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す ず な り

なかなか辿りつけない辺鄙なブログへようこそ... メールはIDのplinkに続けて@willcom.comです

過ぎ去った天使の声、羽のある夜の女王

2011-10-07 23:36:52 | 音と動きと形
美しい声をみつけた。
もしかしてみなさん既にみつけてましたか。
Andrew Johnston少年。
声変わりしてもやはり美しい。

それから、面白いのは、夜の女王のアリアを歌うオウム。
parrot singing opera という動画です。
鳥にとって数とは、リズムとは何でしょう。
同じ音の繰返しでは数の多すぎ。
そういうふうに聴こえているらしい。
しかしあの歌、鳥の鳴き方として自然だったわけです。

ポリフォニーが好き

2011-10-01 13:53:45 | 音と動きと形
シャンティクリア、そしたらやっぱりタリススコラーズとくる。たまにヒリヤードほかもまじって。

私はレコード類をかけると今何の曲をやっているか気にしない場合が多く、曲と曲名が一致しない傾向が強くて、歌もどこが歌っているか気にしないことが多いのです。とにかくいい加減。

やはり私はポリフォニーが大好きです。だけどそんなに熱中しないのは何故かな。

大学を卒業した頃に聴いていたのはロジェワグナー。身の回りに美しい宗教曲はそれしか無かったのです。これさえ聴けば楽になれる、安心できるんだと決めていました。
実際はどうだったかは関係なく、決めていたのです。決めるしかありませんでした。

宗教曲は好きだけど、歌詞を理解する余裕なし。
たまに演奏会で、音については感動の涙が流れたがるのに、歌詞から感じる違和感がそれを阻止してしまうこともありました。深いところまで理解しないからだろうとも思ったけれど、体力ありませんから。体力つかないまま数十年。だけどマタイ受難曲が演奏されるなら聴くだけの体力は準備可能という虫のよさ。

全く違和感を感じずに浸ってしまえばどんなに楽になれたか。どれだけ楽しめたか。しかし私はいつもどこか中に入りきれずにいます。しかしある意味ではそういう感覚が幸いしたのだと思います。

私は歌は歌いません。カラオケにつれて行かれても、全く。子供の頃に声が小さすぎたことと、小学校でなんとか無理に大きな声を出させようとされたことがトラウマになってその名残が歌について残っています。その後歌うきっかけも作れないまま。

美しいポリフォニーの音楽が存在する。その事実がしあわせです。

グレゴリオ聖歌も時間差ポリフォニーでしょうか。よく響く室内でポリフォニーになるか、脳内の記憶と合わさって。

シャンティクリアの演奏した中にはPast Life Melodiesというホーミーみたいな声を出す曲もありましたね。これは珍しくて面白かったです。

ケッコーな合唱団

2011-09-27 23:32:45 | 音と動きと形
ネットで美しくないここち良くないものを見て読んでしまったら、YouTubeで再生しているのは、Chanticleerです。このグループに清めてもらいます。

今は検索すればたいていのものは出てきますね。

有名らしい曲名がいくつも出てくるYour Brain on Musicを読んでいた頃はまだネット上で音源を探し当てるのさえ困難だった気がしますが、今はちょっと興味が出たからと検索すればまずその曲が聴けます。この時代の変わりよう。

ChanticleerのCDを持っていたはずなんだけどな。
プライベート空間では片づけ困難の私。これから頑張ります。

湖と言っておけば美しくなったものだった

2011-08-30 00:27:02 | 音と動きと形
「花の首飾り」と「エメラルドの伝説」に共通するものは、湖。

あの頃、ロマンチックといえば湖。湖といえば白鳥。


あの頃、芸術とは「モナリザ」、芸術とはベートーベンの「運命」、芸術とはロダンの「考える人」のことでした。美しいものといえば「白鳥の湖」。

そこらのみんなが考える高尚なものってそういうのでした。白鳥、湖は美しさや憧れと繋がっていました。おそらく、そんなキーワードをちりばめておけばなんとかなったのです。聴いた人はそれをもとに美しい気分をフェッチするようになっていました。

少ない情報をやりくりして間に合わせていたので、色々なものが、今とはありがたみがずいぶん違っていたのです。

しかし、今そんな音楽を聴いてみて、やはり美しいのです。非常に単純だけど、うまくきれいなイメージを描かせてくれます。詳細は想像し放題。退屈はその曲の限界なのか聴く人の想像力の限界なのか、言うのは勇気が要ります。

