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続・エヌ氏の私設法学部社会学科

無理、矛盾、不条理、不公平、牽強付会、我田引水、頽廃、犯罪、戦争。
世間とは斯くも住み難き処なりや?

巻3の1 六条の妖怪

2018-03-22 | 御伽百物語:青木鷺水
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 西六条の寺内に四本松町という所があって、ここに住む吹田屋喜六という者は、元々、信州上松という村で、猿太という腕利きの杣(そま=木こり)の子であった。父の猿太は代々、勢州内外宮の御造替がある毎に、必ず召されて杣の頭に任命されていた。猿太には子が多く、去る元禄二年の御造替遷宮があったときも、吉例どおり杣頭を命じられた猿太は、木曽山を越え、諸国を渡って、宮木を調達するついでに、子の喜六を連れて都に上った。
 猿太は知る辺の人を頼って、喜六を上方の腕利き棟梁にしようと、喜六が十七の年より京都に足を留めさせ、下部の奉公をさせた。
 喜六は元来したたか者で、力も人に超え、肝も太く生まれついていたので、重たい物を荷いでもへこたれず、高いところへ登っても怖がることはなく、彼一人の働きは他の者二・三人にとって替わる程であったので、旦那にも可愛がられ、喜六も真面目に勤めていた。
 そして、喜六の年季は恙無く明け、お礼奉公をも済ませ、少しの貯えもできたので、旦那の紹介でこの所に住み着き、良縁あって女房を持ち、昨日今日と過ごす中で娘二人にも恵まれた。しかも娘たちは生まれつきよくできた子で、小さいうちから万(よろず)に賢かったので、どこかの大名高家へでも宮仕えに出し、ゆくゆくは、生まれこそ賎い身分でも、娘たちには幸いあればと、読み書きをはじめ糸竹(楽器)の道などを、心ゆくまで習わせていた。喜六自身は、引き続き旦那に奉公し、味噌塩の世話はもとより、炭、薪、台所方としていろいろな方面に気を配って働き、夜は家に帰って起き伏ししていた。

 さて喜六は、生まれつき川釣りを好み、折節、鮎などを釣っては瓢箪酒をたしなみ、世の人が色に耽って女に迷う楽しみに代えて、喜六の気晴らし道楽としていた。
 ある日、また手が空いたので、例の釣りにと思いたち、今日は槙の嶋に行こうと朝まだきより急ぎ、瀬田より落ちて来る鰻でも釣ってやろうと、辰の上刻から午の盛りまで釣り糸を垂れて粘っていたが、その日はどうしたことか、終に鰻の一筋もかからない。そこで仕掛けを替え、針に餌をつけて棹をさし延ばし、川中に降り立って二時ばかり窺っていたが、これもなお食うものがなく、今は精も尽き、腹立たしくなって釣竿を引き取ろうとしたところ、何かが食いつく手ごたえがして、引き上げてみれば勢いよく水から飛び出してきたものがある。よく見ると、鰻に似てはいるものの毛が生えており、蓑亀に似てはいるが鰓もある。何とも正体が分からず、こんな怪しいものは捨てて帰ろうか、それとも持ち帰って飼ってみようかと思ったりしたが、もしかするとこれは、怪しくも珍重な生き物かもしれない、持ち帰って見世物にでもしたら、評判になって儲かるのではないかと思い、籠に入れて帰り、庭の泉水に放したら、その生き物はむづむづと底に這い入って行き、それを娘たちと一緒に見て面白がった。

 しばらくして、喜六の姉娘が奉公に出ることになって、いろいろと準備をして、親しい人たちも打ち寄って歓談していたところへ、ふと、白い餅がひとつ落ちてきた。喜六は、姉が落としたものと思って大いに叱ったが、姉は覚のないことに疑いを受け、泣きだして奥へ引っ込んでしまった。
 この餅は、そのうちどこかへ行ってしまったようだが、みな話に夢中でそんなことには気が付かない。喜六は、さて、来客に酒でも出してもてなそうと思い、燗鍋を出し、肴をこしらえなどして、窯の下に火を焼き立て燗をつけている内に、肴鉢が皆々失せて見えなくなってしまった。
「これはどうしたことだ。誰か片付けてしまったのか」
と、ちろりを下に置いて、女房と一緒にあちこち探しているうちに、また、このちろりも消えてしまった。これは一体どうしたことだろうと思っていると、今度は茶釜が俄かに動き出して台所を転び歩いたので、各々も今はたまりかね、身の毛立って逃げ惑ううちにも、或いは立臼がひとりでに動いて門口へ行き、或いは半櫃が躍り出て上がり口に居直ったかと見ると、先ほど失せた酒肴がその上にある。さらに持仏堂より仏が歩き出て座敷に居並べば、木枕が転がって行ってその前にある。そうかと思うと、餅がいくらともなく湧き出て枕の上に乗るなど、娘も母親も皆々逃げ惑っていた。
 しかし、さすがに喜六は力自慢なだけあって、金剛杖を押っ取り、
「おのれ化物め。俺を尋常の者と思うでないぞ。古狐か狸の仕業に違いない。ただ一打ちにしてくれん」
と、庭に降り立ったが、その頭の上から、大きな石が喜六の鼻筋をこすって、はたと落ちかかって来る。これはどうしたことかと振り仰ぐところを、縁の下より、何者かは判らないが、喜六の双脛をなぎ倒す奴までいる始末であった。

 さしもの喜六も、さまざまの物怪(もっけ)に持て余して、何院とか言う山伏を頼んで祈らせたが、山伏さえも、独鈷を取れば錫丈が消える、数珠を取れば灯明が飛び上がる、さらに物の怪は、山伏の袈裟を取って引き倒す程に、終に山伏も自分の行力が及び難いと覚え、やがて祈祷の壇を降り、
「私の徳が至らぬ故です」
と、贖罪の真言を唱え、疲れ果てて横になり、降魔の利剣を枕元に置いて暫く休もうとしたが、その枕がひとりでに踊り跳ねて、休もうにも休めない。
 一同は、こうなったら気休めでもいいから、魔除けでも何でもして一夜を明かし、とにかく災異が現われないでくれればよしと、知っている魔除けの方法で一加持しようと言い言いして、その座に在り合う者どもが打ち寄って、骨牌(かるた:注)打ちなどして銭を賭けた。

注:現在の絵カルタや百人一首の類ではなく双六のことと思われる。ただし現在の人生ゲームのように「振出し」から「上がり」までを競う絵双六ではなく、サイコロと碁石のような駒を使って対戦する盤双六(=西洋のバックギャモン)をいう。
 ではなぜこの場面で盤双六を始めたかと言うと、そもそも双六は、幾何学的な図形を描いた盤の上で、サイコロの出目に従って神の意思を伺う占術であったので、時代が下がって遊戯性が勝ってきてもなお、双六には魔除けの力があると考えられていたからである。
 また、サイコロは各面が正方形であるが、正方形(同じ理由で円も)は完全な形で隙間がないことから「魔が入らない」と考えられ、サイコロを使った遊戯には魔除けの力があると信じられていた。
 蛇足ながら、これらのことから、1年の邪気を払う意味で双六は正月の遊びになった。現在でもサイコロは魔除けとして、お守りやキーホルダーによく使われている。


 夜が更けるままに、喜六は双六に興じる人々をもてなす料理を作ろうと、俎板に豆腐を載せ包丁を当てようとしたら、この豆腐が人のように立ってゆらゆらと歩き、細い手さえできて、骨牌の場に行って、
「俺にも銭をくれ」
と言ったので、かの山伏も肝を潰し魂を失い、逃げ去ってしまった。
 喜六は豆腐の手を捕らえ唾を吐いたが、妖怪はひるむ様子もなく、
「我々は、お前の家の婿たちだぞ。一人の名は九郎といい、今一人は四郎という。何で無礼をするのか」
と名乗った。
 夜が明けて喜六は、急いで北野の方へ尋ね行き、智光とかいう真言者を頼んだ。
 智光は喜六の家に行き、まず赤い縄で一間を仕切り、手に印を結び、口に密呪を唱え、剣を抜いて妖怪の名を呼び、縄張りより外にさまざまの供物を整えて加持祈祷を続け、それが夜半にも及ぶかと思う頃、墨のように真っ黒で、大きさは子牛ほどもある化物が這い出てきて、供えた酒肴や供物を食おうとした。
 ここぞとばかりに智光は、剣を取って飛び掛かり一刀刺した。刺されて逃げる化物を、手燭を灯し後をつけて行くと、裏口の縁の下で蹲っていたのでよくよく見ると、正体はわからないが、ただ黒革の袋に似て口も目もない物であった。
 そこで皆でこれを引き出し、薪をその上に積んでみて焼き殺したところ、家の中の物が勝手に暴れ回る怪異はぴたりと収まった。
 しかし、それから程なく、今度は妹のほうに物怪が憑いて、
「我が兄の九郎は姉娘に憑いていたが、殺されて骨となってしまったので、我ひとりが今、この妹に憑いている。兄が亡くなったのは喜六のせいだ。恨めしい」
と言って、夜毎に泣いたのを、智光はまた剣を抜き、肘をいからし、声を激しくして怒鳴りつけた。妹は大いに恐れ、額に汗を流していたが、そのうち妹の肘がにわかに腫れあがり、みるみる大きくなってきたので、智光が剣をさし当てて二刀刺せば、血が二斗ばかり流れ出た。しかしその後、妹の病も恙無く治っていった。

