続・エヌ氏の私設法学部社会学科

無理、矛盾、不条理、不公平、牽強付会、我田引水、頽廃、犯罪、戦争。
世間とは斯くも住み難き処なりや?

戦争という経済活動、経済活動という戦争、傷痍者、戦死者。誰が得をしたのか?

2011-02-05 | 平和講座
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 戦争とは何でしょう?

 断言しますが、戦争とは、経済活動のひとつに過ぎません。
 他の経済活動と少し違うのは、直接的な暴力を用いるか用いないかだけです。

 「『少し』じゃない『決定的に』だ」と仰る向きもあるでしょうが、私は、敢えて「少し」と申し上げます。

 まずは、戦争から考えてみましょう。

 戦争が起これば、その国に徴兵制のあるなしで対象者に違いはあるものの、適齢で、戦闘員として任務を果たす能力のある者は、戦地へ赴き、戦い、そして負傷したり、戦死・戦病死します。

 国として考えれば、負傷者や戦死者が出るのは、損失の一部であり、たとえ多大な損失を出したとしても、戦争に勝ちさえすれば、損失を補って余りある利益が得られます。
 したがって国としては、勝ち目があって、戦争を行ったほうが利益だと判断すれば、開戦に踏み切ります。

 ところで、この場合の、国の利益とは誰の利益でしょう?
 国は、国民がいて成り立っているものです。
 したがって、国の利益とは、国民全員の利益でなければなりません。

 しかし残念ながら、国民全員に、等しく利益が分配されるものではないことだけは確かです。
 他の経済活動と全く同じで、利益の分配には格差があり、大きな利益を得る者がいる一方で、全く利益に与らない者もいます。

 ところが、不利益は特定の者に被せられ、国民全員が等しく負担するものではありません。

 個人として考えれば、国が戦争に勝とうが負けようが、負傷したり死んだりするのは自分や家族や友人であり、回復不能な負傷や、まして死亡を補って余りある利益などあろうはずもなく、たとえ補償金や遺族年金などを貰ったって、それが何になるでしょう。

 そんなもの貰うより、自分自身は言うまでもなく、家族も友人も、負傷もせず、死にもしないほうがいいに決まっています。

 太平洋戦争では、約330万人の死者(うち1/3が非戦闘員)が出ました。
 その挙句に負け戦です。
 一体誰が何を得たというのでしょうか?

 仮に勝ち戦だったとしても、330万柱の犠牲を払って得られたものに、一体何の価値があるというのでしょう。

 私は1960年代の生まれなので、もちろん知りませんが、私の大叔父は中国で戦死したそうで、祖父の家には遺影が掲げられ、玄関には「靖国英霊の家」という札が貼られていました。
 そういう意味では、私も、太平洋戦争で「家族」を一人喪っている、と言わせて頂いても差し支えないでしょう。

 次に、経済活動を見てみましょう。

 戦後の、交通事故による死者は、1970年の約1万7千人を頂点に、近年やっと数千人にまで減ってきましたが、長らく年間1万人前後で推移してきました。

 また、同じく戦後の労働災害による死者は、1961年の約7千人を頂点に、最近になってやっと千数百人にまで減少しましたが、これも長らく年間数千人単位で推移してきました。

 さらに、戦後は1万5千~2万5千人で推移していた自殺者が、ここ十数年は毎年3万人をはるかに超えていて、数的記録は毎年更新されています。

 自殺理由の傾向としては、健康上の理由が最も多いのですが、次いで多いのが経済的理由によるもので、自殺者が3万人を超えたのは、日本中でリストラの嵐が吹き荒れ始めた頃です。
 幸いにもリストラを免れたと安堵した者には、今度は、過酷な長時間労働や、人間を人間扱いせず、システムの一部としか捉えていない非人間的な労働が原因の、うつ病など精神疾患が待っていて、これもまた自殺へと追いやられています。
 これでは、どっちがマシだか分かりません。

 いずれにせよ、近年増加した自殺者約1万人分は、まさに「経済」が理由の自殺であると言えます。

 この他、公害、航空、海難、その他事故や人災で、大雑把に計算しても、戦後65年で、300万人は死んでいることになります。

 つまり、戦後の経済活動によって死んだ人間の数は、太平洋戦争の死者に匹敵するのです。
 これを戦争と言わずして何と言うべきでしょう。


 彼らは、経済活動という名の戦争による犠牲者、すなわち「戦死者」なのです。
 彼らは一体、誰のために何のために戦死したのでしょうか。

 繰り返しになりますが、経済活動という名の戦争であっても、国民全員に、等しく利益が分配されるものではないことだけは確かで、利益の分配には格差があり、少数の者が巨大な利益を得る一方で、大多数の者は全く利益に与りません。

 さらに、不利益は特定の者に被せられ、しかも、本人や遺族に補償がある場合はまだましで、「自己責任」とか「不運」の一言で片付けられてしまった者は、全く浮かばれません。

 これも繰り返しになりますが、個人として考えた場合、国が豊かになろうがどうしようが、負傷したり死んだりするのは自分や家族や友人であり、回復不能な負傷や、まして死亡を補って余りある利益などあろうはずもなく、たとえ補償金や遺族年金などを貰ったって、それが何になるでしょう。

 そんなもの貰うより、自分自身は言うまでもなく、家族も友人も、負傷もせず、死にもしないほうがいいに決まっています。

 しかし残念ながら、これも戦争と同じで、多くの犠牲の上に胡坐をかいて、利益を得る者、また、そのお零れに与ろうとする者がいる限り、犠牲が省みられることはないでしょう。

 300万柱の犠牲を払って築き上げられた経済繁栄など、砂上の、いや、人柱上の楼閣です。

 私には、人柱となった骨の軋む悲鳴にも似た音が、地の底から聞こえてきますが、あなたには聞こえませんか?

*2011年2月7日
 誤解があるといけませんので、少し、追記します。
 私には、太平洋戦争の英霊や、戦後(に限りませんが)の経済活動による英霊を、冒涜する意図は全くありません。
 そうではなくて、平和に、幸福に暮らしていたはずの、そうした人々を死へ追いやった側を非難しているのです。
 ただ、翻って、我が家を見ると、テレビも車もパソコンもあり、これらの製造過程で「英霊」となられた方が、いないとは限りません。
 そういう意味では、私自身も、「人柱上の楼閣に胡坐をかいている」一人かもしれません。
 せめて私にできるのは、常に、そうした「英霊」への、感謝の気持ちを忘れないことぐらいでしょうか。
 自己宣伝のようで恐縮ですが、その気持ちは、駄文、
「もったいない」
「不喰周粟」
の基軸となっております。

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2 コメント

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Unknown (意識屋)
2011-02-07 11:27:59
全く同感です!!!
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意識屋さま (エヌ氏(pingupapa))
2011-02-07 16:09:14
 意識屋さま、簡潔、かつ、重厚なコメントをありがとうございます。

 ところで、貴ブログも拝見しましたが、私の記憶違いでなければ、某嬢のブログで、「異性間の友情・同性愛」について、別のハンドルネームで、竹宮惠子「風と木の詩」、萩尾望都「トーマの心臓」などを引き合いに、ご高説を披瀝していらっしゃった先生ではないでしょうか?

 私もその場で、不遜にも、「エロイカより愛をこめて」パタリロ!」を引き合いに、愚説を書かせていただきました。

 と共に、専門家に対して、失礼申し上げましたこと、改めてご容赦くださいますよう、お願い申し上げます。

 よかったら、また駄文へのコメントをお寄せくださり、お叱り頂ければと存じますので、これからも、よろしくお願い申し上げます。
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