-------9月6日の追記
うっかりしていました。シンプルな歌が美しいのはほとんどメロディーのせいでした。
なんという私の鈍りよう。猛反省してます。そしてこれを書こうと思って数日間もやもや。今朝書こうとして先ほど邪魔が入ってしまいました。
きっとそのうち好調

頭の中にできあがった印象は強かった

2011-08-28 21:59:31 | 音と動きと形
「花の首飾り」の前に思い出していたのは「エメラルドの伝説」でしたが、歌詞がエンギでもないやと思っていました。当時私はエメラルドの方が好きだったのです。多分声が。Youtubeで聴いてみると、下手!そして可愛い。まるで好みじゃない。メロディを憶え違いしていたこともわかりました。それにしても私と同年齢であの時代を記憶している人など稀です。

「花の首飾り」も入った分厚い楽譜が手に入りました。「ブルーシャトー」や「恋の季節」ほか色々懐しい曲に最近流行のウイスキーや焼酎のCMソングまで。もう1冊、昭和のアニメソングから今の子供むけテレビ番組の歌まで入ったのもあります。もちろん「エメラルドの伝説」の楽譜なんてありませんよ。

先週だったか、あれこれピアノで弾いてみました。ほぼ初見ということもあり、アップテンポであってもゆっくりやります。私の昔からのやり方。勇ましい曲でも優しくムーディーに、ロマンチックにしてしまうのです。

「君といつまでもはきれいな曲よね。あの歌い方は好かんけど」
ほんとにソフトで甘美な「柔」や「巨人の星」など、聴いていた母がきれいすぎて可笑しいと思ったようです。それなりな印象を持ったところで「およげたいやきくん」はほぼ普通のテンポ。たいやきくん、もともときれいなイントロなのに、メロディーが出て何の曲かわかったところで母はきれいすぎて可笑しいと言いました。

朝にんまり夜にんまり

2011-07-31 18:31:12 | 音と動きと形
引越段ボールから出てきたのは飲み物が入っていたガラスの空瓶で、赤いのと青いのと。ゲームのキャラクターを象ったものらしいのですが、 擬宝珠型に顔がついています。可愛らしいので捨てられなくて、どうしたものか。

母に見せると、捨てられないなら捨てなさんな、と。どうやら母にも可愛く見える様子。よおし。

普段私が使っている洗面所は棚が全部鏡でおおわれていますが、母が使う方は置いたものが見える構造で、そこがちょっと空いていました。だいたい目の高さ。赤と青のにんまりした顔が並びました。

母は仲良く並ぶ顔を見て顔を洗い、歯を磨きます。
にんまりで一日が始まり、にんまりを夢に持ち込むのです。



それだけじゃなかった。一日じゅう、手を洗う度ににんまり。
無意識ににんまり。基本にんまり。


そうでした。このキャラクターの名前はスライムだそうです。
お店で手にとって、うわースライムなんていう物質は飲みたくないよなあと思ったのだけど、可愛さに負けてしまったのでした。あっという間に姿を消しましたね。

島野十郎 里帰り展

2011-07-18 22:07:26 | 音と動きと形
土曜日に久留米の石橋美術館へ、島野十郎 里帰り展というのに行ってきました。
すぐ書かなかったので結構忘れてしまっているのですが、みごたえ大ありです。

正面から挑んでくる絵に立ち向かうために、出る前にお昼ごはんは済んでいたけど駅でサンドイッチをふたつも注文して食べてから行きました。

やはり年取ってからの絵が更に素晴らしいです。相当眼が良かったみたいです。質感が物凄い。
壁ごとに作品に手を触れないようにと書いたプレートがありますが、触りたいと言っている人がいました。触らないとこの質感は納得できないのでしょう。みずみずしい緑色の葡萄、産毛のやわらかい桃。

前日に上司と話をしていて、写実といえばフェルメールが好きだと言われていました。野十郎はフェルメールみたいな癒しの絵じゃないんです、癒しの部分もあるかも知れないけどものすごく厳しい部分があります。愛情があってこその絵ですが。

前回観た時と違って今回は体力があります。正面から挑んできたっけ。立ち向かった憶えもなし。だけどまじめに観る気持ちにさせる絵です。こちらも手抜きできません。

昭和の頃まではこんな光景があったなあと思えました。こんな光。こんな瀬戸物。風景、家の中の暗闇。空気は今ほど振動していなくて、澄んで、太陽は今と違ってまだぼやけていた時代。

