私が中学二年のときのことです。
クラスメートにT君という人がいました。
T君は背が高くて、いつも微笑んでいるような感じで素敵な人でした。
そのT君がときどき学校を休むようになりました。
そして学校に来なくなってしまいました。
担任の先生にお手紙を託され、
学校から帰ってからちょっと遠いT君のお家に向かっていると、T君とお父さんが歩いてきます。
とても穏やかな光景に、私はお手紙を渡すのに躊躇してしまいました。
思い切ってお手紙を渡したのですが、
親子の平和を破ってしまったようで、罪悪感のようなものを感じてしまいました。
T君はお母さんが早く亡くなって、お父さんと二人で暮らしていました。
お父さんにとても愛され、大切に育てられていました。
そのうち、T君がお父さんの職場で一緒に働いているという噂が伝わってきました。
お父さんの職場は地下に潜る危険な職場です。
T君は一人で家にいるのが嫌で、お父さんにくっついて行ったようです。
働く必要がないのに働いている義務教育中のT君でした。
子どもの私は、労働をしていることを尊いことだと、尊敬してしまいました。
仲良しのHちゃんと二人で凄い事だと感心して話します。
ある日、バイオリンのレッスン中に、ノックをしてカメラを持った男の人が入ってきました。
新聞社の人で、レッスンの写真入で記事にしたいと先生に言います。
困惑したお顔で先生がおっしゃいました。
「これは私のアルバイトで、記事にされたら困ります」
先生はNHK交響楽団のバイオリン奏者でした。
レッスンが終わって玄関を出ると、新聞社の人が立っています。
先生を抜きにして、写真入で記事にしたいと言いました。
嫌だといったのですが、どうしてもと言います。
私はT君のことを思い出しました。
「とても感心な人がいるの」
記事にするなら、T君みたいな感心な人がいいと思ったのです。
すると、新聞社の方は複雑なお顔をしました。
ちょっと間を置いて、
「それは児童福祉法に違反していて、大変なことです」
そう言って詳しく説明してくれました。
私はそのとき、初めて事の重大さに気づかされたのです。
ときどきT君のことを思い出すことがあるのです。
イージス艦と衝突した漁船に乗り、
行方不明になっている吉清さん父子の漁港関係者の捜索が昨日で打ち切られました。
被害者家族の元に謝罪に訪れたイージス艦艦長。
「誠意ある謝罪だった」と沈痛な面持ちで語った親族。
「誠意ある謝罪?」と思いながら親族の複雑な心中を図った。
「寝ていたなんてふざけたことやってるよ! 許せない!」
魚協支所で、車に乗ろうとした艦長に怒りをぶつける女性親族。
以前、謝罪に訪れた石破防衛大臣のことを、
「我々のような者には近寄れない人なのに、腰の低いいい人でした」
と漁業関係者の一人が言ったことがあった。
嘘に嘘を重ねた説明を、善良な関係者はどう受け止めたらいいのでしょう。
吉清治夫さん、哲大さん父子が、一刻も早く救助されることをお祈り致しております。
サントリー美術館で開催されている『ロートレック展』を、先日テレビで見た。
ロートレックを初めて知ったのは高校生のとき。
学校の図書館で見た画集だった。
私はその絵を見て大変なショックを受けた。
スカートをまくり、何もつけない下半身を剥き出しにした女性が医師と向き合っている。
その後ろにも、同じように下半身を剥き出しにした女性が順番を待って並んでいた。
高校生の私は、これはどういう事なのだろうと解説を読んだ。
描かれていたのは娼婦。
性病の検査を受けている娼婦の絵だった。
そんな世界を初めて知ったときのショックは今でも忘れない。
かなり経って、テレビで映画『赤い風車』を観た。
ロートレックの半生を描いた作品である。
タイトルの『赤い風車』とは、赤い風車が目印の名物キャバレー『ムーラン・ルージュ』のこと。
ロートレックはそこで働く踊り子たちを描き続けた。
画家としての名声を高めていくが、風俗画家としか認められなかった。
絵がルーブル美術館に買い上げが決まったという朗報を聞きながら、
