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す ず な り

なかなか辿りつけない辺鄙なブログへようこそ... メールはIDのplinkに続けて@willcom.comです

棘皮動物は五角形であってほしい

2007-11-30 13:01:04 | いきもの・環境
確かに棘皮動物は五角形が多いです。だから五角形でないのを初めてみた時の衝撃は大きいです。そんなにも私は五角形を期待していたのだということを実感できます。そして、角が奇数でなければ許せないような気持ち。これはいったい何でしょう。

過去の投稿

ヒラタブンブクの殻
かなり似た形の大きな違い
たぶんヤツデヒトデ

自分自身は左右対称、ある意味では偶数の生き物なのに、棘皮動物が同様であれば慣れるまで何だか気味が悪いのです。この気分の正体は何でしょう。

左右対称の花は嫌いという人がいました。何だかいやらしいと言っていたのはその人だったかどうか。生殖器官だからだという意見もあったようですが、植物の場合そこが顔のようなものです。

鏡映対称は人間に近く、回転対称はより原始的な印象があります。目に見える大きさの回転対称の生き物はあまり積極的に動くのは見当たらないし普通の人には意識を持っているように見えません。植物の回転対称であるものが多い部分が左右対称だと人間に近いようでどこか気持ちわるさを感じないでもないです。

しかしキク科やマメ科で回転対称の花は、ぐるりと輪になっている花のひとつひとつは鏡映対称なのです。輪状に並んでいるだけでたいしたイメージの変わり様。

きっと人間は棘皮動物について、いやらしさや気味わるさよりも、原始的な可愛らしさを感じたいのです。

それにしても奇数角形や回転対称が可愛いのは何故でしょう。どこか効率の良い自然特有の無駄の無さがそれを感じさせるのだと思います。確かに無駄の無い形という印象はありますが、具体的にどういうところがそうなのか、なかなか理由づけができません。

ワライカワセミという意味の名前を持つ観葉植物

2007-11-18 21:59:46 | いきもの・環境
クッカバラという観葉植物は小さい小さい苗を数年前に買ってきてようやく今頃観葉植物らしい大きさになっています。見るたびにどこか不思議な魅力を感じます。

普通クッカバラは葉に切れ込みがしっかり入っているのですが、これは苗の時にはほとんどそれがなくすんなりした形をしていて、大きくなったらそうなるだろうと思っていました。しかしなかなか、やや大きくなっても切れ込みが入りませんでした。なんとなくよれよれしているなという程度の形の葉が出るようになり、そうして切れ込みと言えなくもないのが入り、今に至ります。

見慣れてみると、普通に見かける骨みたいにしっかり切れ込みの入ったのもいいけれど、私の持っているものの優しい形もなかなか良くて、可愛らしいのです。

街の中でクッカバラを見かけると、「うちにもいるよ。可愛いよ」と心の中でよびかけています。

クッカバラとはワライカワセミのことだそうです。この名前、なんとなくオノマトペのにおいがします。

川の中にジュズダマ

2007-10-21 18:17:51 | いきもの・環境
夏の頃から小川の中にジュズダマが生い茂っているのが気になっています。片仮名で書けばいかにも植物ですが、本当は漢字で書きたい数珠玉。あれの実はかつて子供おそらく女の子のおもちゃになったはず。私の子供時代は玩具も結構ある時代だったので、そんなに見向きもされないようになっていました。

川には当然護岸工事がされています。自然のままであれば川の縁の斜面をじわじわ降りて、水に落ちないぎりぎりのところで傘の柄でも使って引き寄せて実を採ります。

あの実でネックレスを作ったりお手玉の中に入れたりすることを、今の子供たちはしないし、ほとんどの親もしたことがないのです。

よその子供たちを連れて数珠玉採りなんてできる場所はないし、あったとしても川に落ちたり怪我でもすれば大騒ぎでしょう。予め採っておいたもので何か作るとしても、針を使うとなるとまた恐ろしいものです。いまどき保険をかけたほうが良さそう。

川の中の数珠玉は実をつけ、色が変わっていきます。最近見かけないと思っていた数珠玉に再会できたのは嬉しかったです。

遊びでしかからだを鍛えられない時代

2007-10-21 18:15:17 | いきもの・環境
もう一週間以上前にテレビで、「九州沖縄インサイド『遊べなくなった子供たち~身体能力の低下が止まらない』」というのがありました。