高くのぼった月ばかり。そんなすましたまじめな月が好きなんだ。私は低い位置にあってにやけたフレンドリーなのも大好きですが。

しかし額縁の力って大きいなあ。生かすも殺すも。

数はここほどではないけど同時に福岡県立美術館でもやっているそうなので、次はそっちに行きます。

今に大きな野十郎ブームが来るんじゃないかな。

よくきくラッセル・ワトソン

2011-07-10 00:21:01 | 音と動きと形
最近はYoutubeでラッセル・ワトソンをよく聴いています。

最近出たCDの分も出まわっているようです。
イタリア語のが多いらしい、私が生まれた頃や子どもの頃に流行した音楽。
そうよね、この人もそういう年齢だし、声が変化するのも仕方ないな。
そう思っていたら、どうやら中年の魅力で迫ろうという意図があってそれなりな声で歌っているようなのです。
チョイ悪オヤジのイメージ。
いったいこの人はどれだけの種類の声が出せるのでしょう。どの声でも無理した感じはありません。

これまでにはどこまでも澄んだ声で歌う美しい歌もあればしゃがれ声が味わいのあるのもあり、ポップス的な声とオペラ的な声が交互に出てくるのもあり。インタビューでは誰がどう言っていたとかでその人のものまねで喋っていました。

私、この人の歌をそんなに好きかなあ。どこがいいんだろう。
同じ曲を別の人が歌うのを聴いて、なんとなくわかりました。
ラッセル・ワトソンは、すっきりサバサバしている。そこです。なさけないチョイ悪オヤジ路線だとしても、いやらしくない。根がしっかりしていて安心していられるのです。心がゆったりしながらも姿勢はきちんとしているイメージ。

あらゆる種類を歌えるということは、リズム感もすばらしいということ。ゆっくりした曲は極端にゆっくり歌っていますが、それはリズム感がしっかりしているからこそ。

そう、帰りにCDを買おうと思っていたんだった。チョイ悪オヤジ以前のを。

音楽は気分に影響します。私は最近あの安定感を貰っていたのかな。

遺伝子を修復する音があるという

2011-07-01 22:30:22 | 音と動きと形
よく見ているブログに、遺伝子を修復する音の話題が出ていました。
http://goldentamatama.blog84.fc2.com/blog-entry-882.html
もとを辿っていくと色々な効果があるという音を聴けます。
もしも本当に効果があるのなら、聴いて問題ないなら、放射能の影響のありそうな人に聴いてほしいものです。

今は説明できないとしても(してるかも知れんが)、そのうち解明されることもあるということにして、判断は保留してそういう世界をのぞいてみるのもいいかも。

この音はいい、よくない、というふうに、直観で判断できる人になりたいです。
いや、ある程度はそんな感覚あるのかもね。
聴いたことのある分だけですが複数の新興宗教の教祖様の声を私は受付けないんです。

そういう自分の過去の声はどうなのかなあ。相当に全身特に腹筋が弱ってものすごく背中が凝った人の声。今は当時よりもずっと楽で健康的です。


おなかにこたえる太鼓、「いらっしゃいませこんにちはー」と頭から出す声、胸で響かせるアルト、というふうに、からだの特定の部分に響き易い波長というのはあります。どうしてなのかわかりません。骨や臓器の長さによって共鳴しやすさとかあるかなー、特定の分子が共鳴しやすい長さとかあるかなー、など考えてみるのですが、文系の私の考えのどこまでがマトモでどこらへんからおかしいのか見当もつかないのでした。


--------------------------2012年6月24日の追加
「山田貢司のどこに行くのか?バカボン一家」というブログの6月22日の「BRAIN ー脳ー」という記事の中に、ソルフェジオ周波数についても書かれていました。危険かも知れないという考えを持っておられます。

タリス・スコラーズききにいきました

2011-06-09 12:21:56 | 音と動きと形
一昨日タリス・スコラーズの演奏会がありました。うまく仕事が終わらなかったりぐったり疲れてたらいやだと思ってその日は休みを取っておきました。

嬉しいことにアクロスのシンフォニーホール。しかし座席は座った人によけてもらいながら移動するんじゃなくて、普通に座ったままで通れるくらいの余裕が欲しいもんです。贅沢だろうけど。

着席してみるとそこらじゅう孫のいそうな年齢の女性だらけ。ところどころインテリのにおいのする中高年男性。おそらくみなさんアマチュア合唱団のメンバーが多いだろうと思います。若い人たちはどうした。昔はこういう場所には学生っぽい人が多かったじゃないの。学生席?

