続・エヌ氏の私設法学部社会学科

無理、矛盾、不条理、不公平、牽強付会、我田引水、頽廃、犯罪、戦争。
世間とは斯くも住み難き処なりや?

女の執心夫をくらふ事

2018-09-09 | 諸国因果物語:青木鷺水
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 京都、新在家烏丸の辺に住む、何々伊織とかいう者は、元来、江戸の住人であったが、知人を頼って京都に登り、堂上方(公家)で働いて、僅かの扶持を貰って命を繋ぎ、出世の時を待っている身であった。

 かつて江戸に居た頃は、数寄屋橋通り寄合町にいて、さる人の娘と馴れ睦んで言い交し、行く末は夫婦ともなるべき、堅めの誓紙まで取り交わした仲であった。
 そんな頃、上方より伊織に相応しい仕事の口があって、応じることになったが、周囲の人が「仕事が首尾よく行くまでは、女に身をやつしている場合ではない」と忠告したのを聞いて、元禄初めの年、霜月中に一人で旅立ち京都へ引っ越した。

 その折、女も跡を慕って一緒に行きたいと泣いたが、まだ安定もしていない身でありながら、何のつもりで女まで連れて来たのかと、京の親類に思われるのを恥じて、女には、
「しばし待ってください。上方へ登り、兎も角も首尾さえついたら、少しの養いをも送って、その便りのうちには、貴女を呼び迎えます。だから、心長く待っていてくれたら、三年ほどの間には、必ず迎えの文を送りますから」
などと、くれぐれも言い堅めて、京に上った。そして今は、新在家に住宅を構え、堂上の勤めもきちんとこなしていた。
 しかし京にも慣れた伊織は、ある時は西山東山の花に遊び、小野広沢の月に浮かれ歩き、風流な京女の物腰は江戸吉原の色を売る女より美しく、その優しくも情けある言葉遣いに心浮かれて、故郷の仮寝に言い置いてきた女のこともいつしか忘れ、三年は夢と過ぎていった。

 それからも年は暮れ、また明け、元禄七年の正月を迎えた。
 伊織は、
「今となっては、武蔵野(江戸)で草のゆかりに言い交した女も、新たな夫を迎えて幸せに暮らしているだろう。哀れに女は儚いものだ。徒な一言に繋がれ、自分を見捨てないと書いた誓紙を頼りに、親に代えても京へ登ろうと言った、その日より七年の今日まで、一通の文も送っていないから、さぞ恨みにも恨んだろう。もしかしたら、今はもう死んでしまったかも知れない」
と思いながら、夕暮れの淋しさに、つくづくと思い出して気が滅入ったので、酒など温めさせ、近くの友を招いて夜が更けるまで呑み更かした。
 さて伊織の隣は、石井の何某という富貴な家であったが、その日、この家の後室が寝付けないままに、夜が更けるまで周りの人々と興じていて、夜半過ぎに、ようやく寝屋に入って寝ていた。
 するとしばらくして、座敷の上の障子をさらさらと開ける音に驚いて、ふと目を開いて見上げたら、鉄奬(かね=お歯黒)を黒々と付けた二十六七と見える女が、白い着物の上に青い小袖らしきものを着て、髪を振り乱して天井の縁を掴まえてしげしげと見回し、忍びやかな声で
「伊織殿はどこにおられます」
と問うた。
 この後室も、名のある家の娘であったので、少しも騒がず、起きて、
「何者ですか。伊織殿は、この東隣です」
と答えた。女は、
「やれ嬉しや。よく教えてくださいました。実は、恨む事があって参りました。お恥ずかしい」
と言って、消え失せた。
 夜が明けて、後室は何となく気になったので、隣へ人を遣わして様子を窺わせた。
 それによると、かの江戸に残し置いた女は未だに縁付きもせず、今日明日と便りを待つうち、京より下って来た商人で伊織の事をよく知った者が、「伊織殿は、今は上方で仕官し、美しい妾など抱え、江戸の事など思い出す様子にありません」と語ったので、この女は思いつめたように打ち伏したのだが、その夜、生霊となってやって来て、伊織を捕え、年頃の恨み一つ一つを、言っては喰いつき、恨んでは喰いつき、終に体中で無傷なところがなくなるまで食い破られ、果ては喉笛に喰らい付いて殺されてしまったと、下々の話に聞いた。

二十二年を経て妻敵を打し事

2018-09-02 | 諸国因果物語:青木鷺水
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 下野の国宇都宮に重右衛門という、田地なども多く持って、徳のある者がいた。
 この重右衛門宅に、長年、京都より通う小道具商人が出入りしていて、竹屋の庄兵衛といった。いつも秋の頃はここに下り、手代などを召連れて、宇都宮の町や日光山の町々に行き、染物や小間物などを取り揃え、輪王寺宮を始め寺社など余すところなく出入りしており、毎年、下野へ来る度に、心安さから必ず重右衛門方に逗留していた。