巻2の5 桶町の譲(ゆずり)の井

2018-03-15 | 御伽百物語:青木鷺水
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 江戸に、名井戸と名の付いた所はいくつかあって、隅田町の亀の井、自称院の蜘蛛の井、小石河の極楽の井、亀井戸の渕の井、玉水の井、興福の井など、全部で18か所を数えた。
(注:江戸は地下水質が悪く、そのまま飲めなかったので、「水売り」が商売として成り立つほどであった)
 桶町の譲の井というのは、その昔、この町を開いて住み始めた者の名を、桶玉太郎作と言ったことに由来する。
 この者は生来、情け深く慈悲のある者で、他人のためになる事であれば、我を捨て、家職を止めても、何とかしてあげようと、常に人の世話ばかり焼いていた。
 そもそもこの地は水の不足した所なので、多摩川の流れから樋を引いて、町小路に枝分かれさせて水道とし、朝夕の用水としていた。
(注:これは「玉川上水」として有名で、江戸には、こうした上水が各所にあった)
 しかし太郎作の井戸だけは、清潔にして、夏は冷ややかに、冬は暖かにして、鉄気(かなけ)もなく、京都の水に変わらないと評判で、太郎作は、近辺の、五町十町ぐらいまでの家々には水を汲ませ、遠いところへは自ら汲み運んで、人の役に立てることを悦んだので、この水は、桶町の冷水として誰知らぬ者もなかった。さらに太郎作は、夏の日の炎熱に行きかう人の汗を冷やし、喉を潤させようと、終日、水を通りまで汲みだして接待をするなど、万事に心配りをしていた。
 その日もまた太郎作は、いつものように水と茶の接待をして家に帰ろうとしたが、太郎作の子で、兄は太郎市という名で21歳、弟は太郎次郎という名で16歳の2人が、もう少し続けたいと言って、手分けして冷水を持って行き、辻接待をしていた。
 昼過ぎになって太郎次郎が家に帰って、父に向かい、
「今日、私が数寄屋橋の辺りを通ったら、16・7の娘が腹を痛めて歩けない様子で居て、私に水を乞いて薬を呑みたいと言うのです。でも生水で薬を呑めば、もしかすると余計に腹が悪くなってしまうのではないかと思い、ここまで連れて帰りました」
と言った。
 太郎作はもとより慈悲深い者なので、よくぞ気が利いたものだと悦び、娘を呼び入れた。娘は清楚な髪形に、下に白無垢、上には無地で花色の小袖を着ていた。
 さて、さまざまに介抱しつつ、
「どこから来なすった。どこへ行きなさる」
と問えば、娘は、
「私が育った所は、芝の増上寺前で、菅野何某と言う者の娘です。去年の冬、神田の台所町にご縁があったのですが、私がそこへ嫁いですぐ、父も母も相続いて亡くなりました。その喪もまだ明けぬうちに、夫にさえ死に別れてしまい、子がある身でなければ、夫の家にも居られず、浮世に身寄りもなくなってしまいました。今は尼にでもなるより他に仕方がないと思うにつけ、故郷の兄を頼りに、とにもかくにも今朝より宿を出たのですが、頻りにお腹が痛くなってきました。そこで、水を頂きたいとお願いしたのですが、有難いご縁で、このように労わっていただき、そのお心ざしは決して忘れません。ただ残念なことに、今の私には、お礼をしようにも、その術がありません」
 と言って、さめざめと泣いた。
 その言葉遣いや立ち振舞いから、しかるべき家柄の娘であることはすぐに分かった。それが余計に、哀れともいとおしいとも思われ、太郎作夫婦も懇ろに、
「そういう事情なら、急ぐ道でもないでしょう。しばらくここに留まって、十分に休んで、腹をも療治してはどうですか」
と勧めた。
 娘はすぐに回復して、太郎作の妻が洗濯などの家事をするのに、この娘も甲斐甲斐しく襷を引きかけ、共に縫い針を扱うなど、なかなかの手利きで、そのうえ読み書きも達者で、しかも、それらがみな、人に優れていたので、太郎作も一層大切に思い、妻もまた、愛おしいと思うようになった。
 太郎作は、さてこの上はと、試みに、
「頼る先がない身の上だということだが、誰かを選んで夫にしようと思う気持ちは、もう、ありませんか。それとも、どこかに誘う水さえあれば、夫婦の語らいをして、共に世を渡ろうとは思いませんか。もし嫌でなかったら、息子の太郎市と一緒になって、うちの嫁になってもらえませんか。そうしたら、今日よりすぐに、この家をすべて、若夫婦に任せたいと思うのですが」
と語れば、娘は少しも嫌がる様子なく、
「これほどまでに仰っていただく御心ざしには、たとえ私の命をもってしても報い足りないほどです。まして浮き草の、寄る辺もない身となった今では、おっしゃるとおり、誘う水もあれば、という気持ちも確かにございます。いかようにも、仰せに従いたいと思います」
と言う。
 夫婦も悦んで、早速、太郎市に娶らせ、祝言をとり行い、
「夜も更けてきたようだ。そろそろ休みなされ」
と、太郎作夫婦も、心よく酔い伏した。
 娘は太郎市と寝屋に入ったが、折りしも暑さが堪え難かったので、太郎市が窓も障子も開け放って寝ようとするのを、娘が諌めて、
「この頃は物騒で、盗人の心配もあります。門や瀬戸をよくさし固め、障子には尻差し(掛け金・心張棒)をしてください」
などと、万事に心遣いして、床に入った。
 早や、夜も九つ過ぎになろうかと思う頃、太郎作の妻が、悪夢でも見ているのか呻いていたので、太郎作は目を覚まし、
「どうした。これこれ」
と妻を起こした。
 妻は、まだしばらく悪夢に慄いている様子であったが、やがて人心地ついて、
「眠りについて夢を見たのですが、夢の中で太郎市が、髪を振り乱し帷子も引き裂き、尋常でない様子で来て言うには、『私の父、太郎作の親は、その昔、無二の狩人で、殺生を業として禽獣の命を奪ったり、山賊や追剥の親分をやっていました。そして、その時に殺された人や獣の怨念が今なおあって、父を貧しい身の上に落そうとしたのですが、父は生得、慈悲を行い仏道を信じていたので、怨念たちも、それ以上の災いを降りかからせられず、父は貧を転じて立身することができたのです。しかし怨念が消えたわけではなく、今なお前世の怨敵を三年の間に祟ってやると、その報いを私に負わせて、鬼が今宵、私を取って食ってしまいました。しかし、わが身を捨てるのは親への孝と申します。これでもう、末永くこの家に祟りをなす物はないでしょう』と、さめざめと泣いて私に語ったところで、夢が覚めました。あまりにも気にかかる夢でしたから、太郎市を起こしてみましょう」
と言うのを、太郎作は信じず、
「五臓の調子が悪い時には、そのせいで悪夢を見るものだと言う。嫁が来て、世帯を渡す事をはじめ、我が家には心配することなどないぞ」
と諌めて、再び床に就いた。
 ところが母親は、引き続いてまた同じ夢を見てしまったので、今は母親も堪えかねて、夫婦とも太郎市の寝間に行ったところ、襖も戸もがっちり固められて開かなかった。「太郎市」と呼んでみても答えがない。嫁を呼んでも返事はない。いよいよ心配が募って、戸や建具を壊したり窓を打ち破りなどして、寝間に駆け入って見れば、さも恐ろしい鬼の、両眼は火のように光り口は耳の際まで切れ、振袖の帷子を着たままのが、太郎作夫婦を見て大いに驚き、天井を蹴破って失せ去った。見ると、蚊帳の内には太郎市が、首の骨や手足などがわずかに残されただけの、無残な姿となっていた。
 夫婦は遺体の欠片を、泣く泣く拾い集めて納めた。

巻2の4 亀嶋七郎が奇病

2018-03-10 | 御伽百物語:青木鷺水
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 泉州境の津に名高い大寺は、その昔、聖武天皇の勅命によって仏寺となり、大念仏寺と号したが、元は住吉大社の別宮で、木戸村、原村、開口村、これら三ヶ村の氏神であったため三村大明神と号し、塩筒の翁(塩の神様)を勧請した所である。