このホールだし、休み取って万全の体勢でのぞむ意気込みのはずでしたが私は家を出る直前まで洗濯やお風呂掃除などでばたばた。特におしゃれしているわけじゃなし。しかし着席するとそれなりな期待です。始まるとハーモニーの喜びと場の美しさを先取りして嬉しくてしょうがないんだけど、始まりからいきなり調子も出るとは限らず。

こういう場所にしちゃ響きが地味だなあ。そしてメンバーの声の質を揃えてあるわけでもなさそう。揃えるよりは突出する方がメロディーははっきりするわけかな。

音楽の中でも特にアカペラ合唱は響きを優先するかメロディーを優先するか、どこを優先してどこを妥協し諦めるか、最善がその都度違って難しい分野なんだろうなと思いますが、その音は無いだろうと思うところがあったり、えーこんな音楽でそんなぶるぶる揺れる音を出すのかと意外だったり。そしてユニゾンがなぜか美しくない。ピッチの幅がありすぎなのかどうか、合唱や音に詳しくないのでよくわかりません。

ホール全体に共鳴が広がって天井のあっちの方からも聴こえてくるとか思っていたのです。それは期待しすぎでした。

もしも私がその類の合唱でもやっていたら自分と比較してそのすばらしさに驚嘆していたかも知れないのに。きっと実際に取組むとなればそれは大変なのです。

演奏中に浮かぶ様々な雑念。いけない、この頃音楽を流しながらパソコンを扱うナガラ癖がついてしまっている。集中する習慣をつけなくては。いけない、この私の持つ「場」がホール全体に揃うはずの何かを乱すかも。

しかし休憩の後益々好調になっていって、美しい音楽の中にひたれました。私の雑念も少なくなっていきました。

大地震に放射能騒ぎで来日を取消す演奏家も多かったというのに、はるばる来てくださって。演奏が終わる頃には感謝の気持ちでいっぱいでした。

帰りのロビーも高齢の女性が延々と。ぽつり、ぽつり、男性。それより更に少ない若い人。どうなるんです、若い人たちが演奏会に来なくて、この国は大丈夫?この前行った演奏会では当日券として学生券を書換えて渡されたけど、ほんとに学生さんたちが生演奏を聴いていないみたいなのです。

アールブリュット 福岡アジア美術館で

2011-04-10 14:47:03 | 音と動きと形
先週の平日に行ったのはアジア美術館で「アールブリュット」でした。精神的なハンディキャップを負った人たちの作品で、パリで展示されたうちの半分以下だそうですが、チケットは安いし観ごたえあるし、仕事帰りにはちょうどいい量でした。

その気持ち、わかるような気がするなあ、わかっちゃいないんだろうけどな。楽しくてせつなくて。ここにいる間はしあわせ。あるいは、自分らしくいられる。または、忘れていられる。困難な日常ではない。理想の夢の世界。それとも、ただなすがまま何か知らないものがあらわれてくる時間。

理想をできあがらせられるなんて、これでよしと言えるなんて、あまりにもうらやましい。肯定的な感覚が作品を美しくするのかも知れません。私には欲がありすぎて、また身に染込んでしまった基準から自由になれなくてそんな純粋なものは作れないでしょう。

私も幼稚園の頃これに似たようなのを作っていたなあと思える作品がありました。私のどこかがもうちょっと強く表れていたら私もこういう人々のうち。何かほんのちょっとしたきっかけが進み方を切り替えるのではないかと思えます。

いくつもの、それぞれにとっての理想。
衝撃的な記憶、安心のよすが、かつて一度受けた指示。原始的生物のような形状。作家は何かの根源を探る人々なんだろうか。

素晴らしくおしゃれにみえるのはきっと雑念がないから。アーティストに必要なことは、雑念の無さだなあとなにかにつけて思います。

単時間で乗り換えの多い通勤中に細切れに書き、早く投稿しようと思いながら書き終わらないでいるうちに、今日が最終日です。ここは夜8時までやっていて、夜7時半まで入れますが、最終日はちょっと早めに撤収する場合もあるかも知れません。

とんでも北斎

2011-04-07 20:13:46 | 音と動きと形
北斎の展覧会を観に行ったのは先々週の日曜日。ナメてました。博物館へは午後に出かけたらいいだろうと。

家であてにされて待ち時間にやることについでもついて、飛込みも入り、あれこれ予定がずれまくり、遅く到着。まあなんとか大丈夫だろうとみはじめたら、もうすぐ閉館、ここらはまだ四分の一くらいで、有名な作品はずっと先ですよって。今回の呼び掛けは「お客様」だった。同じ人。前回「お嬢様」と言った後は顔見てしまったと思ったんでしょうね。私の聴き違いとは思えなかったけど。

それにしても北斎はとんでもない。ひたすらとんでもない。そのまんまでとんでもない、眼鏡外して顔を近づけて、とんでもない。何がそうなのかって、言い始めたら大変です。人を楽しませて自分も楽しむ天才。興味あるなら観に行ってください。クリエイティブな影響を受けてください。