 去る延宝四年の春、庄兵衛は京都へ帰るため、宵より荷物をまとめ、馬なども用意して寝ていた。そして、亭主の重右衛門は、夜半より起きて、出立の世話を焼いていた。重右衛門の妻は、幼い子たちに添い寝して、まだ納戸の中に居た。
 庄兵衛も手代を起こし、出発の用意をし、馬にも荷をつけて待たせ、重右衛門に暇乞いをした。それから、いつも御内儀にも暇乞いをしてから出発していたので、子どもを寝かせているようではあったが、挨拶しないのも愛想がないと思い、納戸の口まで入って「ただ今より、上方へ登り申します」と言ったが、返事がない。
 庄兵衛は、御内儀がよく寝入っているようなので、そのまま出ようとしたが、そこで何やら、足にひやひやと踏みつけるものがある。気味悪く覚えて灯の影で見れば、それは血であった。これは何事だと驚いて、重右衛門にも見せれば、重右衛門も慌てて火を灯し、納戸に行って見れば、女房は何者かに殺されていた。

 下手人は、内儀を一刀に刺し殺して、首は奪って帰ったようで、骸(胴体だけの死体)ばかりが残されていた。これは何者の仕業かと家探しをして尋ねたが、誰も知らない。
 庄兵衛も、この難儀を見捨てて行くわけにもいかず、その日は旅立ちをやめにした。
 重右衛門は一門を呼び集めて、さまざまと下手人の吟味をしていたが、舅は、
「これほど詮索しても、他所から来た形跡はなく、血がこぼれた筋もないのは不思議だ。そうすると、いくら心安い仲だからといって、人の妻女の寝間まで来て暇乞いするのは腑に落ちない。これは庄衛門が殺したに違いない」
と言う。
 重右衛門は、日頃の気立てをも知る庄兵衛が、そのようなことなどする筈がないと分かっていたから、さまざまに弁護し、庄衛門もまた、誓って人を殺めたりしていないと言い訳をしたが、舅はなかなか聞き入れず、あまつさえ重右衛門のことまで恨みだしたので、是非なく、庄衛門を連れて奉行所へ訴え出た。
 奉行所としても、分明ならぬ事件であったが、庄兵衛の無実を明らかにする証拠もなかったので、暫く牢舎に入れられることとなった。しかし、庄兵衛が無罪であると証明する者は誰も現れず、程なく庄兵衛は死罪となった。
 庄兵衛の手代は、泣く泣く死骸を申し請けたが、斬首であったためか骸だけが渡されたので、それを新町口の野外れで海道に近い所に埋め、心ばかりの弔いを勤め、重右衛門にも暇を乞うて、上方へ帰って行った。
 京には、庄兵衛の三才の子がいて庄市郎といったが、残された庄兵衛の店の人たちは、この子を亭主に立てて庄兵衛と名乗らせ、未亡人も甲斐甲斐しく後見をして家を治め、手代もまた二心なく勤めていたので、店は庄兵衛が存命の時に変わらず栄え、今日を暮れ明日に移り、子の庄兵衛も今は二十二才になった。
 庄兵衛もまた利発者で、親の跡をよく継ぎ、年々の仕込みの算用など、諸事、手代と心を合わせて働いた。
 それから、今年元禄八年の頃は、手代も年をとってきて、各地へ商売の旅をするのも心もとなくなってきたので、これからは若い庄兵衛に任せようと考え、下野へも行って重右衛門にも紹介しようと、手代の案内で、庄兵衛を連れて下野へ出かけて行った。
 そして、いつものように重右衛門方へ落ち着き、庄兵衛を紹介し、そのついでに、親庄兵衛の墓所をも教えようと、同道して行った。
 二人が庄兵衛の石塔に向かって拝んでいると、ちょうど通り合わせた百姓二人連れが、庄兵衛たちを見て、秘かに、
「誠に、あの墓を見るにつけても、無実の人がいたわしい。あたら商人を死に追いやった、勘左衛門こそ憎い奴だ」
と囁くのが耳に入り、庄兵衛は百姓たちを引き留めて、話を聞いてみた。
 それによると、元来、重右衛門の妻は美人で、蓬莱町の、しかるべき家の姫であったのを、重右衛門が妻に呼び迎えたのだが、杉原町に勘右衛門という貧乏な鍛冶がいて、重右衛門の妻に筋なき恋を仕掛け、それが叶わぬとなるや逆恨みして、ある夜、忍び入って殺したのだと言う。
 これで仇の名が露見したので、重右衛門と手代が奉行所へ訴え出たところ、早速、勘右衛門は召し捕られ、厳しく取り調べられた結果、罪の程が明らかとなり、打ち首になった。
 さて庄兵衛には奉行所から、
「神妙なる仕形。主従ともに珍しき心ざしの者である。このたびの善賞に、そなたの親庄兵衛を、再び帰し下す」
との伝があった。
 しかし手代も庄兵衛も、これを聞いて訳が分からず、一度、死罪に遭った人を、今また御許しになるとはどういうことかと思っていると、二人の前に白髪の老翁が召し連られて来た。
「なるほど、旦那です」
と手代が言うのに、庄兵衛は驚き、どうした事で生きているのかと問えば、これは奉行所の御考えによるものという。
 重右衛門の妻が殺されたとき、重右衛門が庄兵衛は犯人でないと証言したものの、他方、舅が庄兵衛に罪を被せたのも一理ある。庄兵衛が犯人である可能性は非常に低いが、他に疑わしい人物がいない以上、もし庄兵衛を罪に落さなかったら、この事件はいつまでも決着がつかなくなってしまう。かといって、庄兵衛を処刑してしまった後に真犯人が出てきたときは、ご政道が過ちを犯してしまったことになる。だから、真相が明らかになるまでは、別な罪に問われた者を庄兵衛と偽って御成敗したという。そして、やっと今になって、親庄兵衛を帰すことができたのであった。
 ありがたい御仕置きである。

