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戦争反対。
これは誰しも思っていることでしょうが、反戦を訴える方々の活動を見ていて、多少違和感を覚えることがあります。
誤解しないでいただきたいのですが、私は、反戦に異議を唱えるつもりは毛頭ありません。
ただ、その理由とか、手法とか、そういったものに違和感を覚えることがある、ということです。
いくつか例示してみます。
1.スイトン
子どもたちに、スイトンなど戦時中の貧しい食事を食べさせて、
「戦争になったら、こんなものしか食べられない。だから戦争をしてはいけないんだよ」
と教える活動がありました。
「戦時中はイナゴやカエルなんかも食べたんだよ」とも。
ちょっと待ってください。
では、おいしいものを腹一杯食えるのなら、戦争をしてもいいのでしょうか?
もちろん違います。
だったら、「こんなものしか食べられない。だから戦争をしてはいけない」という話は、飽食の時代に育った、子どもたちの心に響きません。
2.核兵器
核兵器反対の運動があります。
核兵器は、一度に大量の人を殺し、さらに放射能で子々孫々まで悪影響を残すからいけない、という理由で、それはそれでごもっともです。
では、一度に少数しか殺さない通常兵器を、何度も、大量に使い、結果的に核兵器が一度に殺すのと同じ数の人間を累積して殺すのは、いいのでしょうか?
実際、東京大空襲(特に1945年3月10日だけみても)での犠牲者は10万人で、核攻撃による広島での犠牲者は12万人、長崎は7万4千人と、一晩限りの通常兵器による攻撃でも、核兵器に匹敵する犠牲者を出しているのです。
(注:原爆の犠牲者は、1945年中の死者数)
また、殺すということは、子孫に悪影響が残るどころか、その子孫そのものが残らないのです。
悪影響のある子孫が残るより、殺してしまった方がマシ、ということでしょうか?
もちろん違います。
だったら、反対すべきは核兵器ではなく、戦争そのものなのです。
3.民間人の犠牲
先の大戦(に、限りませんが)では、夥しい数の民間人が軍に協力させられ、犠牲になりました。
また、空襲では、女・子どもも容赦なく殺されていきました。
そのような体験をした民間人で、生存している方々は、家族や仲間が次々と殺されていった様子を、後世に伝える「語り部」となっており、どれも涙なしには聞けない話ばかりです。
しかし、反感を覚悟で言いますが、先の大戦では原爆まで落とされて、日本の散々な「負け戦」だったから、生き残った人々は、「戦争は悲惨だ。戦争はいけない」と叫んでいるのではないでしょうか?
もし、その戦争が「勝ち戦」で、軍人や民間人の犠牲も最小限だったとしたら、はたして彼らは、戦争の悲惨さを伝える「語り部」になっていたでしょうか?
世代的に私は、実際に兵隊(民間人ではなく、軍人だという点にご注意ください)として戦争に行った方々から、直接話を聞く機会も多々ありましたが、ほとんどは自分の武勇伝ばかりで、悲惨さについて語った方は、私の記憶にはありません。
実際、「勝ち戦」だった側は、第二次世界大戦以降も、懲りることなく、世界中の紛争にホイホイと首を突っ込んでいますし、その中には実質的な「負け戦」もありましたが、少なくとも国土や民間人の犠牲は、ほぼありませんでしたから、本気で「戦争は悲惨だ。戦争はいけない」と叫ぶ人々の声は、かき消されてしまっています。
反戦運動の切り口として、スイトンを子どもたちに食べさせたり、通常兵器の前にまず核兵器を廃絶したり、民間人が惨死した悲惨さ伝えるのは、それはそれでいいことだと思います。
ただ、「だからいけない」という理屈にはなり得ません。
反戦を語るのに、スイトンも核兵器も勝ち戦・負け戦も関係ありません。
戦争がなぜいけないか、人を傷つけ殺すからいけないのです。
他の理由が、何か必要でしょうか?