転んだ時に手をつくなどの当たり前な動きができず顔を怪我してしまうような子供が増えている、日常から遊びが減ったせいだということでした。

確かに遊びが減ったこともあるでしょう。しかしもっと重大な、生活環境のことが全く言われていませんでした。たとえ遊びが少なくなっても昔の環境だったらそう問題はなかったと思われます。

今の生活環境は非常に便利になって運動量が減りました。一般的にはそれくらいしか意識しないでしょう。実際には自分の動きについて感覚によるフィードバックと思考が激減しています。これが非常に問題なのだと思います。

環境の中の多くのものが自動的に動くようになりました。重いドアはどこらへんに力をかけたら効率よく動くか、動きづらい時はレールから外れていないか。そんなことは考えなくて済むようになりました。

まったいらな道を歩き、集合住宅のエレベータで移動していると、脚の動かし方などよくわからないままで育つでしょう。

私は同世代の中では珍しく古い時代の生活を経験できました。小学生時代の途中まではお風呂は五右衛門風呂で、板を踏んで沈めながら入りました。木切れを燃やすには形状や重さと大きさから推測した密度で燃えやすさを考え、くべる順番や置く位置を決めていました。小さい子供の頃はやり方を見ていただけ、その後は自分の経験からこまごました要領を覚えていきました。

今のお風呂はちょうどいい温度と量が自動的に用意されるのが普通です。昔の子供が日常生活で実感した数学や科学がほとんどありません。

昔はどう力を加えたらどんなふうに動くかが見えました。今はリモコン操作のものが多く、手を加えなくても動くのが当然、そう簡単に納得いく説明もできません。納得してなくても受け入れなければ生活できません。こういう習慣は対象を変えて考えてみればおそろしいことです。

自分のからだをどう働かせたらどう動ける、どう操作すれば何がどう作用してどんな結果が出る、という自然の法則を納得する機会は、かつては日常生活の中にあふれていました。今の時代では、ほとんどはからだの感覚について、それを補うのが遊びだけになってしまったのです。

環境を昔に戻すべきか。この誰もが忙しい時代にそれは難しいでしょう。不便な昔風の生活ができるとしたらものすごい贅沢なのです。しかしいつかは誰もが、望めばそんな生活ができるような時代が来たらいいなと思います。最先端技術と昔ながらの「納得のいく」田舎生活の共存。未来は思いもよらないものですから。

木に咲く大きな青い花

2007-10-19 12:51:12 | いきもの・環境
今週はじめから漂っていた、去年もよく匂っていた金木犀の在処を今朝やっと確認しました。その方を向いたまま歩いていると、なんと珍しい青い大きな花をつけた木がありました。いったい何の木だろうと気になり、いつもよりひとつ早い電車に乗るにはぎりぎりだというのに、私は細い道を入り込んで見に近づきました。木に咲く大きな青い花なんて、新しい発見。のはずが、実は梅らしき木を覆った朝顔でした。あれだけの大きさは琉球朝顔のようですが、赤みの無い澄んだ青のものは初めて見ました。葉の形で琉球朝顔かどうか確認できるはずが、電車は気になるし。しかしもしも歩み寄って確かめなかったら事実はわからないままでした。あれが私ひとりだけが知っている秋の木に咲く大きな青い花のままだったら。物語の中の言葉としてなら美しいけれど、現実はそんなこと言ってられなくて、きっと厳しく孤独なのです。誰かとわかりあえるところまで道を進んで良かった。その代わり、乗ったのはいつもの電車でした。

金魚は意外にもやりました

2007-09-23 21:07:46 | いきもの・環境
あと一日出勤すれば連休だという帰宅後、金魚水槽を覗くと、信じられない光景がありました。

横倒しに置いた茶漉の中に押し込まれていた水質改善用タブレットが外に出ていたのです。まさか金魚にそういうことができるとは。

考えてみれば、丸っこい茶漉の中なのでタブレットを横から押して動かすことだってできます。茶漉の底と接触しても一点だけだし、僅かな空間に顎を入れられるのかも知れません。そんなことは金魚がやってのけるまでは考えもしませんでした。そうです、何事も決めつけてはいけません。思いもよらない可能性はあるのです。タブレットは軽くて、横を金魚が猛スピードで泳ぐと起き上がります。