蛇(くちなわ)の子を殺して報をうけし事

2018-08-27 | 諸国因果物語:青木鷺水
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 京新町三条の辺に真苧(まお=繊維を取る植物)や煮扱(にこぎ=麻の加工)などを商う富貴な人がいて、手代や小童なども多く使っている家であった。

 元禄十年の夏の頃、江州高嶋から朽木嶋売りや蚊帳売りなどが、この家に集って、荷物など夥しく積み置いていたところ、どういうわけか、小蛇が多数湧いて、荷物の下からにょうろにょろと出て来た。手代がそれを拾い取って、打ち殺そうとするのを、この旦那は慈悲深い人であったので、見付け次第に拾わせ、入れ物に入れて蓋を閉め、寺参りのついでに、黒谷万無寺などの山で、蓋を開いて蛇を草村へ放し、殺させることはなかった。そんな具合だったから、手代たちも、蛇を見つけても殺さずに、追い逃がすようになった。

 そうした折節、祇園会が近くなり、道具などを片付け、煤なども掃おうと、出入りの者などを呼び寄せ、此処彼処を掃除させて、埃など掃かせていた。
 さて、この旦那の乳母は、上の横町にある木履屋の妻で、夫はさる方に雇われて加州金沢へ行っていた。乳母は、長年この家に出入りしている仲でもあり、宵から来て、何かと片付けの手伝いをしていたが、かの荷物が中庭に積み上げているのを見て、これも片付けようと動かしてみると、四寸ばかりの小蛇が何十匹となく、この下に蟠っていた。
 男どもは肝を潰し、恐れて寄り付かず、どうしようかと途方に暮れて見ていたが、この乳母は、今年五十歳になって、後生のことも考える年であるのに、この蛇を見て、
「皆の衆。男が揃いも揃って、それほど怖いか。わしが除けてやろう」
と、大釜に沸き立った煮え湯を、大柄杓に汲んで小蛇の上へさっと掛ければ、蛇たちはのたうち回った挙句に、大方は死んでしまったので、死骸は搔き寄せて捨ててしまった。
 乳母は、その日一日は何事もなく働き、家へ帰って行った。
 明くる朝は、祭り前の拵えがあるので、いつも朝早くから乳母なども集まって諸事の世話を焼く予定であった。ところが今日に限って、四つ過ぎても乳母は来ない。
「もしかして、何かあったのではないか。見て来ておくれ」
と、内儀から言い付かった下女が、横町に行ったところ、門の戸なども夕べのままで、留主かと思ったが、戸は閉めているものの錠もおろさず、不審に思って、戸を敲いたり呼んだりしたが、返事がない。
 下女は走って帰り、男どもが乳母の家に駆けつけて、戸を打ち破って入ってみると、乳母は夜着のままで蚊帳の中に寝ていたが、引き動かしてみると、首の周りから胸板までの大きな蛇が、幾重ともなく纏わり付いて、鎌首をもたげて乳母の喉笛に喰い付いており、蛇も人も共に死んでいた。