閉館のアナウンスでさっさと歩いて出口に向かうと、その距離の長いこと。まだある、ある、もっとすごそうなのが。とんでもない。

もう一度観に行かないと。今度は一日がかりくらいの覚悟で。その前に目の調子も整えよう。

いたずらモニタ

2011-03-24 19:40:56 | 音と動きと形
博多駅1階アミュプラザのエレベータの前にいると、待っている人々が上の方の画面に映し出されていました。そして、その中の数人の顔に「にわか面」が。こちら側の現実にはだれもそんなものをつけてはいません。

顔を認識する技術も当たり前になってしまい、もう誰も驚かないのです。ただそんないたずらのアイデアを意外なものとして意識するだけ。

今あるものが当たり前でない、人々があれこれ施行錯誤していた時代はつい最近だったような気がするけど、われにかえってみるとそれなりな年齢。しかしそれでもたいした進みようです。

リズムの視点がすっ飛んで

2011-03-22 21:18:10 | 音と動きと形
ある日ベースのレッスンでリズムトレーニング。偶数拍にメトロノームが鳴るもの、4拍目だけ鳴るもの。それに合わせて音階を上がったり下がったり。

私にもたまには得意分野があるのです。ほかの人の手柄になってしまうか、ならないならちっとも目立たないことで。

「リズム強いですねー。よおし、究極のをやりましょう」

モデラートくらいのテンポで、カチッと鳴るのが8拍目、ほかに一切音なし。そりゃ無理でしょう。でもやるしかない。

しかしいつを1拍目にしたものやらもたもた。先生はカウントしながら応援されます。でも私は頼りたくない上に焦ってカチッを1拍に取る状態を抜け出せず、やっとはじめてみたら、まあ許容範囲じゃなかろうかというところでした。先生は感心モードですが、生徒の誰をもそうしておだてて伸ばすもんでしょう。改善可能。次回頑張るぞ。

そういう鍛え方があるのを知りました。


カチッと鳴った音の間隔から1拍の長さを割り出すのですが、カチッを1拍目と捉えがち。間隔を保ったまま1を8にして数え続けられたらいいけどそれがとっさには困難でした。2拍や4拍の裏は簡単なのに。次回は慣れていることでしょう、数え方には。間隔の捉え方は今の練習時間ではいけません。

リズムがいい線いっているというのは、どこに音が来てもそこを表の拍や1拍目として捉え直すことができるということだろうか、と考えるのですが、リズム苦手な立場になったことがないのでよくわかりません。ミクロをマクロに扱う?いや、その反対?多分拍を細かく分けて打つところを表として捉えるのだろうと思うし、そんな記憶があるような気がするのですが、裏打ち得意になったのがあまりに遠い昔なのではっきりしないのです。

以前教わっていたドラムの先生は、偶数拍を打つ場合、打たない拍を空振りするのを最初にすすめられましたが、当時弱っていた私はエネルギーがもったいないので空振りしないで、極力勢いを生かす単純な腕の軌道でいきました。空振りしなくてもぴしゃり打てたので先生はほっといてくださいました。拍の表や偶数拍の位置をずらして受止めているのかというとそうでもなさそう。ずらしたものと同じように扱っているようでもあり。

リズムに強いということは違う視点からの捉え方ができるかどうかの問題のような気もします。ひとまとめにする、細かく分割する、ずらす。

これからの連想で、創造力とは複数の視点を持つことでもありそうだと思えました。人間は何もなしから創造しているのでなく、手持ちの/手近な/知っている素材をどういう使い方ができるかが見えることが創造力。リズムからの意外な展開。

ジェミノイドは「自分」を延長しそう

2011-02-28 07:11:28 | 音と動きと形
ミルシルという雑誌にロボットの話題が載っていました。

石黒先生のジェミノイドですが、これを通して会話していると自分も相手も、本人と会話しているような錯覚があるとはどこかほかでも読んだ憶えがあります。

更に、今回私に目新しかったのはジェミノイドが触られると本人が触られているような気がするということでした。

身体感覚の延長は例えば手に持った道具なら手ごたえがありそうだから簡単に納得できます。遠隔操作にしても触覚へのフィードバックが無くて視覚で確認するものにもある程度ありそうな気はします。能動的なものについては。しかしまさか受動的な感覚にまでも延長するとは。

フィードバックを視覚を頼りに自分の中につくりあげる身体感覚の延長。

フィードバックとは受動と能動の両方だったのだと今頃思い出したのでした。