どんな方法でタブレットを茶漉から出したか、そしてどちらの金魚がそういうことをするのか、今でも謎ですが、黒出目がタブレットの入った茶漉に頭を突っ込んでいたのは一度見かけました。茶漉からタブレットが出ているのを発見したあの時得意げに見えたのも黒出目ですが、気のせいでしょう。

さあ、次の課題は茶漉の中で二個積重ねです。

金魚の気持ち

2007-09-16 11:03:43 | いきもの・環境
鏡が消えて丸一日経たずにナルキッサス黒出目は日頃の活発さを取り戻しました。

果たして、黒出目は鏡に映った姿を自分と思ったでしょうか。通常猫ほどの動物でもそうは思いません。赤いリュウキンも向かい合うけどすぐ目をそらしていたから自分とは思ってなかったようでした。

しかし、出目はリュウキンより視野が広いです。自分の姿の一部はきっと見えます。尻尾がどんなのだとかは。それを言うなら猫はもっと見えているはずですけど、猫は表情に注視しそう。目の形、口の動きは意外と見ています。金魚は顔が動かないので全身を見そうです。

黒出目は、自分だと思って見ていた可能性も無くはないです。へえ、私ってこんな顔なんだ。おもしろ~い/かっこいい。

或は、自分とは違う金魚と思っていた。仲良くなりたくてずっと見続けていた。でも、じっと注視するのは敵意がありそうでこわくない?親しくなればそんなことない?硝子越しだから平気さって。

それとも、単に映像として楽しんでいたとか。生き物特有の場みたいなものを感じさせないし。そもそも感じるものなのかわかりませんが。目新しいものが見えるぞ。なんだあれは。というくらいだったらわりとすぐ飽きそうなものですがずっとずっと見続けていました。

鏡を取り払った後の名残惜しげな行動、元気の無さ。人間だったら普通そっちを考えますけど(私は普通じゃないかも)あいつは金魚です。せっかくの楽しみを奪われた残念なのか、会えない辛さか、わからないのです。



夜、茶漉の入り口にタブレットがもう一個入ろうとしていました。しかし先に入っているものにつかえて奥へ進めません。今朝うまく中で積めたかなと見てみると、水槽の隅に移動していました。

うまくいかないのをそうやって一気に押しやるってことは見込みありそう。頑張れ。取り出しはできなくても積み上げはできるはずだぞ。

金魚に鏡を見せてみた

2007-09-15 03:26:20 | いきもの・環境
ふと思いついて、金魚の水槽に名刺サイズほどの鏡をぺたりと押し付けてみました。

それなりにパニックです。

なんだ、見かけないのがいるぞ。こっち見てるぞ。気をつけろ。離れろ。

金魚たちは暫く鏡の前には行きませんでした。慌ただしいパクパクがドキドキを意味するのでしょう。ごめんね、びっくりさせて。

数分経つと、日頃臆病な黒出目は鏡の前のスペースでさりげなく鏡に背をじゃなくて尾を向け、少し距離を置いて過ごしています。興味はありそう。ポーズはそんなふうでもあの出目、結構後方がしっかり見えるのでは。

狭い水槽なので鏡の前を通らないと進めません。いつも元気な赤いリュウキンは進みたい。でも…

そおーっと。ちらっ。きゃー!いた。

じわり。ちらっ。いるよぉ。

ちらっ。やっぱりいる。
でも…。えーい、通ってやる。びゅん!