戦争反対。
これは誰しも思っていることでしょうが、反戦を訴える方々の活動を見ていて、多少違和感を覚えることがあります。
誤解しないでいただきたいのですが、私は、反戦に異議を唱えるつもりは毛頭ありません。
ただ、その理由とか、手法とか、そういったものに違和感を覚えることがある、ということです。
いくつか例示してみます。
1.スイトン
子どもたちに、スイトンなど戦時中の貧しい食事を食べさせて、
「戦争になったら、こんなものしか食べられない。だから戦争をしてはいけないんだよ」
と教える活動がありました。
「戦時中はイナゴやカエルなんかも食べたんだよ」とも。
ちょっと待ってください。
では、おいしいものを腹一杯食えるのなら、戦争をしてもいいのでしょうか?
もちろん違います。
だったら、「こんなものしか食べられない。だから戦争をしてはいけない」という話は、飽食の時代に育った、子どもたちの心に響きません。
2.核兵器
核兵器反対の運動があります。
核兵器は、一度に大量の人を殺し、さらに放射能で子々孫々まで悪影響を残すからいけない、という理由で、それはそれでごもっともです。
では、一度に少数しか殺さない通常兵器を、何度も、大量に使い、結果的に核兵器が一度に殺すのと同じ数の人間を累積して殺すのは、いいのでしょうか?
実際、東京大空襲(特に1945年3月10日だけみても)での犠牲者は10万人で、核攻撃による広島での犠牲者は12万人、長崎は7万4千人と、一晩限りの通常兵器による攻撃でも、核兵器に匹敵する犠牲者を出しているのです。
(注:原爆の犠牲者は、1945年中の死者数)
また、殺すということは、子孫に悪影響が残るどころか、その子孫そのものが残らないのです。
悪影響のある子孫が残るより、殺してしまった方がマシ、ということでしょうか?
もちろん違います。
だったら、反対すべきは核兵器ではなく、戦争そのものなのです。
3.民間人の犠牲
先の大戦(に、限りませんが)では、夥しい数の民間人が軍に協力させられ、犠牲になりました。
また、空襲では、女・子どもも容赦なく殺されていきました。
そのような体験をした民間人で、生存している方々は、家族や仲間が次々と殺されていった様子を、後世に伝える「語り部」となっており、どれも涙なしには聞けない話ばかりです。
しかし、反感を覚悟で言いますが、先の大戦では原爆まで落とされて、日本の散々な「負け戦」だったから、生き残った人々は、「戦争は悲惨だ。戦争はいけない」と叫んでいるのではないでしょうか?
もし、その戦争が「勝ち戦」で、軍人や民間人の犠牲も最小限だったとしたら、はたして彼らは、戦争の悲惨さを伝える「語り部」になっていたでしょうか?
世代的に私は、実際に兵隊(民間人ではなく、軍人だという点にご注意ください)として戦争に行った方々から、直接話を聞く機会も多々ありましたが、ほとんどは自分の武勇伝ばかりで、悲惨さについて語った方は、私の記憶にはありません。
実際、「勝ち戦」だった側は、第二次世界大戦以降も、懲りることなく、世界中の紛争にホイホイと首を突っ込んでいますし、その中には実質的な「負け戦」もありましたが、少なくとも国土や民間人の犠牲は、ほぼありませんでしたから、本気で「戦争は悲惨だ。戦争はいけない」と叫ぶ人々の声は、かき消されてしまっています。
反戦運動の切り口として、スイトンを子どもたちに食べさせたり、通常兵器の前にまず核兵器を廃絶したり、民間人が惨死した悲惨さ伝えるのは、それはそれでいいことだと思います。
ただ、「だからいけない」という理屈にはなり得ません。
反戦を語るのに、スイトンも核兵器も勝ち戦・負け戦も関係ありません。
戦争がなぜいけないか、人を傷つけ殺すからいけないのです。
他の理由が、何か必要でしょうか?