのです。この古狸。でもピアノ慣れしていない。尻尾が丸見え。いや、顔以外化けていません。それが自分でわかります。

まじめに練習しなくてはとあらためて思いました。今度も。どうせなら大化けを目指すか。この歳で?

空とトランペット

2008-07-10 22:13:51 | 音と動きと形
福岡の空は高いと東京から来たトランペット吹きくんが言っていました。いつも大きな公園で練習するのだそうですが、福岡の方が音がダイナミックに響くらしく、こちらに来て音が変わったとファンから言われたそうです。
この話を聞いて納得するには気象関係や物理学の知識が必要なのかも知れません。ひとりの楽器の響きが地球規模の何かと関わっていたとは。

人の顔みたいなポット

2008-07-10 21:57:21 | 音と動きと形
傾けずてっぺんを押して空気の圧力でお湯を出す方式の保温ポットは注ぎ口が上の方に落ち着いていますが20年以上前は下に急須を置いてちょうどいいくらいの、半分より下にあるのもありました。そんなのは注ぎ口が傾斜の先にあってまるで鼻のようです。
当時のある夜、夕食時に次のような会話がありました。
「あのポット、人の顔みたいに見える」
「眼鏡かけてみるか」
バケツのような取手の根本で父の眼鏡がうまく引掛かりました。ちょうど近くに母の毛糸の帽子があったのでそれを被せるとなかなかいい感じ。
「わー、ほんとに顔みたい」
「あっ、はなみず落とした」
そういうのを飲みたいと思わないので早速眼鏡と帽子ははずし、二度と着けることはありませんでした。

魔法瓶

2008-07-06 23:50:48 | 音と動きと形
私が子供の頃の魔法瓶といえば、銀色をしていて、素敵な曲線を持つ注ぎ口がついていました。お湯を注ぐには蓋の端の反り上がった部分を押してワニのようにぱっくり開けて傾けました。あれが好きでした。その後のプラスチックや品の無い色の塗装はどうも好きになれませんでした。

魔法瓶は名前にも夢があるし、何よりも中を覗いた時の目の眩むような光が魅力です。魔法のものはあんまり新しい素材でできていたり新しい形をしたりしてはいけないのです。自分が生まれる前から存在したものでないと。それはたまたま新しいものが美しくなかったから。

まだあったはずの古い魔法瓶はいつの間にか無くなっていました。私の好きな古いものってみんなそうです。私に相談もなく。



私が子供の頃、魔法瓶というものがあって、中に本当に魔法が入っていたよ。

猫ちゃん、あっちをごらん

2008-07-01 00:02:58 | 音と動きと形
猫に「そこじゃなくてあっちよ」と指さしても、猫が見るのはあっちではなく指先です。しかし人間は特に教えなくてもあっちを見てくれるように思えます。

人間は小さいうちに、あっちも示されるけれど、それ以上に目の前のものを沢山、直接指先で触れて見せられます。それによってさし示すということの意味を知るのでしょう。やや離れたもの、ずっとはなれたものについてもものに名前があると知ればコンテクストから理解します。

猫は「これよ」と物に人差し指で触れて見せてもあまり理解しないものです。それまで気づかなかった気になるものを指し示された経験が何度もあれば違うかも知れませんが、だいたいは手の動きに注目するようです。そしてじゃれる傾向の強い猫は手に飛びつきます。

人間は物に、猫は動きにより関心を持つようです。そういえば、猫の興味を引くためには対象物を細かく動かすということをよくやります。

矢印というのもおそらくその使われ方を知らなければ理解できないでしょうし、初めて見る場合には矢の性質を知っていれば理解できるでしょうから、非常に文化に依存しています。そういえば、矢印が意味するのは指し示すことと方向を示すことの両方がありました。

指でさすのは文化に関係なさそうです。手近に使えるもので先の細いのがそれだから。ということは、指さしはもとは目の前の小さいものを示すことから始まったのかも知れません。しかし指ささない文化圏だってあるのかも。

人間は指し示すことの意味を理解します。今更ながら考えてみると指し示すということは記号を扱うのと同じくらい観念的なことです。鏡のテストみたいに指し示しのテストなんて誰かやっていないでしょうか。どういう設定が有り得るのか見当もつきません。

軽い朝

2008-06-28 00:21:22 | 音と動きと形
明け方の重さ。外のくちなしが話し掛けていたような気もします。「うん」と答えたいけれど、何が「うん」なのか、言葉ではないのでよくわからず。そして突然朝の、これは軽さというのでしょうか。

明るくなってきたある一瞬、この世が揺れ始めます。揺れとはわからないほどの細かい揺れで。軽さの正体は動きやすさ、もしかしたら音。実は何もかも夜と同じくらいしっかり重いのです。

銅羅は打ってすぐに鳴るように、出番が近づくと細かく揺らし始めないといけないと聞いたことがあります。

遠くの空の下から押し寄せてくる活動の揺れに促されてじわじわと私は通勤モードに。いつもはじゅうぶん揺れが軌道に乗った頃に目を覚ますので朝は最初から私の体調とは無関係に軽いのです。

一瞬も止まない揺れに慣れて忘れた頃、玄関を出てまず目にするのはぽってりしたくちなし。揺れない花。

ありがとう。気持ちを軽くしてくれて。

線にあらわれるもの

2008-06-22 12:23:25 | 音と動きと形
わりと最近できたらしい小さなレストランで食事しながら、向こうの壁の絵がなんだかずいぶんいい感じだと話していました。やや遅い時間だったのでお客は次第に帰っていって私たち家族だけに。デザートが来る前に席を立って私が見てきました。木炭かと思っていたらそれはペン画。うまい。これほどのスピード感のある線でこれほど的確に。顔の辺りはわりと密、そして下の方の手や周辺の衣類あれこれになると輪郭線だけ。サインはRKOISO。
「小磯良平みたいよ。後で直に見てよ、すごいよ」

「絵ってやっぱり横向きに置いて描くのは良くないかなあ」
子供の頃よく逆さに絵を描いていたという妹はいいことを言ってくれました。私がどう答えたか正確には記憶していませんが、だいたいこういうふう。立てて描いたペンの線には腕の重みの影響も出るはず。すると見る側も重みのかかり方が自分の見る状態と一致した方が落ち着くだろうと。ほんとかなあ。

絵を描く時の向きの影響なんて、ほかの絵ではそう思いつきません。実際に私は大学時代の美術の時間に描ききれなさそうだったので、手以外を時間内に済ませて、残りは絵を横倒しにして自分の手を見ながら描いたのです。水彩画でした。慣れない絵で、重力より強い鉛筆の線の惑い。彩色は平らに置いて。こんな程度だから置いた向きはたいして影響しなかったように思います。ただ、引目鉤鼻的なおっとりした女子学生の手が、意志ありげな職人風になったのはまずかったです。やはりそのままを描写しなかったら嘘っぽくなります。もしかしたらあの絵のちぐはぐ感はモデルだけでなく向きのせいも少しはあったかも知れなません。鉛筆や筆、形が重力に影響を受けた手。腕をちょっとの時間揚げただけで血管の張りがまるで違うくらいだから。でも私みたいな普段絵を描かない人には関係なさそうな気もしますが。そういえば、光の当たり方の違いは大きいでしょうね。

「小磯良平ってずいぶん意地悪みたいね」
スピードの変化の衝撃をどう和らげるかということでしょうか、母は線に性格を感じたようです。私はそう感じませんでしたが、本人の内側できついんだとしたらわかるような気もしました。