 子を殺された親蛇が、かくまで恨んだのも無理はないと、皆は語り合った。酷い殺生はすまじきことである。

人の妻嫉妬により生きながら鬼になりし事

2018-08-19 | 諸国因果物語:青木鷺水
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 大坂春慶町五丁目に古手屋久兵衛という者がいた。
 久兵衛には、長年連れ添った女房がいる上に、外にも女を作って通うことがあった。この女は絎屋の何某とかいって、奉公先で腰元から妾となり、懐胎して子供を産み、その後、金百両を添えて暇を出された女であった。
 久兵衛は元より色好みで、この女に心を懸け、いつからとなく取り入って夫婦の語らいをなしていた。そこで、本妻を離別して、この女を呼び迎え、今迄貯めた財産の上に、なお、この百両を合わせたらよかろうと思い立った。都合の良いことに、女房は、父母もなく、親類もみな死に失せて、誰からも便りがない身であった。僅かに母方の従兄弟が一人、どこかに住んでいたようだが、特に音信があるわけでもなかった。
 女房は、年頃の馴染みであり、器量も人並みに勝れていたので、離れ難く残念ではあったが、百両に魂を奪われ、久兵衛は別れを画策して、金目の物は女の方に運び隠した上で、仕事がうまくいかないかのように装い、徐々に商いを窄め、一日一日と自分が貧乏になっていくように見せかけた。
 そして久兵衛は、
「人の物を買ったり売ったりして商売をしてきたが、間もなく来るお盆時期の支払いで、何とか十貫を返したものの、もはや私の運もこれまでのようだ。誠に今までは、一銭も無駄な銭を遣わず、物見遊山や栄耀事などもしたことがなかったのに、ふとした仕入れで損をして、それからはやる事なす事、すべて左前になってしまった。前生の業とはいえ、このままではお前も、私と一緒に乞食になるより外はあるまい。縁あって一緒になった我々だが、一旦ここで夫婦の仲を離れて、共に奉公の身となり、給金の少しも稼いでから、また一緒になって再起を図ろうではないか」
と、実しやかに話を持ちかけた。
 女房は、涙を流しながらも、さしあたっての貧乏には言うべき詞もない。離れ難い仲を泣く泣く別れて、奉公の口を探したところ、幸いにも、とある魚屋に仕事があり、三年の請状を作って腰元奉公に勤め出た。
 一方、久兵衛は、思い通りに事が運んだので、嬉しくてならない。女房が去って五日も過ぎぬうちに、かの女を後妻に呼び迎え、今までの元銀に妻の百両を足し合わせて、商売の手を広げ、思うままに過ごしていた。
 元の女房は、長年連れ添って飽き飽かぬ仲を、貧乏ゆえに別れたのだから、久兵衛も男奉公に出ているものと信じて疑わず、朝夕の寝覚めに人知れず涙を零し、久兵衛のことを露忘れる隙なく、どんな所でどんな勤めをしているのか、しつけぬ宮仕えで苦労しているのではないかと、心もとない月日を送っていた。そして、給金の内から少しずつでも溜めて、何とかして、もう一度夫婦になりたいとの一心で、腰元奉公に精を出していた。
 そんな働きぶりだから、主人も殊のほか喜び、この女がいてくれなければ困ると、いろいろと気を配って召し使っていた。
 ある時、主人の妻が道頓堀の芝居見物へ出かけようと、宵から身仕度をして、この腰元を召し連れて駕籠で出かけたが、たまたま、かつて腰元が久兵衛と住んでいた辺りを通りかかった。
 腰元は、もちろん久兵衛のことを忘れずにいたが、今更、何の面目があってこの辺に顔を出せるのかと、恥ずかしくも悲しくもありながら、宮仕えの身では奥方に付いて行くより他ない。それでも、せめて、昔の家に今はどんな人が住んでいるのか、ちらりとでも見てみたいと思い、物陰からさし覗いてみた。
 そうしたら、何と久兵衛が、何事もなかったかのような顔で、箒を片手に上機嫌で門を掃きに出て来た。そこでお互いに顔を見合わせてしまい、はっとした顔つきで、久兵衛は家の中へ逃げ込んでいった。
 腰元は気が動転してしまい、どうして久兵衛がここに居るのか、まさか元の自分の家へ奉公に出たわけでもあるまいにと思い、そこに突っ立ったまま見ていると、二十ばかりの女が内より出て、
「ねえ、あなた。今のは前の御内儀様でしょう。ちょっと見送ってあげましょうよ」
と言う。
 それを聞いて、腰元は胸にこみ上げてくるものを抑えきれず、「卑劣な男め。私はまんまと騙されて、心にもない離別をさせられた」と思い、その後は、幾度も涙をこぼして、恨み言が湧き上がり、奉公も手に付かず、どうやって帰ったのかさえ覚えていない。そして着物も着替えず、すぐに二階へ上がって打ち伏した。
 明くる日になっても腰元が起きてこないので、旦那も同僚も心配して下から呼んだが、答えはない。あまり心配なので、下女を上げて様子を見せたら、恐ろしや、腰元は生きながら角が生え、口は耳まで引き裂け、眼より血の涙を流し、その体は四畳敷き一杯にまで大きくなって、呻きながら伏せっていた。

 この姿には誰もが驚いたが、旦那は、常々腰元がよく奉公してくれていたので、あまりの不憫さに、この女に加持祈祷を施そうと、普明寺から請けた御札などを持たせた。
 そして、久兵衛を呼び寄せ、この有様を語ったところ、その後は久兵衛の家にも恐ろしい事が度々起こるようになり、久兵衛は女の嫉妬に恐れて、急いで後の妻を送り帰し、再び、この女房を呼び迎えて、今に有りという。

山賊しける者仏罰を得し事

2018-08-12 | 諸国因果物語:青木鷺水
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 長門の国、浮野という所の、隆長司という禅宗の修行僧が、多くの僧が集まって行われる修行のため、岩国の寺へ出かけて行った。
 この僧は極めて肝が太く、大変な力持ちで、武術の腕も人に超えた男であったが、昔から殺生を好み、生き物の命を取る事など何とも思わぬ生まれつきだったので、親も見余して出家させた次第であった。
 それほどの者だったから、夜道を行き、山坂を踏み迷うことがあっても、そんなことなど苦にする様子もなく、思い立った事があれば何時でも踏み出す気質にまかせ、この岩国へ行くにしても、軽い旅姿で、ちょっとそこまで出掛けるかのように出かけた。