一時間かそこらして見ると、さすがに度胸のリュウキンは鏡に正面から向かうようになりました。出目は鏡の中にいるやつと視線が合うのを避けている様子。

それから数時間。黒出目はごく自然に鏡に向かっていました。リュウキンは興味なさげでした。私は使うために鏡を取り、そのまま洗面所に置きました。

朝、もう一度鏡を水槽に当ててみました。金魚たちはごく当たり前な様子で鏡の前を通ります。二匹だけより賑わう方が好きなのか、鏡の見える場所で過ごす時間が長いような気もしますが、もともとそこは広めなのでほかよりはそこにいる傾向はあるのです。

リュウキンは真正面から鏡に向かうけれど、一瞬も立ち止まらずに通り過ぎます。しかし黒出目は鏡に向かってゆったりとしたひとときを楽しんでいるようなのです。なんだか優雅な身のこなしで。

仕事から帰ってみると黒出目は鏡に向いてばかりでいました。私が朝鏡を置いたまま出勤したので。そんなにも長い明るい間、見かけない金魚を見せてしまいました。早速撤去です。ごめんなさい。

黒出目はいつになく動きが静かです。姿を映した時と同じ場所に来たり、茶漉に隠れてそっちを見たり。ごめんなさい。ごめんなさい。あなたにはおなかの下をくぐりっこして遊べる赤いやんちゃな相棒がいるんだよ。

金魚は押し込む、押し上げる

2007-09-09 14:35:39 | いきもの・環境
金魚に押されて水質浄化タブレットは茶漉の裏側を横切るかと思ったら引返してまた水槽の隅に押し当てられて数日。やっと昨日茶漉に入りました。今朝はもう少し奥へ。出せないだろうなあ、金魚には。そうするうちに水槽のお掃除の時期です。

金魚水槽のぶくぶく空気を出すストーンは軽いせいかホースの重みのせいか底に着いていない状態で使っています。ある時期からこれを金魚が背中で押し上げて楽しんでいるらしく、しばしばストーンが水面すれすれまで上がっています。夜中にたまに泡の弾ける音が変化する瞬間が。いたずらなリュウキンの背びれの端が折れています。早くきれいに治りますように。

続・金魚の最近の遊び

2007-09-04 06:34:11 | いきもの・環境
金魚が茶漉にタブレットを入れたのは、もしかして秘密基地に宝を隠したつもりだったのでしょうか。もしもそうだとしたら私がタブレットを取り出したのは申し訳ないことですが、それまでの流れから考えて、ただ入れて遊んでいるだけに思えます。果たして金魚は烏みたいに宝物の収蔵の習慣があるのでしょうか。なさそうに見えるけど。

金魚は最初のうちはタブレットを隅に押しやるだけでした。水槽の角は行き止まりです。動かせるようにと何度か私が真ん中に戻しました。しかしそのうち金魚は角から移動できるようになりました。だから茶漉に入ったのも出せるようになるか。できそうには見えないけど何かの方法でできるかもしれません。

一度だけタブレットをきちんと二段に重ねたのを見ました。それも隅っこではない場所で。金魚は美的感覚を持っているんじゃなかろうか。

小さい茶漉は大きいタブレットを入れると狭くなって居心地よくないはずです。

次に茶漉に入れたら当分そのままにしてみようかと思いますが、今回茶漉の前を素通りして裏に廻っているところです。

金魚の最近の遊び

2007-09-03 23:59:42 | いきもの・環境
金魚は遊びます。私は飼うまでは金魚がそういう生き物だとは知りませんでした。

水の汚れを微生物に分解させるというタブレットを水槽に入れています。有効期限が過ぎたのでもう1個、古いのはそのまま。合計2個が水槽の底に目立っています。金魚たちはこれをよく移動させています。やや中央寄りには陶製の茶漉。

「ゴールを決めたか」

タブレットを押して押して、かなりな距離を動かし、茶漉の中に入れてしまうとそれっきり、彼らには動かせないので、また遊べるように取り出してやります。

多分遊んでいるのです。目触りだから隠しているのではなく。というのも、これまでに幾つかの遊び方を見せてくれて金魚はよく遊ぶのだとわかったし、茶漉は普段金魚にとって隠れ場所であり、ほっと寛ぐ場所なので、そこに目触りなものを入れるとは考えられません。

何故、何のために茶漉にタブレットを入れるのか。ただ楽しいから。しかしどういうふうに楽しいのか。人間も楽しいけれど、そのわけがよくわかりません。タブレットと茶漉の形に関する非常に大雑把な何かの法則を金魚も感じ取っているのでしょう。

残念ながらこれまでのところ押して進んでいる様を私には見せてくれません。

百日紅は無口で

2007-08-24 08:41:15 | いきもの・環境
最近は矮性のもよく出回っているようですが、季節だから百日紅(さるすべり)をよく見かけます。道に出てまず目に飛び込む百日紅。私の顔が上を向くとそこにも。ぐいっと斜め上に顔が持ち上がると思ったら高い木の先に花が。