 この寺の住職に契宗という法師がいて、もと亀嶋の住人であり、契宗の親族も多くがそのあたりに住んでいた。
 あるとき、この僧の兄で七郎という人が、軽い風邪を引いたような気がして伏していたが、物の怪の仕業かどうか、高熱を発して、戯言をつき、狂気の状態になってしまったので、かの契宗を呼び迎え、祈祷をさせた。
 契宗は兄に向かって香を焚き、印を結んだり、真言陀羅尼や理趣分(お経や呪文)を唱えたりして懸命に勤めたが、兄はからからと笑って、目を大きく見開き、
「お前は三村の堂僧のくせに、要らぬ加持祈祷など止めて、早々に寺へ帰り、自分の勤めるべき寺務でもしておればよい。何も余計な神咒を行って、我と敵対することはない。我が常に住む所は小林寺の辺であるが、そこにある地蔵の首を切らせたのも我である。また、岡口町に住んでいた頃は、鼠楼栗新左衛門という奴が我を奉っていて、奴からもらった恩は数えきれない。このゆえに、我は鼠楼栗を引き立てて太閤秀吉の御前に出し、鼠楼栗は鞘細工の名工として大綱秀吉の気に入られ、一生裕福に暮らせたのも、我の力である。それのみならず、狂言師として名高い、今春座大蔵弥太郎という者は、伊賀の国青野の城主、嶋岡弾正の一子で北畠殿の旗本であったが、この家が没落して以後は、大倉家の養子となった。この弥太郎が宇治に居住していた頃、我に信心を起こして、一家の秘事としたので、狂言の名手にしてやり、大倉派の宇治の弥太郎として名声を得たのも、我の行ったことである。そして今、お前の家も、宿善の催すところによって繁盛に向かうであろうから、しばらくの間は、お前に富貴の目を見させてやろう。我をよく信じるならば、ますます大きな富貴を得ることもできる。しかし、我を悪くもてなしたならば、却って、大いなる妨げを得るであろう」
と話した。
 これには契宗も呆れ果て、年を経た狐か古狸の所為と見破り、桃符(とうふ:魔除けの札)を造り、口ではしきりに神呪を唱えた。
 すると兄はいよいよ嘲笑って、
「お前は、兄に向ってそのような仕打ちをするなど、人の道に外れた行いではないか。神は、まさにお前を罪に堕とさんとし給う。たとえ抵抗しようとしても無駄なことだ。見るがいい」
と言った。
 契宗が、空恐ろしさのあまり、そろそろと尻込みする様子を見せた時、兄はこの機に乗じ、俄かに立ち上がって、母の手をとって引き立てたら、母は忽ち重病に罹ったかのように卒倒して気を失った。また、兄か契宗の妻の手をとって引いたかと思うと、その妻はたちまち頓死ししまった。兄はなお走りだして、弟を引っ張っていこうとする。弟嫁はあわてて取りすがろうとして、その兄と目を見合わせた途端、眼がつぶれて、物を見ることができなくなってしまった。
 兄はまた、契宗に向かって、
「お前は、我がこの神変を起こしたのを見ても、なお寺に帰ろうとしないのか。よし、それでは、我の眷属どもを呼び寄せて、お前の加持を邪魔させてやろう」
と言って、ひたと手を招くようにすれば、通常のものより大きな鼠どもが数えきれないほど駆け出て、杖で追っても一向に恐れる様子はなく、一晩中騒がしく駆け回ったが、夜が明けると一匹も見えなくなっていた。
 これらの怪異に対して、契宗も懸命に加持を続けていたが、もうこの頃には、心は疲れ、気力も尽きて、恐ろしさが弥(いや)勝り、終いには自分自身もこの化物にとり殺されてしまう恐怖を覚えた。それならば、どうせ今は自分の命さえ危うい状態だから、兄を殺す罪を被るのも致し方ない、自らの命を引き換えにしてでも鬼魅を退けてやろうと胸中を定め、身命を惜しまず、不動の慈救咒大悲咒を繰りかけ繰りかけ、九字を切ったりして祈り続けた。
 すると兄は、
「いらぬ精気を尽くし、手足をもがき、懸命に祈っているようだが、我は少しも恐れておらぬ。その証拠に、もっと大きな者を呼び寄せ、遊ばせてみせよう」
と言い、大きな声で「寒月寒月」と呼べば、着物の裾から、大きさは狸ぐらいだが、毛の色は火のように赤く、眼の光は陽のように明るい獣が這い出てきた。

 契宗は、壇上に祀ってあった剣をつかんで獣に飛び掛り、はたと切りつけたところ、獣も終に駆け出し表を目がけて逃げだしたので、後を追いかけたが、かの獣には逃げられてしまった。しかし契宗は、何か黒い物がひとつ、側にあった壺の中へ走り入ったのを見逃さず、この壺の口を堅く封じ、三日三夜祈った後に開いて見ると、その形は変わらず獣のままだが、鉄(くろがね)のような剛毛の生えた奴がじっとしていた。契宗は、あまりの恐ろしさに、壺に油を注ぎ、壺の蓋を堅く封じて、獣を火で炒り殺した。
 これより、かの病人は程なく癒えて、また平生に変わらることはなかった。

巻2の3 淀屋の屏風

2018-03-02 | 御伽百物語:青木鷺水
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 淀屋の何某という者は、難波津で第一と言われる富貴を極め、万事、欠けることのなかったあまり、道楽に財産を浪費し、何に依らず一芸に秀でた者を招いたり、あるいは尋ねて行ったりして、楽しみとしていたので、ありとあらゆる名人や堪能の輩が、我先にと集まって、芸を争っていた。

 ここに元禄二年二月、天王寺の御開帳があって、都からも田舎からも、富める者も貧しい者も心寄せにして、日夜、幾万の人が群集をなしていた。
 その中に、何とかの等淑とかいう、狩野永納(1631-1697)に師事して都で名を挙げた者も、天王寺の御開帳を見るため難波津へやって来たついでに、かの、名人どもを集めて芸比べをさせるという淀屋へも訪ねてみたいと思い立ち、この地に来て、あちらこちらの伝手を頼って、かの家に取り入ることができた。
 ある日、この等淑が墨跡を望まれ、竹林の七賢を六枚、屏風に書いた。
 その様といい、その風景といい、まことに常々公言していたその言葉に劣らず、さながら阮咸・向秀(ともに七賢人)も生きて語るが如くで、誰もが肝をつぶし、感に堪えかねた。
 ところが、淀屋の座に在り会う客の中で山本瑞桂という者は、これも絵画の名人としての評判を得ていたことから、この家に来るようになり、今日も座の中に列していたが、等淑の墨絵をつらつらと見て、
「まことにこの絵は、よく描けております。しかしながら今少し不足なことには、その心映えまでは描ききれておりませぬ。風景や人物の様子などはよく描けていると思いますが、絵の中の人が楽しんでいる体を描かれておらず、これがこの絵の珠に疵です。私が、旦那のために、この絵を直して差し上げましょう。直すといっても、この屏風を描き汚すわけではありません。ただ、このままで、格別な絵に直し申し上げましょう」
と言った。亭主をはじめ一座の衆は、
「これは稀有な言い分ですな。たとえ本当だとしても、聞き捨てなりません。あなたや我々の間では、何を言ったとしても遠慮のない間柄ですが、初めて来られた等淑さんの前では、気の毒でしょう」
と言ったが、瑞桂はなお聞き入れず、いよいよ言い募るので、等淑も今は堪えかね、
「それならば、貴殿のお手並みを拝見したいですな」
と望んだ。
 両者の収まりがつかない様子に、亭主も何とか止めようと思い、
「二人とも。もはや我々には関わりのない話になってきているようだが、瑞桂さんもそうまで言うのなら、余程、腕に覚えがあって、さだめし人に真似のできない技術をお持ちなんでしょう。しかし、これほど事がこじれたら、そのままにしておくわけにもいきませんな。もし、仰ることが本当であれば、私は金百枚を出して、瑞桂さんに差し上げましょう。しかし、仰ることが偽りであったなら、金十両を我々に礼物としなされ」
と吹っかけた。これに等淑も図に乗って、
「なるほど御亭主の了見どおり、絵のことが、真におっしゃるとおり御直しされたなら、私も金子百両を差し上げましょう」
と言った。

 それを聞いて瑞桂は、我が意を得たりとばかりに、やがて屏風に向かい、飛び上がったと見えたが、そのまま姿が消えてしまった。人々は立ち騒ぎ、そのあたりを隈なく尋ね求めたが、瑞桂がどこへ行ったか分からなかった。
 皆が奇異の思いに包まれていると、屏風の絵の中から瑞桂の声がして、
「何と各々方、偽りではないことをお見せしましょう。只今、絵の模様を直しますぞ」
と言ったが、しばらくして屏風の絵の中より瑞桂が現れ出て、もとの座に帰り、一座の人に教えて、
「いまこそ、この絵に魂が備わりましたぞ。絵の中の人々は、これほど良い景色を見ながら楽しみ遊んでいるのに、人々の魂を見るに、この景を楽しんでいる様子には見えません。ですから、この七人のうち阮籍の顔を、笑う様に描き直しました。よく寄って見てください」
と言うので、人々が打ち寄ってよく見ると、なるほど等淑の筆が及ぶところではなく、阮籍の像一人は、口元が他の者に似ず、真実よりこの景色を楽しみ、まことに笑みをふくんだ様子は、言葉では言い表せなかった。
 等淑も、今はあきれて詞(ことば)もなく、絵をそのまま保存して、なおその上に瑞桂の妙技を記し伝えたいと望んだが、瑞桂はいつの間にか逐電して、その行方は分からなかった。