 隆長司は、秋の日の七つ(時刻)に下がった頃、岩国への道にある、人影もない坂の入り口に行きかかった。
 あまりに足がくたびれたので、馬を借りて乗っていたが、馬方が、
「この道は、一里半に渡って坂が続き、殊に日が暮れては、用心の悪い所です。もしもの事があっても、私をお恨みなさいませんよう」
などと呟くのを聞いて、少し急いで進んでいたら、案の定、向こうの坂に、大きな男が大小を腰に差して立ちはだかり、道の真中を踏み塞いで、
「こりゃこりゃ。坊主。酒手を置いて行け」
と言う。
 隆長司は、知らん顔して通り過ぎようとしたが、追剥ぎは矢庭に走りかかり、隆長司を馬より引き下ろして酒手を奪おうとするので、いろいろと言い聞かせてみたが男は聞かず、あまつさえ脇差を抜き放して、隆長司を殺そうとした。
 しかし武術に長けた隆長司は、追剥ぎの切っ先をかいくぐり、あべこべに脇差を奪い取って、追剥ぎの真向を立割にと、拝み討ちにしようとしたが、やや手元が狂って、肩先から胸のあたりまで袈裟掛けに斬りつけ、追剥ぎは、あっと叫んで倒れた。
 こんな状況で、追剥ぎの同類が出てきたら面倒だと思った隆長司は、馬の方を振り返って見たが、馬方は馬を連れて、とっくに逃げ帰っていた。仕方なく隆長司は、速足で一里あまりを逃げたが、その頃には、夜も早や四つ過ぎになっていた。
 あまりの疲れに、早くどこかの宿に落ち着きたいと思ったが、坂ばかりの道で、家さえも見当たらない。此処彼処と知らぬ道を分けていると、遥かな谷に火の影が見えたのを幸いに、立ち寄って宿を乞うと、主は留守のようであったが、年老いた祖母(ばば)と、嫁と思われる者の二人が居て、庭に筵を敷いて寝かせてもらった。
 降りかかった災難に滅入りながらも微睡んでいると、程なくして、表に人の声がして、入ってくる者がいた。
 見れば、さっきの男より一回り長い大小を差した者が二人来て、
「御亭主はおられるか」
と問う。女房は、
「いや、うちの人は、明るい内に出かけて、まだ帰ってきません」
と答えた。
 二人の男は、一旦、家を出たが、すぐに戻って来て、
「亭主は、深手を負っていたところを、我々が見つけて、担いで帰ってきた。こんな不覚があってはいけないから、いつもは我々三人で一緒に出掛けていたものを」
と悔しがりながら、亭主を囲炉裏の傍へ下ろした。

 隆長司は、嫌な予感がして筵の下から見上げれば、運ばれてきたのは、疑いもなく我が手にかけた山賊であった。これはどうするべきかと胸は騒いだが、今更どうしようもなく、南無阿弥陀仏、助け給えと縮まり返っていた。
 祖母や女房は枕にひれ伏して泣き叫び、一体どうしたらいいのと悲しむばかり。
 亭主を運んできた盗人仲間は、印籠から薬を取り出し、水を汲みに行こうとして、隆長司を見つけ、
「これはお坊様、ちょうどよかった。ここに泊まり合わせたのも何かのご縁。起きて、一緒に看病してください」
と隆長司を引き立てた。
 隆長司も是非なく、怪我人の亭主に寄って世話を焼いていたが、亭主は隆長司に気が付き、隆長司を睨みつけて何か言おうとしていたが、舌が強張って、言葉にならない。隆長司は気味悪く思いながらも、亭主が喋れないので、ひとまず安堵した。
 そうこうしていると、女房も母も口を揃えて、
「何の気もなく宿をお貸ししましたが、御出家をお泊めしたのが不思議な縁となって、怪我人の看病をお願いすることとなりました。亭主は、助かるかどうかも分からない瀕死の重傷で、しかも山の中ですから、然るべき療治を頼む人も近くにはおりません。お願いですから、今宵は一緒に居てやってください。そして、もし死にましたら、お知らせください」
と頼んできた。
 隆長司は、心ならずも請合って亭主を看病し続け、妻子は次の間の納戸に入って休んだ。
 亭主は、傷は深手ながら急所を外れていたので、次第に容態を持ちなおし、ひたと隆長司を見つめ「おのれ、おのれ」と言う。しかもその声は、夜が更けるに随って段々はっきりしてきたので、隆長司も高々と念仏を唱えて、他の者に亭主の声が聞こえないよう取り繕った。そして、何とかして殺さねばと思い、そのあたりを見回すと、石臼の挽木があったので、これを押っ取り、亭主の咽笛に差し込み、力に任せて押し込めば、挽木は亭主の喉笛を砕いた。
 隆長司が、
「今、ご亭主がお亡くなりになりました」
と大声で呼び起こせば、母も女も起き出て泣き騒いで悲しんだ。
 ところがその後、乗りかかった舟とでも言うべきか、隆長司は野送りの弔いまで頼まれ、それから三十五日まで引き止められて、ようやくその家を辞して帰った。
 この話は、一人の僧が破戒の罪を為したものであるが、同時に、一人の山賊が、長年悪事を働いてきた因果により、僧の手にかかって報いを受けた道理でもある。

