続・エヌ氏の私設法学部社会学科

無理、矛盾、不条理、不公平、牽強付会、我田引水、頽廃、犯罪、戦争。
世間とは斯くも住み難き処なりや?

二十二年を経て妻敵を打し事

2018-09-02 | 諸国因果物語:青木鷺水
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 下野の国宇都宮に重右衛門という、田地なども多く持って、徳のある者がいた。
 この重右衛門宅に、長年、京都より通う小道具商人が出入りしていて、竹屋の庄兵衛といった。いつも秋の頃はここに下り、手代などを召連れて、宇都宮の町や日光山の町々に行き、染物や小間物などを取り揃え、輪王寺宮を始め寺社など余すところなく出入りしており、毎年、下野へ来る度に、心安さから必ず重右衛門方に逗留していた。

 去る延宝四年の春、庄兵衛は京都へ帰るため、宵より荷物をまとめ、馬なども用意して寝ていた。そして、亭主の重右衛門は、夜半より起きて、出立の世話を焼いていた。重右衛門の妻は、幼い子たちに添い寝して、まだ納戸の中に居た。
 庄兵衛も手代を起こし、出発の用意をし、馬にも荷をつけて待たせ、重右衛門に暇乞いをした。それから、いつも御内儀にも暇乞いをしてから出発していたので、子どもを寝かせているようではあったが、挨拶しないのも愛想がないと思い、納戸の口まで入って「ただ今より、上方へ登り申します」と言ったが、返事がない。
 庄兵衛は、御内儀がよく寝入っているようなので、そのまま出ようとしたが、そこで何やら、足にひやひやと踏みつけるものがある。気味悪く覚えて灯の影で見れば、それは血であった。これは何事だと驚いて、重右衛門にも見せれば、重右衛門も慌てて火を灯し、納戸に行って見れば、女房は何者かに殺されていた。

 下手人は、内儀を一刀に刺し殺して、首は奪って帰ったようで、骸(胴体だけの死体)ばかりが残されていた。これは何者の仕業かと家探しをして尋ねたが、誰も知らない。
 庄兵衛も、この難儀を見捨てて行くわけにもいかず、その日は旅立ちをやめにした。
 重右衛門は一門を呼び集めて、さまざまと下手人の吟味をしていたが、舅は、
「これほど詮索しても、他所から来た形跡はなく、血がこぼれた筋もないのは不思議だ。そうすると、いくら心安い仲だからといって、人の妻女の寝間まで来て暇乞いするのは腑に落ちない。これは庄衛門が殺したに違いない」
と言う。
 重右衛門は、日頃の気立てをも知る庄兵衛が、そのようなことなどする筈がないと分かっていたから、さまざまに弁護し、庄衛門もまた、誓って人を殺めたりしていないと言い訳をしたが、舅はなかなか聞き入れず、あまつさえ重右衛門のことまで恨みだしたので、是非なく、庄衛門を連れて奉行所へ訴え出た。
 奉行所としても、分明ならぬ事件であったが、庄兵衛の無実を明らかにする証拠もなかったので、暫く牢舎に入れられることとなった。しかし、庄兵衛が無罪であると証明する者は誰も現れず、程なく庄兵衛は死罪となった。
 庄兵衛の手代は、泣く泣く死骸を申し請けたが、斬首であったためか骸だけが渡されたので、それを新町口の野外れで海道に近い所に埋め、心ばかりの弔いを勤め、重右衛門にも暇を乞うて、上方へ帰って行った。
 京には、庄兵衛の三才の子がいて庄市郎といったが、残された庄兵衛の店の人たちは、この子を亭主に立てて庄兵衛と名乗らせ、未亡人も甲斐甲斐しく後見をして家を治め、手代もまた二心なく勤めていたので、店は庄兵衛が存命の時に変わらず栄え、今日を暮れ明日に移り、子の庄兵衛も今は二十二才になった。
 庄兵衛もまた利発者で、親の跡をよく継ぎ、年々の仕込みの算用など、諸事、手代と心を合わせて働いた。
 それから、今年元禄八年の頃は、手代も年をとってきて、各地へ商売の旅をするのも心もとなくなってきたので、これからは若い庄兵衛に任せようと考え、下野へも行って重右衛門にも紹介しようと、手代の案内で、庄兵衛を連れて下野へ出かけて行った。
 そして、いつものように重右衛門方へ落ち着き、庄兵衛を紹介し、そのついでに、親庄兵衛の墓所をも教えようと、同道して行った。
 二人が庄兵衛の石塔に向かって拝んでいると、ちょうど通り合わせた百姓二人連れが、庄兵衛たちを見て、秘かに、
「誠に、あの墓を見るにつけても、無実の人がいたわしい。あたら商人を死に追いやった、勘左衛門こそ憎い奴だ」
と囁くのが耳に入り、庄兵衛は百姓たちを引き留めて、話を聞いてみた。
 それによると、元来、重右衛門の妻は美人で、蓬莱町の、しかるべき家の姫であったのを、重右衛門が妻に呼び迎えたのだが、杉原町に勘右衛門という貧乏な鍛冶がいて、重右衛門の妻に筋なき恋を仕掛け、それが叶わぬとなるや逆恨みして、ある夜、忍び入って殺したのだと言う。
 これで仇の名が露見したので、重右衛門と手代が奉行所へ訴え出たところ、早速、勘右衛門は召し捕られ、厳しく取り調べられた結果、罪の程が明らかとなり、打ち首になった。
 さて庄兵衛には奉行所から、
「神妙なる仕形。主従ともに珍しき心ざしの者である。このたびの善賞に、そなたの親庄兵衛を、再び帰し下す」
との伝があった。
 しかし手代も庄兵衛も、これを聞いて訳が分からず、一度、死罪に遭った人を、今また御許しになるとはどういうことかと思っていると、二人の前に白髪の老翁が召し連られて来た。
「なるほど、旦那です」
と手代が言うのに、庄兵衛は驚き、どうした事で生きているのかと問えば、これは奉行所の御考えによるものという。
 重右衛門の妻が殺されたとき、重右衛門が庄兵衛は犯人でないと証言したものの、他方、舅が庄兵衛に罪を被せたのも一理ある。庄兵衛が犯人である可能性は非常に低いが、他に疑わしい人物がいない以上、もし庄兵衛を罪に落さなかったら、この事件はいつまでも決着がつかなくなってしまう。かといって、庄兵衛を処刑してしまった後に真犯人が出てきたときは、ご政道が過ちを犯してしまったことになる。だから、真相が明らかになるまでは、別な罪に問われた者を庄兵衛と偽って御成敗したという。そして、やっと今になって、親庄兵衛を帰すことができたのであった。
 ありがたい御仕置きである。

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