巻2の2 宿世の縁

2018-02-25 | 御伽百物語:青木鷺水
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 西八条遍昭心院大通寺は、世に尼寺として知られ、その昔は清和天皇(850-881)の第五王子、貞純親王(873-916)の宅地であって、六孫王経基(?-961)も相続いて住んでいたところであるが、ここに葬られて、その墳墓うず高く、長い間埋もれることもなく星霜を経たところに、去る元禄十四年の冬、新たに官社を造営することとなった。

 神宝や社務が立派に改築され、甍には花を飾り、軒は球を磨き、再び栄えているような光が世に隈なく、洛中の者がみな貴賎を問わず、袖を連ね、踝を突き、我も我もと歩みを運ぶ中に、京極の西、冷泉の北にある何某の坊とかいう許に、宿を定めていた花垣梅秀という書生も、この地に来て彼方此方と見巡る序で(ついで)に、その寺のところにある湧泉はどんな具合だろうと訪ねたら、これも今は門内に引き入れられて、周囲を四角に堀り渡し、池のように造り構えて、井の上と思われるところに祠を建て、誕生水という札を立てていた。また、社の内をさし覗けば、弁天の像が納められていた。
 梅秀は、もとより天女に帰依し、常に天女の像を拝んでいたので、この時も、しばらく拝前に頭を傾け、法施を参らせていたところに、どこから吹き落ちたのか、小さな短冊が風に翻って、梅秀の前に落ちのを、何となく取り上げて見れば、歌が書かれていた。
「しるしあれど いはいぞ初るたまはらき とるてはかりの ちきりなりとも」
と、俊成卿が詠まれた初恋の歌が、女の手で美しく書かれていた。
「さても、世にはこれほどの能筆もいるものだ、この文字も美しい筆遣いながら、文字映り、墨色、どれも素晴らしい書き様だ」
と見るに、これが静心なく梅秀の身に沁みて、
「どうか、この主の家はどこにあるのか知りたい」
と思い初め、これが明け暮れの物思いとなってしまい、学問は疎かになり、読書の暇も露忘れてしまっていたが、、
「まあ、こんな時はしょうがない」
とうそぶいて日を送っていた。
 これほどの物思いに梅秀は、常々信心している、誕生水の弁天に歩みを運び、「どうかこの筆の主に、一たび引き会わせ給え」と懇ろに祈り、七日参りを始めて、その満ちる夜ごとには必ず尼寺に籠って、終夜、念じていた。
 ある夜、同じように、この尼寺に通夜していたところ、夜更けになって人が寝静まった後、惣門の外に人の音がして、案内を乞う者があった。内より「はい」と答えて門を開く音がするので、訝しんで見やれば、その様子、気高く艶やかで、年は七十ばかりと見える翁が、水干に指貫、頭の脇には烏帽子を引き込み、沓音ゆるく歩み入って来た。梅秀も、宮の前を立ち退き、傍らに忍び、事の次第を伺うと、この雲客(清涼殿に昇ることを許された者)は、誕生水の前に跪き、敬って何かを待っている様子と見えた時、社の扉が押し開かれ、鬢づらを結った児が一人、玉の御簾を半ば捲いて立ち出で、この雲客に向かって宣うには、
「ここに、あまり似つかわしくないながらも、恋を祈る者がいる。あまり思いが強く嘆いているので、不憫に思われて、そなたを召したものである。宿世の縁(えにし)もあるのなら、引き会わせて賜れ、との仰せ事があった」
と、高らかに宣わったので、かの上人は畏まった様子で、左の袂より赤い縄を一筋出し、梅秀の居る方に向って、しばらく引き結ぶようなしぐさをしていたが、その後、その縄を捧げて御灯の火に焼き上げ、三度、手を上げて招けば、本堂の方より物音がして、静かに歩み来る者があった。近づくままによく見れば、年の程、十四五と見える女で、容顔美しく、髪を刈りった類なき美人が、たいそう恥ずかしげに、扇で顔をさし隠しながら、梅秀の左にそっと寄ってきた。

 そのとき、先ほどの児(ちご)が梅秀に言うには、
「まことに、汝はこのところ、心を尽くしきれぬ程の恋に身を苦しめ、恋一筋に嘆く心ざし、我々も捨て難くて、月下の老を召し寄せたのである。汝を、短冊の主に引き会わせよう」
と言って堂の中へ引き上げて行き、、翁も御暇を給わって門外に出た様子であった。
 梅秀は、夢から覚めたような心地であったが、早や、寺々の鐘の音が響き渡り、夜はほのぼのと茜さし、東の空も白んできたので、神前に帰りを申し上げ、喜び勇んで我が宿へと急ぐ道で、かの現(うつつ)に見えた女が出迎え、睦ましげに梅秀を見て会釈した。梅秀は不思議に思いながらも、女と会えたことが嬉しく、なにやかやと語らいながら誘い帰るに、女も、露ばかりも厭う気色なく、打ち解けつつ梅秀に随って行った。
 梅秀も最初のうちは、もし、人に見咎められたり、不審に思って尋ねてくる人がいるかもしれないと、用心して忍んでいたけれども、特に、誰かが何かと言うこともなく、外で噂されることもなければ、今は心安く女をもてなした。それにしても、女と親しくなるにつけ、心栄え優しく、織物を織り縫う技色も人に優れ、万事、理想の人であったので、梅秀の嬉しさも一入であった。
 ある冬、梅秀は用事があって出かけていて、冷泉を西へ、洞院を南へ、六角の方へと歩いていたところ、とある家から梅秀を呼び止める声がした。梅秀が「このあたりに私を知っている人はいないはずなのに、どうしたことだろう」と思いつつ、その者が呼ぶ家の前に来ると、主人と思われる人が表に出て、梅秀に向かい、
「突然、呼び止めまして大変申し訳ありません。実は、弁天様の御告げがありまして、あなた様をお招きした次第でございます。私には一人の娘がいて、今年十五才になるのですが、世間様の娘と同じように、縫い針の技も恥ずかしからず、生まれつき器量も程よく、然るべき方とのご縁があれば幸いと、明け暮れ祈っておりました。拙宅では、弁天様を信じておりますので、洛中にある弁天様の社に、この娘が書いた詩歌の短冊を、祈願のために納めさせたところ、ある夜の夢に弁天様の御告げがありまして、『汝の娘には宿縁がある。だからもう、良い人と引き合わせておいた。この冬、必ずここに来るであろう』と仰ったのですが、本当かどうか心もとなく過ごしていましたところに、今宵また、ありありと御示現があり『明日の暮れ、ここを通る人がいる。その人を呼んで婿にせよ。末は必ず立身出世する人である』と、人相、年の程まで、細やかに教え下さいました」
と語った。
 梅秀も怪しさを忘れ、そうまで言われるのならと、心を落ち着かせたが、しかし今まで我が家にいる人はどうしようと思いながらも、まずは、この人の言うに従って、この家の娘に会ってみようと奥に行けば、かの東寺より連れ帰った人に他ならなかった。
 梅秀は二度も肝をつぶす羽目となったが、後でよく聞けば、天女の方便で、この女の魂を梅秀のもとへ通わせ、夜毎に会わせていたということであった。