男の亡念下女の首を絞殺せし事

2018-08-05 | 諸国因果物語:青木鷺水
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 西六条に恵閑という一向宗の僧がいた。
 僧になりたての頃は、定まった妻もなく清僧を勤めていたが、その後、寺が恵閑の代になってから、下女を心に思うようになり、情を交わすようになった。
 また、その寺には、下男の五助という者もいた。
 若気のあまりか、五助もこの下女に心を寄せ、様々と言い寄ったが、女は、旦那に情をかけられていることを鼻にかけ、五助を散々に軽んじ、情のないことを言うばかりか、万事についても尊大に、我こそはと言わんばかりの態度であったので、さすがに五助も今は興もさめて、諸事についても憎しみばかりが勝るようになってしまった。

 ある時、この女が裏口に出て衣服を洗っているところへ、五助も用があって来た。
 この女は五助に、
「水を汲んでください」
と頼んだが、五助は常々この女を心よからず思っていたこともあり、
「急ぎの用があるので、自分で汲んでください」
と答えたので、女は少々腹を立てた気色で、かの洗濯をしていた灰汁を、手で掬って五助にひっかけた。
 さすがに五助は腹に据えかね、おのれ憎い仕業、真二つにしてくれんと思い、自分の部屋に戻ったが、女は旦那の子を孕んでいて、女に恨みはあるが、腹の子には何の科もないので、時分を待って如何様にもしてやろうと考え直して、胸をさすって軽はずみな行動は控えた。
 そうはいっても、胸につかえる憤りの念は止め難く、終にその明くる日の朝、五助は首を括って死んでしまった。しかし特段の書き置きもなく、何の理由があって死んだのか知る人もなければ、表向きは乱気のせいにして事は済んだ。

 さて、その後は女も恙なく、産月にもなるかと思う頃、ある夜、恵閑と居ならんで、二人で夜が更けるまで心よく話などしていた。それから寝所を整えて恵閑を寝させ、女も身繕いして、小用に立って縁の障子を開けて出ようとした時、突然、何か得体の知れないものが現れ、
「あれ、五助が怖い顔をして参りました」
と、逃げて入り、恵閑に抱き付いたのを、恵閑はとりあえず女を抱きすくめて、
「何と、訳のない事を言うか。怖い怖いと思えば、そんな物が見えたように思うのだ」
と宥めて寝かせた。
 それから程なく女は産気づいて、二三日のうちに何事もなく安産で女の子を産んだ。
 ところが、お七夜も過ぎた頃、夜になると
「恐ろしや、五助が参りまして、私の首を絞めまする。引きはなして下され」
と泣きわめく。

 恵閑も初めのうちは、お産で疲れているのだろうと思い、色々と気を遣ってみてはいたが、後には、昼間でも五助が現れて首を絞めてくると訴えるので、様々に弔いの祈祷をしたが、一向に五助が消えてしまうことはなく、終に十四夜目に、女は血を吐いて死んでしまった。
 これは、確か、元禄四年の事であったという。

炭焼藤五郎死して火雷になりし事

2018-07-29 | 諸国因果物語:青木鷺水
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 江州龍花村に、惣兵衛という、炭焼を商売にしている者がいた。
 この辺り多くは、北山炭といって洛中で売られ、銅壺や風呂などに、早く火が熾って便利だとして持て囃され、惣兵衛も、毎日往還して渡世としていた。そして、伊香立という所を始め、周辺各地の山々の持ち主に前金を渡し、炭窯ごと買い取る形で、出来た炭を運んでいた。
 その、惣兵衛が買った炭焼窯のうち、崩坂の藤五郎という者は、多くの山を持ち窯数も多く、大量の炭を作っていたので、藤五郎方から惣兵衛方へ、直接、馬でたくさんの炭俵を積み運び、その結果、藤五郎は大金持ちになっていた。こうした取引は二三代も続いていたので、お互いに、いい得意先として馴染んでいた。