ある日の朝地下鉄のいつもと違う出口から出たくなり、道沿いに百日紅が植えられたのに気づきました。ひとつは見事に咲いていて、ほかはこれから。見せるために百日紅は私をその道に呼んだのかも知れません。

確か大学生の頃、通りかかったところにある百日紅を私はほれぼれと眺めました。そして家でお茶を飲みながら百日紅が好きだと話しました。次に見た時は、見事に咲いた百日紅がにこにこしているような気がしました。それも私に向けて。

道をうつむいて歩いていて、急に自分の顎が持ち上がると思ったらそこに百日紅。それからずっといつもいつも、私の顔が急に動くと思ったらその先に百日紅の花があります。

百日紅は無口です。薔薇や桜はメッセージを持って呼び掛けてくるけれど、百日紅はただ黙って強引に私を動かします。メッセージといっても「私を見て」「ほら、あなたの好きな薔薇はここですよ」という意味の情報のようで、時には「あの人は私のことをきれいだと言った」「好きだと言った」という内容だったり。植物は発声の器官を持たないので話すことと思うことにはっきりした区別は無いようですが、受け取る分には声が響く方が思うだけより強いようです。また、聴覚を持たないから距離は関係無く、遠くでその花の噂をしたのを知っています。それならいったいどういう器官で思ったり遠くの情報を感じ取ったりしているのか、非常に謎です。それ以前に、私が感じたことが本当に植物が発した情報と同じなのかということも。また、違う個体を見て好きだと言ったのに、初めて見かけた個体が「この人私を好きなんだ」と、種全体を「私」と思っているのも、個体ごとに意識のはっきりした人間にとっては奇妙です。花の色や形が少々違ったりするというのに。

長い歴史の中で薔薇や桜は人間からたくさん話し掛けられたり話題にされたりするうちにメッセージを扱う要領を得たけれど、百日紅はあまりそういうことがなかったのでしょうか。実際のところはわかりません。

そうして敏感すぎた私はこの数年体力を取り戻しながら普通の人に近づいていき、最近あまり花のメッセージを受け取っていない気がします。私が感じ取れなくても多分花はわかっているので、心の中で挨拶をすればいいのです。私の顔が夏は相変わらず百日紅に向きます。きっと花はにこっとしているのでしょう。

秋の兆し

2007-08-22 01:42:53 | いきもの・環境
今年は最初のツクツクボウシを8月19日に聴きました。いつもはお盆前で、今回遅めです。しかし私の子供の頃はこんなもんだった気がします。今年は暑くて長い夏。きのうの夜の帰りにコオロギ。そしてもしやあれがカネタタキ。はて、これは昨日以前から鳴いていたかどうか。

子供の頃に感じていた秋の始まりは指にありました。暑さの中、指と指の間を風が水分を奪って通り抜けていく、微かな冷たさ。それを感じると、風がよく通って風鈴の鳴る居間の、床まである開け放たれた窓から用もなく外を見て確かめていました。風に吹かれてときの移り変わりを全身で受け取る心細さを支えるのはつかまっている窓枠だけです。時にはつかまりもせず。なぜ心細いのかわからず泣きたくて泣けず、落ち着かないのが秋の始まりでした。私が感じていた秋は空気の乾きだったようですが、乾きを伝に何を思い出していたのでしょう。

ツクツクボウシの前の日の電話は冷房を使わない私が熱中症になってはいないかという心配の声でした。ツクツクボウシの日もその後も、いつになく指の間にうっすら熱い汗が感じられました。胸はいつものようにびっしょり。谷間に夕立でもあったかというような。私は暑さに鈍いらしく、今どれほど暑いかを知る目安が汗です。ツクツクボウシの日の夜に目がまわったのは熱中症ではないかという話。扇風機も団扇も好きでなく、今度から無理せずに冷房しようと思うけど、無理と感じないのでしょうがない。真夏でも靴下は履いた方が調子いいです。