巻2の1 岡崎村の相撲

2018-02-19 | 御伽百物語:青木鷺水
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 筑前の博多、黒崎などというあたりは、よい相撲取りが大勢いる所である。
 元禄十二年、京都岡崎の村で勧進相撲を取りむすぶこととなり、諸国に人を遣わし、抜き手の者どもを選んで上京せよとの沙汰があり、当国の男どもの中には、両国梶の介、金碇仁太夫という者を始め、たくさんの相撲取りどもが、ここぞとばかりに勝負を挑み誉を得ようと、我先に京へ上る支度をしていた。
 そうした、各地の取手どもが数多寄り集まる中に、捻鉄九太夫(ねじかねきゅうだゆう)と言う者は、歳は未だ三十足らずであるが、その力は邦中に類なく、技もなかなかの使い手で、およそ四十八手は言うに及ばず、さまざまな妙手を取る者であったので、人々は皆、彼を師とし、兄ともてはやし、彼を超える者はいなかった。
 上方の相撲は絶えて久しく沙汰もなかったのであるが、このたび珍しく勧進相撲が催されることになり、九太夫も、我々が日頃稽古に励んでいたのは、わが故郷の名誉のためであり、また今回は、一芸に長じて名を上げる好機でもあり、いざ自分も参加して、万人の目を驚かせてやろうと心を決め、関取の数加わることとした。
 生得、この九太夫は、他人に超えた肉食で、幼少より猟を好み、山野を駆けまわり、海河に出ては終日終夜、魚や鳥を狩り捕り、中でも狗(いぬ)を食らい猫を好んで、他人が可愛がって飼っているのにも構わず、犬や猫を押取り、奪い、殺して食らっていたため、その辺で犬猫を飼っている者は、家の奥深くに、綱をきつく結んで隠し、鳴き声さえも聞かせてはならぬと静かにしていたので、九太夫が好物を食べるには、東国北国の商人に頼んだり、相撲の弟子に乞うことも多かった。
 そんなことなど気にかけない九太夫は、早や四五日の間には都へ登るので、うれしや、上方へ登ったならば、思う存分、まず、好物を飽きるほど食ってやろうと、期待していた。
 九太夫はとりあえず、今日のところは宗像の山に入って、鳥を落として腹の慰めにしようと、獲物の鳥を手に、宗像へと急いでいたところ、惣髪の侍が二人、裃を折り目高に着こなし、大小を立派に差しこなして、気品のある様子で向こうより来た。九太夫は、彼らは隣国の太守か近州の人か、さては聞いたことのある巡見の上役かと思える貴族なのか、二人以外には供人もいないのはどうしたことかと思いつつも、程なく、二人は九太夫の傍に立ち寄り、
「お前は、音に聞こえた当国の相撲取り、捻鉄という者であるか」
と問うので、九太夫は思わず地に跪いて、
「はい。それがしの事でございます」
と答えた。かの武士が、
「しからば、これより二三町向こうへ参るべし。密々に申すべき旨がある」
と宣うに任せ、九太夫は心ならずも御供をし、どこへともなく行く程に、広々とした見慣れない野に出た。

 ここで両人の侍が九太夫に言うには、
「我々は人間ではない。本当は当国宗像の神使である。お前は数多の生類を殺し、その罪は軽くない。冥官は今、この罪の償いに、お前の百年の命数を縮め、早く黄泉の底に迎えて、殺された生類の怨みを報わせよとの鉄札が、すでに下っている。我々は、お前を迎えに来たものである」
と言うのを、九太夫は承知せず、
「何ということだ。人と鬼との道は異なっているものだ。お前らはどう見ても人ではないか。偽るのも相手を選べ」
と言って、なかなか請合わないでいた。
 そこで両役が、懐より建て文のような物を出し、九太夫に渡せば、不思議ながら開き見ると、
「天が生まれて地が現れ、神がその中にあられましてよりこのかた、山を産み川を生み、木草もろもろの、翅、毛生、角を頂く生き物の類、様々(くさぐさ)の物を生みまして、広く遠く、大日本(おおやまと)の国の御宝と見そなわし恵みます。わが国のあらゆるものはみな、この天神の手支(たなすべ)のものなり。地神(くにつかみ)のいとおしく見給ふ御子なり。しかるに、この博多の津の民、九太夫、邪の心をもって、為す処残酷で、僅かの食に口を甘くせんと貪り、数多の命を損なう。それが中にも、犬猫の肉を食らわんがために殺すもの四百六十頭、魚、鳥は数を知らず。悉く載せて鉄札にあり。のみならず、己が身の力を頼み、弱きを侮り、国中の百姓神の御奴を傷め損なうこと、隠しおおせるものではない。幽冥の簿は既に極まった。命算を奪い縮められ、世に交わるのも今日限りである。急ぎ、冥使に仰せつけて、速やかに九太夫を召し取り、殺生の罪を償わせ、畜生の怨みに報わせるべし。よって、命簿、件の如し」
と書かれており、墨色や朱印なども濡れ濡れとして、只今、認(したた)めたと見えるに、九太夫は身の毛よだちて恐ろしくなり、獲物の鳥をも捨てて、地にひれ伏し泣く泣く両人に向かって言った。
「まことに今日まで悪行を積んできたことを、今さら悔やんだところで甲斐もありませんが、悪行には報いがあるなどと知らず、地獄なんかないのだ、鬼神は心を戒めるための作り事だとばかり思っていました」
と、愚痴ともつかぬ言葉を述べ、
「是非もないことでございますが、暫時(しばし)、命を延ばしていただけませんでしょうか。人を助けるのは菩薩の行いとか申します。せめて仏の名を唱える間、お待ちください。どうぞこちらへ」
と、両人を強いて町へ連れて行って酒屋に案内し、様々と訴えつつ、酒を買いととのえ、自分も三盃、引っ掛けて呑み、両使にも各々三盃ずつ飲また。そして両使のうち一人が言うには、
「なるほど九太夫の心ざしの程も不憫である。それに、このような饗応(もてなし)にをいただいた芳志もある。よしわかった。お前のために命を乞いて来てやろう。しばらくここで待っておれ」
と言って立ったかと思うと、瞬く間に帰ってきて、
「よいか、命が惜しければ、銭四百貫文を差し出すがよい。三年の命を仮に延ばしてやろう」
と言ったので、九太夫は大喜びし、明日の昼までとの約束で、両使は帰っていった。
 酒屋の主には、この両使は全く見えていなかった。ただ、九太夫ひとりが狂っていたように思えていたのだが、給仕した六盃の酒は、杯はそのままであったが、中身は悉く水になってしまっていた。
 さて九太夫は、約束の銭を都合するため、家財を売り払い、働き口を探して給金を前払いしてもらうなどして、何とか四百貫文をととのえ、午の時至って仏前に供えたところ、昨日の両使がまた来て、この銭を取って帰ったので、九太夫も、ようやく少し安心した。
 ところが、三日が過ぎて、例の侍が再びこの家に来た。
「お前は忘れているようだな。今日は冥土へ来る約束だぞ。冥土の三年というのは、娑婆では三日のことだ」
と言って九太夫を引き立て、ついに九太夫は死んでしまった。

巻1の5 宮津の妖 附 御符の奇特ある事

2018-02-13 | 御伽百物語:青木鷺水
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 丹後の国、宮津という所に住む須磨屋忠介という者は、絹を商っており、たくさんの機織り機を糸繰りの女たちに使わせ、日夜、家業を怠らなかったので、年ごとに栄えていって、雇人も大勢になっていた。
 その中で、長年勤めて古参に数えられる源という糸繰りは、出身が成相の脇で伊祢という村の者であったが、幼い時に父と離れ、母ひとりの手で三つ四つまで育てられた。この辺の者はみな、網を引き魚を採って生活している所であったので、かの母も、いつも源を抱き負いて、浜に出て鰯を干し、鯖を漬けたりして、毎日を過ごしていた。
 そんな頃、どこから来たのか、年五十四・五ばかりの巡礼僧らしき者がこの里に来た。巡礼僧は、家々に物を乞うたりして身命をつなぎ、夜は、この後家の家を頼って一夜を明かしたが、家の中に入って親しく寝ることはなかった。ただ、表の庭に筵を敷き、門の敷居を枕として寝ていたので、日が暮れてからは、家の中から出ることができず、外から来た人も、この寝ている僧にはばかって入ることができなかった。その上、この坊主は朝寝坊であった。しかし、この寡(やもめ)は、少しも巡礼僧を厭う気色もなく、心良くもてなしていた。
 ある時、この僧が、
「長い間、ここに起き伏しすることをお許しくださり、心よくもてなして頂いた御芳志の程、決して忘れません。何かお礼をと思いますが、世を厭う身なので、感謝を表すべき世間の習いも知りません。しかしながら、この家の様子を見るに、度々、妖怪に悩まされているのではないかと思いますが」
と言えば、主の女が答えて、
「そのことですが、この家の話だけではありません。そもそもこの伊祢の村は、海に差し出た島先ですから、向こうの沖に見える中の島より、怪しい物が折々渡り来て、里人をたぶらかし悩ますのです。実は、私の夫が亡くなったのも、この物怪(もっけ)のせいなのです」
と語れば、僧が言うには、
「だからこそ、そのような怪異の兆しを認めましたので、お世話になった恩返しに、せめて、その難をお救いして差し上げましょう。そろそろ私も、故郷が懐かしくなりましたので、近いうち、遥かな所へ旅に赴きます。出発の前、今宵のうちに、この家の難を退けて参らせようと思います」
と言って、火を荒立ち水を浴びなどして、何やら呪い(まじない)の御札を認め、囲炉裏に向かって御札などを焼きあげれば、しばらくして、雨風の音が激しくなり、伊祢の山も崩れんばかりの大きな雷、稲妻の光が途切れる暇もなく、時ならぬ大夕立になって、それが中の島に渡ると見えたので、主の女は、気も魂も身から抜け出てしまいそうで、縮こまって居るうち、ようやく雲が晴れ、星の光が爽やかになった頃、かの僧が言うには、
「さあ、もう安心です。この家には永く怪しい物は来ないでしょう。しかしながら口惜しいことには、いま一つの悪鬼を取り逃がしてしまいました。今から二十年を経た時、この家に難があるでしょう。そのときは、私がしたように、これを火にくべてください。これさえ焼いたならば、永く妖怪の根を絶って、子孫も繁盛するでしょう」
と、鉄(くろがね)の板に朱で書いた札を取り出して主に渡し、僧は泣きながらその家を立ち出でて、どこかへ去ってしまい、ふたたび帰って来ることはなかった。
 これより久しくして、かの女の育てた娘も成長して早や二十三歳になり、田舎には惜しいほど心ばえ優しく容顔美しく、他に優れた育ちだったので、人々は皆もてはやし、身分の高い賤しいを問わず誰もが心をかけていたが、この母は親心で、普通の人には嫁がせまいと大事に育てていた。
 この頃、都より、大内方の何某とかいう名の上達部(かんだちめ=身分の高い公卿)の家来で、年五十ばかりになる男が、城崎の湯に入った帰り、この丹後に聞こえた切戸の成相寺を拝みたいと思って、わざわざやって来て、あちらこちらと珍しい所々を見巡り、江尻より舟に乗って漕ぎ出させた。そして、この伊祢の磯を通った時、かの娘がいるのを垣間見てからというもの、心が思い乱れて仕方なく、暮れ頃になってこの磯に舟をかけさせ、船人や浦の海士に訊ねて回り、ようやくどこの娘か判った。
 男は、女の家の側に幕をうたせて宿にし、夜一夜、歌を歌い、舞を奏でて、酒を飲み、女を呼び出して酒を飲ませたりしていたが、やがて、かの見初めた娘のことを尋ねた。母はなお、心を高く持っていたので、都の人とはいえ、大酒を呑む者などに我が娘を会わせては、常々、恋しく想ってくれている、この辺りの人々にも面目が立たない、どうしても都へ行くのであれば、せめてどこかの卿相(高い身分)の側室にでも、と思って、男の言葉をよそ事のように聞き流して返事もしないでいた。
 かの都人は、いよいよ乞い侘びて、ひたすらに母の機嫌をとりつつ、村人に聞いた話を我知り顔に言ううち、
「いつぞや旅の僧がくれたという守り札は、今も持っているのですか。ぜひ見せてください」
と頼んだ。
 かの母は、常にこの守りを大事に思う心から、偽札をこしらえて持っていたのを差し出すと、都人がそれを受け取って見て、ますます強い調子で、「娘を私に下さい」と乞うことしきりであったが、母もまた、なお強く請合わないでいた。
 すると、今は都人も大いに怒り腹立ち、家来どもに、
「この上は、今宵のうちに隈なく家捜しして、無理にでも娘を奪い取れ。都へ連れて行くぞ」
と命じた。