 そのうえ、田舎者の習いとはいいながら、惣兵衛の先代は特に律儀者であったので、藤五郎も心安く、頼もしく思っており、二八月の商売が冷える時期に、銀の入る事がない時でも、特に不満は言わなかった。
 先代惣兵衛もまた、藤五郎からの馬の便りで、貸付の頼みがあるときは、二十両三十両の事であっても、早速、惣兵衛が世話をして用立てた。このような具合であったから、毎年の決算でも、わざわざ帳面に立会って吟味する事もなく、互いに手紙のみで信用しあう仲であった。
 そこへ来て、今の惣兵衛もまた二心ない者で、よく親から引き継いだ仕事を、万事に気をつけて勤め、家はますます繁盛していた。
 しかし、いかんせん惣兵衛は生まれつき不自由を知らず、金銀を稼ぐ苦労をも弁えぬ身の上に育ったので、昼夜かまわず遊び続け、一日を暮らす長さに退屈して、ろくでもない事ばかり考え、あらゆる慰みに携わり、碁、将棋、鞠、揚弓、手跡、読物と、およそ人が娯楽とすることは一通り極めた。
 それほど遊んでばかりいては、心を亡くしてしまう元だとは分かっていたが、遊びの道は止められず、上方の花や、名にしおう祇園へも出かけ、舞妓や芝居にうつつを抜かして、しばらく逗留しようと京都に登り、炭の得意客があるのを頼って、河原町四宮のあたりに借り座敷を構え、毎日の遊山に気を伸ばし、茶屋や旅籠で美食に耽り、これほどの楽しみは他にないだろうと思っていたが、それも馴れてしまえば、やがて面白さも薄くなってしまう。
 そうなると、遊びも病膏肓に入るで、衣服や腰のものは言うに及ばず髪かたちまで、万事、上方の風流を見習い、気取って、故郷の事など忘れて奢り高ぶれば、持っている金銀も大方は悪い遊びに使い果たし、あまつさえ博奕にまで手を出して、結局は身ぐるみ剥がれて、ほうほうの体で故郷に帰った。
 惣兵衛は、思いもかけず金に不自由する身となって、今までは思いもしなかった欲を起こし、悪い決心をした。
 そんな時、藤五郎方より、炭窯の仕入れなどに入用の事があって、いつものように金三百両を支払ってほしいと連絡があったが、惣兵衛にはそんな金などなく、しかも、このような状況では貸してくれる人もおらず、そうしたことを藤五郎へ連絡したところ、不審に思った藤五郎から、今回は年々の帳面に立会ってきちんと勘定すべし、との催促があった。
 根が無分別な惣兵衛は悪心を起こし、自分の家に、藤五郎の姪が幼少の頃より賄いをしていたのを、若盛りの頃、何かと情けがましく言い交した事があったので、その娘をあれこれと騙し賺して藤五郎のところへ行かせ、藤五郎の印鑑を盗み出させて偽印を作り、帳面の内容を改竄してしまった。
 この帳面を基に、突然、六十貫匁の負債があると言われた藤五郎は、覚えのない借り越しに激しく立腹し、奉行所を経て対決に及んだ。しかし帳面には、年貢に納めるべき金を納めていないことが書かれており、もちろん嘘言であって、本当は藤五郎に理があるのだが、押されている印鑑が間違いなく藤五郎のものであったため、弁明は全く取り上げられず、六十貫匁の銀を上納すべしとの判決が出てしまった。
(注:年貢の未納は罪であり、殊に、故意であれば重罪となる)
 藤五郎は、何とかこの無実を晴らして、自分には一点の曇りもない旨を申し開きしたく、奉行所に訴え嘆願したが、無実を証明する有力な証拠もなければ、未納の罪に虚言の罪も重なって、藤五郎家は取り潰しという決定がなされてしまった。
 事、ここに至って藤五郎は、今はよし、この偽印によって無実の罪に問われるのならば、己は死んでも、この憤りには報いてやると、急ぎ家財を売り払い、残った山林を妻子に譲るなどして身辺を整理し、自分自身は、三年のうちに惣兵衛を取り殺しきっと思いしらすべし、との書置きを認め、山を出て自害した。
 一方、惣兵衛は、大事を言い抜け、勝訴した悦びに、いよいよ不道徳を好んで身上を稼いでいたが、藤五郎の死期の一念が、恐々と心に懸っていた。しかし、だからといって、藤五郎が亡くなった場所へ行って手を合わせるわけでもなく、二年あまりが過ぎた。
 ところで、惣兵衛の母は死期の遺言で、ある庵に葬るよう頼んでいたが、今年は七年忌でもあったので、惣兵衛は前日の夜からその庵へ行き、翌日はしっかりと年忌を勤めた。それが終わると、惣兵衛は緊張が解けたのか、酒に酔いつぶれてしまい、何かと管を巻き、訳の分からないことを言って腰を上げようとしない。短い秋の日が傾けば、道も暗く心もとなくなるので、惣兵衛は下男にすすめられて荷馬に乗せられ、鞍に抱きついたまま眠っていた。
 そのうち、かの藤五郎が死んだ山あいも程近くなると思う頃、不思議や今まで晴れ渡っていた空が俄かにかき曇り、時ならぬ雷が激しく閃き、礫のような雨が横殴りに吹き付け、跡先も分からぬほど暗くなってきたので、惣兵衛も小気味悪く恐ろしくなってしまい、馬を打ちたてて一散に馳せた。
 さっきまで晴れていたのが、一転、こんなに雷が激しく鳴り響くような天気になるとは、一体どうしたことかと心も眩む折節、惣兵衛の後方に、大きな雲が一つ、墨を広げたように真っ黒なのが近くまで舞い下がり、惣兵衛が乗っている馬の上へかかると見えた時、殊に凄まじい稲光が炎を蒔いたように光って、続いて大きな雷が次々と落ちかかり、山も谷も揺るがした。
 これ肝を潰した下男は、足を踏み外して遥かなる谷へ転げ落ち、死ぬかと思うばかりの体であったが、それでも漸く雷が収まり空も晴れれば、下男も何とか谷より這い上がって、さても旦那はどうなったのかと、その辺を見歩いた。

 すると、馬は二町ほど脇の岩陰に、鞍縄もちぎれたまま嘶き立っていたが、旦那は今の雷で、体中の骨はばらばらに砕け、手足はもとより五体で損傷していない個所はなく、皮などは紙を広げたようになっていた。
 それでも、わずかに目と口が動いているようなので、下男は惣兵衛を小さく押してみて、馬に括り付けて、どうにかこうにか帰りつき、さまざまな療治を施したが、もとより叶うはずもなく、二十日ばかりして死んでしまった。