今日も元気なツクツクボウシ。辺りは少しばかり秋だけど、私の指にはまだ来ていません。

金魚がいる

2007-08-18 13:33:10 | いきもの・環境
近くの神社のお祭りの日が金魚記念日。去年のその日に金魚たちが私のもとに来ました。

今年も混んでとにかく進みづらい帰り道で金魚すくいのお店を覗いてみると、小さい小さいのがいっぱい。一応いのちを意味する記号がプールされているかのようです。動きも含めて記号。帰宅してみればずいぶん大きくてものがわかっていそうなのが晩ご飯を急かしています。何年も前に世話をしたおたまじゃくしも確かそうでした。胡麻粒のように小さいうちはただ生きて動くだけ、それが見た目にも心を持つ存在になっていきました。

あれから金魚の長さは倍以上。貰える予定じゃないのに飛び込んできた赤いリュウキンは極端に小さかったのに、今では黒い出目と同じくらいです。

ただそこに居るだけでどこかほっとして、動くだけで私に元気がわき、狭いところをくぐるなどして遊ぶと私は笑います。ただ居るだけでどれだけの役目を果たすことか。

居るということは存在と命と、おそらく対象への心をも一度に意味します。物理学者が、素粒子が「ある」ではなく「いる」と言います。それを聞くと、孤独の果てさえ無い宇宙は一瞬で愛情に満ちるのです。

記号がついているだけのような目をして金魚たちは、気分を泳ぐ速さの変化で示します。変化を受け取って私が気分に翻訳します。居るということは変化をわずかでも含むのです。動きの中に、ただ生きてるだけではない自発性のある何らかのレベルの制御を感じる時があります。

乳製品とお肉に表れた影響

2007-07-16 17:44:57 | いきもの・環境
もうずいぶん昔のことになってしまいましたが、狂牛病騒ぎが始まって間もなく、牛乳の味が変化しました。それから1年ほど経ってお肉の質も変化しているのに気づきました。まとわりつくようなしつこさや臭みが無くなってあっさりした感じに。

地方ブランドの牛乳は以前からそう変わらない感じでしたが、全国的大手ブランドの変化は印象的でした。もちろん私の知る範囲は地元で手に入る全部を網羅していませんが、傾向を感じる程度に変化がありました。こんなにもすぐにはっきり結果が出るものとは。

乳製品を使ったチョコレートの味も変化しました。これを実感したのは1社だけです。わざわざ比較しようと買うこともしなかったので。お菓子の会社は同じ名前の乳業会社があったりします。以前その牛乳会社の生クリームを使ってお菓子はがっかりするできあがりだったからチョコレートの味も同じところから来ていたんだろうと納得しました。

狂牛病騒ぎより数年前、世界的高級ブランドのチョコレートとはこの程度かと思ったことがあります。生クリームをふんだんに使ったものでした。また、確か数年前でもないわりと直前だったと記憶していますがスーパーで売っている世界最大手の一社と思われる老舗のチョコレートは、食べてみてミルクが臭いと感じ、提供した牛はしあわせな環境じゃないんだなと思いました。あれからそれらのブランドは買わないので変化はわからないままです。

あの頃の乳製品やお肉の感じは、お肉料理をしっかり食べさせられていた頃の自分のからだの感じに似たところがありました。重苦しくてどことなく臭くて洗っても容易に落ちないようなしつこさ。お風呂の度にうんざりしていました。きっと牛も草食動物らしくないものを食べてそれに近い体質だったのでしょう。

狂牛病騒ぎのちょっと前頃に職場のメンバーとビール工場隣接レストランで焼き肉パーティーがありましたが、私はにおいを嗅いだだけで気持ちわるくなりそうでした。

今はまるで違います。乳製品もお肉もずっと良くなっています。でも、私は一人暮らしをきっかけに自分で作る分は菜食中心になりました。狂牛病騒ぎより何年も前です。菜食主義とまではいかない緩い程度で、親と同居している間や外食はなかなかそうもいきません。急ぎのお昼は栄養バランスや夕方のエネルギー切れ予防も考えて消去法でお肉の入ったメニューを選ぶこともあります。確かに力は出るし回復は早いけれど、やはりお肉を食べない方が楽で気分がいいです。でも食べても問題ありません。誰かと一緒に楽しく食べるならそのこと自体が大事です。