 母親は、今となっては詮方なく、非道の難にあうことを嘆いたが、ふと思い出して、肌身離さず持っていたお守りの中から例の札を取り出し、茶釜の下の火にさしつけて焼いてみたところ、不思議や、俄かに大雷、大雨が頻りになり、稲妻がきらめく中から雷がひとつ、はたと落ちかかり、過たずこの家の向かいにある磯に落ちたと見えるに、雨は晴れ、夜が明けて見れば、かの都人と見えた奴らは、いずれも年を経た古猿どもが衣服を着けたものであった。
 さて、奴らが、かの家で取り散らした道具の数々は、おそらくこの世の物ではなさそうな、みな金銀の類であったので、申し出て、それを成相寺の宝蔵に納めた。

巻1の4 灯火の女 附 小春友三郎妖化に遣わるる事

2018-02-07 | 御伽百物語:青木鷺水
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 甲州青柳という所に、小春友三郎という者がいた。彼の祖先は元、太田道灌の家来で、小春兵助という武士であったが、文明の頃、主人の道灌は、上杉定正と戦った時に討死した。
 兵助はその時、重い病に罹っていたので、出陣せずに引き籠っていたが、戦の知らせを聞いて、具足に身を固め、手鑓を押っ取り、馬に飛び乗って扇が谷の戦場へと駆けつけた。しかし時すでに遅く、主君は討たれてしまったと聞いて、一気に病が重くなり、腰刀を抜いて鎧の上帯を切りほどき、腹一文字に掻き切り、自害して果てた。
 その子、兵吉という者は、その頃まだ3才であったが、乳母が懐に抱いて、些の知る辺を頼りにこの地へ落ち下り、深く隠して育てたが、時は移って世も変わり、いつしか住みついてしまって地侍の数に数えられ、今の友三郎に至っては、百石ばかりの田畠を支配して渡世していた。
 友三郎は、妻を同国府中より呼び迎え、二人の間には10歳になる女の子がいた。
 ある日この妻が、胸が痛いと言って床に伏してしまい、医療や灸治など、さまざまに手を尽くしたが、治る気配もなく、半月に及ぼうとしていた。友三郎は妻をいたわり、昼夜、枕元を立ち離れず、熱心に看ていたが、看病疲れのせいか、少しの間まどろんでしまった。
 しばらくして、灯の光が急に明るくなった気がして、目を開いて見上げれば、傍らに置いた灯の中から、三尺ばかりの女が影の如く湧き出でて、友三郎に向かって、
「お前の妻は、信心が浅かったために、魔物に魅入られて病気になったのだ。吾なら、この病気を祓うことができる。だから吾を神として祀るがよい」
と言ったが、友三郎は、元来図太くてしたたか者だったので、この怪にも恐れることなく、手元の短刀を引き寄せて女を睨みつければ、女はからからと笑い、
「吾の言うことを信じないどころか、逆に吾を憎むのか。よし、それではお前の妻の命を奪うとしよう」
と言うが早いか、姿を消してしまった。

 すると妻の容体が急変し、今にも死んでしまいそうになったので、友三郎も見るに堪えかね、改めて信心を起こし、一心に祈りを捧げたところ、妻の病はたちまち平癒し、まるで夢から覚めるように治ってしまった。
 女はまた現れ、友三郎に向かって、
「吾が、お前の難を救ってやったのには訳がある。吾には一人の娘がいるのだが、娘に、良い婿を選んで迎えたいと思うたからだ」
と言った。これを聞いて友三郎が、
「鬼神よ、天地の道と人間の世界では、雲泥の差がある。人間である私に、どうしたら鬼神のための婿選びができるのだ」
と問えば、女が答えて、
「なに、婿選びは難しいことではない。桐の木で、男の人形を作ってくれれば、吾が、その中から選ぶ」
と言うので、友三郎が、女の言うとおりに人形を仕立てて供えたところ、夜の間に、人形は消え失せてしまった。
 さて次の夜、女が再び現れて、
「良い婿を得られたのも、ひとえに貴殿のおかげだ。近いうちに、貴殿ら夫婦を呼んで、祝宴を開きたい。必ず来るがよい」
と言ったのを、友三郎は、有難迷惑だとは思ったが、詮方なく過ごしていた。
 そしてある夜、にわかに女が現れ、
「さあ、予て言った通り、今宵は吾が方へ迎えよう」
と、表の方を指し示せば、立派な造りの駕籠が二挺、迎えに来ており、その周りには大勢の腰元や供の者が侍っていて、友三郎夫婦に駕籠を勧めた。夫婦が、怪しく不安に思いながらも駕籠に乗り込むと、供の男女が前後を取り囲み、門を出た。
 折しもその夜は、空は曇り、星の影さえ見えず、行く手は墨を摺って流したようで、なお一層恐ろしく思えたが、駕籠は走るでなく飛ぶでなく進んでいった。
 しばらくして空が晴れてきた頃、一行は大きな館に着いたが、それはまるで国司の館のように立派で、中から多くの男女が迎えに出てきた。友三郎夫婦が中へ入って見ると、その綺麗さは言葉では表せないほどであった。
 そこに居並ぶ召使を見回すと、かつて友三郎が親しく語りあって、今は鬼籍に入った者がいる。または、友三郎の一族で、死んでから久しい人もいる。友三郎は大いに驚いたが、しかしそれらの者どもは、友三郎を見ても、まるで見知らぬ人を迎えるようにもてなしたので、ますます不審に思えた。
 奥の座敷には、かの桐の人形が化したと思われる男が衣冠を正しくして座っており、側にいる例の女と娘が、友三郎夫婦を上座に招き、さまさまざまなもてなしを為した。
 さて、時が経って酒も長じた頃、夜明けの鐘がかすかに聞こえ、八声の鳥(やごえのとり=鶏)の歌がしたかと思うと、不思議にも友三郎夫婦は、いつ帰ったとも知れぬ間に我が家へ帰り着いていた。
 友三郎もこれには驚かされ、ますますこの怪異を疎ましく思い、何とかしてこの妖怪を退けようと心を砕いていた折、また女が現れ出て、友三郎の傍近くへ歩み寄ろうとした。
 そこで友三郎が、手元の木枕を取り、狙い定めて女に投げつければ、女は枕に驚き、わっと言って消え失せてしまった。
 ところがその後すぐ、友三郎の妻は急に胸が苦しくなって、一昼夜の間に死んでしまった。友三郎はこれに仰天して、ひたすらに祈り、詫びを述べたが、再び女が現れることはなかった。
 あまりの恐ろしさに、この上は、家を引き払おうとしたが、家財や道具は言うに及ばず、鼻紙ひとつさえ、畳に吸い付いて離れなかった。それどころか、友三郎の娘も同じように病みついてしまい、程なく死んでしまった。