ロートレックは不遇のまま37歳の生涯を閉じた。
我が家にある画集には、残念ながら私がショックを受けた絵は載っていない。
イージス艦と衝突し、沈没した漁船、清徳丸の父子はいまだに行方不明です。
謝罪に訪れる途中の石破防衛大臣の公用車が、
直進車が優先のところを、先に右折しようとして接触事故を起こしたという。
これはうっかりとはいえない深層をはらんでいるように感じるのです。
イージス艦とこの公用車は、どこかに同じような特権意識を持っているのではないでしょうか。
謝罪を終え、報道陣に囲まれ車に乗り込もうとした大臣を追いかる親族の女性。
「よけなさい!大臣に言いたいことがある」
報道陣を一喝するその声に、居合わせた人たちに緊張感が走った。
「大臣さん、せがれと孫を返してくださいよ!」
悲痛な声が響いた。
以前、テレビで歌手のNさんが漁師さんの家に泊まるという番組を観たことがあった。
Nさんは芸能人がどんなに大変なお仕事であるか漁師さんに語った。
どんなに声がよくても歌が上手くても、容貌がよくっても、スターになれるとは限らない。
これは役者も同じことで、星の数ほどいる中でスターになれるのはほんの一握り。
それを決めるのは大衆で、その時代の大衆に選ばれた人がスターになる。
そして、「お父さんの仕事より大変な仕事」と漁師さんに言った。
漁師さんの表情が一瞬変わり、押し黙った。
「そんなことはない」と言葉少なに言った漁師さん。
しかし、大スターだったNさんは、スターになれる確率を力説した。
二人の間に気まずい空気が漂った。
知り合いで漁師さんだった人が、
「漁師は命がけのギャンブル」と言ったことがある。
魚群探知機のない時代に漁師さんをしていた人で、
「どこにいるか分からない魚を、命がけで獲るギャンブルだった」
噛みしめながら言った言葉が、今も心に残ります。
今朝書いたイージス艦と漁船の衝突のお話です。
漁船に乗っていた清徳丸船長の吉清治夫さんと長男の哲大さんは、
いまだに救助されていません。
哲大さんは四年前からお魚をホームレスにくばっていたという。
そのことを夕方のニュースで知り、切なさが募ってくる。
四年前といえば哲大さんはまだ19歳。
親孝行で、社会に目を向ける立派な青年だったんですね。
悲運に胸が痛みます。
先日実家に行ったとき、お会いしたことのない漁師さんですが、
遭難して亡くなったと聞いてショックを受けていたところでした。
年末毎年おいしいお魚を実家に送ってくださる方がいて、
去年はカジカをたくさん送ってくれました。
母は心を込めてそれを調理し、いつものようにほとんど私に持たせます。
身は骨をきれいに取り、魚卵、ともあえと調理して、冷凍した物です。
初めて食べたともあえはホルモンのようで、しかもコクがあり、美味しさにビックリです。
そのカジカがとても美味しかったと話しているうちに、
毎年母が食べさせてくれたシャコの美味しさを思い出して話すと、
母が声を落として言いました。
「あぁ、タコも美味しかったね。あのお魚を獲っている人、遭難して亡くなっちゃったからねぇ」
驚きました。
その方は実家の近所に住んでいるYさんの弟さんで、離れた漁村に住んでいました。
Yさんのところにお魚を届けていただき、
それをご近所の人たちが分けていただいていたのです。
タコは本当に美味しく、シャコも「こんなに美味しいのはめったにない」と、
夫は惜しげもなくムシャムシャと喜んで食べるのでした。
その美味しいお魚を提供してくださった漁師さんが遭難して亡くなったというのです。
「いつ?」と訊くと、「三年ぐらい前だったかなぁ」と言ったので、
そんなに前の話だったのかと更に驚きました。
そういえば三年ぐらい前からシャコを食べていなかったことに気づきます。
早くに奥様を亡くし、一人で漁に出ていたのだそうです。
ご遺体が引き揚げられたことがせめてもの慰めだと、
悲しみながらYさんが言っていたと母が語ります。
その方のご冥福をお祈りすると共に、
吉清治夫さんと哲大さんが、早急に救助されますようにとお祈りいたしております。