できるだけ歩く鳥

サラリーマンエンジニアによる日常メモ。たまにMac偏り気味。

本物は次元が違う

2008-06-05 01:05:17 | design
昨晩、変な流れ(*1)からクロード・モネの絵(*2)をネットで見まして、そのときになんだか胸にこみ上げるドキドキ感に包まれ、モネの作品にとても惹かれました。(僕は芸術方面に全く明るくないです。モネ?エゥーゴの量産機みてえってくらいよくわかってません)

そんなこんなで夜な夜なモネについて検索して画像をいろいろ見て、気に入ったものを使ってGIMPで自分用壁紙作ったりしてたらもう2:30。(ってのは昨晩の話ですよ)


ネットで画像検索してるときに思ったことが、それぞれ画像の色味が違っていて、どれが「本物」に近いんだかわからないということ。自分がときめいた絵(画像)が、実は本物とはかけ離れたものだったら、本物見てもときめかない可能性とかもあるのかななんて。まあその辺は、ちゃんと気を遣って印刷された書物で確認すればだいたいは掴めるのでしょうけれど。

で、色味の件も含め、デジタルなところを経由したこういう類の絵は、色味、大きさ、質感、存在感、どれをとっても、「本物」には到底及ばないんだろうなと、そしてそれが当然なんだろうなと、あらためて思った次第です。リアリティってなんだろう、みたいな。飛躍するとクオリアの話にもなるのかなぁ。


例えば、Full HDの次は4K2Kだと言われてますけど、それは何を追い求めてるのか、と。

「本物は次元が違う」ってことを自覚した上で、感覚に訴える要素の再現性を高める努力をしたり、他に足りないものは何か考えたり、いっそ違う目的での利用方法を考えるなり、それぞれのスタンスを取り得るんだということが意識できてるか。

そういうことがいつでも考えられるような「基点」を持っておくってことも大切なんじゃないかなと、漠然と思ったのです。

ユーザ側の欲求にも言えることで、どこまでの質を求めているのか、何を以って「それ」とするのか、そういう感覚を失っちゃいけないんだろうなぁ、と。そういう意味で僕はモネの絵画に関して、何を以って「モネの絵」と感じるか、しっかりとした感覚が無いようなもんですが、知識ないがゆえの素の感覚も、大切にした方がいいときもあると思います。


さて、何が言いたかったかわからなくなってきました。印象派テキスト。


*1:ハムスター速報 2ログ:夜に非日常に出会った俺の話→「死の床のカミーユ」→他の絵も見てみる、という変な経路。
*2:「散歩、日傘をさす女性」「印象・日の出」「アンティーブの朝」など。クロード・モネ - Wikipedia