巻1の3 石塚の盗人 附 鉄鼠砂をふらせし事

2018-01-30 | 御伽百物語:青木鷺水
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 上古、神宮皇后を葬った陵は和州歌姫の地にあって、成務天皇を葬った陵と並んでおり、俗に、神宮皇后の陵を大宮と名付け、成務天皇の陵を石塚と言って、その頃の官職や大連が住んでいたところも、土師村、陵村と呼ばれ、これらは千歳を経た今でも残っており、世の中の移り変わりを見続け、成務、神功、孝謙、三代の陵墓が連なりながら、松の緑を誇っていた。

 さて、吉備の中山に隠れ住む、火串の猪七という者は、長年、盗賊の頭領であった。彼が住む山は、備前・備中にまたがっていたので、両国の取り締まりも行き届かず、猪七はそれをいいことに、時には武蔵野に野宿して江戸の繁栄に欲を出し、あるいは北国への船に身をひそめて津々浦々の旅客を悩まし、幾度も命の危険にさらされては逃れることを繰り返していたが、その猪七も春になれば、都を懐かしんで、まだ春の名残がある大和路を、故郷の歌姫へと急いでいた。
 猪七は手下を20人ばかり引き連れ、道々、盗みや強盗を働こうとしたが、この辺りの住人は賢明で、普段の暮らしの中にあっても非常時を忘れず、楽しく過ごす中でも万事に心を配り、用心深い人々ばかりであったので、猪七たちも、なかなか手が出せなかった。
 験直しで、一党は飲み明かしていたが、猪七が、
「おい、お前たち。この村にある陵を掘り返してみようじゃないか。様子が良ければ、いいねぐらになって、俺たちが他の地へ行くときの拠点にもなる。三代帝王の墳墓のうち、特に大宮は神宮皇后の陵で、四方に堀が巡らされていて、要害にもなる。さあ、力自慢の者どもよ、掘ってみよ」
と言えば、皆は我も我もと鋤鍬を携え、松明を掲げて、まずは成務帝の陵、石塚の掘り返しに取り掛かった。
 始めのうちは、土を石で突き固めたところに苦労したが、石を掘り捨てたところで水が湧き出て、土砂に混ざって泥になったところを掘り進めると、大きな石の門が現れた。
 門には鉄の錠が下ろしてあったので、胴突きで打ち壊し、門を開いて越え入ろうとした時、何者かが門の中から、矢を雨のように射てきて、盗賊ども7・8人が倒れ、死んでしまう者もいた。

 皆は、この不思議を目の当たりにして、呆気にとられて立ちすくんでいたが、猪七はもとより不敵者であったので、これぐらいの怪異はものともせず、手下どもを叱りつけ、
「死んでから久しい人を収め、永い年月を積んだ古塚だといっても、これは狐や狸の仕業ではない。昔の奴らが、塚を守るために仕掛けたカラクリに過ぎぬ。皆、石を投げろ」
と声を掛けたので、手下どもも気を取り直して、手ごとに礫を投げ入れれば、矢は石に向かって放たれるばかり。やがて矢種も尽きた時、
「者ども、入れ」
との号令に、一同は松明を一層明るくして、第二の門に取り掛かり、石の扉を跳ね上げて乱入した。
 するとそこにも、甲冑を着た武者が、眼をいからせて門の両側に立ちふさがり、太刀や長刀の鞘を払い、無二無三に斬りかかってきた。
 しかし猪七は、これをも恐れることなく、
「鍬や鋤で、叩き落とせ」
と命令したので、盗賊どもが鍬や鋤を振り回せば、さしもの太刀長刀も打ち落とされてしまった。よく見てみれば、武者だと思ったのは、悉く木を彫った兵の人形であった。
 俄然、勢いを取り戻した一同が、中へ乱れ入ると、殿上らしき場所があり、辺りを見回すと、中央に伏し給うのは伝え聞く成務帝と見え、七宝の襖に珠玉の褥、そこへ衣冠を正しくして東首(東枕)し、その周りには卿相雲客(お付の殿上人)が居並び、生きている人と少しも違わぬ威儀厳かな様子に、身の毛がよだった。
 その後ろに、大きな黒漆の棺があって、鉄の鎖で吊り下げられていた。さらに下には、金銀珠玉衣服甲冑さまざまの宝が連ねられ、古代の道具や什物がうず高く積み上げられているのを見て、盗賊どもが喜び勇んで、俺が俺がとばかりに争い取ろうとすると、吊り下げられた棺の中から、白銀で作られた鼠が一匹、猪七の懐に落ちかかってきた。
 それと同時に、棺の両側から、風の音と共に細かな砂が噴出してきて、盗賊どもの頭に雨のように降りかかってきて、松明を消した。盗賊どもは砂を振り払おうと、袖や頭を振り、鋤鍬を振り回したが、砂は止むことなく降り続けた。盗賊どもは逃げ出そうとしたが、時すでに遅く、砂は降り積もって、膝が埋まるまでになっていた。
 さしもの猪七も、恐ろしくなって逃げ出した。残った者どもも我先にと逃げ走り、門の外へ出てみれば、石の扉がひとりでに動き、陵の入り口は、元のとおりに閉ざされてしまった。
 猪七は、かの鼠が落ちかかったことを、その時は気に掛ける余裕もなく、逃げるのに精一杯であったが、それから程なく、癰(よう)というものを患い、故郷に帰って死んでしまった。

巻1の2 狢のたたり 附 豊後国日田の智円が事

2018-01-24 | 御伽百物語:青木鷺水
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 豊後の国、日田という所にいた智円と云う僧は、たいへん禁呪の術に長け、病人を加持すればたちまち妖魅(つきもの)が払われるなど、霊験あらたかであったので、近郷の者は誰もが足を運んで、寺の門前はまるで市でも立ったようであった。そして皆は、金銀や衣服、米穀などを喜捨し、あるいは建物や本尊の修理を買って出るなど、思い思いに寄進をしていた。
 中でも、近くに住む春田伴介と云う裕福な者が、恩を受けた謝礼として、庵を造立し、田地などを寄付したので、智円もますます徳を顕し、弟子の新発意(しんぼち=僧になって間もない人)と承仕(しょうじ=寺の雑用係)の法師との三人で豊かに暮し、10年あまりも過ぎた。
 そんなある日、智円が暇つぶしに、門のあたりにぼんやり座っていると、歳の程三十余りと見える、容姿端麗だが、何か訳でもありそうな女が、数人の供を召し連れて訪ね来た。そして智円に向かって、
「私は、ここから七八里ほど離れたところに住む、稲野の何某と申す者の妻ですが、夫の稲野は、何年か前に病で他界し、忘れ形見の子は、まだ十歳にもなっていません。しかし、女の身ながらも、稲野の名跡を絶やしてはならないと、家を治め、田畠を耕してまいりました。ほかには、七十を過ぎた私の母もおりますが、歩くことも難しく、歯もことごとく抜け落ちて、朝夕の食事さえままならず、私は子育ての傍ら、自分の乳を母にも分け与え、二年あまりも看病して、亡き夫が心配しないようにと努めてまいりました。ところが、この母が尋常でない病に冒されまして、いろいろと手を尽くしたのですが、露ほども験なく、伏せったままでいるうちに、妖怪の類さえ近寄ってくるようになり、恐ろしい思いをさせられ続けて、この頃では、乳も飲めなくなってしまいました。そこで私は、自分の身に代えてでもこの病を祓いたく、和尚様の御加持をお願いしたいと思って、遥々と訪ね来たのです。急にこんなことを申し上げて誠に恐れ入りますが、何卒、明日の未明に私の家へお越しいただき、加持などをしていただければ、御慈悲と思います」
と言って、さめざめと泣いた。
 智円が、
「お話を伺っては、誠に、哀れさがわが身にも沁みるようです。しかしながら、私は年が寄り、体も弱って、歩くにも不自由していますので、行って加持することは叶いません。何とか、その病人をここへ連れてきてください」
と言えば、女は、
「姑の病は大変重く、しかも日が経つにつれ、人が介助をしても起きることが難しくなって、もう、今日か明日かと思えるほどです。御慈悲ですから、家まで来ていただけませんでしょうか」
と言いながら、また、さめざめと泣き伏せた。
 智円も、あまりにの哀れさに、家まで行くことを承知し、住所などを聞いて、女を帰した。
 明くる日、智円は朝早くから庵を出て、彦山の麓にある里というのを頼りに、道々、訪ねて行ったが、女の言った住所はあったものの、女はそこに居なかった。それどころか、稲野という名を知っている者さえ誰一人おらず、智円は力を落とし、日が暮れるままに帰るしかなかった。
 その次の日、かの女が庵に来て、
「昨日は一日、待ち暮らしておりましたのに、お越しになられないとは、和尚の御慈悲に外れたことではありませんか」
と言ったので、智円も散々に腹を立て、
「昨日は、あちこちと訪ね歩き、言われた住所に着いてみたが、誰もいなかった。この老人を欺くつもりか」
と応えたら、女は嘆きつつ、
「昨日、和尚様がお越しになったのは、私の家から六七里ほどの場所です。お怒りはごもっともですが、人を助けるのは菩薩の行いとも申します。お怒りを鎮められて、今一度、お越しいただけないでしょうか」
と言う。しかし智円は声を荒げ、
「わしは年を取って気も短い。二度と行くものか」
と、怒りを露わにすれば、女は顔色を変えて、居丈高に、
「何と、この和尚は、慈悲というものを知らないのか。人に向かって悪口するとは、そなたの徳も地に堕ちた」
と言ったかと思うと、立ち上がって智円の腕を捉え、引き立てていこうとした。
 あまりの変わりように、智円も、これは只者ではないと悟り、傍にあった小刀を取って、女の乳の下あたりを二度刺したら、女は「あっ」と言って倒れた。