商人の金を盗み後にむくひし事

2018-07-22 | 諸国因果物語:青木鷺水
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 元禄三年の頃、京より河内に通って木綿の仲買をする、喜介という者がいた。
 総じて仲買人の類は、木綿類によらず何でも、生産元へ出かけて行って買い付けるものであり、この喜介も、毎年通い慣れていたが、木綿織物は家ごとに生産していて、一軒で大量に織り溜めているわけではないので、一日一日と日数をかけては、此処彼処を巡って二反三反ずつ買い取り、それをまとめて京に持ち運ぶのを渡世としていた。
 この年の霜月二十日、またいつものように仕入れをしようと、金三十両を打ち飼い袋(※注1)に入れて河内に下り、瓜割村という所に常宿があったので、まずはここに落着いて休んだ。
(※注1)胴に巻き付ける物入れ。現代のポシェットやウエストポーチのようなもの
 明くる日は、平野、万願寺、六万寺などという村々を巡って、買い溜めた木綿を家へ運ばせて、それからもなお、暮れかかる空も厭わず、いつも歩き慣れた所とばかりに、織物を買うために、山近い野をはるばると通り過ぎていた。その頃にはもう、山や畠に出ていた百姓たちも、暮れの鐘と共にそれぞれの里々へ帰る折で、人影一つも見えず、大変もの淋しい野景色であった。

 大窟村近くの追道越にかかる山際の畑に、山畑村より出作り(※注2)している弥右衛門という者がいた。
(※注2)耕地が居宅と離れた所にある場合、そこに寝泊まりして耕作すること
 弥右衛門は、その日は遅く仕舞って、ただ一人、鋤を担いで帰ろうとしている折から、この喜介を見付け、「肝の太い旅人だ。こんなところを、日が暮れても急ぐ様子がないのは、きっと木綿買いに違いない。買い付けの金も持っているだろう。折節、見咎める人影もない。打ち殺して金を奪ってやろう」と思い、音を立てずに、とある木かげで待ち伏せしていた。
 そのような事とも知らず、喜介が鼻歌を歌って何心なく行き過ぎようとした所を、弥右衛門が、後ろから鋤を振り上げ、大上段から降り下ろし、喜助が仰向けに倒れたところ、喉のあたりを散々に衝き斬り、懐へ手を入て見ると、案の定、金子が二十四五両もあるかと思えた。弥右衛門はそれを天の賜物と悦び、この金を取ってひそかに帰っていった。

 喜助の屍は徒に狼の餌食となって、手足が此処彼処に引き散らかされていたのを、明くる日、里の者たちが見付け、山際に埋葬してやった。しかし、このような事件があったことも、誰知る人もなく七年が過ぎた。
 その間、弥右衛門の身の上は、何かしら不運が続いて次第に傾いてゆき、今は暮しを立てる手立てもなくなり、かの大窟村の田畠を質に入れ、綿を作る肥やしの元手にでもしようと思い、庄屋や肝煎(きもいり)を仲介に頼んで、垣内村の富貴な家に相談を持ちかけて、金二十七両を借り整えた。
 この喜びに、つい酒も進み、日が暮れてから、三人はうち連れて山畑村へと帰っていたが、折しも二十三日の夜であれば、月は真夜中近くでなければ出る気色もなく、暮れ渡る空に宵の明星があかあかと煌めき、物の色あいが薄っすらと見える頃、かの追道越の近くを通りかかった。
 弥右衛門は、過ぎし日に、木綿買いを手にかけて金を奪ったことを、ふと思い出し、それはこの辺だったと心の内に念仏して、足早やに行き過ぎようとした。
 ところがその時、遥か後ろより、弥右衛門弥右衛門と呼びかえす者がいた。これは誰だ、聞き慣れぬ声だがと、立ち帰ってみたが、跡先に人影さえ見えない。また三人でうち連れて行こうとすれば、また、弥右衛門と呼ぶ声がするのを、庄屋も肝煎も、何となく薄気味悪くなって足早に先へ歩いた。
 しかし弥右衛門は、いかにしても不審が晴れず、身の毛立って気味悪かったが、何者が自分を呼ぶのか、もし狐などが誑かすのであれば、打殺して退治してやろうと思い、そのあたりの木陰や、山際の草むらなどに心を配って見まわりしていたら、思いもよらず弥右衛門の足許から、大きな声を出して呼ぶ者がいる。
 はっと思ってさし覗くと、そこには一つの髑髏があった。
 さては過去の怨念がこの頭に残り、今また自分を呼ぶのであろうと思うに、持っていた杖で、このしゃれこうべを貫き、
「おのれ憎い奴。我が手にかけてより、このかた七年も経っているではないか。恨みがあるのはもっともだが、我も、度々お前を弔って供養したはず。それなのに、今また我の名を呼んで何とするぞ」
と叫びながら、その髑髏を遥か向こうへ投げやり、何気ない顔で帰って行った。
 弥右衛門は、自分がそうしている間に、庄屋と肝煎は帰ってしまったと思っていたが、実は二人は、この不思議を見届けてやろうと、また、なぜ弥右衛門の名前を呼ぶのか疑わしくもあり、物陰に隠れて、弥右衛門の独り言を聞き届けていた。
 その二人が証人となり、弥右衛門の悪事はついに露見して、奉行所に引っ立てられ、御仕置となった。