 ところがその時、智円の弟子で今年十四歳になる新発意も、あわてて飛びかかり、女を引き除けようとしたところ、ちょうど間が悪く、この新発意も刀傷を負って死んでしまった。
 智円は動転してしまい、取り急ぎ、承仕の坊主と一緒に、居間の下を掘って、女と新発意の死骸を埋め隠した。
 この新発意の親は近辺の百姓で、庵からわずか一里ばかりの所に住んでいて、その日、親は田に出て刈り取りをしていたが、通りがかった旅人らしき二人連れの男が、
「智円の庵の新発意は、不憫なことよなあ。魔物の仕業で、非業の死だからなあ」
と噂話していたのを母親が聞き、急いで人を遣って確かめたところ、間違いなく我が子の身に起こった事件と判り、両親とも、取るものも取り敢えず、智円の庵に駆け付けた。
 両親が新発意のことを尋ねると、智円も承仕も仰天して色を失ったが、この期に及んでは言い訳する術もなく、ありのままを白状した。
 法師の身でありながら人を殺め、しかも発覚を恐れて隠そうとしたのでは、重罪は遁れ難い。智円も観念して、国司の沙汰を待っていたが、
「私に、三日間だけ猶予をください。命を捨ててでも、この妖怪を祈り出して退治し、せめて悪名を雪いだ後で、死罪になりましょう」
と懺悔を申し出た。
 そして智円が祈祷を始めると、女が現れて、
「吾は、本当は、姥ヶ岳に住んで、千歳を経た狢である。神通を得て、人を惑わし家を怪しめ、子孫のために食を求め、子孫も繁栄して数百に及ぶ。ところが、この坊主が加持祈祷などをしたために、住むところを狭められてしまった。だから吾は、ここに来て災いをなしたのだ。だが新発意も、本当は死んでいない。吾が隠して、姫島に放してある。今後、禁呪(まじない)を止めるのなら、新発意を返して、汝も助けてやろう」
と言うので、姫島へ人を走らせてみると、果たして新発意はそこにいた。
 そこで智円も、二度と呪いは行わないと誓ったところ、この妖怪も消え失せた。

巻1の1 剪刀(はさみ)師、竜宮に入る

2018-01-18 | 御伽百物語:青木鷺水
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 元禄の年号は、元年から17年(1688-1704)まで続き、将軍は5代綱吉、生類憐みの令の真っ只中です。
 江戸時代が始まってから約100年、世の中が円熟してきて、文化的にも、井原西鶴、松尾芭蕉、新井白石、近松門左衛門などが、同時代に活躍しています。
 また、忠臣蔵で有名な赤穂浪士の討ち入りは、元禄15年の出来事です。

 こうした、騒がしくも面白い時代に、俳人・戯作者として活躍したのが、筆者の青木鷺水(あおきろすい1658-1733)です。
 彼の著書「御伽百物語」および「諸国因果物語」から、数十篇を紹介してまいりたいと思います。
 原文には、現在では禁句とされている言葉も含まれておりますが、当時の生活様式からして、他に言い換えるべき言葉が存在しないこともありますので、そのまま記述しております。

 それでは、元禄時代へご案内いたしましょう。始まり始まり~。

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 その日、京の都では賀茂神社の遷宮があり、大勢の神職や僧が儀式を執り行い、法華堂から沿道にかけて神輿が練り歩き、街中の人々が、それを拝もうと参詣しに来ていた。
 その中に、一条堀河に住む、国重という糸剪刀の鍛冶も、昼から出かけて行って、東の鳥居の前に着いて見れば、もう、惣門のあたりから柵が巡らされ、神宝の長櫃、御木戸、幔幕などが設えられ、白装束の神人が、ここかしこに居並んでいた。
 開始の鐘が鳴るにはまだ早かったので、国重が、群衆に揉まれるままあちこちを拝み回っていたところ、年嵩の祝部(はふりべ:神職)が国重の袖を捉まえ、
「そなたは常々、当社を信仰されるお方と見え、縁日にはいつもいらしているので、私もお顔を見覚えていました。御遷宮の様子を、よい場所で拝ませて差し上げましょう。しかし、まだ始まるには間がありますから、しばらくは、こちらでご休憩を」
と、国重を、鳥居から中門の前に案内した。

 するとその時、向こうのほうから社僧が一人、慌ただしく走って来て祝部に向かい、
「上からの御使いで、人を召されているのですが、ちょうど誰もいなくて困っています。如何いたしましょうか」
と言う。すると祝部は国重を見やり、
「この方を召されるがいい」
と言ったので、社僧は国重を連れ、社の方へ向かった。
 国重は何が何だか分からないままであったが、とにかく一緒に歩いて、廻廊の西へ至り、階段の下に跪いたところ、束帯を着た上臈(高級女官)が、御簾を押し上げ静かに歩み出て、自ら国重へ文を賜り、
「これを持って広沢の池へ行き、龍王に渡してきてください」
と言う。
 国重は謹んで承ったが、
「恐れながら、私は卑しい身分の者です。どうして龍王にお逢いすることなどできましょうや。陸の上と水底は遥かに隔てられ、渡る道もありません。この御使いは、御許し下さいませ」
と辞退した。しかし上臈が、
「心配することはありません。その池の畔に着いたら、大きな榊の樹がありますから、樹に近づいて、石でその樹を叩けばよいのです。さあ、急いで行ってください」
と言うので、国重は心細いながらも、言われたとおり広沢へ行ってみれば、たしかに大きな榊の樹が、池の水面を枝で覆うように生えていた。そこで、石を拾い、この樹をコツコツと叩いてみれば、池の中から白装束の男が現れ出て、
「天満宮より御使いの方、どうぞこちらへ」
と言ったが、国重が水を恐れる様子を見て、その男は、
「ただ、目をふさげばよいのです。水を恐れることはありません」
と教えた。

 言われたとおりに国重が目をふさぐと、木の葉が風に翻るような心持がして、体がふわふわと浮き上がるのを覚えた。国重は、南風の音だけが聞こえる中、しばし空中を進んだかと思ったが、やがて警蹕(けいひつ・貴人が通るときの先払い)の声がするのに驚いて目を開けば、この世では見たこともないような空殿楼閣の前にいた。
 国重は御使いを済ませ、玉の階や瑠璃の軒が目を眩めかす中に待っていたが、ややあって、奥から御返事が国重に渡され、それとともに、白金の笄(こうがい)と金の匙子(さじ)も渡され、
「そなたは心が素直で、神々の心証もよかったので、この御使いを承ったのです。そこで、この笄と匙子を差し上げましょう。そなたの家に水難があったとき、笄を水に投げ、匙子は首にかけなさい。そうすれば、命も助かり、家も恙ないでしょう」
と教えられた。
 それから、今度は黒糸の鎧を着た武者に送られて、また国重が目をふさいだら、程なく、元の榊の樹のところへ戻っていた。国重は振り返って池を見たが、送ってきた武者は、甲が一丈ばかりの亀になって池の中へ消えて行き、国重は、あまりの不思議さに感涙し、水の面を拝んだ。
 急いで神社に帰ったところ、祝部が待ち遠しい様子で出迎え、御返事を受け取った。ちょうどその時、御遷宮の儀式が始まったので、立ち騒ぐ人々に混じって、国重も心行くまで見物し、家に帰った。
 それにしても、龍宮での出来事といい、2つの宝物といい、有難い経験に、国重はますます信心を怠らなかった。
 ところがその6月、洛中では大いに天候が荒れ、雷があわせて98か所に落ち、賀茂川や桂川は言うに及ばず、一条堀河も東から大水が押し寄せ、岸を穿ち、民家はことごとく洪水に浮き、国重の家も押し流されようとしていたが、国重が例の匙子を首にかけ、笄を逆巻く流れに投げ入れたところ、たちまち笄は大綱に変じ、辺りを取り巻いて水の勢いを弱めたので、国重の家を中心に4・5町ほどの範囲は、ついに水難を逃れることができた。